繰り返す物語(ループ・ループ・ループ)
二月三十日 水曜日
「いってきます」
そう言って、ボクはいつも通りに家を出た。
家を出て、いつも通り十字ヶ丘高校へと登校する。無論そんなものは鴎に向けての建前であり、フリである。隣へ二軒も進んだならばそこで大きく迂回して、旋回して、寄り道して、振り出しである自宅前まで戻った。そうは言っても正面切って家に帰る訳にもいかないと思い、隣のアパートの裏に周りアパートと自宅の狭間に存在する塀を乗り越えて、予め鍵を開けておいた縁側の硝子障子から侵入する。靴は縁側の下に隠しておき、邪魔になると思い教材他学校に持っていく物が全て入っている鞄も同じく縁側の下にしまっておく。
自分の家に入るだけなのに、侵入しなければならない状況に不思議な感覚を感じざるを得ないが、このような経験もいつか自分の役に立つのだろうと謎の納得を自らに促して、先を急ぐ。
時刻は八時三十一分。
普段ならば既に高校にて席に座って、何をするでもなくぼーっとしている時間だ。
未だ慣れないものの使えるものは使おうと、千里眼を発動させ鴎の現在位置を確認したところ、戦闘予定地である居間にてこたつに入り朝食を食べたと言うのに追加で煎餅を食べていた。雪の宿である。予想外ではあったものの、まだ余裕があると信じ、移動要請を出すため居間へ移動し、何食わぬ顔で鴎に出会う。守る対象が近くにいてはとてもボクの力では守り切ることなどできないために、別の部屋へと移動してもらわなければなるまい。まず今を確認するなんて保証はないけれど、殺人が居間で行われるのであればここに来ること自体は間違いがないはずだ。次回からの鴎の殺害さえ止められれば、それで良いのだから、話は思いの外に簡単なのかもしれない。
何はともあれ、鴎には居間から出て行ってもらうとしよう。
ここでワンポイント。相手を騙す際には手を抜くことはなく、なんなら手を込めて心を込めて慎重に行動すると良いらしい。椎名さんからのありがたいお言葉である。
玄関から入って来たかのように見せかけるために、いくつかの部屋を横切り回り込むことによって、この本来ならばあり得ないはずの異常を勘付かせない気遣いをする。嘘というものは極めてシンプルな豆腐なので、上手く使わなければ毒としては使い物にならないのだ。
「あれ? 騎式、どうしたの?」
登校したはずの奴が帰ってきたため、居間でくつろいでいた鴎は当然、そんな疑問を口にする。ボクは真面目な学生をやっているわけではないため、どのような忘れ物をしようとそれを取りに登校途中で引き返すことなんてしないけれど、そんなこと鴎は知るはずもないだろう。一番近い場所に居ようと、人間である限り知らない面が三つ四つあったところで変なことではない。そう、信じたい。
鴎からの質問にボクは予め用意しておいた、筆箱を忘れ物をした旨の言葉を鴎に伝え、更に追加で古文の教科書をどこかへやってしまったため、古文の教科書を貸してほしいという内容の会話を返した。
「うん、いいよ。少し時間がかかるかもだけど、騎式は別に急がないよね?」
その質問に肯定を返して、ボクは立ち去っていく鴎の背中を見送る。見送った後で、自身の体をキッチンカウンターの裏に隠して居間全体を見るように千里眼を発動させる。六感能力とやらの発覚から時間を作っては練習をしていたが、遠近感の微調整は未だに苦手としており、大きな課題である。というか、遠近感の調節ができること自体昨夜気付いたことである。
