終幕『ルート1』

 何事もない一日を終えたボクは、夜の帳が下りきった頃――正確な時間は覚えていないけれど、多分八時くらいか、七時半くらいだったと思う――家に帰ることとなった。

 家庭を維持するためにアルバイトに身をやつしているボクとしては、この時刻での帰宅は日常茶飯事というものだ。ここから夕飯を作り、名の無い家事をこなし、風呂に入り、上辺だけの勉強をして眠る。睡眠時刻は学生としては一般的に、おおよそ毎日一時半くらいにはなっているのだろうか。よく毎日身体が持つな、とたまに思ったりもするが、これでも少し大変になり、かなり楽をさせてもらっているのだ。洗濯などは運転を始めておくと鴎が干しておいてくれるし、雨で濡れてしまうなんてことも少なくなった。

 やはり一人で暮らすよりも何人かのグループを作って暮らした方が、生活というものは豊かにそして楽になるのだろう。やはり人間というのは、群衆を作り生きる生物である、ということだ。

 以前、いつだったのかは定かではなく、もしかしたら何年か前のことだったのかも知れないのだけれど、鴎に「洋食を食べたいなぁ〜」と言われた気がするので、魚屋のおっちゃんに鮭を頼んで、鮭のホイル焼きを作ることにした。この記憶がえらく前のことだったとしても、別に構わないだろう。夕飯は結局食べなくてはいけないわけだし、それが和食でも洋食でもそう大した違いでもないだろう。

 戸を引いて、帰宅する。

 鍵が掛かっていなかったのは、あいつが鍵をかけ忘れたのか鍵を開けといてくれたのか――なんて、考える暇などなかった。玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、違和感が霧のように全身に立ち込める。自身の体臭が変わることを自覚する。これでもボクは鼻は利く方であり、勘よりも感覚器官による確かに虚ろな不確定な違和感。

「――ッ――ッ――」

 既に呼吸は荒れており、呼吸と無呼吸を幾度も繰り返す。

 穏やかとは違う感覚。

 勘ーーあるいは経験論。さもなくばトラウマ。

 家の中に充満する甘い香り。脳が蕩けるような甘ったるい香りが、ボクの精神を狂わせる。同時に、その香りがボクを過去へと引き戻す。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで仕方なく、怨んで呪って縊って引き裂いても足りないほどに憎むことが出来ている、あの場所と同じ、胸がむせ返るような嗅覚を刺激する臭気が、この家という空間そのものに満ち満ちているように錯覚する。

 手から滑り落ちる鮭の入ったマイバッグ。

 自然と歩み出す足は遠い過去にボクの意識から切り離されて稼働しているために、止めることは叶わない。頭の中では暴虐無人な理論と、弁えることを知らない論理、そして足を静止させろと言う命令文が展開され、叫び、そうして泥のように消滅していく。そのサイクルを永遠に繰り返している。メビウスというのか、はたまたウロボロスなのか。それは人それぞれというものだ。ただ確かなのは、そのサイクルを何度試したところで、ボクの身体はとうにボクのモノではなくなっているということだけだ。

 意思と同期せず、

 意識とは噛み合わない。

 居間までのたった五メートルほどの長くはない廊下はえらく遠く感じられ、身体は重く、頭の片隅では悪い想像ばかりがホツホツと浮上しては廻り続けている。遥か遠い国に向かっているような無窮感と心細さの渦に苛まれながらも進み続ける脚は止まることもなく、視界は無く、匂いは無く、音響は無く、触角は無く――遂には呼吸すらもそこには無くなった。

 そしてぼくは――


 ――居間の戸の前に立つ。


 取手に指を掛け、ジクジクと痛む脳から言うことを聞かない身体に無理矢理命令をする。

「その戸を開け」

 と、命令をする。

 頭は内側から破裂せんばかりの激痛を放つ。全身から異様と表現していいであろう、これこそが異様であるほどの汗が噴き出る。心臓が自壊せんばかりの早鐘を鳴らす。瞳は閉じることを知らない。耳鳴りは鼓膜を破壊せんばかりに頭を横一文字に突き刺す。胃が雑巾の如く絞られるような感覚が襲う。

 その全てを噛み潰して、

 そっと、

 いつもの調子の皮を被りつつ、さも平然と居間の戸を開く。もしもただの勘違いだった時のための、なけなしのプライドであったが……。

 目視。

 あるいは直視。

 一歩進み、二歩後ずさるボクが取った行動は、思いの外単純な、順当な、大体の人が行うであろうと思う、ドラマなんかとはまるで違う、ある種それこそが人間の本質であり、これこそが人間を人間を足らしめる行為である。

 ボクは自らの手で開いた居間の引き戸を、またもや自らの手を持ってして閉めたのだった。

 どうやら、慣れているものだと思っていたけれど、そういう環境から解放されると、人間というものは案外早く危機というものを忘れ、上部だけの平和というものを享受することが可能な存在だったようだ。汚いものには蓋をしろ、とはよく言ったものだ。汚い――だなんて、あれを卑下することはボクにとって不愉快なモノであるものの、あくまで仮定としてあれを汚いと表現した場合、汚い記憶というものは心の奥底で封印されてしまうものなのだろう。

 フラッシュバックなのか走馬灯なのかは知らないけれど、過去の記憶が駆け巡る。

 善いも悪いも、正しいもの間違いも、正義も悪も、友情も裏切りも、血も肉も、薄いスープもパサパサの乾パンも。

 全てを、鮮明に思い出す。

「……はぁ」

 自然とため息が漏れる。

 何かを思ってため息が漏れる。

 居間を見た時から、外界のことが全て遠い世界の話のように現実味なく感じられるボクなのだけれど、いやはや、やはり現実というものは見て、見定めてみないとわからないことの方が多い。この世は所詮嘘にまみれており、今こうして視認している世界も偽物で満ち溢れているのだけれど、それでも世の中自分自身の目で確認しなくてはいけないことも数多く存在している。そうしないと後に後悔したり、大事なところで覚悟が決まらなかったり――と。

 意を決する気なんて更々ないけれど、

 それでもボクはもう一度居間の戸を開き中を見た。

 居間を見た。

 実際のボクの視線というものは、より一点に集中していたのだけれど、ここでは広義の意味で居間を見たのだと表現しておくとしよう。


 そこで、永倉ながくらかもめは死んでいた。


 素人の目から見ても、理解出来てしまうくらいに死んでいた。

 正視に堪えないほどに、死んでいた。

 着装していた可愛らしい衣服はズタズタに引き裂かれて、その服が包んでいた美しい白い肌にはいくつもの刺し傷、切り傷、痣の数々が残酷なまでに、そしていっそそういうものだったんじゃないのか、という疑念を抱かせるくらいに刻まれていた。折角朝結んでやった髪は、解けて乱れている。血液はとっくの昔に酸素を失っているのだろう。赤黒く変色している。新鮮な血液というものは、赤々と煌めいているものなのだ。

