The previous kiss
この物語はフリクションです。いつでも消せる取り返しのつかない物語ですが、どうか冷ややかな目でお楽しみください。
*
学校からの帰り道。今日はバイトも入っていないことだし、早めに帰って鴎のゲームにでも付き合ってやろうと思いながら廊下を歩いていた時のことである。何の気なしに向かいの窓を見た時、およそ想像もしていなかった人物を視認することとなった。
誰の脚も踏み入れられていない雪原のような白髪と、ありとあらゆる光を吸収する黒曜石のようなドス黒い瞳。生きているにしてはあまりにもボロボロで、死んでいるにしてはあまりにも不死身すぎる癌細胞。生きているとも言えないし、死んでいるとも言い切れない。ただそこに存在しているのだとも言い切れないし、そこに存在していないのだとも言い切れない――この世にある中で最高至極の≪贋作者≫であり、何より最低最悪の≪詐称者≫。
それが人間であるのならば、ボクは人間でなくていいーー
それが人類であるのならば、ボクは人類でない方がいいーー
喉から炎が出るほどの崩壊ぶりであり、あんな風にはなりたくないという反面教師の終着駅。魚屋に牛肉が売られているような違和感も、魚が陸を歩いている異常性も彼の前では全て等しく何ら変わらない日常の風景の一コマに成り下がるーーそういった周囲一帯を包み込むような変態性。
ある人は言う、大嘘吐きと。
ある人は言う、執着駅と。
ある人は言う、贋作屋と。
そして、
ある人は言うーー絶対悪と。
なんて、長きに渡って長々とその名前を隠そうとしてみたのだけれど、呆気なく告白してしまうと、それは儀厳型理ーー隣のアパートに住む兄さんだったのだ。特別な人間でもないし、上記のような異常性もそう多くはないただの気前の良い隣人でしかなかった。創作上での特別感の演出というヤツだ。
来賓用の玄関から出て行ってしまう兄さんを、一時の逡巡もなく追いかけることにしたボクは、足を急がせ生徒用玄関へと駆け抜けた。滑り込みつつ自分の下駄箱に到着したならば、恐ろしく早い速度で上履きから外履へと履き替え外に出る。急ぎであったが故に、さして深く考えることもなく正門へと向かったのだが、兄さんのものと思われる影は既に正門から姿を消しており、それでもその背中は遠い大通りの先に見えていた。何故に兄さんのことを追いかけているのかなんて自分のことながら知る由もないが、「なぜ学校にいたのか」——取り敢えずはそれを訊くことが目的であるということにしておくとしよう。
きっと、街灯に集まる蛾のようなものなのだから。自分でもわからないながらに誘われる、そんなある意味では道のようなものを自分では気が付いていないようだけれど、兄さんは持っているのだ。稀代の誘引体質の持ち主という訳だ。
大通りを行き大橋を渡り、商店街を抜けて住宅地を進む。冷桜市でいうと北東に位置するここらは、子供達の間で「地獄阪」と呼ばれている辺りであり、あまりにも急な坂が数多く点在しているため主な交通手段が自転車である小学生から高校生にかけて、上りは辛く下りは怖い場所として知れ渡っている。そんな地獄阪の石階段をいくつも登って行き、誰も知らないのではないかと思ってしまうほど巧妙に隠されている裏路地へと逸れて尚進む。雪が多く降り積もっており、なんとも不思議で幻想的な、失われた妖精の國のような神秘の残る少し開けた場所には目もくれずーー兄さんは先へ先へと続いていく、続き続けている先程の住宅地の物とは装いを大きく変えた崩れ、くたびれた石段を上っていった。その石段は下からでは終わりを視認することのできないほどに長く、一段一段各それぞれに恨みを受けたようにその尽くがどこもかしこも未だに形を保っていられること自体が不思議極まりないほどに崩れ壊れ落ちて欠けている。しかしそれでいて不気味というわけでは一切なく、天神様の細道のような、そんな一種の神々しさと圧倒的なまでの格差を感じさせる人間なんてものよりもより上位の存在の気配に満ち満ちている。
