エピソード25

さっきよりも少しだけ和やかになった室内。

……とは言え、ピリピリと緊迫していたのは私だけで、響さんはさっきも今も優しく穏やかな雰囲気を崩してはいない。

響さんがビールにほとんど手を付けていない事に気付いた私は尋ねてみた。

「飲まないんですか?」

「ん?……あぁ、緊張しててそれどころじゃなかった」

「緊張!?響さんがですか!?そんな風には見えませんでしたけど?」

「そうか?俺も一応、緊張する事はあるんだが……」

響さんの言葉は全く説得力がなくて……。

「響さんが緊張?またまた、ご冗談ばかり」

私は吹き出した。「……参ったな」

響さんは困ったように苦笑いを零した。

「それより……」

咳払いをした響さんがタバコに火を点けながら口を開いた。

「……?」

私はビールのジョッキを口に運びながら

響さんに視線を向けた。

「ちょっと聞いておきたい事があるんだが……」

ジョッキに口を付け一口喉に流し込んだ私は尋ねた。

「なんでしょうか?」

「……あぁ、ちょっと気になる事があって……」

「はい」

「こういう事を聞くのは気が引けるんだが……」

……?

なんだろう?

……この違和感。

なんかいつもの響さんらしくないと言うか……。

「響さん」

「うん?」

「聞きたい事があるならなんでも遠慮なく聞いてください」

「……あぁ、そうだな。じゃあ、遠慮なく聞くぞ?」

「え、どうぞ」

私は静かにジョッキをテーブルの上に置いてから響さんに視線を向けた。

「和樹って男がいただろ?」

「和樹?……あっ!!もしかしてアリサの友達の和樹ですか?」

「あぁ、その和樹だ」

頷いた響さんを見て私は考えた。

……和樹と私の関係は……。

和樹はちょっと馴れ馴れしいけど悪い人ではない。

この前、アリサと和樹のお店に飲みに行った時もすごく楽しかったし……。

だから、“友達”だと言おうかと思ったけど、たったの1回だけ、しかも数時間しか会ってない人を友達と言うのは図々しいかもしれない。

そう思った私は

「和樹はBARの店長さんだから私との関係は“店長”と“客”ですかね?」

そう答えてみた。

「そうか」

「はい」

「じゃあ、瑞貴は?」

「瑞貴?」

「あぁ」

「瑞貴は大切な友達です」

私の顔を見つめていた響さんがフッと表情を緩めゆっくりとタバコの煙を吐き出した。

「……大切な友達か……」

「はい」

「そいつらはそうは思ってないはずだけどな」

そう呟くように言った響さんの声はとても小さくて私の耳に届く事はなかった。

「えっ?」

聞き取れなかった言葉を聞き直そうとした私に

「ライバルは多い方が楽しいかもな」

響さんは、意味不明な言葉を発した。

「……はい?」

その意味が全く理解出来ず首を傾げる私に

「……でも、俺は結構ヤキモチを妬く方なんだけどな」

またしても意味不明な言葉を発した。

それは、私に言っているというよりも独り言を呟いているようだった。

「なぁ、綾」

「なんでしょうか?」

「確かに俺はお前と真剣に付き合っていきたいと思っている」

「はい」

「でもな、お前はまだ若い」

「……?」

「お前は今、限りない可能性をその両手に掴んでいるんだ」

一言、一言をゆっくりと話す響さん。

その瞳はとても真剣だった。

「俺の気持ちがその可能性を壊してしまう事が心配なんだ」

「……響さん……」

「俺の存在がお前にとって足枷[あしかせ]になってしまうかもしれない」

「足枷?」

「俺が生きている世界は普通の世界じゃない事はお前も知っているな?」

「……はい」

響さんが言っているのは

響さんのお仕事の話。

そう分かった私は頷いた。

「この世界は外の世界の人間から見たら独特な世界なんだ」

「独特なんですか?」

「あぁ。お前は、俺達がどんな生き方をしてるか知ってるか?」

……どんな生き方?

それって……響さんを含めた“ヤクザ”さん達がっていう意味よね?

……。

……。

……あれ?