 頭から下へと視線を移動させていき、ここで何が行われていたのかを如実に語るその死体に不快感を感じる。いや、死体にではなく、犯人に感じているのだろうか。

 とにかく、ここは空気が濁っていて、気分が悪くなる。暖かく、臭く、とても人間の存在する空間でないことだけは頭が身勝手に理解する。そのせいで、マイナスな思考しか出来ないのだろう。

「……あ……あ…………」

 口元を押さえて、悲鳴をあげそうになったのを必死に堪える。

 堪える必要なんて、これっぽっちもないのに、なぜだか、ボクは叫んではいけないと無意味の内にそう動いた。ここで叫ぶのは、鴎の死への冒涜のように思ったのかもしれない。

 顔。

 より細かく観察する。

 表情。

 鴎の表情

 鴎の――最後の表情。ここから窺えるのは……なんだろう? 苦痛で歪んでいるようでもあり、不快感に悶えているようでもある。まあ、歪んでいることには変わりない。最後まで、苦しいことに苛まれるとは、鴎も厄介な運命だったものだ。

 両手首には、合わせると片手を連想させる形の痣がある。

 そしてこの格好は……なんていうんだったか?

 確か……ああ、そうだ。大の字だ。

 床に大の字に転がっているところに、上から被さった何者かが両手首を拘束して――。

 掌に痛みを感じて反射的に視線を向ける。それは程のいい現実から目を逸らす題材であり、辛いことからは逃げればいいと考えている敗北者思想のボクは、構うこともなくその案に乗る。

 爪が皮膚を貫いて、掌から血が湧き出ていた。

 それは、ボクが生きている証明だった。

 どうでもいい。

 鴎の拳は強い力で握りすぎたのだろう。血が滲んでいる。普段非力な鴎が握られた手から血を滲ませるとは……人間は死の直前にすると普段よりも力を出せるというが、きっとそのせいなのだろう。

 口には布が詰められている。どこかで見たものであったが、頭が思い出すことを拒んでいるかのように記憶にブロックが掛けられている。少なくとも、この布の役割は鴎が叫んだり自殺できないようにするためのものだろう。

「ふむ……」不思議と落ち着く。そして奇妙な納得。「取り敢えず神楽ねぇに報告するか」

 顎に手を当てて、今後どう動くべきなのかプランニングを立てる。ここで警察でも呼んだ暁にはボクが真っ先に疑われるだろうが、それは面倒だ。焦って近親者にことを報告するという方が、平均らしいだろう。

 今から思えば、この時既にボクの脳味噌の思考に使われている媒体の許容量は、決壊していることが窺える。混乱している、という奴だ。

 当たり前だろう。朝、なんてことはない会話をしたハウスメイトが、帰宅すると居間で殺されていたのだ。そんなもの、ボクでなければ気が狂う案件だろう。いや、ボクでも十分に気は狂うのだが……。

「もしもし、神楽姉かぐらねぇ。騎式だけど……」

 ポケットから携帯電話を取り出して、登録してある神楽姉の携帯電話へと連絡を入れる。身に覚えがないのだが、なぜか登録者リストにもう一人増えており、危うくその人物に連絡しかけたが、この非常事態にそんな変な冷汗は必要なかった。

『んー? どったのー、騎式ィ。ああ、夕飯の準備が十分だからそろそろ来いってことね、オッケー! 任せとけ! すぐ行くぜィ‼︎」

 電話越しに、陽気な声が響く。

 神楽姉。正式名称日向ひゅうが神楽坂かぐらざか

 我が霧ヶ音邸の隣に住んでいる、いわゆるお隣さんという奴である女性である。お隣さんにして、今現在在籍している十字ヶ丘高校の教師の職に就いている。まあ、隣の家と表現したけれど、隣はそこそこ年季の入ったアパートであり、アパートをお隣さんと表現すると住人総勢六人が全員お隣さんとなるのだが、別に構わないだろう。しかし、お隣さん達はなかなかの曲者揃いであるとだけ言っておくとしよう。

「……神楽姉」

『どったの騎式? 水のトラブルでもあった?』

「鴎が死んでる……」

 簡潔に、目の前で起こっている惨事を伝える。

 これ以上でもこれ以下でもなく、ドンピシャでその言葉がまさにそれであるので、ボクは神楽姉にそう伝えた。報(告)連(絡)相(談)はどのような状況にあろうと大切な行為であるが故に、誰でもいい、伝えなくてはならないだろう。

『……んー、三十点。そのようなギャグは人を不愉快にさせることがあるので注意しましょう! ブラックジョークは基本的に使わない方がよろしくてよ』

 電話口からは、からからと笑う神楽姉の声。

 その声はいつも通りを装ってはいるが、奥からはガサゴソと物がせわしなく動く音が聞こえてくる。

「……それだけ」

 伝達すべき事柄を伝え終えたボクは、ふっと息を零して耳元から携帯電話を離す。

 最期にあちらから『すぐに向かうから待ってて。警察と救急にはこっちから連絡しておくから』なんて言葉が聞こえてきたために、心の底から安堵したボクは、

 ブツリッ。

 と、そこで電話を切った。

 神楽姉は普段だらしがない人だけれど、あれで人間であるために最も重要な、他人の多少の変化にも気がつくことの出来る人だ。野生の勘か何かだと思っている。何かを察してくれたらしい神楽姉は、すぐにでもこの場所へと駆けつけてくれることだろう。

 それまでの空白のひと時。

 逸らしていた目を戻し、扉を開けてもう一度鴎の姿を視認する。

「鴎……」直後。オーバーヒート状態になっていた脳味噌が、神楽姉との会話によって冷静さを取り戻してきていた。「……かも……め…………?」

 一歩下がる。

 唐突すぎる。

 二歩も下がる。

 理解が追いつかない。

 三歩目も下げた。

 朝はあんなにーー。

 駆けるようにして、居間から出る。

 扉を閉める。

 瞼を下ろす。

 何も見たくない。

 耳を押さえる。

 何も聞きたくない。

 これでなにもみえない。

 ぼくはなにもみていない。

「――――――ッ」胃が捩れるような不快感が腹部から喉へと迫り上げてきて、ボクは耐えきれずにその場で嘔吐する。一度吐いただけで治まる程度の嘔吐感ではなく、胃を絞られるような感覚に襲われながら、ボクは涙でぐちゃぐちゃに崩れた顔で胃の内容物を全て吐き出す。もう何も出なくなってからも、何かを絞り出そうと――もしかしたらその場で死のうと――喘ぎもがく。

