初仕事は血の味がするものだ
翌三十日の午前九時を回った頃、今作戦は開始された。
開始されたとは言ってもボクは後方支援部隊であり実動部隊ではないため、室内での活動となるのだが、なんと驚き、まさかまさかのパートナーらしい志雄生さんの住んでいるらしいマンションにて活動することとなったのだ。女子の部屋だ。本物の女子の部屋だ。
まあ、マンションと表しても我らが私立十字ヶ丘高校の保有する学生寮ならぬ学生マンションではあるのだが、しかし、女子の部屋であることに変わりはない。ボクの知っている女子の部屋というと家にある鴎の管轄である「ゲーム部屋」だの「コレクション部屋」だの……男が抱くような夢も希望もない男部屋と何ら変わることのないような汚部屋であったため、夢に塗れた理想郷――なんて、無論あるはずもなかった。
「ふぅん。鴎の部屋とあんま変わらないんですね。夢ってものは結局夢でしかなく、夢にしかなれず、理想と同じで夢見るだけ馬鹿を見るものなんですかね」
レースカーテンの閉められた薄暗い室内は、とても褒められたものでないほどに物が散乱しており、足の踏み場自体はあるものの、悲しきかな、物を踏まずして足を下ろせるという安心と安全が存在している領域というものは、この部屋にはどうやら期待できない様子である。
室内に入ろうにも、玄関から一歩目を踏み込む場所に悩まざるを得ない。ひとつの選択で感じることとなる不快指数が大きく変わるような歪な景色である。
「散らかっていますが、どうかお気になさらずに」
呆然と立ち尽くすボクに、朗らかな春のそよ風のような優しい笑みを投げかけてずんずんと室内へと消えて行く志雄生さんに、一抹の殺意のような異様な感覚を覚えてしまったが、腹部からの深い呼吸こと深呼吸によってその感情を押し殺す。クールになれ霧ヶ音騎式。こんな光景、毎朝のように見ているじゃないか。女性なんてきっと、大抵こういう部屋なんだ。ボクら男子が望んでいた幻想は、常にその影を見せたものではないだろう? 鴎の作業部屋よりはマシだと思わなくては……あのプラモデルの端っこのプラスチックと箱及び作りかけのプラモデルが散乱している部屋よりは、幾分もマシだ。
と思ったが、
うっわドン引き。
本や教科書、授業プリント。果ては生理用品や下着の類いまで、部屋という概念を形取り、そして生活に必要な物体のその全てが全身全霊を持って部屋の床を埋め尽くしている。最早部屋を汚す覚悟のようなものすらも感じ取れてくるほどである。
これは……もしや鴎の部屋よりも酷いんじゃないか?
いや別にあいつの部屋を擁護する訳ではなく——擁護できない事態に陥ったことがあったのでこれだけは信じてもらいたい——単純に順当に、あいつの部屋の場合はまだ、ゴミをゴミ袋に入れるという習慣というか文化が存在しているのである。そのゴミ袋の口を閉めているのか、そしてそのまま部屋に放置していないのかを言及されると、それは痛いところを突かれたとしかいいようはないのだけれども。
……いや、そこまで変わらないか。
そうだ、変わらないじゃないか。何をボクは気揉みしていたんだ、この志雄生ルームは我が家の鴎ゾーンと何ら変わらないではないか。
少々感覚器官と常識を自ら破壊する道を走ったボクは、「お邪魔します」と一言断って、志雄生さんの部屋へとその足を踏み込み第一歩を進めることにする。室内へと侵入したボクを待ち受けていたのは、何とも表現することができない物を踏みつけにしている罪悪感と悲しみ、そして何よりも異物感であった。まあ言ってもロクな人生なんて歩んできてはいないのだ。このくらいであれば、慣れっこだ。
モノを踏みつけにすることには慣れていた。
