善、燦々と
「目が覚めた時、そこは自宅でなければ保健室でもなく、ただ空き教室を思わせる——或いは実際に空き教室そのものであるのであろう六感課外活動部のソファの上だった」
「カーテンが閉められていないために窓から入ってくる橙の灯を見るに、時刻は四時程度だろうか。この【千里眼】の実験を行ったのがおよそ十時から行われたから、実に六時間も眠っていたらしい。六時間といえば、常日頃のボクの睡眠時間に匹敵するほどの時間だ。こりゃ、夜寝れないな」
………………。
「起きたばかりだからなのか、はたまたあんな摩訶不思議初体験をしてしまったからなのか、どのような考えをしようとしてもシャボン玉のように浮かんでは消えていってしまう。思考の一切がまとまりを持たないような、何のことはない放心状態」
「まとまらないから、取り敢えず行動してみた」
「寝ている上体を起こし、軽く伸びをする」
「未だに体表を多脚型の昆虫が犇いているような鳥肌立つ気色悪さが残ってはいるが、全盛期ほど活気付いていないため気にしなければ気にならない程度には落ち着いている。きっと、感覚記憶というものなので、六感能力使用によるペナルティ自体はとっくの昔に終わっているのだろう」
「辺りを見回し、ようやくその存在に気付いたボクは、一瞬ギョッとして動きを停止したものの即座に立ち直り、ソファから足を下ろして一息に意識の全てを引き戻し完全に覚醒させる。寝起きを見られた恥ずかしさも相まって、意識の引き戻しは容易に成功した。火事場の馬鹿力もどきである」
「ここで呆けた頭のままでいたい欲求に負け、自分を甘やかしてはいけない。彼女は程々で済む相手ではないのだから、有する全てを持ってして立ち向かわなければ根こそぎ剥がれることになる」
おはよう。心地良い夕暮れだね、霧ヶ音くん。
「薄ら笑いを浮かべて、そんなことを嘯く」
「ボクも、そんな彼女に気圧されていることを気付かれまいとポーカーフェイスを作り上げて、何てことないように言葉を返す」
おはようございます。不可解な逢魔時ですね。
「短く切られた黒髪と全てを反射する鏡のような、ある意味一種の疑心に満ちた瞳。その瞳をボクはどこかで知っていて、しかしこの眼をボクは知らない。知っていたとしても積極的に知りたいと思える代物ではなく、なるべく距離を置き、尚且つ不干渉を約束したいほどには苦手とする瞳である」
「自分以外の誰かであるにも関わらず、まるで自分自身と対峙しているような不愉快感。自分のことをこよなく愛せているような人物であれば部長を名乗る名前も知らない彼女と上手くやっていけるのだろうが、残念ながらボクは自分のことを好きになれるような立ち回りはできなかったために……彼女という人物は苦手である」
偽言ってやつなんだろうな……。
「アホらしくなり、何となく呟く」
「ボクの口癖などではない、あの人の口癖を」
うん? どうしたんだい?
「不思議そうな顔をする部長に対し いえ、なんでも と簡潔に返す」
「なんでもない」
「どうでもいい」
「他に誰もいないのに、この空間に彼女は残っている。顔に貼り付けていた笑みを剥がし、疑うような見定めるような——それでいて笑っているような、見られるこっちは心地の悪い視線でモノを見る。本来の彼女はこういう人間なのだろうか? はたまた、必要に応じてこのような皮を被っているだけであり、本来の彼女は未だ認識できるはずもないのだろうか。少なくとも、部長としての彼女も今の……言うなれば裁判官としての彼女も、真実の意味で彼女ではないだろう」
「人を信用できず、信頼できず、疑心で心を満たし、暗鬼を呼び、他人を騙し、自分も騙し、どことも知らぬ花園でその身をすり減り続ける善性悪」
「黒く砕けた光の巫女」
「狂った舞台装置」
「夜に舞う蝶の再演のつもりなのだろうか?」
「くだらない。実にくだらないというものである」
「カノジョという完成した善性の代理として祭り上げられたのがこのような彼女であっては、カノジョにも失礼というものだろう。無礼千万である。打首待ったなしだ。動物園で象がいなくなったからと、その檻にオカピを入れられても困るだろうに……あるいは、この期待にすら答えられる何かを彼女は秘めており、ここから株を上げてくれるのだろうか? 焦らずに見定めるべき、なのだろうか」
酷い話ですね。
「彼女は抑揚のない声で——押し殺した様子もなく自然体の声のままでいて抑揚の存在し得ない声でそう言った。機械音声の方が人間らしいと思えるような声はある意味で言えば不自然でもあり、それこそが自然体の彼女が本物の彼女でないことの証明と言えよう」
……酷い現実ですからね。
「どう返したものかと思案して適当な答えを返してみた。間違いでも正解でも、結果は変わるところではないだろう」
そういえば、お名前を聞いていませんでしたね。
こういうのは、自分から名乗るのが定石じゃないですか? 武士の風上にも置けませんぜ。
そちらが知っているのに、名乗る必要があるんですか?