「……夢か」

 唐突にそんな思考に至り、全力で自身の右側面の頬を握り拳で殴りつけた。

 痛かった。

 夢の中で痛みは感じないと言うし、どうやら夢ではないらしい。

 当然だ。あの不快感が全て夢によるものなのであれば、それは流石に夢の精度が高すぎるというものだ。ボクの擦れた脳味噌は、そんな中学生男子のような多感な想像力は持ち合馳せてはいない。ボクの夢なんてものは、記憶を再利用した低予算の作品である。

 口の中で血の味がしたから、その場で吐き出した。すると、白くて硬いものが血と共に吐き出された。どうやら、歯が折れてしまったらしい。父がいなくなった際に剣術道場をやめたとはいえ、肉体労働系のバイトを続けていることもあり、筋肉が予想以上に衰えていなかった。

 どうでもいいことか。

 なんとなく、もう一度扉を開いた。

 そこには変わることなく鴎が横たわっていた。

 全身に無数の切り傷、刺し傷が刻み込まれていた。

 傷の形状からして……包丁だろうか。

 血溜まりはないけれど、痕跡はある。畳が吸ったのだろう。

 その顔にいつもの笑顔はない。

 そこには絶望だけが色濃く映る。

「………………」

 吐瀉物が喉まで上り詰めてくる気配はない。

 血の匂い。

 染みついた赤。

 あの肉体の中に、これだけの液体が保管されていたのか……。

 感慨深い。

 嘘だ。ただただ不愉快だ。

 しかし、切り裂かれ、刺し殺された死体というものは、こんな人生なのだけれどなんだかんだ初めて見た気がする。ボクが見てきた死体は、大抵銃で撃ち殺されたものか、爆ぜてなんとか原型を留めているものとそれ以外だったから……こんな、古き悪しき日本の形での死体とは初対面である。初めては良いものだというけれど、新しい世界なんてものは今後出会いたくないものだ。

 魅力的なものでも見たように、瞳孔は開ききっている。されど感情は何も感じ取ることが出来ない、虚ろそのもの。虚ろが張り付いている。虚ろが向日葵を殺している。

 手はきつく握られている。

 ボクは染み付いた血溜まりの中に足を踏み入れる。鴎の亡骸に近付いて、その手をゆっくりと開いてやれば、その手に握られているものを見てハッとする。次いで、止めどもなく涙が流れ出す。そこには――そこには、朝、こいつの髪を結ってやった時に使った髪ゴムが握られていた。