いついかなる時であってもボクは踏みつけて生きてきたから——
——積み上げてきたモノの上で、ボクは目を逸らして息をしているのだから。
慣れっこだ。慣れっこだ。慣れっこだ。
慣れっこだ。慣れっこだ。慣れっこだ。
慣れっこだ。慣れっこだ。慣れっこだ。
「ご、ごめんなさい。そんなに汚かったですか……ね?」
その声でハッと意識がこちらに引き戻されて、そこで初めて志雄生さんの恥と申し訳なさと疑問の入り混じった何とも言えない曇った顔を、ボクは視認することとなった。果たして、そんなに酷い顔をしていたのだろうか? 志雄生さんに心配をかけるだなんて、不甲斐なく、そして申し訳ない限りである。
いやまあ、そんなには汚くあるけれど。
「いえ。ちょっと、勝手に眼が動いてしまいまして、軽く立ち眩みに襲われただけですよ」
流石に友好関係の薄い相手に対して素直な気持ちを伝える勇気のないボクは、そんなホラを考えもせずポロリと何食わぬ平然とした顔で吠えてみせたのだった。その大嘘吐きっぷりには差物ボクも驚きはしたけれど、一刹那後には常に自らを騙し続けている詐欺師であるのだから、と一種の納得をしてしまった。セルフブランディングで自己を延命した、と表現する方がしっくりくるだろうか。
『どうしてこんな生き方しかできなくなってしまったのだろう』だなんて、詮無き事に思い耽りつつ、座れる場所などない床に無理矢理腰を落ち着ける。
机(この上だけは不思議と整えられている)の上に開かれた校内管理のタブレットパソコン。そしてそのタブレットPCはスピーカー状態で連絡中の表示画面を映し出している。こちらからのマイクはオフになっており、連絡をする際はその都度マイクをオンにするのだと言う。
そのマイクをオンにして、「こちら志雄生。準備完了しました」と一報を入れる。
部長の顔を見なくて済むのはボクの精神健康上とても良いことなのだが、しかし、同時にその光景がのっぴきならないほどに異様なものにも見える不思議。全く、ボクの取るに足らない短い生涯の中でも最高のジャンヌ・ダルクだ——それ故に、最低なのは言うまでもないだろうが。
『了解』機械越しの部長の声が例のタブレットパソコンから聞こえてくる。『じゃあ霧ヶ音くん。始めてくれ』
冷ややかなその命令に対して、ただ一言「はい」とだけ返し、ズボンのポケットから昨日のあの写真を取り出して、一目見た後に命令に対して行動で示すこととする。時には口を閉ざし、行動でその忠誠を示しいた方が良い時だってあるのだろう。
暗転。フェードアウト。
明転。フェードイン。
室内にいるにもかかわらず、眼下に広がる光景は室外のそれに変貌を遂げる。そして、変化したこの場所はやたらと見覚えのある景色であった。
高くそびえ囲む灰色の壁。そんな壁の随所よりパイプが覗き、その光景からは人の侵略域でありながらにして原始的な、得も言えぬ恐怖心が呼び起こされることとなる。きっとそれは、この一本道を人生の表れのように感じるからであり、生涯への不安感とでも表現すべき逃れることのできぬ薄暗闇の体現であるからだろう。確かにこれなら、芥川龍之介という才能であったとしても自殺の道を選ぶというものだ。
そんな光景——いや、はっきりと白状してしまうと、雑多な薄暗闇な景色であるだけでそう不穏なものなんて感じる隙はないような、つい最近通る機会のあったとある裏路地の中を、その女性は丁度焦ったおかめのようなくすりと笑える顔で後方を気にしながら走っていた。爆走である。
『現在位置は掴めた?』
そう質問してきた部長殿は、今日の朝に一度集合した際に佐藤さんを《見た》駅の近くにある大型のゲームセンター内にいるのだろう。環境音が物凄くわちゃわちゃしている。
