第一周・人と共に生きる

二月三十日 水曜日

     二月三十日 水曜日


 その日は、二月の終わりとは言え冬であり、それ故に身体の芯まで冷えるような寒い日であった。朝の気温というものは夜の気温より冷えるというのはこの世の中にしては珍しく真実であるようで、その日の起床時の気温は〇度を下回り、なかなか布団がボクを離してくれないような朝となった。

 とは言っても、今日は水曜日である。学生であるボクは、学生としての職務内容に乗っ取り今日も今日とて登校しなくてはならないのだ。斯様に寒いというのに服装の自由を認めず、学校指定の制服のみ着用を許すだなんて、学校側は生徒に対しての心遣いが足りないとしか言えない。コートを着込んだところで足元の心もとなさは教師と言えど理解しているところであるだろうに……所詮、教師になろうだなんて夢を見る者は異常者しかいないのだろうさ。学校という狭いコミュニティの中で育つ自尊心と征服感、大層心地が良いものだろうさ。

 スヌーズにしていた目覚まし時計のアラームが鳴り、ぬくもり恋しく再びうたた寝に沈み込んでいた意識が引き戻される。

 厭々ながらに意を決し、目覚まし時計を止めて上体を起こす。しゃばしゃばした視界が気持ち悪く、眼を擦り同時に意識を醒ます。サハラ砂漠など彼方の地では今頃、夜だろうに。それなのになぜ起きなければならないのだろうか。そんな何の意味もない言い訳を頭の中に並べながらも布団から這い出て立ち上がり、ひとつ伸びをしてからクリアな視界で眼を開く。

 目を疑った。

 いや、言ってもボクの眼はロクでもないものなので、目なんて疑うだけ意味はない行為なのだけれど、しかしながら、「遂にここまで来たか」とでも言うべき光景を目にしてしまった。

 目の前には――

 ――深い闇に囲まれた砂漠の風景が映った。

 幾重にも続く砂の丘陵。

 満点に輝く星の大海。

 乾燥した大地が、

 見渡す限り延々に続いている。

 貧血を起こした時のように視界が霞み、立ち上がったばかりだというのにふらりとその場に倒れてしまった。酷く気分が悪い。まるで自動車などで酔った時ような気持ち悪さが胸にわだかまっている。両眼を覆う形で右手で光を遮断して、ささやかな休息をとる。深呼吸を三度ほどして肺の中の空気を冷え切ったものに変更して、頭の先まで冷え切ったくらいで閉ざした眼を開くと、しかしその景色は幻だったかのように跡形もなく消え去っていた。

 ……何が幻だ。あちらは夜だなんて無理な理論を立てて二度寝を試みたから、寝ぼけて夜の砂漠なんて見えたのだろう。馬鹿馬鹿しい。

 頭の中で正常な自分から罵倒を受けて、何をやっているのだろうというしっかりした意識がようやく目を覚ましてきたところでようやく再度立ち上がることに成功する。そんなこともあるだろう、と育ち続ける思考を強制的に完結させて、布団の上に脱ぎ捨てていたちゃんちゃんこを羽織り、居間へと移動する。

 旅館のような大きな木造建築の平屋に住んでいるため、居間に向かうにしても大きく分けてふたつのルートが存在するのだが、こんな寒い日に距離が短いからと言って縁側ルートを進むのは得策ではないと考え、廊下を通って居間へと向かう。しかし、廊下も十分に冷えていたのだが別の話だということにして割り切ろう。

 床板の木材が冷たい。

 なぜスリッパを履いてこなかったのかと、過去の自身に対して激高する。怒ったところで過去は変わらないというのに、愚かなことだ。

 居間に併設されている台所で朝食を作る前に、こたつの上に雑に置かれたリモコンを操作していつも通りになんとなくテレビを点ける。適当にニュースを垂れ流してリモコンを置き、炊飯器が予約で動き始めていることを確認する。点けたテレビではニュースが流れ、炊飯器は稼働する。これで炊飯器が動いていなかったら、米の無い食事となり、暴動が起こりかねないので命拾いした。

