エピソード26
響さんの大きな手が私の頬に触れる。
頬から伝わってくる温もりに大きな安心感が広がっていく。
もう一度だけ漆黒の瞳を見つめてから私は目を閉じた。
近付いてくる気配に鼓動が高鳴る。
唇に感じた温もりと柔らかい感触。
その感触を感じたのは一瞬だけだった。
でも、気配が遠退いていく訳じゃなくて、その存在感は間近に感じる。
それと同時に、私は強い視線も感じていた。
再びその気配が近付いて来た時、私の後ろで物音がした。
咄嗟に閉じていた瞳を開くとそこには私を通り越し、その先に視線を向けている響さんが視界に映った。
その表情には驚きと困惑の色が広がっていた。
「……響さん?」
「……」
私が声を掛けても響さんは答えようとはしない。
……っていうか、声が出せないようだった。
『あら、お邪魔だったかしら?』
背後から聞こえてきた楽しそうな声で、私は全てを理解した。
「……なんでこのタイミングなんだよ……」
響さんが呟いた小さな声を私は聞き逃さなかった。
恐る恐る振り返ってみると、そこには椿さんが満面の笑みを湛えて立っていた。
椿さんの手には四角いお盆がしっかりと握られていてその上には焼酎のボトルやアイスが載っていた。
『綾ちゃん、いっぱい食べて飲んでる?』
椿さんは、そう尋ねながらテーブルに近付いてきた。
「……あっ……はい。お料理、とても美味しいです」
『そう、お口に合って良かったわ。そろそろビールじゃなくて焼酎がいいんじゃないかと思って持ってきたんだけど……お邪魔だった?』
椿さんはさっきまで響さんが座っていた席に腰を下ろすとキラキラと瞳を輝かせながら私の顔を覗き込んだ。
「えっ!?……いえ、全然大丈夫です!!」
必要以上に大きな声で答えてしまった私に椿さんはクスクスと笑いを零した。
『ところで、響』
椿さんは私から響さんに視線を向けた。
「……はい」
『なんでこんなに部屋は広いのに綾ちゃんにベッタリくっついてるんだい?』
「……えっと……それは……」
『まさか、人の店でイチャついてたんじゃないだろうね?』
「……」
『ここはイチャつく店じゃなくてお酒とお料理を楽しむ店なんだけどね』
「……そうですね」
『ちゃんと分かってるの?』
「もちろんです」
『……その割には料理にもビールにも殆ど手を付けていないみたいだけど?』
椿さんは目の前にある小皿と生ビールのジョッキに視線を向けた。
「……」
『……』
困った表情を浮かべた響さんとニコニコと楽しそうな椿さん。
それは例えるなら蛇に睨まれた蛙って感じで……。
またしても、私は響さんの意外な一面を見ることが出来た。
「……椿さん」
『うん?』
「……もう勘弁してください」
『あら、もう降参なの?つまらないわね』
「……椿さんには敵いませんよ」
『当たり前じゃない。伊達にあんたより長く生きてるわけじゃないんだから』
「……そうですね」
『……という訳で年寄りは若者に労わってもらわないといけないから一緒に飲ませてもらおうかしら』
そう言って椿さんは3つのグラスにいそいそとアイスを入れ始めた。
「……椿さん」
『うん?』
「……最初から飲む気満々だったでしょ?」
『えっ!?なんで分かったの!?』
「だって、それ椿さんが大好きな焼酎じゃないですか」
そう言って響さんが指差したのは焼酎のボトルだった。
『相変わらず変なところにだけは気付く男だね』
「恐れ入ります」
響さんはにっこりと笑みを浮かべてそう答えると、椿さんの前にあったお盆を自分の方に引き寄せた。
「自分が作りますよ」
慣れた手つきでアイスの入ったグラスに焼酎を注ぎ始めた。
それを見ていた私はハッと我に返った。
「私が作ります!!」
慌てて手を伸ばそうとすると……。
「今は仕事中じゃないんだから気を使うな」
響さんの声が私の手を止めた。
「……でも……」
『そうよ。綾ちゃん、今日は響にホスト役をやってもらいましょう』
椿さんまでもが私ににっこりと微笑んだ。
「……はい」
2人の言葉に私は渋々手を引っ込めた。
「……そう言えば、綾は椿さんに料理を教えて欲しいらしいですよ」
響さんがマドラーでグラスの中をかき混ぜながら思い出したように口を開いた。
『あら、それは嬉しいお願いね。私は、お昼過ぎから深夜まで毎日ここにいるからいつでもいいわよ。綾ちゃんが時間のある時にいつでもいらっしゃい』
「本当にいいんですか?」
『え、もちろんよ』
「ありがとうございます!!」
「良かったな、綾」
「はい!!」
◆◆◆◆◆
こうして、私と響さんと椿さん。
3人の宴は日付の変わる少し前まで続いた。
響さんと椿さんのやり取りが面白くて私は涙が零れそうになるくらい笑った。
『また、いつでも遊びに来てね』
椿さんは優しい笑顔で私と響さんを見送ってくれた。
お店を出る時、赤い暖簾がお店の中に入れてある事に私は気付いた。
……いつ仕舞ったんだろう?