「現在位置は掴めたのですが、その前にひとつだけ質問をしてもいいですか?」
ボクのその台詞に、不思議そうな『別に構わないけど……』という返答が返ってくる。
「ボクの記憶違いかもしれないのですが、確か千年万年先輩の六感能力というものは、例え相手が遺体であったとしても効果がありましたよね?」
『ん? まあ、良くて死後一時間前後ってところまでなら六感を消すことは可能みたいだけど……まさか——』
「いえ、まだですが、直に殺されるでしょう。佐藤さんの現在位置は駅の南口から出て右折し、二つ先のケーキ屋とカフェの間にある路地の奥です。逃げ回っているため常に場所は変化していますが。後は、まあ、パターン赤、ってところですかね」
『——ッ。了解、すぐに向かう。志雄生ちゃんは霧ヶ音くんが言っていた路地までの道を調べて案内よろしく! 霧ヶ音くんは事態に動きがあったらまた連絡を‼︎』
手短にそう伝えた後、こちらからのマイクはオフになったのだろう。聞こえてくる音声から声はなくなり、移動音と息遣いだけが静寂を裂く。
ボクは報告も終えたことだし、と意識を切り替えて、見たくもない現実である眼前に広がる光景に全ての意識を注ぎ込んだ。
しかし、何だかな。呆れるくらいの奇縁というヤツである。赤故に、赤い糸の運命でも感じてしまいそうだ。いやはや、古今東西どこを探してもボクの歴史上稀に見る最悪さ加減である。
引き込まれるような光沢のあるシャンとした髪を揺らしなびかせて、楽しそうに奴は佐藤さんを追いかけている。追う狼を逃げる羊が追っている。頭がエラーを発してパンクしちまいそうな話だが、傍観者故にそう大した頭痛の種にはなり得てはいないようだ。巻き込まれないのならば、何でも良いか。そこら辺の分別を上手く使い分けられると、人間の生涯とは一割も二割も程々になるものなのだ。
「まあ」
そういうこともあるか。
そんな事を無意識下で呟いて、ままならない眼で赤毛の羊による狩りを見守る。目標の人物であるとは言え、他人である事実には一切の変更などありはしないのだ。だからこそ、別段こちらから手を出してやる義理も正義も何もないだろう。ボクが言った路地は真っ赤な嘘ではあるものの、言っても現在視認している北東の住宅街の裏路地近くまでは通じているので、彼女が殺された辺りで本当の居場所を実働部隊に連絡してやればいいだろう。
ああ、まあそうしよう。
『優しいんだね』
と、由比ヶ浜部長の声で意味のわからない言の葉を紡ぐ音がした。
優しい? まあ、朝っぱらから家に侵入してきた上に人の睡眠を妨害した集団に朝食、あるいは昼食を作ってやるような奴だ。確かに優しいのかもしれないしれないが、しかし、突然何を言い出したんだろうか。いいや、ボクは何を考えてるんだ? なんてことを……考えていやがったんだ、ボクは。心底気持ちが悪い。優しいだって? ボクはそんな柄じゃないことなど、遥かに遠い過去に理解していたじゃないか……。
「ボクは……ただの捻くれ者ですよ」
その声に対して、ボクはそうほざいてみせたのであった。
きっと、こちらからの声は聞こえていないだろう。志雄生さんによってマイクがオフにされている筈なのだから、きっと、こちらからの声は聞こえていない筈なのである。
しかし、それなのに機械の向こうから苦笑が漏れてきた。ボクは気恥ずかしさに襲われることとなり、眼前で始まろうとしていた凄惨に意識を移す。あるいは、逃す。
眼前の凄惨。