 ここ、冷桜市は字面の雰囲気からも察せるだろうが、他の都市で桜の咲く時期になろうが雪が解け残るほど寒い土地の地方都市である。前年は酷寒の日が続いたために、日陰では五月の後期まで残っていた。

 故に、無洗米を購入していないこの家では米を食すために研ぐ作業が必要だというのに、朝から米を研ぐだなんて行為をしようものなら腕一本を犠牲にする覚悟がなければ出来るはずがない。温水で研げばいいじゃないか、だって? 米は冷水のほうが美味しくなると聞いたことがある。

 と、そんな時だった。

 垂れ流しにしていたニュース番組で、キャスターの女性が興味深いことを口にした。

『昨夜未明、冷桜市の住宅から家族とみられる三人の遺体が発見されました。こちらが、現場となった住宅で――警察は現在発生している連続殺人事件として捜査を進めています』

「……また殺人事件か。最近多いな」

 朝食の卵焼きを畳みつつ、誰に言うでもないそんな言葉をこぼす。

 確か、ここ三日の間でもう四件になるだろう。それも全ての事件の被害者の身体が切り裂きジャックよろしく、ズタボロのぐちゃぐちゃに解体されているのだとか。切り裂きジャックがどのような犯行を犯したのかなんて知らないけれど、字面からして被害者をズタズタに切り裂いていたことだろう。少なくとも常人の犯行ではないはずだ。最低限、異常者であって欲しいと願う。

 いやまあ、こんな事件を異常だと思うボクの方が異常なのではないかと言われたら、一概に否定することは敵わないのだけれど。ボクが自身を正常だと考えていたとしても、他がボクのことを異常だと言えばボクは異常者になり得るのだ。自分の評価は他人が決める。他人の評価も他人が決める。

 そんなことよりも、この事件のせいで小学校では集団下校になったと近所のマダムに聞いたし、早々に解決して欲しいものだ。被害者とはいえ所詮他人だが、被害者家族からすれば彼ら彼女らは身内なのだし、犯人が見つかり、何らかの法で裁かれることを望んでいるだろうさ。ボクは身内本人ではないので知らないし興味ないけれど。

 まあ、本心から言えばどうでもいいのだけれど。

 どんな事件も巻き込まれなければ所詮は他人事なのだ。

 ボクは警察でなければ探偵でもない。ただの一般的な、平均的な高校生なのである。この間の期末テストの結果で赤点にはならなかったものの、十分恐怖に足る得点を叩き出してしまい、どうしたものかと考える高校二年なのである。

 そんなニュースに耳を傾けつつも、しっかりと手を動かし朝食の準備を進めて、粗方準備を終えたら、こたつの電源を入れてから居間を出て屋敷の奥へと向かう。あいつのテリトリーに入った直後から発生した上下左右を縦横無尽に、さながらトラップの如く散らばるケーブルの束を避けながらも歩を進める。

 最奥の部屋の扉を人間としてのルールに従い三度ノックしてから、それでいて返事を待たずに戸を引いて中へと侵入する。戸を引いた瞬間、内部からもわっとした熱気が際限なく漏れ出てくるが、いつものことだ。

 そんな中、一切の躊躇なくボクは最奥の部屋へと足を踏み入れる。すると案の定、あいつは六面モニターの全てに別のウィンドウを開いたままゲーミングチェアの上に座り、幸せそうに寝こけていた。その手には更にスマートフォンが握られており、腿の上にはタブレットが置かれている。

「おい、かもめ。起きろって、朝だぞ。眠り続けると飯が冷めて不味くなるぞ」

 椅子の上で無防備な格好で眠る鴎の肩を掴み、揺さぶる。

 結構激しく揺さぶったのだが、鴎は「うぅ……ん」と唸るだけで、目を覚ます気配はなかった。

「……………………」

 まあ、別にいいか。

 朝起こしに行ったという事実がここに出来たのだし、こいつは昨日も深夜までゲームをやっていたようなので起こさないでおいてあげよう。飯は作りたての温かさが一番美味しいものであるとボクは思っているのだけれど、こいつは別に電子レンジの熱でも大丈夫だと前に言っていたことだし気に病むこともない。