鴎の、自身の所有物を大事にしない才能の高さと、天才的な整理整頓能力の無さはとうの昔に理解しているので、少なくとも、これで軽く一時間は確保することが叶うだろう。彼女の物置小屋となったあの汚部屋がこうして役に立つ日が来るとなると、なんというか、手のひらの上で踊らされている気持ちになる。もしや鴎はこのような盤面になることすらも予測しており、ボクに助けて欲しくて部屋を汚し続けていたのではないか……なんて、戯言にも程があるか。
あの足の踏み場なんて言葉が辞書に載っていない、腰を据える空間すらも存在しない圧倒的な物量で押し切ろうとしてくる部屋の中から、なぜか他の教科書よりも二回りほど小振りになり、その癖ちょっと分厚い古文の教科書を見つけるのにはひたすらに苦労するだろう。……今度、鴎の部屋の掃除でもしてみようか。
大きく息を吸い、吐き出す。
場面の準備は整った。
犯人の六感にもよるが、これで毎周毎周変わらぬ形で殺人を行なってきた犯人は、ここに鴎がいないことも悟らずにこの部屋へと一度は侵入してくるである。毎度ここに鴎がいたのならば、犯人はまずこの部屋へとやってくるのことだろう。そして、この部屋に鴎は現在いないため、これで鴎の安全は確保することになる。その上、鴎が現在いる物置部屋と化した一室は縁側に沿っていない部屋であるため、犯人が縁側から侵入していたとしても発見される可能性は低いだろう。
相手は刃物を使ってくるであろうが、こちらはナイフ術なんてものは不得手なので、同じく刃物である包丁で応戦するようなことはしない。使うとしても目を引くための凶器としてくらいが関の山だろう。あくまでも得意分野で、それが駄目なのであれば最悪この周では殺されてしまい、彼女らが言う次周とやらに賭けてみるのも悪くない。その場合、一日目に千里眼を用いて探し出し、鴎殺しを止めてもらおう。姿さえわかっていれば千里眼が使用できることは今日までに実験を繰り返しわかっているので、何度でもやり直せばいいだけの話である。
犯人は、ボクのことを怒らせてしまった。
いや、実際はそこまで怒っていないのだが、少なくとも傷つけても構わないだろうと思わせてしまった。まあだからボクに何ができるかと問われても、そこまでのことができる自身なんてものはこれっぽっちもないが、何かやらなくてはならないことだけは確かなのだ。ならば、御託を並べるよりまず行動すべきだ。
大体、人を殺すという行為はどのような理由があったとしても人間として行なってはいけない行為である。自制もできないような奴は、ただの獣と言っても良いだろう。
いや、それよりも先に、ボクらのテリトリーに侵入したのだ。その時点でボクには生物として、人間として、攻撃するにあたっての正当性はこちらにある。罰を与える権利は、ボクにだけある。
元より人を殺した奴にかける情けなんてものは、ボクの中には存在しないのだ。それが他殺でも、自殺でも。そんなことをやらかした時点で、そいつには生きている資格がない。生きている価値がない。生きていける素質がない。価値観の相違はあるかもしれないが、命の意味を見出せていない奴は、存在しているだけで重罪なのだ。テンプレートな文言にはなるが、生きたくとも生きれない奴がこの世には五万といるのだ——失礼だろう。
償おうとしても、それは贖罪という罪になる。
だから、矛盾したことを言っているかもしれないけれど、別に傷つけて最悪殺してしまったとしても構わないだろう。犯人を人として扱ってやる義務はないし、犯人を人間として見る義理もない。
罪と罰、というものだ。
罪を犯したから罰を与える。
罰を与えるという罪を犯したから、罰を受ける。
そういう終わらない繰り返しは、社会そのものの風刺のようで面白いものだろう。因果応報……とは、少し違うのかな?