確かに眼前で行われているのはえげつない行為であるが、ボクはその場に居らず、その空気を直に感じる機会に恵まれていないが故か、B級のパニックホラーでも見ているような、魂も慌てるような「死」を感じることができていないのであった。恐怖に顔を歪ませて、肌という肌は血の気の引いた色をした佐藤もこもさんのアキレス腱は、あの時のように袖から取り出したナイフの投擲によって切断される。うつ伏せに倒れた佐藤さんの襟を手荒く掴むと、あまり筋肉質には見えない身体ではあるのにも関わらず、あの時の奴と同一人物とはとても考えられないような力で佐藤さんを仰向けにひっくり返し、その腹部上へと腰を下ろした。
恐怖と痛みといった類いの感情の濁流で崩れきったその醜く歪んだ顔をまじまじと見た殺戮者は、チラリと目を逸らして深くつまらなそうなため息を吐いた後に、あからさまに閃いたと手を叩き、何やら嫌な気配しかしない雰囲気で佐藤さんと談笑を開始する。
楽しそうに語る奴と、聞くと聞くほどにより酷い顔へと変貌していく佐藤さん。
語り終えると、ニコニコと気味の悪い無邪気ならぬ有邪気な枯れたひまわりを連想させる笑みをその顔に貼り付けた赤毛の羊は、顔と精神のその両方の距離を、一部の狂いもなく全く同時に詰めるのであった。詰め寄られた佐藤さんは一瞬の逡巡の後に、恐怖に塗られた顔でありながらにして蛮勇を振り絞り、力強く頷く。
その返事により一層に口を歪ませた殺戮者は、ニコニコとした笑顔を欠片として崩すことなく——刹那、佐藤さんの右胸に深々とナイフを突き刺した。苦しみもがく佐藤さん。血が滲み、着用していたセーターが赤に染められてゆく。
刃が視認できなくなるほどに根本まで、深く深く深々と突き刺さったナイフの柄は、まるでショートケーキに立てられた蝋燭のようであり、このような悲劇という舞台セットが用意された景色でありながらにして、意図せずそれは滑稽極まりない喜劇へと姿を変質してしまう結果となっている。
ザク、ザク、ザク——
——もう止まることもなく、そう、丁度肋骨の隙間を縫うようにナイフは彼女の身に潜水してゆく。
ケーキに立てられた蝋燭の種類は様々であり、きっとあの中には、存在しない過去、鴎やボクの肉を切り裂いたナイフも混ざっていることだろう。そう考えると、何とも言えない不快感である。感じたことのない不快感。コレクター気質の奴はタチが悪いと相場は決まっているが、奴という刃物コレクターの現在進行形で行っているこの行為は、まさしくその証明となってしまうような行為と言えよう。
奴はどこにいても、何をしても人類に迷惑を掛けるしかない存在なのであろうか?
この周回が終わり次第、粛正するべきだろうか? そうすれば、恒久の平和にまた一歩近付くのではないだろうか?
いや、どうでもいいことだ。
手を出してこないのならばこちらから手を出す必要などない。それはただ争いの火種を撒くだけの行為である。上手くやらなくては……上手く、やらなくてはいけないのだ。ボクという愚者は、程々に生きることすらもままならないのだから。下手な立ち回りは寿命を縮めるだけに終わってしまいかねない。
「全く……いや、いいや、どうでもいいか」
偽言なんてものではなく、もっと酷い道端の小石以下の何かだ。考えるだけ無駄な話だが、これが勝手に考えてしまうものなのである。
左右の肋骨の隙間を刃が埋める頃にはもう既に《佐藤さん》は完全に動かなくなっており、それを見た殺戮者たる奴は、何を考えたのか全身という全身に隠し持っていたらしいナイフをさらけ出し、自らの左横に丁寧に並べ出した。並べられたナイフの中には身に覚えのある包丁のようなナイフもあり、その総数は裕に七十は超えているように見える。
刃の下に心あり。世を忍んで生きる奴は、このような暴挙に出なければ心を露わにすることもできないのであろうか?