 縋り付くように、

 助けを求めるように、

 握られていた。

 舌打ちをする。

 侵入。殺人。惨殺。

 殺人。惨殺。頭、身体、腕、脚、血、血、血、肉、肉、肉。

 何事もない一日を終えたボクは、夜の帳が下りきった頃――正確な時間は覚えていないけれど、多分八時くらいか、七時半くらいだったと思う――家に帰ることとなった。家庭を維持するためにアルバイトに身をやつしているボクとしては、この時刻での帰宅は日常茶飯事というものだ。ここから夕飯を作り、名の無い家事をこなし、風呂に入り、上辺だけの勉強をして眠る。睡眠時刻は学生としては一般的に、おおよそ毎日一時半くらいにはなっているのだろうか。よく毎日身体が持つな、とたまに思ったりもするが、これでも少し大変になり、かなり楽をさせてもらっているのだ。洗濯などは運転を始めておくと鴎が干しておいてくれるし、雨で濡れてしまうなんてことも少なくなった。やはり一人で暮らすよりも何人かのグループを作って暮らした方が、生活というものは豊かにそして楽になるのだろう。やはり人間というのは、群衆を作り生きる生物である、ということだ。以前、いつだったのかは定かではなく、もしかしたら何年か前のことだったのかも知れないのだけれど、鴎に「洋食を食べたいなぁ〜」、と言われた気がするので、魚屋のおっちゃんに鮭を頼んで、鮭のホイル焼きを作ることにした。この記憶がえらく前のことだったとしても、別に構わないだろう。夕飯は結局食べなくてはいけないわけだし、それが和食でも洋食でもそう大した違いでもないだろう。戸を引いて、帰宅する。鍵が掛かっていなかったのは、あいつが鍵をかけ忘れたのか鍵を開けといてくれたのか――なんて、考える暇などなかった。玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、違和感が霧のように全身に立ち込める。自身の体臭が変わることを自覚する。これでもボクは鼻は利く方であり、勘よりも感覚器官による確かに虚ろな不確定な違和感。「――ッ――ッ――」既に呼吸は荒れており、呼吸と無呼吸を幾度も繰り返す。穏やかとは違う感覚。勘ーーあるいは経験論。さもなくばトラウマ。家の中に充満する甘い香り。脳が蕩けるような甘ったるい香りが、ボクの精神を狂わせる。同時に、その香りがボクを過去へと引き戻す。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで仕方なく、怨んで呪って縊って引き裂いても足りないほどに憎むことが出来ている、あの場所と同じ、胸がむせ返るような嗅覚を刺激する臭気が、この家という空間そのものに満ち満ちているように錯覚する。手から滑り落ちる鮭の入ったマイバッグ。自然と歩み出す足は遠い過去にボクの意識から切り離されて稼働しているために、止めることは叶わない。頭の中では暴虐無人な理論と、弁えることを知らない論理、そして足を静止させろと言う命令文が展開され、叫び、そうして泥のように消滅していく。そのサイクルを永遠に繰り返している。メビウスというのか、はたまたウロボロスなのか。それは人それぞれというものだ。ただ確かなのは、そのサイクルを何度試したところで、ボクの身体はとうにボクのモノではなくなっているということだけだ。意思と同期せず、意識とは噛み合わない。居間までのたった五メートルほどの長くはない廊下はえらく遠く感じられ、身体は重く、頭の片隅では悪い想像ばかりがホツホツと浮上しては廻り続けている。遥か遠い国に向かっているような無窮感と心細さの渦に苛まれながらも進み続ける脚は止まることもなく、視界は無く、匂いは無く、音響は無く、触角は無く――遂には呼吸すらもそこには無くなった。そしてぼくは――――居間の戸の前に立つ。取手に指を掛け、ジクジクと痛む脳から言うことを聞かない身体に無理矢理命令をする。「その戸を開け」と、命令をする。頭は内側から破裂せんばかりの激痛を放つ。全身から異様と表現していいであろう、これこそが異様であるほどの汗が噴き出る。心臓が自壊せんばかりの早鐘を鳴らす。瞳は閉じることを知らない。耳鳴りは鼓膜を破壊せんばかりに頭を横一文字に突き刺す。胃が雑巾の如く絞られるような感覚が襲う。その全てを噛み潰して、そっと、いつもの調子の皮を被りつつ、さも平然と居間の戸を開く。もしもただの勘違いだった時のための、なけなしのプライドであったが……。目視。あるいは直視。一歩進み、二歩後ずさるボクが取った行動は、思いの外単純な、順当な、大体の人が行うであろうと思う、ドラマなんかとはまるで違う、ある種それこそが人間の本質であり、これこそが人間を人間を足らしめる行為である。ボクは自らの手で開いた居間の引き戸を、またもや自らの手を持ってして閉めたのだった。どうやら、慣れているものだと思っていたけれど、そういう環境から解放されると、人間というものは案外早く危機というものを忘れ、上部だけの平和というものを享受することが可能な存在だったようだ。汚いものには蓋をしろ、とはよく言ったものだ。汚いーーだなんて、あれを卑下することはボクにとって不愉快なモノであるものの、あくまで仮定としてあれを汚いと表現した場合、汚い記憶というものは心の奥底で封印されてしまうものなのだろう。フラッシュバックなのか走馬灯なのかは知らないけれど、過去の記憶が駆け巡る。善いも悪いも、正しいもの間違いも、正義も悪も、友情も裏切りも、血も肉も、薄いスープもパサパサの乾パンも。全てを、鮮明に思い出す。「……はぁ」自然とため息が漏れる。何かを思ってため息が漏れる。居間を見た時から、外界のことが全て遠い世界の話のように現実味なく感じられるボクなのだけれど、いやはや、やはり現実というものは見て、見定めてみないとわからないことの方が多い。この世は所詮嘘にまみれており、今こうして視認している世界も偽物で満ち溢れているのだけれど、それでも世の中自分自身の目で確認しなくてはいけないことも数多く存在している。そうしないと後に後悔したり、大事なところで覚悟が決まらなかったり――と。意を決する気なんて更々ないけれど、それでもボクはもう一度居間の戸を開き中を見た。居間を見た。 実際のボクの視線というものは、より一点に集中していたのだけれど、ここでは広義の意味で居間を見たのだと表現しておくとしよう。そこで、永倉鴎は死んでいた。素人の目から見ても、理解出来てしまうくらいに死んでいた。正視に堪えないほどに、死んでいた。着装していた可愛らしい衣服はズタズタに引き裂かれて、その服が包んでいた美しい白い肌にはいくつもの刺し傷、切り傷、痣の数々が残酷なまでに、そしていっそそういうものだったんじゃないのか、という疑念を抱かせるくらいに刻まれていた。折角朝結んでやった髪は、解けて乱れている。血液はとっくの昔に酸素を失っているのだろう。赤黒く変色している。新鮮な血液というものは、赤々と煌めいているものなのだ。頭から下へと視線を移動させていき、ここで何が行われていたのかを如実に語るその死体に不快感を感じる。いや、死体にではなく、犯人に感じているのだろうか。とにかく、ここは空気が濁っていて、気分が悪くなる。暖かく、臭く、とても人間の存在する空間でないことだけは頭が身勝手に理解する。そのせいで、マイナスな思考しか出来ないのだろう。「……あ……あ…………」口元を押さえて、悲鳴をあげそうになったのを必死に堪える。堪える必要なんて、これっぽっちもないのに、なぜだか、ボクは叫んではいけないと無意味の内にそう動いた。ここで叫ぶのは、鴎の死への冒涜のように思ったのかもしれない。