導かれるように、もう頭の中は遠い昔に熱暴走を起こし回路が焼き切れてしまっているからか、自然、その妙な高揚に浮き足立った心に前髪を引かれ、一切の抵抗も合切の反抗もないままに脚は前へと伸びていきーー無神経にーー無関心にーーそっと「 」の精神構造のままにその石段を登っていく。気付けば左右に自然を殺す人工物の姿は無くなっており、しん、と黙殺するように森の木々の間を一迅の風も吹いくこともないために、雑多な音の存在し得ない完全な世界を確立していた。
鳴り止まない静寂と、キュイーという耳鳴りのような排熱音。
僕の脳は遂に無くなってしまったのではないかと思ってしまうほどに安らかな気持ちで足を進め、自分と自然との区別がつかなくなってきた頃、石段を遂には登り切ったのだったーー
「ーーわ」
息を呑むほどの美しい景色。
無垢な白雪と穢れきった人工物の織りなすコントラストの白黒映像のようなその景色は、誰が言うでもなく、僕が言うでもなく、雪化粧をその身にまとった麗しき妖美な雪女のような、そんな冬の冷桜市の一望であった。
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」
男は頭だけで振り返り、ボクに対して歓迎の一言を口にする。振り返り際に揺れた白髪は優しい陽光を存分に浴びて、それはまるで背後に見える景色の一部であるような非現実感を僕に与えることとなった。
「………………」
目は奪われ、何を言うこともできずに、呆然と、ただ茫然と立ち尽くすことしかできない。何を考えようとしてもノイズがかかったように霧散して、ロクに思考がまとまることを知らない。
「どうしたんだい、霧ヶ音くん。こんなところまで……そんな可及的速やかに対応しなければいけない問題でも発生したのかい? ならばこのおにーさんが全身全霊を持ってして助けてあげようじゃないか」
霧ヶ音さんに受けた恩義を返す意味も含めてね、と秋の旋風を思わせる言葉として綴りづらい笑顔で儀厳の兄さんは言う。
確かに、一体全体ボクはどうして兄さんを追ってきたのか……兄さんを追うことそのものが目的となっているが、いやはや、過程と目的が入れ替わってしまったようである。はてな、と自分自身の行動を不思議がっていると、兄さんによって助け舟が放たれる。
「さて、何か質問かな? いいとも、存分に吐き出してくれたまえ」
質問……そう、質問である。
質問と言うほどのものではなく、単純にボクひとりの、極々個人的な興味でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないことなので、ここでこの質問を訊くというのは少し憚られると言うものだけれど……ここで何も質問しないというのは、それこそ彼に対して不敬というものに成りかねないだろう。彼に対して不敬であり、ボクはただのストーカーに成り下がる。
「まあ、くだらない質問なので、答えなくてもいいんですけど。兄さんは、どうして高校にいたんですか?」
実際何も質問することがないので、取り敢えず気になったことを訊いてみた。これもひとつの回答だろう。
そんな質問を受けて兄さんは、大仰に両手を広げて答えてみせた。
「くだらないだなんてとんでもない。いいじゃないか、知識欲。知識に関する永遠の探求、知恵を求めて進み続けることこそが人間が持つ"真実の原初命令"なんだから」なんだか嬉しそうに、兄さんはいつもよりもまくし立てうようによく喋る。「それで、『どうしてぼくが十字ヶ丘高校にいたのか?』だっけ? どうしてもこうしても、用があったから足を運んだってだけなんだけどね……ま、その用ってのが気になっているんだろう? 別に構わないさ。言いづらいことでも何でもない。プライバシーには関わるけれど、言っても、そう大したことじゃないからね。うん。ただ、学校長先生とは顔見知りでね、少し防犯についての話をしに行ったのさ。最近は特に物騒だからね。知っているかい? 連続殺人について」
校長と話を?