確か、私達がお店を訪れた時は外に出してあったはずなんだけど……。
そう思った私は隣を歩く響さんに尋ねた。
「私達がお店に行った時、暖簾って外に出てましたよね?」
「ん?……あぁ、そうだな」
「……ですよね」
「暖簾がどうかしたのか?」
「さっきお店の中に仕舞ってあったからいつ片付けたのかなって思って……」
「……多分、俺達が店に入ってすぐだ」
「えっ?」
「……いつもなんだ」
「……?」
「いつも、椿さんは俺が店に行くと開店休業にしてくれるんだ」
「開店休業……ですか?」
「あぁ、気を遣ってくれてるんだと思う。だから、俺がこの街で誰にも気を遣わずに飲めるのはあの店だけなんだ」
……。
……あぁ、そうか……。
響さんは有名な人だから、どこにいても知り合いに会う確立が高いんだった。
それが、気心の知れた知り合いばかりならいいけど……。
響さんの知り合いはそういう人ばかりじゃない。
……あの日もそうだった。
私が響さんに同伴をしてもらった日。
あの日も響さんがいる事を知ってわざわざ部屋を訪れた人がいた。
……名前は……。
……あれ?
なんだったっけ?
……山……違うな。
……川……これも違う。
……高……あっ!!
高藤だ!!
……てか、思いっきり呼び捨てにしてたけど、この人は私よりも年上だった……。
この人は多分、響さんとは気心の知れた知り合いじゃないような気がしたんだ。
なんとなくだけど……2人のやり取りを見てそう感じた事を私は思い出した。
「椿さんのお店は響さんにとって大切なお店なんですね」
「あぁ、そうだな」
今、私の隣を歩いてる響さんは帽子とサングラスで変装している。
深夜って言っても、この時間の繁華街はまだ人も多い。
もし、サングラスと帽子が無かったら響さんが注目を浴びるのは必須だ。
……今でも違う意味で多少の注目は浴びてるけど……。
それでもまだマシな方だと思う。
そんな事を考えている私の頬を心地いい風が撫でた。
「……もうすぐ夏ですね」
「あぁ、そうだな」
ジメジメとした鬱陶しい梅雨が過ぎたら開放的な夏がやってくる。
夏が来たら、この繁華街は昼夜を問わず今以上に活気付く。
……夏の間は響さんとここを一緒に歩く事は出来なくなるかもしれない……。
きっと変装なんかしたら暑くて堪らないだろうし……。
私はそんな事を考えながらふと行き交う人達に視線を向けた。
私が向けた視線の先には楽しそうな笑顔が溢れていた。
そんな人混みの中で私はふと視線を止めた。
背の低い女の子。
背の低い彼女は人混みに埋もれてしまいそうなのに、圧倒的な存在感を放っていた。
腰近くまであるストレートの長い髪。
夜の空のように黒い髪にシルバーのメッシュ。
それは、私に闇夜に輝く月を想像させた。
まっすぐに前を見据える瞳には意思の強さと憂いを帯びていた。
周りに視線を向けたけど友達らしい子はいなかった。
たくさんの人で溢れかえっている繁華街を颯爽と、そして凛とした表情で歩く彼女から私は視線を逸らせなくなっていた。
正面から歩いてくる彼女と私の距離はどんどん縮まっていく。
まっすぐに前に向けられている彼女の視線。
……10メートル。
……5メートル。
……3メートル。
……2メートール。
彼女が私の近くに来た時、私は気付いた。
……あっ、泣きぼくろだ……。
彼女の印象的な瞳の傍にあるほくろ。
私にはそのほくろがとても色っぽく見えた。
あまりにも私が見つめ過ぎた所為か、すれ違う寸前に彼女はチラッと私の顔に視線を向けた。
……ヤバっ!!ガン見し過ぎた!?