顔。より細かく観察する。表情。鴎の表情鴎の――最後の表情。ここから窺えるのは……なんだろう? 苦痛で歪んでいるようでもあり、不快感に悶えているようでもある。まあ、歪んでいることには変わりない。最後まで、苦しいことに苛まれるとは、鴎も厄介な運命だったものだ。両手首には、合わせると片手を連想させる形の痣がある。そしてこの格好は……なんていうんだったか?確か……ああ、そうだ。大の字だ。床に大の字に転がっているところに、上から被さった何者かが両手首を拘束して――。掌に痛みを感じて反射的に視線を向ける。それは程のいい現実から目を逸らす題材であり、辛いことからは逃げればいいと考えている敗北者思想のボクは、構うこともなくその案に乗る。爪が皮膚を貫いて、掌から血が湧き出ていた。それは、ボクが生きている証明だった。どうでもいい。鴎の拳は強い力で握りすぎたのだろう。血が滲んでいる。普段非力な鴎が握られた手から血を滲ませるとは……人間は死の直前にすると普段よりも力を出せるというが、きっとそのせいなのだろう。口には布が詰められている。どこかで見たものであったが、頭が思い出すことを拒んでいるかのように記憶にブロックが掛けられている。少なくとも、この布の役割は鴎が叫んだり自殺できないようにするためのものだろう。「ふむ……」不思議と落ち着く。そして奇妙な納得。「取り敢えず神楽ねぇに報告するか」顎に手を当てて、今後どう動くべきなのかプランニングを立てる。ここで警察でも呼んだ暁にはボクが真っ先に疑われるだろうが、それは面倒だ。焦って近親者にことを報告するという方が、平均らしいだろう。今から思えば、この時既にボクの脳味噌の思考に使われている媒体の許容量は、決壊していることが窺える。混乱している、という奴だ。当たり前だろう。朝、なんてことはない会話をしたハウスメイトが、帰宅すると居間で殺されていたのだ。そんなもの、ボクでなければ気が狂う案件だろう。いや、ボクでも十分に気は狂うのだが……。「もしもし、神楽姉。騎式だけど……」ポケットから携帯電話を取り出して、登録してある神楽姉の携帯電話へと連絡を入れる。身に覚えがないのだが、なぜか登録者リストにもう一人増えており、危うくその人物に連絡しかけたが、この非常事態にそんな変な冷汗は必要なかった。『んー? どったのー、騎式ィ。ああ、夕飯の準備が十分だからそろそろ来いってことね、オッケー! 任せとけ! すぐ行くぜィ‼︎」電話越しに、陽気な声が響く。神楽姉。正式名称日向神楽坂。我が霧ヶ音邸の隣に住んでいる、いわゆるお隣さんという奴である女性である。お隣さんにして、今現在在籍している十字ヶ丘高校の教師の職に就いている。まあ、隣の家と表現したけれど、隣はそこそこ年季の入ったアパートであり、アパートをお隣さんと表現すると住人総勢六人が全員お隣さんとなるのだが、別に構わないだろう。しかし、お隣さん達はなかなかの曲者揃いであるとだけ言っておくとしよう。「……神楽姉」『どったの騎式? 水のトラブルでもあった?』「鴎が死んでる……」簡潔に、目の前で起こっている惨事を伝える。これ以上でもこれ以下でもなく、ドンピシャでその言葉がまさにそれであるので、ボクは神楽姉にそう伝えた。報(告)連(絡)相(談)はどのような状況にあろうと大切な行為であるが故に、誰でもいい、伝えなくてはならないだろう。『……んー、三十点。そのようなギャグは人を不愉快にさせることがあるので注意しましょう! ブラックジョークは基本的に使わない方がよろしくてよ』電話口からは、からからと笑う神楽姉の声。その声はいつも通りを装ってはいるが、奥からはガサゴソと物がせわしなく動く音が聞こえてくる。「……それだけ」伝達すべき事柄を伝え終えたボクは、ふっと息を零して耳元から携帯電話を離す。最期にあちらから『すぐに向かうから待ってて。警察と救急にはこっちから連絡しておくから』なんて言葉が聞こえてきたために、心の底から安堵したボクは、ブツリッ。と、そこで電話を切った。神楽姉は普段だらしがない人だけれど、あれで人間であるために最も重要な、他人の多少の変化にも気がつくことの出来る人だ。野生の勘か何かだと思っている。何かを察してくれたらしい神楽姉は、すぐにでもこの場所へと駆けつけてくれることだろう。それまでの空白のひと時。逸らしていた目を戻し、扉を開けてもう一度鴎の姿を視認する。「鴎……」直後。オーバーヒート状態になっていた脳味噌が、神楽姉との会話によって冷静さを取り戻してきていた。「……かも……め…………?」一歩下がる。唐突すぎる。二歩も下がる。理解が追いつかない。三歩目も下げた。朝はあんなにーー。駆けるようにして、居間から出る。扉を閉める。瞼を下ろす。何も見たくない。耳を押さえる。何も聞きたくない。これでなにもみえない。ぼくはなにもみていない。「――――――ッ」胃が捩れるような不快感が腹部から喉へと迫り上げてきて、ボクは耐えきれずにその場で嘔吐する。一度吐いただけで治まる程度の嘔吐感ではなく、胃を絞られるような感覚に襲われながら、ボクは涙でぐちゃぐちゃに崩れた顔で胃の内容物を全て吐き出す。もう何も出なくなってからも、何かを絞り出そうと――もしかしたらその場で死のうと――喘ぎもがく。「……夢か」唐突にそんな思考に至り、全力で自身の右側面の頬を握り拳で殴りつけた。痛かった。夢の中で痛みは感じないと言うし、どうやら夢ではないらしい。当然だ。あの不快感が全て夢によるものなのであれば、それは流石に夢の精度が高すぎるというものだ。ボクの擦れた脳味噌は、そんな中学生男子のような多感な想像力は持ち合馳せてはいない。ボクの夢なんてものは、記憶を再利用した低予算の作品である。口の中で血の味がしたから、その場で吐き出した。すると、白くて硬いものが血と共に吐き出された。どうやら、歯が折れてしまったらしい。父がいなくなった際に剣術道場をやめたとはいえ、肉体労働系のバイトを続けていることもあり、筋肉が予想以上に衰えていなかった。どうでもいいことか。なんとなく、もう一度扉を開いた。そこには変わることなく鴎が横たわっていた。全身に無数の切り傷、刺し傷が刻み込まれていた。傷の形状からして……包丁だろうか。血溜まりはないけれど、痕跡はある。畳が吸ったのだろう。その顔にいつもの笑顔はない。そこには絶望だけが色濃く映る。「………………」吐瀉物が喉まで上り詰めてくる気配はない。血の匂い。染みついた赤。あの肉体の中に、これだけの液体が保管されていたのか……。感慨深い。嘘だ。ただただ不愉快だ。しかし、切り裂かれ、刺し殺された死体というものは、こんな人生なのだけれどなんだかんだ初めて見た気がする。ボクが見てきた死体は、大抵銃で撃ち殺されたものか、爆ぜてなんとか原型を留めているものとそれ以外だったから……こんな、古き悪しき日本の形での死体とは初対面である。初めては良いものだというけれど、新しい世界なんてものは今後出会いたくないものだ。魅力的なものでも見たように、瞳孔は開ききっている。されど感情は何も感じ取ることが出来ない、虚ろそのもの。虚ろが張り付いている。虚ろが向日葵を殺している。手はきつく握られている。ボクは染み付いた血溜まりの中に足を踏み入れる。鴎の亡骸に近付いて、その手をゆっくりと開いてやれば、その手に握られているものを見てハッとする。次いで、止めどもなく涙が流れ出す。そこには――そこには、朝、こいつの髪を結ってやった時に使った髪ゴムが握られていた。縋り付くように、助けを求めるように、握られていた。舌打ちをする。侵入。殺人。惨殺。殺人。惨殺。頭、身体、腕、脚、血、血、血、肉、肉、肉。