ふと、並べたナイフの中の一本を手に取ると、奴は《佐藤さん》の胸から下腹部に掛けて、縦に真っ直ぐに刃を下ろした。丁度手術でもするように、《佐藤さん》の死体を弄び出したのである。
ひとつ大きく息を吸う。
「志雄生さん‼︎ 今すぐに部長方に連絡を‼︎」
「は、はい‼︎」
やばい、これはやばい。とてもやばい。言い表しようのないくらいに危険だ。ふざけている。あり得ないくらいにふざけているぞ。
「早く早く早く早く‼︎」
「——オーケーです! どうぞ!」
謎の不安感に駆られて、ボクに変わり通話口を用意してくれた志雄生に感謝も伝えずボクは引ったくるように彼女の言葉尻に重ねて早口に捲し立てるようにこの不安感を由比ヶ浜部長達に連絡する。
「部長‼︎ 先輩‼︎ 日向ねぇ‼︎ ……今の場所から真っ直ぐ前へ進んだ先で左に、その後二つ先の曲がり角で右折してそのまま道なりに進んでください‼︎ 早く‼︎ 取り返しが付かなくなりますよ‼︎」
——ッ。
急がなくては、急がなくては——ッ‼︎
『ど、どうしたの⁉︎ ああいや、わかったとも! 進む、進むが何がどう取り返しがつかなくなるのかを説明してくれたまえ‼︎』
驚きを隠しもせず、由比ヶ浜部長はボクに訊く。
緊急連絡の内容を求められるのは当たり前の話ではあるが、焦ったボクは頭の中で整理もついていない言葉の羅列を口にするしかなかった。
「《佐藤さん》は亡くなられました! でも、その亡骸を——野郎、解体し始めたんです!」
『解体……? 確かに、仏さんを穢す行為は度し難いけど……何をそんなに焦っているんだい?』
「何をって——えっと、あっと……あれ? 何で……だ? でも、取り返しが付かなくことは確かなんですよ‼︎ あれは……悪なんて生温いものじゃなくなっちまうんですよ‼︎」
『そんな訳わかんないことを信じろって言われてもさぁ……君の中もぐちゃぐちゃで何がどうヤバいのかすらわからないし』
駄目、ですか。
まあ、理由のわからない焦りなんてものを信じるほど彼女は善人じゃないか。いや、どのような人間であれ、同じ結論に至るか。大体の人間はそんなものだし、いくら絶対善と言っても人である限りはそのくらいが丁度良いのだろう。高望みはするべきではないはずだ。
『いいや』諦めてあの拡大した悪に対するこれからの対抗策を模索していたそんな時、今まで押し黙っていた日向姉の声が部長を制した。『あいつの言ってることは、確かに酷いことだよ。理由のわからない危機感で、その危機の中に急いで向かえって言ってるんだもんね』
「でも……日向姉……」
『その通りですよ、日向先生。この間言った通り、こんな異常事態の中でも私達は異常に傾いてはいけないんです。死んでも平気だなんて、可笑しいですからね』
『確かにその通りだと思うよ、私も。こんな異常の中だからこそ、平常でなきゃいけないといけないんだ。でも、それでもさ——仲間をさ、信じてみないのかい?』
「………………日向ねぇ……」
ははは……全くさぁ。
日向姉。ボクは本当にあんたの事を尊敬して、それでいて大好きだ、クソ喰らえ。割と真面目に結婚するのであれば日向姉が良いと思ったことが何度かある。
『由比ヶ浜。お前が行くのなら、ここにいる全員がお前に着いて行く。お前が行かないと言うのであれば、ここにいる全員はお前と共に撤退するとも』
日向姉の喝に、破魔先輩は部長に迫る。
その選択に、きっと部長は苦虫でも噛み潰したような顔をしている事だろう。ちょっと愉悦。
『選べ、ってことですかい? この私に全ての責任を背負わせて。……はぁ、全くさぁ、こんなに言われて逃げ出す女だと思っている奴、いるかい? いないよねぇ』
そう言うや否や、由比ヶ浜部長は『——シッ』と短く一呼吸すると共に、一段階の加速を開始した。春雷暁を覚えず。これならば、ボクの忌避するその何かが起こる前にあの場に着くことが出来るかもしれない。奴も、不思議と丁寧な作業を試みている様子である……間に合うだろうか。
『言っておくけど、これで貸しひとつだからね』
にっこりと奴とは正反対の満開のひまわりのような笑顔で、彼女は一言そう言ったことだろう。してやったり、としたり顔で。
ボクは、そんな彼女を見てひとつため息を吐いた後に、
「わかりましたよ、マイマスター。何なりとお申し付けくださいよ」
と返してやった。
いやはや、全く。空気を読まないことこの上ないが、今回はどうやらここまでのようだ。こんなところで退場だなんて皆様方にはご迷惑をお掛けすることになるが、しかし、これはあれである。頑張ったものに対する正当な対価なのである。まあ、無理もないと言う事でひとつ。最後の心残りは志雄生さんの部屋をボクの血で汚してしまうこととなってしまうけれど、それは肉体を流れる血で汚れるという表現は可笑しいという理論で逃げ切ってみようではないか。
ボクはもう、奴の作り出した光景を見たくない。
「フォールシラプロッシマボルタ」
"また会おう"
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