「起こしに来たからな、知らないぞ」

 ボクは最後にそう言い残して、居間へと戻るために戸を開く。廊下から冷気が流れ込み、暖房の掛かった部屋にいるからか、廊下の空気がより一層冷たく感じる。

「……ん? …………あれ? ………………騎式きしき?」

 部屋を出ようと戸を開いた際の冷気に反応したのか、鴎がようやく目を覚ました。柔らかな焦げ茶の髪をくしゃくしゃに掻きながら、女子としてそれでいいのかというような大きな欠伸をしてつつ、まどろんだ瞳でぼくを確認する。

「…………うぅ……朝かぁ。……朝は夜より寒いからねぇ…………」

「朝ご飯、出来てるぞ。ボクは先に居間に戻って準備しとくから、二度寝するなよ」

「うん。僕もついてく〜」

「そう。じゃあ、その前に何かしらの服を着ろ。そのまま部屋の外出たら、寒くて腹下すぞ」

 衣服を一切着用しない斬新なスタイルの服装――いわゆる産まれたままの姿でゲーミングチェアから立ち上がり、極寒の廊下へと出撃しようとする鴎をボクはそう言って静止させる。それに対して鴎は「うん〜」と気の抜けた返事を返して、チェアの背もたれにかけてあったパジャマのようなモコモコのセーターとズボンを直に着た。しかし、それではいささかの不安が残ったので、ボクは寝起きに羽織ったちゃんちゃんこをその上から羽織らせた。

「えへへ〜。騎式の香り〜」

 何を言っているのかわからないが、まあ、多様性だ。

「つーか何で裸なんだよ」

「暖房をね、つけてたらね、暑かったんだよ」

 予想の斜め上の答えが返ってきた。

 まあ、そういうこともあるのだろう。

 居間に移動してすぐに鴎はこたつへと吸収されていって、頭だけを外に出しつけっぱなしにしていたテレビを見始める。ボクは居間に併設されたキッチンで、未だ冷えていなかった朝食を皿に盛り付けて、その皿をお盆に乗せていく。大した代物でないにせよ、朝食というものはその日一日のエネルギーとなるのだから、摂取することに意味がある。中学二年生の時、父親が何らかのNPOで海外へと行ってからというもの、毎日三食作ってきたので約四年。まあ、そこそこな腕前になったのではないかと思っている。

 朝食を乗せたお盆を左右の手に持ち、隣の居間の中央に置かれたこたつへと運び、鴎の特等席と自分の席に置く。朝食が運ばれてくると鴎はこたつから生えてきて、枕にしていたお気に入りの柔らかいクッションをひとつジャンプして尻の下に滑り込ませた。

「それじゃあ、いただきます」

「いただきまーす」

 手を合わせ、見ず知らずの他人である生産者と犠牲になった生物達への感謝の言葉を口にしてから、朝食を食べ始める。やはり食前食後の挨拶というものは、人として重要な儀式であると思っている。

 我が家には食事中に会話をしてはいけないなどという堅苦しいルールはないので、箸を手に取りもの凄い勢いで朝食を掻き込んでいく鴎に対して適当な話題で話し掛ける。

「で、鴎。今朝はやけに眠そうだけれど、昨日は何をしてたの?」

「うん。昨日はね〜、十二時五十九分までの坂上田村麻呂ピックアップガチャを回してたんだよ」

「ああ、あれか。で、坂上田村麻呂は出たのか?」

「うん。何とか出したよ。完凸完成した」

「良かったな」

「うん!」

 ニコニコと笑いながら、鴎は嬉しそうに語る。

 ちなみに余談でしかないのだが、ボクも同じゲームをやっており、何度かそのガチャを回したのだが毛沢東が三人とピックアップ対象外の筈の楠木正成が来ただけで全ての石を使い切ってしまった。楠木正成は強いので嬉しいのだが、坂上田村麻呂が一人も来なかったのは痛手である。

「……出した……? お前、また課金したのか?」

「え? うん。そーだよ? あ、ああ〜! 大丈夫大丈夫、今回は無課金だからさ!」

 無課金=無理のない課金。

 オーケー?