この二人、どういう間柄なのだろうか。接点がまるで思い浮かぶことがない。
「ふふ。つまらない、って顔だね。そりゃ、面白いことなんてそうゴロゴロ転がっているものじゃないさ……人生は劇的なものであるほど苦労が多く、楽であるほど単調なのは世の常だしね。君みたく楽な生き方を選んでしまったら、そうなるだろう。それに、人生で気になって調べてみたことが面白くもない真実であることなんてザラにあるさ。ぼくも多く経験してきたよ。だから、少しずつ少しずつ諦めていこうじゃないか」
「諦めて、ですか」
「うん、諦めるんだ。人生は諦めが全てだからね」
そんなことを兄さんは言ったが、しかし、彼が諦めの悪い人間であることを、残念ながらボクは知っているのだった。諦めが悪いというか、自らで人生の最後の最後まで一切の狂いのないレールを引き、そのレールの上を一切の妥協なく歩き続けるような、そんな異常性とでも言うべき生存性。予定調和の調和を求め、異常事態すら予定する。
今ボクがここにいることすらも、彼の予定の内なのだろうか。悲しい事実として、ボクは他人のことなんて何も知らないのであった。現状最も近くにあり続ける鴎の未来すらも予感できないほどに、何も知らないのだ。
「まあ、君にこんなことを言っても無意味なんだろうね」
珍しく、兄さんが自らの言葉を撤回するような発言をする。その珍しさたるや、金の卵を産むガチョウと同じほどと言ってもいいだろう。
「君は『程々に生きて適当に死にたい』って言っていたけれど、程々に生きることに全力を傾けているだろう? それに、彼女を護る騎士である君にはね、諦めるだなんて似合わない。『人生諦めが全て。妥協して生きよう』ってのはあくまでぼくの生存指標であって、君の『程々に生きて適当に死ぬ』こととは似て非なるものなんだろうね。いや、似ても似つかないか」
「です、か。まあ、ボクだって諦める時は諦めますよ。だって、程々に生きるには妥協、諦め、堕落というものも必要ですからね。隠し味は強行突破だったりしますけど」
「そうかい。大変な生き方を選んだんだね……ぼくなんかじゃあとてもとても、天寿を全うできる気がしない。ま、人生なんて人それぞれだしね」
しかしそれじゃあ適当に死ぬことも敵わないかな、なんて。
兄さんは軽く馬鹿にするようにそう言ってきた。それがどちらの意味での適当であったのか、内包する意味が一体全体何だったのか……まるでわからないけれど、いつか、理解することができるのだろうか? まあ、できなかったとしてもそれはそれで一興というものだ。
「そうだね……まあ、折角だ。このまま幕を下ろしてしまってもつまらないしね。うぅむ、そうだなぁ。面白いお話、おひとついかが?」
「面白い話……ですか?」
「愚かで愚かで仕方がなく、清く正しく美しい少年によるーー未来を救う戦いの話しさ」
そんな人間、いるのだろうか?
まあ、創作物における人物の存在の有無なんてものはどうでもいいものなのだ。どうせ、自分自身が存在している証明だってできない人生なのだから。
「それでは、お聞かせを」
儀厳の兄さんの話は、いつも現実味などありはしない突拍子もない物語なのだが、それでいてどこかリアリティがあり、常にどこまでいっても『人の物語』であるという不変ひとつの極点があり、何と言うべきだろうか……少し違う気もするけれど、タメになる、といった具合の聞くに足る内容なのだ。タメになるというよりは……何と言い現わしたものか。人間を車だとした場合のエンジンオイル的立ち位置のモノだろうか。まあ、どうでもいいか。
口をつぐみ、声を待つ。
「それでは皆様ご静聴。
「東西東西。
「今よりお話いたしますはただ一人の少年のお話にて。何かを成すに足る才は無ければ力も無い少年なれど、されどされとて諦めぬこととなれば日本晴れ。そんな少年の成し得たったひとつの大偉業。誰も知らない物語、世界に残らぬ英雄譚、今宵と言いつつ夕暮れなれど、ひとつお話御覧じろ。
「その少年はある時、《あらゆる森羅万象の彼方を見据える瞳》を手に入れた。
「しかしその瞳で少年が見た彼方は、『世界の終わり』だったのだ。
「『世界の終わり』。
「諸人がそんなモノを見たとしたら、『馬鹿げている』と笑い飛ばしたり『そんなことはない』と目を逸らしていただろう。だって自分が今生きている世界が終わるだなんて、そんな想像を人はできないように設計されているからね。
「しかし、彼は違った。