 何事もない一日を終えたボクは、夜の帳が下りきった頃――正確な時間は覚えていないけれど、多分八時くらいか、七時半くらいだったと思う――家に帰ることとなった。家庭を維持するためにアルバイトに身をやつしているボクとしては、この時刻での帰宅は日常茶飯事というものだ。ここから夕飯を作り、名の無い家事をこなし、風呂に入り、上辺だけの勉強をして眠る。睡眠時刻は学生としては一般的に、おおよそ毎日一時半くらいにはなっているのだろうか。よく毎日身体が持つな、とたまに思ったりもするが、これでも少し大変になり、かなり楽をさせてもらっているのだ。洗濯などは運転を始めておくと鴎が干しておいてくれるし、雨で濡れてしまうなんてことも少なくなった。やはり一人で暮らすよりも何人かのグループを作って暮らした方が、生活というものは豊かにそして楽になるのだろう。やはり人間というのは、群衆を作り生きる生物である、ということだ。以前、いつだったのかは定かではなく、もしかしたら何年か前のことだったのかも知れないのだけれど、鴎に「洋食を食べたいなぁ〜」、と言われた気がするので、魚屋のおっちゃんに鮭を頼んで、鮭のホイル焼きを作ることにした。この記憶がえらく前のことだったとしても、別に構わないだろう。夕飯は結局食べなくてはいけないわけだし、それが和食でも洋食でもそう大した違いでもないだろう。戸を引いて、帰宅する。鍵が掛かっていなかったのは、あいつが鍵をかけ忘れたのか鍵を開けといてくれたのか――なんて、考える暇などなかった。玄関に一歩足を踏み入れた瞬間、違和感が霧のように全身に立ち込める。自身の体臭が変わることを自覚する。これでもボクは鼻は利く方であり、勘よりも感覚器官による確かに虚ろな不確定な違和感。「――ッ――ッ――」既に呼吸は荒れており、呼吸と無呼吸を幾度も繰り返す。穏やかとは違う感覚。勘――あるいは経験論。さもなくばトラウマ。家の中に充満する甘い香り。脳が蕩けるような甘ったるい香りが、ボクの精神を狂わせる。同時に、その香りがボクを過去へと引き戻す。嫌いで嫌いで嫌いで嫌いで仕方なく、怨んで呪って縊って引き裂いても足りないほどに憎むことが出来ている、あの場所と同じ、胸がむせ返るような嗅覚を刺激する臭気が、この家という空間そのものに満ち満ちているように錯覚する。手から滑り落ちる鮭の入ったマイバッグ。自然と歩み出す足は遠い過去にボクの意識から切り離されて稼働しているために、止めることは叶わない。頭の中では暴虐無人な理論と、弁えることを知らない論理、そして足を静止させろと言う命令文が展開され、叫び、そうして泥のように消滅していく。そのサイクルを永遠に繰り返している。メビウスというのか、はたまたウロボロスなのか。それは人それぞれというものだ。ただ確かなのは、そのサイクルを何度試したところで、ボクの身体はとうにボクのモノではなくなっているということだけだ。意思と同期せず、意識とは噛み合わない。居間までのたった五メートルほどの長くはない廊下はえらく遠く感じられ、身体は重く、頭の片隅では悪い想像ばかりがホツホツと浮上しては廻り続けている。遥か遠い国に向かっているような無窮感と心細さの渦に苛まれながらも進み続ける脚は止まることもなく、視界は無く、匂いは無く、音響は無く、触角は無く――遂には呼吸すらもそこには無くなった。そしてぼくは――――居間の戸の前に立つ。取手に指を掛け、ジクジクと痛む脳から言うことを聞かない身体に無理矢理命令をする。「その戸を開け」と、命令をする。頭は内側から破裂せんばかりの激痛を放つ。全身から異様と表現していいであろう、これこそが異様であるほどの汗が噴き出る。心臓が自壊せんばかりの早鐘を鳴らす。瞳は閉じることを知らない。耳鳴りは鼓膜を破壊せんばかりに頭を横一文字に突き刺す。胃が雑巾の如く絞られるような感覚が襲う。その全てを噛み潰して、そっと、いつもの調子の皮を被りつつ、さも平然と居間の戸を開く。もしもただの勘違いだった時のための、なけなしのプライドであったが……。目視。あるいは直視。一歩進み、二歩後ずさるボクが取った行動は、思いの外単純な、順当な、大体の人が行うであろうと思う、ドラマなんかとはまるで違う、ある種それこそが人間の本質であり、これこそが人間を人間を足らしめる行為である。ボクは自らの手で開いた居間の引き戸を、またもや自らの手を持ってして閉めたのだった。どうやら、慣れているものだと思っていたけれど、そういう環境から解放されると、人間というものは案外早く危機というものを忘れ、上部だけの平和というものを享受することが可能な存在だったようだ。汚いものには蓋をしろ、とはよく言ったものだ。汚い――だなんて、あれを卑下することはボクにとって不愉快なモノであるものの、あくまで仮定としてあれを汚いと表現した場合、汚い記憶というものは心の奥底で封印されてしまうものなのだろう。フラッシュバックなのか走馬灯なのかは知らないけれど、過去の記憶が駆け巡る。善いも悪いも、正しいもの間違いも、正義も悪も、友情も裏切りも、血も肉も、薄いスープもパサパサの乾パンも。全てを、鮮明に思い出す。「……はぁ」自然とため息が漏れる。何かを思ってため息が漏れる。居間を見た時から、外界のことが全て遠い世界の話のように現実味なく感じられるボクなのだけれど、いやはや、やはり現実というものは見て、見定めてみないとわからないことの方が多い。この世は所詮嘘にまみれており、今こうして視認している世界も偽物で満ち溢れているのだけれど、それでも世の中自分自身の目で確認しなくてはいけないことも数多く存在している。そうしないと後に後悔したり、大事なところで覚悟が決まらなかったり――と。意を決する気なんて更々ないけれど、それでもボクはもう一度居間の戸を開き中を見た。居間を見た。 実際のボクの視線というものは、より一点に集中していたのだけれど、ここでは広義の意味で居間を見たのだと表現しておくとしよう。そこで、永倉鴎は死んでいた。素人の目から見ても、理解出来てしまうくらいに死んでいた。正視に堪えないほどに、死んでいた。着装していた可愛らしい衣服はズタズタに引き裂かれて、その服が包んでいた美しい白い肌にはいくつもの刺し傷、切り傷、痣の数々が残酷なまでに、そしていっそそういうものだったんじゃないのか、という疑念を抱かせるくらいに刻まれていた。折角朝結んでやった髪は、解けて乱れている。血液はとっくの昔に酸素を失っているのだろう。赤黒く変色している。新鮮な血液というものは、赤々と煌めいているものなのだ。頭から下へと視線を移動させていき、ここで何が行われていたのかを如実に語るその死体に不快感を感じる。いや、死体にではなく、犯人に感じているのだろうか。とにかく、ここは空気が濁っていて、気分が悪くなる。暖かく、臭く、とても人間の存在する空間でないことだけは頭が身勝手に理解する。そのせいで、マイナスな思考しか出来ないのだろう。「……あ……あ…………」口元を押さえて、悲鳴をあげそうになったのを必死に堪える。堪える必要なんて、これっぽっちもないのに、なぜだか、ボクは叫んではいけないと無意味の内にそう動いた。ここで叫ぶのは、鴎の死への冒涜のように思ったのかもしれない。顔。より細かく観察する。表情。鴎の表情鴎のーー最後の表情。ここから窺えるのは……なんだろう? 苦痛で歪んでいるようでもあり、不快感に悶えているようでもある。