そう言われてみると……

全然分からない。

ただひとつだけ言えるのは

“不必要に関わってはいけない”

という漠然とした恐怖感に似た危険信号みたいなモノがあるだけ。

どうして近付いちゃいけないのか?

その理由すら分からない。

何をしている人達なのか

それがどんな世界なのか

分からないどころか想像すらつかない。

「……すみません。分かりません」

「だよな」

「……はい」

「それが普通の反応だ」

「……?」

「言っただろ?独特な世界だって」

「はい」

「だから分からなくて当然なんだ」

「……はぁ……」

「別に無理をして知る必要はない」

「……」

「ただ、知っていて欲しいのは決して安全な世界ではないという事だけだ」

「……安全じゃない?」

「あぁ、味方になってくれる人間も増えるが同時に敵も増える」

「……」

「敵が増えるという事はお前に危険が及ぶ可能性が高くなるという事だ」

「わ……私にですか!?」

「あぁ、申し訳ないが……」

困ったような表情を浮かべた響さん。

「……だが……」

「……?」

「お前の事は俺が全力で守る」

……。

……。

もし、私が危険に曝される事があっても、響さんが全力で守ってくれるなら

全く心配なんてしなくていいじゃない?

単純にそう思った私は

「ありがとうございます」

お礼の言葉を発した。

「いや……それは当たり前の事だから別に礼をいう必要はねえんだが……」

少しだけ照れたような戸惑ったような表情を浮かべた響さんは

咳払いをひとつして言葉を続けた。

「1つだけ約束をして欲しい」

「約束!?」

「あぁ」

私かは微かに嫌な予感を感じた。

……また、“自分からケンカを売ってはいけない”みたいな約束じゃないでしょうね?

「……その約束っていうのは……」

恐る恐る尋ねた私に響さんは真剣な表情で答えた。

「外を歩く時は、絶対に1人にならないで欲しい」

「へっ?」

響さんが口にした“約束”の内容に私は思わずすっと呆けた声を出してしまった。

「……それって、1人で外を歩くなって事ですか?」

「そうだ。いつもは学校の登下校時は友達と一緒か?」

「えっ?……はい」

「じゃあ、その友達に俺の携帯の番号を教えて何かあったらすぐに俺に連絡するように伝えてくれ」

「……」

「それから、もし1人で登下校しないといけないような事があったら連絡をしてくれ」

「……連絡ですか?」

「あぁ、すぐに迎えに行く」

……!?

迎えに!?

それって冗談よね!?

今時、小学生だって1人で登下校するじゃない。

高校生の私が1人で登下校出来ないなんて……。

冗談に違いない。

……でも、響さんの表情は真剣だった。

「……そんなに危険なんですか?」

「100%危険が及ぶ訳じゃない。だが、100%安全だとも言えない。1%でも危険がある限り用心をするに越した事はない」

「……そうですか」

「窮屈な思いをさせてしまって悪いな」

申し訳なさそうな響さんの表情に私は胸が締め付けられた。

「分かりました。早速、明日友達に話しておきます」

「……助かるよ」

響さんの表情がふと緩んだ。

響さんと付き合う事を選んだのは私。

私は響さんの職業を知らなかった訳じゃない。

知っていて付き合う事を決めたんだ。

“独特な世界”だと響さんが表現したその世界が安全な世界じゃないっていうのは

その世界がどんな世界なのか分からない私にも何となく理解できる。

正直、今までとは異なる生活に戸惑いはあるけど

それは響さんが申し訳なく思うような事じゃない。

その世界がどんな世界なのか私には全く分からない。

しかも、響さんが言うにはかなり危険な世界らしい。

だけど、響さんの傍にいたいと思ったのは私だ。

“付き合う”とか“彼氏彼女”とか“男と女”とか……。

そんなのは、よく分からないけど

単純にこれから先、響さんの傍にいれるという事実が私は嬉しかった。

今まで自分の知らなかった世界に足を踏み入れることに戸惑いがないと言ったら嘘になる。

戸惑いも

臆する心も

不安もある。

だけど、未知の世界に対する興味があるのは事実で……。

そんな複雑な感情を抱いている私に

響さんは、テーブルの上にあった小さな箱を手に取ると私の目の前に差し出した。

「……」

その箱をぼんやりと見つめていると響さんは静かだけどよく通る低い声に言葉を載せて話始めた。

「これを渡そうかどうかかなり迷ったんだが……」

「迷った?それはどういう意味ですか?」

「これが目に見える足枷になるような気がしてな」

「えっ?」

足枷?