「彼は物事には終わりがあるということを理解していた。理解せざるを得なかったのだ。
「彼は悩み、苦しみ、世界が終わる前に自死の道を選ぼうとまで考えるほどに陥った。自分ではこんなモノは止められない、どうしようもないことなんだと受け入れていたのだ。
「しかし、その自殺を止めた者がいた。
「彼女も《世界の終わり》を知っていたんだ。世界は終わりを予知していて、その確定的な証拠を彼が提示したと言ってもいいかな。
「二人は手を組み、共に《世界の終わり》に立ち向かっていった。
「二人は幾多の苦難を乗り越えていった。
「友人を踏み台にした。
「家族も手にかけた。
「街を潰すこともした。
「どのような悪辣も厭わなかった。
「《世界の終わり》を回避するためならば、二人は何だってしたんだ。
「しかし、力及ばず。
「《世界の終わり》は訪れた。
「《世界の終わり》を回避することは、できなかったんだよ。だって、あの世界の未来は変えようのないもので、一本筋の通った【運命】とでも言うべき道が敷かれていたからね。仕方ないって奴だったんだよ。
「二人は《絶対悪》として扱われた。
「そして、世界の終わった後の星で二人は処刑されたんだ。《世界の終わり》を導いた者として、ね。
「…………南北。これにて全ては一巻の終わり。どうしようもない夢の終わり、ってね」
………………。
なんとも、胸糞悪い話である。
努力をして、それが報われないことほど嫌なものはない。代金を支払ったのに物が買えないような、そんな理不尽を感じてしまうからだろう。【一】に対して【一】を返すという世界の基本的ルールがガラガラと音を立て、ガチャガチャと崩れ去っていく不気味な気配。
そういうものを肯定することは、やはり人間であるボクにはできないことだ。
そういうものを否定することも、やはり人間でしかないボクには不可能である。
「君は、こういった話は嫌いだったかな?」
見透かしたように彼は微笑む。
ああこれだから、本当に嫌いだ。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
……なんでボクはこんな有機物と会話をしているんだ。意味がない、意義がない。給金が発生したとしても会話したくない。会話をすること自体が間違っている。会話が成立しないのだから、会話は敵わない。敵わないのだから試す必要もない。ああ、隣り合っているだけで気色悪い。こいつがいる時点でこの土地はもう終わってしまった。ああ、最悪の気分だ。こいつが二足歩行をするなら、ボクはもう二足歩行なんてできないじゃないか。こいつが呼吸するのなら、ボクはもう呼吸なんてできないじゃないか。呼吸しないと生きられないじゃないか。ん? ああ、そうか。こいつがいきているんだから、ボクはもういきていられないじゃないか。
「こら。そういうのは、いけないよ。そんな憎悪に満ちた眼で人を見るものではないよ。そんなんだから友達ができないんだ、君ってヤツは」
………………?
何故にボクは突然デコピンをされたのだろう。
不思議なこともあるものだ。
「ふふ。騎式くん、そろそろ帰らなきゃ夕飯が遅くなってしまうんじゃないのかい? バイトがない日は夕飯が早くて楽しみだって鴎ちゃんもいっていたよ。無論、ぼくも楽しみにしているよ」
「……そうなんですか? じゃあ、帰らなきゃいけないですね」
「うん、帰ろうか。こんな所には、一秒も長く居ちゃいけない。ここは人を悪くするからね」
兄さんの言うことは、たまにわからない。
何を言っているのかも、何を言ってみたいのかも。全ての言葉がのらりくらりと伝えたいことを躱していて、ボクみたいな欠陥品ではその言葉じゃ上手く伝わらない。
二人、横並びに歩いて家路を辿っていた時に、兄さんはふと呟いた。
「人は一人じゃ生きれないからさ、支え合う必要があるのかもしれないけれどーー支え合うことはできないよね、寄り掛かるしかない」
それがボクに言った言葉なのか、ただの独り言なのかはわからないけれど、それでも、ボクはこう思ったんだ。
「人が一人で生きられないのなら、一人で生きられるようになればいい。生物は根本に【進化】する余地を残しているのだから、一人で生きられるように【進化】すればいいじゃないか」
と。
「実際、くだらない偽言だよね。
「だって人は前には進めないんだから」
そう言ったのは、誰だっただろう?
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