人間関係の第一歩ですから。ここまでは言わば体験版で、ここからが正規品の人間関係と言えるでしょう?
そういうものですか。
そういうものだとよかったんですけどね。
「まあ、最低限の礼儀であることに変わりはないだろう」
霧ヶ音騎式です。好きな料理はトンカツです。
由比ヶ浜優希です。好きな料理は……そうですねぇ、家の近くにあるインド人の店主がやっているカレー屋さんのカレーは比較的好物と言えますかね。好き嫌いがないので、何でも食べれますよ。
「照れ臭かった」
「由比ヶ浜……由比ヶ浜……特段耳馴染みの名前でもないし、この学校に於いて何か特別な人間ではないのだろう。まあ、ボクの情報網及びアンテナ何てものは驚くほどに精度が悪いため、実は超人気者で有名人である可能性もなきにしもあらずではあるが、少なくともボク近辺の人間ではないだろう。……いや、どうなんだ? 志雄生さんの前例もあるため下手に確定はしたくないが、どうなんだ? 他人だよな?」
うん、君の考え通り霧ヶ音くんと私はどこまで行っても他人だとも。幼稚園、何なら産まれた病院まで遡ったとしても君と私には接点がないんだ。いっそ計画的なまでに、他人でしかなかったとも。
そうですか。それでは、よろしくお願いします?
末永いお付き合いを約束しよう。
「まさか、このレベルまで聞こえているとは……」
「きみが悪いにはきみが悪い」
「彼女の発する空気というものを皮膚が拒絶しているし、耳鳴りもするし、舌が微かに痺れているし、鼻は曲がった末に何も感じない」
「きみが悪いきみが悪い、
「きみが悪いきみが悪い、
「きみが悪いきみが悪い」
「しかしそれでも、どうしようもなく人を惹きつける歪んだカリスマを由比ヶ浜優希という部長は有していた。悪のカリスマというにはあまりにも善性を帯びすぎていて、ただのカリスマと表現するにはあまりにも正体不明過ぎる。輝き星のように、見えていながらの詳細不明。バランスの取れていないシーソーのような不安定さと座材のないブランコのような完全さ」
「きみが悪いが、
「いい気味だ」
「とてもとても、嫌いになんてなりゃしない」
私はあなたのような完成された瞳は持っていないから間違いだらけの現実を見ているのかもしれないけれど、あくまで私から見た君という人間は、呆れるほどに壊れているみたいだね。
壊れてなんていませんよ。自分と違う感性のモノを壊れていると差別するのは、上に立つ者としてどうなんですかね?
上に立つ者として、ね。君にしてはつまらない戯言だよ。だって君は実際に見て、知っているだろう?
「おっと、これは失言だったか」
『上に立つ者こそがルールであり、下の者は上に立つ者を超える力を持っていない限りは言いなりになる他にない』なんて言うんですか?