まあ、歪んでいることには変わりない。最後まで、苦しいことに苛まれるとは、鴎も厄介な運命だったものだ。両手首には、合わせると片手を連想させる形の痣がある。そしてこの格好は……なんていうんだったか?確か……ああ、そうだ。大の字だ。床に大の字に転がっているところに、上から被さった何者かが両手首を拘束して――。掌に痛みを感じて反射的に視線を向ける。それは程のいい現実から目を逸らす題材であり、辛いことからは逃げればいいと考えている敗北者思想のボクは、構うこともなくその案に乗る。爪が皮膚を貫いて、掌から血が湧き出ていた。それは、ボクが生きている証明だった。どうでもいい。鴎の拳は強い力で握りすぎたのだろう。血が滲んでいる。普段非力な鴎が握られた手から血を滲ませるとは……人間は死の直前にすると普段よりも力を出せるというが、きっとそのせいなのだろう。口には布が詰められている。どこかで見たものであったが、頭が思い出すことを拒んでいるかのように記憶にブロックが掛けられている。少なくとも、この布の役割は鴎が叫んだり自殺できないようにするためのものだろう。「ふむ……」不思議と落ち着く。そして奇妙な納得。「取り敢えず神楽ねぇに報告するか」顎に手を当てて、今後どう動くべきなのかプランニングを立てる。ここで警察でも呼んだ暁にはボクが真っ先に疑われるだろうが、それは面倒だ。焦って近親者にことを報告するという方が、平均らしいだろう。今から思えば、この時既にボクの脳味噌の思考に使われている媒体の許容量は、決壊していることが窺える。混乱している、という奴だ。当たり前だろう。朝、なんてことはない会話をしたハウスメイトが、帰宅すると居間で殺されていたのだ。そんなもの、ボクでなければ気が狂う案件だろう。いや、ボクでも十分に気は狂うのだが……。「もしもし、神楽姉。騎式だけど……」ポケットから携帯電話を取り出して、登録してある神楽姉の携帯電話へと連絡を入れる。身に覚えがないのだが、なぜか登録者リストにもう一人増えており、危うくその人物に連絡しかけたが、この非常事態にそんな変な冷汗は必要なかった。『んー? どったのー、騎式ィ。ああ、夕飯の準備が十分だからそろそろ来いってことね、オッケー! 任せとけ! すぐ行くぜィ‼︎」電話越しに、陽気な声が響く。神楽姉。正式名称日向神楽坂。我が霧ヶ音邸の隣に住んでいる、いわゆるお隣さんという奴である女性である。お隣さんにして、今現在在籍している十字ヶ丘高校の教師の職に就いている。まあ、隣の家と表現したけれど、隣はそこそこ年季の入ったアパートであり、アパートをお隣さんと表現すると住人総勢六人が全員お隣さんとなるのだが、別に構わないだろう。しかし、お隣さん達はなかなかの曲者揃いであるとだけ言っておくとしよう。「……神楽姉」『どったの騎式? 水のトラブルでもあった?』「鴎が死んでる……」簡潔に、目の前で起こっている惨事を伝える。これ以上でもこれ以下でもなく、ドンピシャでその言葉がまさにそれであるので、ボクは神楽姉にそう伝えた。報(告)連(絡)相(談)はどのような状況にあろうと大切な行為であるが故に、誰でもいい、伝えなくてはならないだろう。『……んー、三十点。そのようなギャグは人を不愉快にさせることがあるので注意しましょう! ブラックジョークは基本的に使わない方がよろしくてよ』電話口からは、からからと笑う神楽姉の声。その声はいつも通りを装ってはいるが、奥からはガサゴソと物がせわしなく動く音が聞こえてくる。「……それだけ」伝達すべき事柄を伝え終えたボクは、ふっと息を零して耳元から携帯電話を離す。最期にあちらから『すぐに向かうから待ってて。警察と救急にはこっちから連絡しておくから』なんて言葉が聞こえてきたために、心の底から安堵したボクは、ブツリッ。と、そこで電話を切った。神楽姉は普段だらしがない人だけれど、あれで人間であるために最も重要な、他人の多少の変化にも気がつくことの出来る人だ。野生の勘か何かだと思っている。何かを察してくれたらしい神楽姉は、すぐにでもこの場所へと駆けつけてくれることだろう。それまでの空白のひと時。逸らしていた目を戻し、扉を開けてもう一度鴎の姿を視認する。「鴎……」直後。オーバーヒート状態になっていた脳味噌が、神楽姉との会話によって冷静さを取り戻してきていた。「……かも……め…………?」一歩下がる。唐突すぎる。二歩も下がる。理解が追いつかない。三歩目も下げた。朝はあんなにーー。駆けるようにして、居間から出る。扉を閉める。瞼を下ろす。何も見たくない。耳を押さえる。何も聞きたくない。これでなにもみえない。ぼくはなにもみていない。「――――――ッ」胃が捩れるような不快感が腹部から喉へと迫り上げてきて、ボクは耐えきれずにその場で嘔吐する。一度吐いただけで治まる程度の嘔吐感ではなく、胃を絞られるような感覚に襲われながら、ボクは涙でぐちゃぐちゃに崩れた顔で胃の内容物を全て吐き出す。もう何も出なくなってからも、何かを絞り出そうとーーもしかしたらその場で死のうとーー喘ぎもがく。「……夢か」唐突にそんな思考に至り、全力で自身の右側面の頬を握り拳で殴りつけた。痛かった。夢の中で痛みは感じないと言うし、どうやら夢ではないらしい。当然だ。あの不快感が全て夢によるものなのであれば、それは流石に夢の精度が高すぎるというものだ。ボクの擦れた脳味噌は、そんな中学生男子のような多感な想像力は持ち合馳せてはいない。ボクの夢なんてものは、記憶を再利用した低予算の作品である。口の中で血の味がしたから、その場で吐き出した。すると、白くて硬いものが血と共に吐き出された。どうやら、歯が折れてしまったらしい。父がいなくなった際に剣術道場をやめたとはいえ、肉体労働系のバイトを続けていることもあり、筋肉が予想以上に衰えていなかった。どうでもいいことか。なんとなく、もう一度扉を開いた。そこには変わることなく鴎が横たわっていた。全身に無数の切り傷、刺し傷が刻み込まれていた。傷の形状からして……包丁だろうか。血溜まりはないけれど、痕跡はある。畳が吸ったのだろう。その顔にいつもの笑顔はない。そこには絶望だけが色濃く映る。「………………」吐瀉物が喉まで上り詰めてくる気配はない。血の匂い。染みついた赤。あの肉体の中に、これだけの液体が保管されていたのか……。感慨深い。嘘だ。ただただ不愉快だ。しかし、切り裂かれ、刺し殺された死体というものは、こんな人生なのだけれどなんだかんだ初めて見た気がする。ボクが見てきた死体は、大抵銃で撃ち殺されたものか、爆ぜてなんとか原型を留めているものとそれ以外だったから……こんな、古き悪しき日本の形での死体とは初対面である。初めては良いものだというけれど、新しい世界なんてものは今後出会いたくないものだ。魅力的なものでも見たように、瞳孔は開ききっている。されど感情は何も感じ取ることが出来ない、虚ろそのもの。虚ろが張り付いている。虚ろが向日葵を殺している。手はきつく握られている。ボクは染み付いた血溜まりの中に足を踏み入れる。鴎の亡骸に近付いて、その手をゆっくりと開いてやれば、その手に握られているものを見てハッとする。次いで、止めどもなく涙が流れ出す。そこには――そこには、朝、こいつの髪を結ってやった時に使った髪ゴムが握られていた。縋り付くように、助けを求めるように、握られていた。舌打ちをする。侵入。殺人。惨殺。殺人。惨殺。頭、身体、腕、脚、血、血、血、肉、肉、肉。