まあ、どうでもいいことである。
まあ、どちらでもいいことである。
全てが全て、言い訳であり、ボクがこれからやろうとしているものは、ボクがこれから犯そうとしている罪は、絶対的な《悪》であるのだ。その自覚を持って、事実を持って、ボクは今ここに宣言しよう。
[——絶対悪を執行する]
そこまで無意味な思考の樹木を育てたところで、物音がした。ガラガラガラ、という玄関の戸が引かれる音と同時に育てた樹木も瓦解する。思考の瓦解によって無駄な思考なんてものをしていたせいで解除を忘れていた千里眼による観測が自動的に終了し、襲ってくる眼球の奥に放たれた火花を深い呼吸と共に奥歯を噛み締めて押し殺す。
深呼吸。
深呼吸というものは、人を冷静にさせる。体にまとわりつく熱を、息と共に排出する。心の奥に疼くこの昂りを抑え、冷静な自分のイメージに戻し、名も姿も知らぬ怨敵に対して、ただ唯一打ち砕く敵としてのイメージのみを有することに成功する。
自分は悪であり、敵も悪であると。
正義と同じように、洗脳する。
他人様の家だというのに一切の抵抗なんてなしに手土産のひとつもなく慣れた足取りで近付いてくる、未だ姿すらも知らぬ何者かに対して、密かな深海の如き憎しみを消し去る。いつ何時であれクールであれ。クールビューティーというヤツだ、知らないけれど。
開かれた居間の扉。
現れる死神。
キッチンカウンターから顔を出すのは危険だと考えて、今は密かに息を押し殺して姿を隠す。千里眼で観測したいという気持ちが沸々と湧き上がってくるが、その気持ちに唆されぬよう気を強く持つ。
音を立てぬように最大限の注意を払い立ち上がり、
飛び出し側に全身全霊の力を振り絞って何者かに対して本気の拳をぶつける。
反応しきれなかった何者かの左の頬に、狙い通り拳は着弾したものの、何者かは止まることはなく同じように顔の左側面に対して握られた拳を飛ばしてきた。キラリと光るその袖からは、涼やかなナイフがちらりと見えている。ナイフ……まあ、いわゆるナイフというものであり、包丁ではなく、刃渡り五センチはありそうなナイフを袖に潜ませて、ボクにその凶器と化している拳を繰り出してきている。確実な殺意を目視してしまった。
瞬間的に理解する。
こいつは「鴎」を殺すことが目的ではなく、「この建築物」を穢せるのであれば、何でもよかったのだろう。「鴎」がいなければ、ここに見ず知らずの通行人を引き摺り込んで殺したのだろう。
壊れていると思った。
しかしながら同時に、美しいとも思った。
繰り出された拳の動作には、およそ無駄だと判断できる動作は無く、人体において最速での反撃を今、ボクは観測しているのだ。まさしくこれこそが、人類生物を極めた殺人拳である。
ボクがもし、仮にこの光景を第三者目線で見ることがあるのだとすれば、きっとこれが殺人行為だということを理解していながらにして尚芸術であると断定したであろう。そのくらい、完璧な反撃だった。
避ける方法などおよそ想像ができない。
されど、こんなものをまともに喰らえば地獄への直通便であることは明白。
絶望的過ぎる現実故少し小躍りしたくなる心を抑えて、ボクはその明らかな殺意の元に繰り出された拳刃を、膝を曲げて上半身を下げることで躱したのであった。特段特出した才の持ち主な訳でもないし、運動能力も平均というか、普通である。特別な眼を持っているが全てを見通す程度のものであり、類稀なる動体視力も相手と同じような人類最速の回避能力もある訳ではない。無論、ニュータイプなんてものでもない。
しかしながら。
もしもそこにあったものが鏡の中の鏡像であったのならば、話は別というものだろう。
とは言っても、だ。相手は殺すことに特化した技術を有した人間である。所詮は一般人でしかない、ただの一般人としての人生しか送ってきていないボクでは、この殺戮者には少なく見積もっても二刹那後には全身串刺しにされることになるだろう。鏡面の対でありながら生じるこの差は、経験でも技術でも人生でもなく——「殺す」と口にすることと実際に《殺す》という行為の難度における明確な差分と言える。いやはや、恥ずかしいものだ。
殺される……それも一興かと思ったが、終わることは許されないだろう。
鴎が悲しむかもしれない。
上体を仰反ることによる回避自体には成功したもののあちらがミスをミスで終わらせてくれるはずもなく、放った突きから流れる水の如く流麗さを持って叩き下ろしへと変化させた。一度目の回避に成功したということは、同時に追撃に対する準備の未完を表しており、無防備なボクの胸に奴は深々とナイフを突き刺してきた。幸い心臓を貫かれることはなかったが、まず間違いなく肺に傷がついたことだろう。
叩き下ろしの効果はそれだけに留まらず、元より仰反る体勢にあったボクはその衝撃によって受け身も何もないまま床に背を着けることとなる。その隙だらけの姿を見逃してくれるほどの優しさ、人殺しに望むこと虚しく、続いて袖から取り出された別種のナイフを握った拳がボクの喉を的確に抉ろうと襲う。受け身を取らなかったために陥った危機ではあるものの、また受け身を取らなかったために生まれた両手の自由が幸いし、喉仏を抉り出される直前、あちらのナイフとボクの首の間にクロスさせた両腕が割り込ませたことでナイフは両腕を指し貫くだけで手放されることとなった。
ナイフを手放し距離を取ろうとあちらが一歩引いた隙を突き、胸に着くまで引いた両脚をバネの容量で射出し、あちらの胸目掛けて渾身の蹴りを放つ。しかしそんな小細工なしの直線攻撃、予想されずとも予期されており、左腕一本であしらうだけに終わる。いや、本来であれば腕の一本も使い対応する必要もない一撃なのに——どうしてあしらった?