「前みたいに『―――体は課金でできている』とかはやめてくれよ。最近じゃ暖房費馬鹿にならないんだから」

「わかってるよーだ。今回は前みたいに『運営のいと鬼畜なる主よ あらゆるフリクエ、ストクエ、ミッションをあたえたもう鬼畜なる主よ 我がミショコンプ、我が周回、我が成しうることをご照覧あれ さあ、ガチャとキャラを創りしものよ 我が我慢、我が宝石、我が成しうる"聖なる献身"を見よ この渾身の一射放ちし後に 我が豊満なる宝物 即座に底を尽きるであろう!』ってことはしてないから!」

 すげーよフル詠唱。

 初めて聞いた馬鹿馬鹿しい。

「ん? ああ、そうか。そろそろ家賃回収の日か。今回は課金するのとは別に取っておいたから大丈夫なんだなぁ、これが」

「それならいいんだ。お前は知らないだろうけど、先月の電気代とガス代、凄かったんだからな」

 こいつひとりでニ、三人分くらいのエネルギー資源を消費しているのだ。以前の電気代は、この家に二人で過ごしているにも関わらず、ご近所の四人家族の笹本さんのお宅の電気代を超えた金額だったからな。本当に勘弁してくれ。

 くわばらくわばら。

「ああ、そうだ。鴎、今日は学校行くか?」

「うんにゃ。モチのロンで行かないけど?」

 何が『モチのロンで行かないけど?』だ。

 永倉鴎という人物を言語化して説明すると、不登校の重症ゲーム中毒者、とでも言ったところであろう。学校に通っていないのに頭脳明晰であるため、親の名義で株という錬金術を使い上手く稼いでいるようだが、これでは将来が心配である。というか、高校自体がボクとの付き合いで受験を受けて、前日の二時までゲームをやり続けた結果合格した奴であるから、無理に登校させる必要はないのだけれど、社会性を身につけるのであれば、やはり学校とは行っておいて損のある場ではないと思う。

 しかし、人にはそれぞれ適した環境があり、それを自分と異なるという理由で無闇矢鱈に侵害するというのは精神犯罪に他ならないであろう。犯罪者には、なりたくない。

「そう。じゃあ、部屋に戻る時は必ずこたつの電源を消しとけよ。あと昼は作り置きしたのがあるから、それを食べてくれ。足りなかったらカップ焼きそばもあるから」

 ボクはいつも通りそう伝え、自分の分と鴎の分の両方の食器を流しに運んで水に浸け、居間を出た。鴎はぼけーっとテレビを見つつ、「うにぃ」とわかっているのかわかっていないのかハッキリしない返事をするだけだった。

 脱衣所の洗面器で歯磨きと洗顔を済ませて、自室へと戻る。そこで、これまで温めてきた、最早戦友とすら表現できようパジャマとの一時の別れを迎え、学ランに着替えて、昨日準備をしておいた鞄を持つ。クローゼットからコートを取り出して、鞄と共に握る。

 登校準備を整えて居間に戻ると、鴎が座布団を二つ折りにし枕の代わりにして寝っ転がりテレビを見ていた。そんな鴎の近くに鞄とコートを置いて、手早く食器を洗ってしまう。この時手の水分をしっかり取っておかないと、外に出た後で激しい痛みに襲われるので注意しなくてはならなかったりする。

 鞄を回収して、コートを羽織る。

「行ってくる」

「うぃ。いってらっしゃーい。自宅警備は任せろ!」

「うん、任せた」

 そんな他愛のない問答をして、ボクは居間を出る。

 冷え切った廊下を歩いて玄関へと移動して、そこでスニーカーを履く。下駄箱の上に置いてある手袋を両手に嵌めて、磨りガラスがはめられた横開きの戸を開いて外へと出る。鍵は後で鴎が部屋に戻る寄り道として閉めててくれるので、いつも掛けることはない。

「いってきます」

 誰に言うわけでもなくもう一度そう呟き、ボクは敷居を跨いだ。

 冷酷な外気に触れる部分を極限まで減らしているものの、それで尚、肌寒さを感じさせる外界に対して、多大な呆れの感情が芽生える。

 四日前に降った雪が未だ溶け残る道を辿り、ボクは私立十字ヶ丘高校へと足を進めた。

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