 ……。……。……。

 ……。……。……。

 ……。……。……。

 永倉鴎。

 中学時代、いじめに遭い不登校となる。

 幼馴染であり、道を隔てた向かいに家のある隣人であったというだけで仲良くやっていたボクに、彼女はよく懐いてくれていた。両親共に仲が良かったように思うが、家にいることの少ないボクの両親をあちらの家庭がどのように感じていたのか、その真意の限りは知るところではない。

 中学時代のある日。ボクは鴎がいじめを受けている場面に運悪く遭遇してしまい、見過ごしてしまっては気分が悪いと考えいじめっ子の主犯である女子生徒に対し正義の名の下に人誅を与えた後、確か、そう――中学二年の春頃に他の街へと引っ越していったのだ。あの時は、「嵐みたいな奴だったな」とか、それこそ台風のひとつのように思っていたと記憶している。

 ボクが中学を卒業した後、春休みを自堕落に過ごしていた辺りで、親に『年末年始には帰ってくる』ことを条件に何かしらの約束を無理矢理に呑ませ、ひとり暮らしの許可を取ったとかなんとか。後に親御さんから聞いたところでは、ほとんど脅迫のようなものだったらしい。詳しくは聞いていないし、話してはくれなかったがそういうことらしい。

 そして、この家に来た。

 買い物から帰ってきたら、門扉の前に立っていた。

 父親はどっかに、母親は旅に出ていて、馬鹿みたいに大きな家で寂しくひとり暮らしていたこともあり、追い返すのも面倒だと部屋をいくつか貸してやった。家賃は取ると言って家に帰るように暗に促したのだけれど、あいつはしっかりと稼ぐ手段を持っていたので挫折した。


 そんなあいつが、

 こんなにも無残な姿で殺されていい理由とは一体どのようなものであるのだろうか?


 分からない。判らない。解らない。

 落ち着け、落ち着け。

 主観を信じるな。

 客観を有するな。

 傍観者たれ。

 傍観者たれ。

 老若男女知他親家容赦なく。

「……そんなわけには、いかないよなぁ…………」

 そんなわけには、いかない。

 そんな上手くは、いかない。

 いくらなんでも、無理はない。

 それこそが人生の基本材質。

 鴎の人生は、これからだというのに。まだ、ボクのように未来が潰えていないのに……。


 アノ時、ボクガ鍵ヲ閉メテイレバ。


「ごめんな、鴎……」

 鴎の体をそっと起こして、抱き締める。

「本当は、ボク、お前のことが好きだったらしい」

 腕の中で眠る鴎には、およそ体温と呼べるものが存在していなかった。更に強く抱き締める。まだ乾いていなかったらしい鴎の肉体内の血液が、着ていた亜麻色のコートに付着した。しかし汚れただなんて思わない。元は肉体の一部だったのだ。汚れたと思うことは、生への冒涜だろう。

 殺人犯は、何を思ってこいつを殺したのだろうか?

 殺人犯は、何の権利があってあいつを殺したんだ?

 憎まれるような奴じゃなかった。

 殺されるような奴じゃなかった。

 殺されるような奴は、ボクの方だった。

 殺されるべき存在は、ボクの方だった。

 部屋が荒らされている様子がないところを見るに、現金目当ての押し入り強盗ではないだろう。その方がまだ救いはあったというのに、明らかなまでの殺人意志がここにはある。

 ………………。

 ああ、重いなぁ。

 この間まで、もう少し軽かった鴎の体が、今ではとても重く感じる。ボク一人ではとても支えきれないほどのーー苦悩。苦痛。絶望。恐怖。激痛。失望。懺悔。後悔。後悔。後悔。後悔。

 怖い、怖い、怖い、怖い。

 また、孤独だ。

 ボクは、独りぼっちだ。

 十歳の時に、母が旅に出た時や、

 十二歳の時、父に連れられて行った中東の国で仲良くなった友人とでも言うべき彼女が眼前で地雷を踏んで突然消え去った時と良く似た恐怖。孤独への恐怖。拠り所が無くなる恐怖。

 ボクはーーひとりだ。

 四方が真っ黒の壁に囲まれた部屋の中で、大切にしていた光を失ったような不安感。不安心感。不安定感。

 絶対的な――孤独。

 ひとりは嫌だ。

 ひとりは怖い。

 ひとりは寂しい。

 ボクを一人にしないでくれ。

 こんなところにいたくない。

 ………………いや。

 ボクをひとりにしてくれ。

 ひとりでいれば、もうこんな痛みを感じなくていいのだから。

 ひとりであれば、もうこんな想いをしなくてもいいのだから。

 何のために生まれてきたのだろう?

 ボクは一体、何をするために生まれてきたのだろうか?

 少なくとも、こんな痛みを感じるためではないはずだ。

 こんな思いをするくらいなら、死んだ方がマシだった。生まれてくるべきじゃなかったんだ。生まれてくる必要なんて、全くなかったんだ。生まれるのだとしても、草や花として生まれたかった。

 なんだか、全てが間違いに思えてきた。

 生まれてきたことが、間違いに思えた。

 育ったことが、間違いなんじゃないか。

「…………」

 いっそのこと、死ねば楽なのかもしれない。

 あ、そうか。

「死のっかな」

 自分でも驚くほど素直に、そう思えた。

 一切の捻りも捻くれもなく、そう思うことができた。

 ボクが終わってしまえば、後に残ることはボクには無関係なことだ。

 心中する者の気持ちが、少しわかった。

 少々異なるものの、理解することが出来たと思う。

 これはこれで、乙なものだ。

 さて、ではどうやって死んだものか?

 いいや、この際だ。鴎とお揃いで、包丁で何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も自分の身体を刺して死んでみるとしようかな。

 よし、そうしよう。

「………………」

 さてと、それじゃあ、ここら辺で後悔は終わらせておこうかな。

 ボクは鴎の身体をそっと元あったように戻し、立ち上がる。動くくことすら億劫ではあったが、ゆっくりとした動きで玄関で落としてきた鮭を拾いに行く。神楽姉が来るのだし、どうせお腹を空かせていることだろう。少し遅くはなるが、最後に夕飯でも作り残しておいてやろう。

 関係ない、関係ない、関係ない。

 いや、今から作り始めても警察やら何かが来るから死ねなくなるか。

 関係ない、関係ない、関係ない。

 ならば、腹の中身を全て吐き出してしまったために空腹だ、お茶と菓子でも食べておこう。確か、クッキーがあったはずだ。プレーンだったはずだけれど、別に食べられるものならば何でもい良い気がした。紅茶は鴎が好きだから、大型のペットボトルでいくつか買いためていたはずだ。

「………………」

 玄関で拾った鮭を、冷蔵庫にしまっているところで、思いついた。

 死体となった鴎の前まで戻って行き、死体安置所の遺体に掛かるシーツのようにコートを脱いで鴎の上に掛けてやった。

「おやすみ、鴎」もう顔は見えない。「良い夢を」

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