まあ今は、そんなことはどうでもいいか。
左脚を前に出し、右脚を肩幅程度下げた位置に置く。背骨を伝わって迫り上がってくる電撃のような『熱』に順応しつつも、蹴りによって得た運動エネルギーを利用してボクは一息に立ち上がってみせる。立ち上がる行為とほぼ同時に後方に配置した右脚へ実に七割近い体重を任せる形で体幹移動を任せ、何者かに対してつい今しがた左手に握った殺虫スプレーを切り上げる要領で噴射した。流石の殺人犯もこれは予想外だったのか一瞬、ただの一刹那のみ動揺を見せてきたために、切り上げの終了と同時に左手に握った殺虫スプレーを投げ捨てて、今度は全体重を左脚に移動しながら放つ渾身の右ストレートを撃ち出す。既に冷静さを取り戻し始めていた何者かは、先と同じように袖からナイフを煌かせた拳で迎え撃つ——
——と思いきや。何者かはその拳を繰り出すことはなく、首の動きだけでこちらの拳を無力化する。詰まるところ、ボクの渾身の右ストレートは勢い余って空振り、そうなると、やはりボクとて人間の端くれであるため、身体を全面的に開示することになる。その上で、全体重なんて乗せてしまったために引かれるように何者かへとぶっ飛んでゆく。
何者かの眼はそれでも笑うことはなく。
ただ作業的に命を刈り取ろうと、遂に袖から出したナイフを握り、ボクの心臓に狙いを済ませて突く。と同時に、逆の手にも同様にナイフを握り、保険として脇腹を狙ってくる。
確実的な殺戮意識。
遂先程、作業的と称したけれど、瞬間的にあれが間違えであったことが理解させられた。あれは、心躍らせたものも結局この程度か、という失望の瞳だ。勝手に期待して、勝手に失望した、そんな、ただの人間みたいな面白みのカケラもない自己の心臓を最優先にするようなくだらない、同調圧力に屈した者の瞳だ。
こちらも身勝手に期待していたらしく、失望する。
何とか現状の打開を目指して空振りした拳の勢いを最大限に活かすために、前方に配置された左脚を軸にして、右の拳を上体ごと右に捻ることで無理矢理引き戻し、生まれた捻れと残った勢いそのままに何者かの脇腹に右膝を入れて蹴り飛ばす。何者かは蹴り飛ばされたが故にそちらの方向へと身体がズレて、予想だにしていなかったのかそのままバランスを崩して倒れ込む。
しかし相手も手合いである。ただでは倒れるはずもなく、ボクの脇腹にナイフを残していったのだった。下手に捻ったせいで、刺さるだけで済んだはずの刃で五センチ近く裂いてしまった。モツはもうダメだろう。いやはや、脇腹に蹴りを入れたら脇腹にナイフが刺さるだなんて、なんだか滑稽で失笑するな。失笑といっても、実際はただ痛みと異常事態でのパニックから正しい呼吸の方法を思い出せず溺れ半分でもあった。誰かを生かすために自分の身体がボロボロにする道化以上滑稽なものなんてないのかもしれないけれど、それでも空元気を振り絞るためにボクは口角を吊り上げ笑う。
目の前の似て非なる何者かを討つために、心の底から泥を吐き出す。
倒れた何者かに今出せる最速で接近し、その顔面を殴りつけて完全に地に伏した何者かの顔を、馬乗りになりそれからもこれからも殴り続ける。手の甲の皮が剥けて出血しているようで、ズキズキ痛むし頬にも脇腹にも知らぬ間に刺さっていた無数のナイフの傷が熱を帯びて辛く泣きたいけれど、それを我慢して、その全てを噛み潰してボクはこの正真正銘の殺戮者の顔に拳を叩きつける。
人を攻撃するということは、やはり何も変わらず、殴る方も殴られる方も、その双方にほぼ平等に激痛が走る。殴る拳だって痛いし、殴られる奴だって痛い。ただほんの少しの精神的有利がそんな少しの幅を変えられないほどの巨大な溝へと変換されて、殴る側の心は高揚し殴られる側の心は高揚する。
気の持ちよう、なんて言葉があるけれど、あの言葉はある意味では真実なのかもしれない。
絶対的な有利。
不安定な不利。