当たり前じゃない? だって、世界はそうできているんだから……私はどこまでも世界の奴隷だとも。
「………………。/………………ああ、そういう」
「まあ、そういう人だったというだけの話だろう/くだらないくだらない。『語り部』の任は彼女が受け継ぐものだと思っていたんだけどねぇ、アアアアアアァァァクソ喰らえだ――本当に、全くふざけやがって。そんなにボクのことは嫌いだというのかい。本当にくだらない」
あなたも相当に壊れていますね、由比ヶ浜さん。
壊れてはいないよ、焼き切れただけさ。同じように聞こえるかもしれないけれど、このふたつの間にはホイップクリームと生クリームくらい明確なまでの差が存在しているんだ。まあ、つまりは君にゃ敵わないという自負があるってことだね。
そんなことは……ないと思うんですがね。平々凡々、波風立てず凪の人生を送ってきているはずなんですけどね。まあ、男の子ですから時たまヤンチャはしますけど、最近の小さな火種も大きく取り上げる誇張ニュースとかの影響なんじゃないですか?
「壊れているなんて自覚はない」
「壊れた人間というものは、今、目の前に存在しているある意味で言えばひとつの完成形にある完全な部長を語る彼女のような者のことを指し――
「――破綻した人類というものは兄さんのような、『本当は死体であり、最初から生きてはいなかった』と言われてもすんなりと受け入れられるような生物のことを指すのだ」
「それならば、
「ボクは未だ壊れていない」
「だってボクは壊れていないのだから」
壊れているさ。だって君は壊れているんだからね。
「可笑しなことを言う子供をとがめるような口調で、部長を語る彼女は言う」 君の悪名くらい、調べているさ。調べ上げているとも。近いものだと一年時に深夜徘徊を繰り返していたそうじゃないか。駄目だよ、夜は危ないんだから。私も一年の時に深夜徘徊をしたことがあったがね、とても見てはいけないような光景を目にしたものだからね。危ないったらありゃしない。
「夜は人の活動時間外なんだから、なんて、自分の失敗談も交えてボクの去年の夜遊びを極悪行為のように語る由比ヶ浜優希。夜遊びなんて生きていたら一度くらい行うだろうに、そうカリカリしなさんな」
その夜遊びのせいで大事件が発生しているのに、カリカリしなさんなはないでしょう? 遊び友達のひとりが……行方不明になっているらしいじゃない。
あー、そんなこともありましたね。
「まあ、彼女が知っているであろうその程度のボクの悪行と呼ぶにはあまりにも可愛らしい悪戯なんてものは、突き詰めて言えばどれもこれもボクは悪くはないのだった。結果論を語られたところで、過程こそが重要であることに変わりはないのだから」
ああいや、間違えた間違えた。もうひとつ、葬るにも葬れず、隠そうにも隠し切れず、どうもこうも手を出せない誰も知らない物語があったんだっけか。
「……………」
「マジでか? あれを知っているのだとしたら、侮っていた。まさか……かなり本気で証拠隠蔽他根回し手回し足回しをしてもみ消したというのに、まさか知られているのか?」
「既に切りきっていたと思った相手の切り札だけど、トランプにはジョーカーが二枚入っていることを忘れていた。蜂は二度刺す、とな」
――――×××××××なんだったね、君は。
「――――――――――」
「――――――――」
「――――――」
「――――」
「――」
――――――クゥ。
「喉から変な音が出る。紛れもない焦りの証拠を見せてしまった」
「しかし彼女の顔色は変わらない。ただ少し、部長を名乗る彼女の口角が上がったように見えたが、果たしてあれは目の錯覚なのか否か。今の冷静でないボクでは判断不能な案件である」
「自身満点最後の切り札。ただの嫌味合戦にしてはやりすぎの加減知らずにもほどがあるし、そんなことされたらもう殺す他に選択がなくなるというのに。くだらないことをしてしまったものだ、彼女も。周回中の世界と言えど、殺されることを許容することはできないだろうに。それとも、死にたくてそう言ったのか。ボクにはわからないしどうでもいい」
「無意識的にではなく、これ以上ないほどの意識的な動作の元で立ち上がる。立ち上がった勢いのまま一歩で踏切り中央を区切る四角い机の束に足を着き、その細い首を多少荒々しく鷲掴みにする。その時ほんの一瞬だけではあったのだが、彼女の顔に恐れの色が見えたことで今回の件についてのおおよその事情を把握する。把握しても。もう止まることはない。首を掴む手に力を入れて、額同士がくっつく程に顔を近づけ視線と視線を合わせて宣言する」
――――だからどうした。
「だなんて」
「彼女の放った二枚目のジョーカーは、これ以上ない虚飾だった」
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