もし、私が知り合いでもない女からこんなにガン見されたら決していい気はしない。
もし、機嫌が悪かったら『……なに見てんのよ!?』って言うかもしれない。
……って事は、彼女から文句を言われたとしても全面的に私が悪いって事で……。
……もし、何か言われたら逆ギレしてみてもいいかしら?
そんな考えが一瞬のうちに頭を過ぎった。
絡み合う視線。
こんな時に絶対に自分から視線を逸らせないのは、負けず嫌いである私の本能の所為なのかもしれない。
彼女の唇が微かに動いた。
……だけど、彼女の口から言葉が発せられる事はなかった。
微かに口角が上がり……一瞬、微笑んでいるかのようにも見えた。
でも、それは一瞬の事で彼女は私から正面に視線を戻すと私の横をすり抜けるように通り過ぎた。
「綾?」
その声で我に返った私は、響さんの顔を見上げた。
「……えっ?」
「どうした?知り合いか?」
響さんは後ろを振り返っていた。
その視線の先には……多分あの子の後姿がある。
「……いえ、知り合いではないんですけど……」
「うん?」
「彼女から視線が逸らせなかったっていうか……」
「……」
背後から私の顔に視線を戻した響さんは不思議そうな表情を浮かべていた。
「……何かに似てるような気がしたんですよね……」
「似てる?じゃあ、やっぱり知り合いじゃねえのか?」
響さんの言葉に記憶を辿ってみても私の知り合いにあんな子はいなかった。
私にとって気心の知れてる女友達と言えば凛ぐらいだけだし、溜まり場に顔を出す女の子達とも違う。
……じゃあ、なんで私は彼女から視線を逸らせなかったんだろ?
夜の闇夜に浮かぶ銀の月を思い浮かばせる髪の色。
意志の強そうな憂いを帯びた瞳。
一人でいても凛とした雰囲気を纏い颯爽と歩く姿。
人混みに埋もれる事の無い圧倒的な存在感。
その姿は彼女の小さな身体を何倍も大きく感じさせていた。
……。
……。
……あっ……。
「……狼だ……」
「狼?」
私の口から零れ落ちた言葉を響さんが拾い上げた。
「……何かに似てると思ったら……昔、図書館の本に載ってた狼に……」
私の脳裏に鮮やかに浮かんだのは、幼い頃に本で見た一匹の狼だった。
銀色の大きな月に照らされたその狼は切り立った崖の上から一面に広がる地上を眺めていた。
月が放つ光を一身に浴び銀色に輝く美しい毛並み。
地上を見下ろすその眼には意志の強さと憂いを帯びていた。
凛とした立ち姿。
その姿には威厳が溢れていた。
そんな狼を見て幼いながらも私は見惚れてしまった事を思い出した。
「……狼か……」
響さんの呟くような声を聞いて私は現実に引き戻された。
……正直……しまった!!と思った。
すっかり自分の世界に入ってしまっていた私は突拍子もない言葉を口にしてしまったような気がする。
人が溢れ返る繁華街ですれ違った人をマジマジと見つめて『何かに似てる』って散々悩んだ挙句に“狼”だなんて……。
第一、狼に似ていると言われても……。
響さんにしてみれば『は?』とか『こいつ大丈夫か?』って感じだと思う。
……だけど、響さんは私が思っている以上に大人だった。
「……また、会えるといいな」
響さんの大きな手がクシャっと私の頭を撫でた。
「えっ?」
「……また、会いたいんだろ?」
……会いたい?
……私が?
……あの子に?
……。
……。
……確かに……。
もしまた今度、彼女と会う機会があるならその時は少しでいいから話をしてみたい気がしないでもない。
今まで、同性の子にこんな感情を持ったのは凛以外には初めてで、自分でも全く気付かなかったけど……。
「……そうですね。また、会えるんなら会いたいです」
そう答えた私の右手を響さんの長い指が絡め取った。
響さんは私が思っている以上に大人で……
私が思ってる以上に私を理解してくれている。
私は右手に絡みつく指をギュっと握り返した。
胸の奥がほんわかと温かい。
初めて感じる心地よさに私は身を委ねた。
この時の私は知る術もなかった。
“狼”に似ていると思った彼女とまた再会する事も……。
その彼女と深い絆を持つ事も……。
そして、その絆が私にとってかけがえのない大切な人にも繋がる事も……。
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