奇刻の都市
白井戸湯呑
前置き
『悪』とは
「物語において存在する悪。存在しなくてはならない悪。その悪を、ボクは悪だなんて思えない――あるいは、思えないだけなのかもしれないです。そのキャラクターが意思を持って行うその行為が、一般的に間違っていると言えることのほうが多いことは無論のこと認識しています。しかし、でも、されど、しかしながら―――その行為を《悪》の一言でまとめてしまうのは、いささか気遣いや配慮といったものが欠如していると思うんですよ」
そうだろうか。
それは、偽善というものではないのだろうか。
多くのものに危害を加え、暴虐の限りを尽くす者を『悪』と呼ばずして、それを一体何と表現するのだろうか。いくらあちらに意思があったとしても、多数に迷惑をかけて少数に利益をもたらすのであれば、それはれっきとした『悪』なのではないだろうか。私に都合の悪いものは、根こそぎまとめて悪なのではないだろうか。
なぜなら『正義』の対義語は『悪』なのだから。
「一般常識的にはそうなのだけれど、ボクは、《正義》の対義語はまた別の《正義》だと思います。まあ、これは使い古された表現であり、ボクのごく個人的な考えでありながら世間一般に流布されている偽言の一種なわけですが、それは一度置いておいて――好きの反対は嫌いではなく無関心であるように、正義の反対は正義であるのだと、身をもって体験させられる出来事があったんです。《悪》という腫瘍は一方から見た自分勝手な格付けであり、どちらにも与することのない第三者からすれば、それぞれに正しいと信じる正義をぶつけ合っているだけの、極めて滑稽なアトラクションなんです」
そういうものなのか。
そういうものなのだろうか。
確かに、一般的に『悪』という格付けをしている側は、自らにメリットとなる物事がないからこそ、その事象を『悪』だと批判する。先の私のように。しかし、相手側からすれば、自身の行動こそが正しい行為なのだと信じているため、それは相手にしてみれば『正義』とも言い換えることが可能なのだろう。一人称同士では、自分の掲げる正義と対を成す存在――つまり『悪』でしかないのだが、無関係な者からすれば、それはお互いの『正義』をぶつけているだけなのだろう。さながら、無関係な者同士の喧嘩の如く。
ああ、確かにそれならば――
――一理あるのかもしれない。
それも、どちらにも付くことのない、どちらにも付くことなんてない絶対の第三者。第三者として状況を俯瞰的に観測することしか赦されない不可侵存在からの言葉だと思うと、重みが違う。それでしかない彼からの言葉だと思うと、この身に科される重量感が異なる。今までの考えなんてまるで真理を射ていなかったのではないかと思うような、絶対的な安定感。成る程、これこそが『悪』というものなのだろう。
しかし、もしも『正義』と『悪』の分類がそういうものなのだとしたら、この世に『悪』など存在しないのだろうか?
「そんなことはないですとも。そんな甘くはないんですよ。《悪》は存在します。自分と違う考えを持つ存在――それがこの世の《悪》というものです。それこそが、世間一般的に語られる《悪》です。うん、本当に明解ですね。その通りです。まったく、単純なものなんですよ。さながら中学生男子の如く、ってね」
つまり、『悪』は一人称にしか存在しない、ということなのだろうか。
共通悪は、あり得ならざるものだと。
「まあ、多くに目を向けるのであれば、考えを共にする三人称も入るのですが、その他が何を考えているかなんて人間である限りわかるはずがないですし。結論としては一人称内のみに存在するイマジナリーロジックなのではないでしょうか。けれど、夢も希望もないことを言ってしまえば――いやさ、夢も希望も皆殺しにするようなことを言えば、《正義》も同様に、一人称にしか存在しないイマジナリーロジックですよね。どちらかを理解してしまったら、その時点で絶対的な第三者ではなくなってしまうから。公平でなく、等価ではなくなってしまいます」
では、他人の心の声を聴いてこそこそと自分のためだけに生き延びている私は、はたして『悪』なのだろうか。
それとも、『正義』なのだろうか。
「さあ、そんなものは知りませんし、知ったことではありませんよ。《正義》なのか《悪》なのか、なんて、結局は勝ったほうが決めるものですから。この場合は生き残った方、ですかね。言ってしまえばこれも世間一般に流布されている偽言の一種ではありますが、致し方ありますまい。勝利者のルールの適応化……戦争とか、良い例なのではないでしょうか。もしも仮に、貴女がその生き方で社会の荒波を生き残った暁には、貴女のその生き方は《正義》と化す。文字通りに化けるんです」
それは、そうなのだろう。
物語において悪役を悪役だと感じるのは、先代に人類がそれを『悪』とし生き、生き残ったために、その子供の育成過程の洗脳時に無意識的に世間一般の常識として刷り込まれ、広がり、今を生きる私をもその茨の森に囚えているのだろう。「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」という、「どっちも小麦使っとるじゃろがい‼︎」的な突っ込み待ちとしか思えないアホの子な名言を残したマリー・アントワネットがもしも逃げおおせて生き残っており、その後に反乱を沈下したならば、それは正しい言葉となっていただろう。最終的に民衆が処刑に成功したため、それこそが『正義』となっただけの話だろう。まあ、マリー・アントワネットに関しては、実際そんな言葉は吐いてはいないとも言われているのだが……それこそ、敗者が『悪』となった確固たる例なのかもしれない。
あの台詞を放ったのが、もし好景気の時だったならば、群衆はどのような反応を示したのだろうか?
そんなことを考えた私の心中を察したかのように、珍しく彼は笑顔に顔を歪めて言い放つ。
「結局人は、自分のためにしか動けない」
なんて。
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