一方的な暴力。
一方的な暴力。
ほんの少しの小さな精神的有利。
何のことはない小さな精神的不利。
しかし、少し、ほんの少しではあるけれど、不思議に思ったことも、またあった。それはあまりにも、不思議に思うくらいに何者かに抵抗の意志が見受けられないのだ。蛇に睨まれた蛙というわけではなく、ハイエナが群がるインパラの死体を高みから見るライオンのような……。
不思議というか、不安だろうか。
不確定要素。
そして刹那、理解した。
ものの見事な反撃を許し、一瞬の隙を見せたボクをコイツはフィジカルだけで押し剥がし、すぐさま体勢を立て直しナイフを手に取りボクの腹部に深々と刺す。刺して中身を横一文字に切り裂く。しかし、刺すという事は即ち近付くという事であり、ナイフのような間合いの短い武器ならば尚更近く、ボクとてただでやられる気などさらさら無いために刺されると同時に最後の気力を絞り出し、後ろに振り絞った頭を前方へと突き出した。俗に言う、頭突きである。
脳味噌も身体も何もかもが揺れて、唯一与えられた視界なんてものは物体の輪郭を捉えないほどにぐちゃぐちゃに混ざっていた。
両者共にもう力なんて入らない。
元々穴の空いた風船のような奴らだったのだから、別に不思議でもないだろう。
二、三歩ふらりと後ろへと下がるが、何者かは踏ん張ろうと試みる。されど、力加減をする頭などボクにも何者かにも残っていなかったようで、そのまま気絶してしまったらしくボクの方へと崩れ落ちてきやがった。勿論それを受け止めるだけの力がボクの中には残っておらず、支えることも敵わず無様にもそのまま何者かと共に床に崩れ落ちる。ナイフが刺さっている身体の上に落ちてこられたせいで深く、深く、深々と全身に突き刺さったナイフが刺し込まれてしまい、目の前に失敗を見る。失敗どころか失神しそうだが、あと少しだけ、踏ん張ってみる。
いやはや、しかしものの見事に負けたものだ。完敗である。まあ、部長様曰くこの四日間は何度でもやり直せるのだ……ならば、今回負けたところでどうということはないだろうさ。今回の負けを踏まえて、ボクも彼も、今回ばかりはボンネットの上のトンボのように——速やかに退場するだけである。
「なるほどね……うん。なるほど。そういう可能性か。そうな可能性が……いや興味深い」
何者かの顔は確認した。
次回は初日から殺し合おう。
次回は初日から排除しよう。
「ふふふ……いいね、いいよ。君がそういう道を進むのならば、ぼくはあの時から変わらずに君という者が背負うそんな堅苦しいモノのために道を整える者となろうかねぇ」
誰かがボクに話しかけてきているような気がする。
くらくらする意識の中で、ふらふらする世界を見ているボクに、聞き覚えがこれ以上ないくらいに色濃く脳に染み込んでいる声が語り掛けてくる。ガンガンジクジクと痛む頭ではあるものの、その声に意識を集中させて、一言一句訊き逃さないよう耳を澄ませる。耳を澄ませたところで頭に記録できたものではないけれど、それでも記述を残しておく。
「ま、このくらいならちょちょいのちょいとね。さて、と……邪魔くさいな、彼」ボクの上に覆い被さるようにして倒れる男の首根っこを鷲掴みにして、壁にめり込むのではないかという勢いで放り捨てる——視界は既に霞んでいたために、明確な表記ではないかもしれないが、少なくともボクにはそう見えた。
「君の役目はここで一巻の終わりなんだから——いやさ、まあ、あれだ。流石に可哀想だから少しばかり温情をかけてあげるとするか。役に立ってくれた者には、それ相応の価値を返さないとね」
意味のわからないことをブツブツと口にし、何か自分の中で納得のいく理由付けに成功したのか愉快そうに自らで投げ捨てた何者かに近付いて行く誰か。そして刹那、誰かの手刀は何者かの胸の中央を刺し貫いた。何者かは一切反応なくその手刀を受け入れており、どくどくと流れ出る赤が創作的なまでの温かさを物語る。
「——宿業からの解放……とまではいかないけれど、ご褒美かな? 勝手に奪ったものじゃあ君にゃ合わないさ。いや、逆にお似合いなのかな? ま、どうでもいいか。んー? んー、んー。こんなものか……君は、そこでおやすみ」
何者かの胸から手を引き抜いた誰かは、その手に付着した血を気に留める素振りも見せず、ボクの方へと歩を進める。その遠近感が狂う歩き方に覚えがあったような気がしたけれど、同時に何も思い出せる気はしなかった。
「……ふふふ。いやぁ、これはこれは、また懐かしいもので…………」
ボクの刺された腹をジッと見つめて、彼女は楽しむように、懐かしむように、掴みどころのないどこを突いても矛盾が溢れ出てきそうな声を上げる。懐かしい……とは、一体何なのだろうか? 誰かも刺されたことが? まさか……とも言えないか。だって誰なのかわからないのだから。
しかしここまで近付かれてようやくその姿を見ることとなるとは、ボディの損傷はそれほどまでに激しいのか。……どこかで見た白く長い髪は腰まで伸びており、端正な顔立ちは凛々しくも愛くるしい。これほどまでの赤の中でありながら、その上体に着装する白いTシャツに一切の汚れは見えず、ただ双丘を主張するのみである。
ここまで観察したところで、誰かが勢いよく腹に刺さったナイフを引き抜かれた。引き抜かれた際にほとばしる鋭い痛みの電撃に死の懇願にも同じ嗚咽と共に拒否反応を示しているにも関わらず、傷口から先程何者かに行ったアレと同じように手を侵入を果たす——すると不思議なことに痛みは段々と鈍くなっていった。和らいでいくわけではなく、麻酔でもかけられたように、痛みが鈍くなってゆく。痛みという感覚が鈍化していっているのか、脳味噌そのものが鈍化していっているのかは、わからない。
「さぁて、まずは契約前にたったひとつ確認として質問だ」
契約。
お前は自由だ。隷属を望むか?
『汝、原初にして最終の公となる者。我、最終にして最低の部を演じた者。理に触れ、それでも尚進むと言うのでならばその眼、その理を見通す千となろう。
『願いは叶うさ。叶えるとも。
『失敗を赦す、敗北を赦す、劣情を赦す。
『ただ、
『後戻りする事だけは赦さない。
『後悔も許容する、懺悔も受け入れよう、諦めたいと嘆く事も許可するとも。
『されど、
『されど諦める事だけは赦さない。
『それはここまで繋がってきた全てを愚弄する行為であり、いかに最終の公であろうともこの禁のみは守ってもらおう。
『自分の行いに覚悟を持ち、この役に準ずるのなら答えよ』
命が見てた。
命の答えが見えた。
最果てに輝き、限界を超え、そして極光を斬り捨てた名前のない英雄を見た。顔のない人類の体現を見た。
「君は、何なんだい?」
何なんだ?
それは哲学的な意味なのか、それとも生物的な意味なのか。そんな思考には一切至ることなく、瞬時にその質問がボクというモノが何者なのかという質問なのだと理解したボクは、ほんの少し前に得た答えを、ここで堂々と披露する。自慢げに、誇らしげに、それこそが自分だと高々と宣言する。
自分でもくだらない答えだとは思ったけれど、兄さんの言う答えは内から漏れ出るほど大きなモノだという言に従い、一切恥じることなくボクは宣言する。
「ボクは——鴎だけの、悪の敵です」
The Show’s Over.
物語はここで終わる。
True End.
これは真実の終わりである。
But.
しかし、
True Bad END.
これより先は最悪の道と言える。
Allowed to proceed.
進む事は許されている。
But I can't move forward.
それでもボクは、この先に輝くものを見ない。
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