私はマジマジと小さな箱を眺めた。

「……あの、響さん」

「うん?」

「これ、開けてみてもいいですか?」

「もちろん」

私は目の前にある箱を手に取るとゆっくりと蓋を開いた。

箱の中に在るそれは眩い程の重厚な光を放っていた。

金色の光を放っていたのはシンプルなデザインの指輪。

その指輪を見た瞬間、私はある事を思い出した。

……あれ?

……これって……。

私は響さんに視線を向けた。

テーブルに肘を付き左手を顎から頬に添えるようにしていた響さんの薬指。

その指で存在感をアピールするように光輝いているゴールドのリング。

私はそのリングと手の中にある箱に収まっている指輪を交互に見た。

私の視線の動きに気付いたらしい響さんは、気まずそうな表情で鼻の頭を掻いている。

そんな響さんに、私は恐る恐る尋ねてみた。

「……この指輪って、もしかして……」

“お揃いですか?”

そう尋ねようとした私の言葉を遮り

「ガラじゃねえよな?」

響さんが照れくさそうに呟いた。

いつもは冷静で落ち着いた雰囲気を纏った響さんが……。

今、私の目の前で明らかに動揺している。

……。

……。

……どうやら響さんは、今、ものすごく恥ずかしいらしい……。

何気に冷静さを装っているように見えるけど

さっきから仕切りに鼻の頭を掻いているし

落ち着かないのか、視線が慌ただしく動いていて

耳が微かに赤くなっているような気もする。

いつもの冷静な響さんも好感が持てるけど

こんな響さんも嫌いじゃない。

込み上げてくる笑いを飲み込みながら私は口を開いた。

「とても嬉しいです」

「えっ?」

「一応、私も女ですから大切な人とお揃いの持ち物が増えるのは嬉しいですよ」

「そうか?」

「え」

「……喜んで貰えて良かった」

ふと表情を崩した響さんを見て

私は無性に響さんをいじめたい衝動に駆られた。

「……それに……」

「ん?」

「また、響さんの意外な一面を見れましたし……」

「意外な一面?」

「え、とても可愛らしい一面です」

「……可愛らしい……」

その言葉の意味を理解するかのように

私を見つめながら呟いた響さんの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。

「……!!」

言葉を失った響さんに私は我慢出来なくなり吹き出してしまった。

両手で口を覆っていても漏れてしまう笑い声。

「……綾……」

そんな私に響さんは頭を掻き諦めたような表情を浮かべた。

……もうそろそろ笑いを止めなきゃ……。

そうは思っても私の笑いは収まるどころか余計に込み上げてくる。

「す……すみません……」

一応、謝ってみたりもしてみたけど

その言葉さえも笑いに邪魔されて途切れ途切れになってしまった。

いつまでも、笑い続ける私を響さんは苦笑しながら見つめていた。

ひとしきり笑いようやく落ち着いた私に響さんは穏やかな口調で話し掛けた。

「その指輪を受け取ってくれるか?」

「もちろんです。ありがとうございます」

私は箱から指輪を取り出し、それを灯りに翳して指に嵌めようとした。

「まだ指には付けなくていい」

響さんの声に私は動きを止めた。

「えっ?」

「まだ指には付けなくていい」

再びはっきりとそう言い放った響さん。

私は、響さんの言葉の意味が理解出来なかった。

……指輪って指に嵌めるものじゃないの?

疑問を感じつつ私は尋ねた。

「……それはどういう意味ですか?」

「お前がそれを指に付けるまでにはまだ時間が必要だ」

「時間……ですか?」

「あぁ。これから、俺と一緒に過ごす時間が増えれば必然的に俺がいる世界を知る事も多くなると思う」

「はい」

「その世界を見てからお前が大丈夫だと思ったらその指輪を指に付けて欲しい」

「……響さん……」

「……それに……」

「……?」

「解決しないといけない問題も幾つかあるみたいだしな」

「解決しないといけない問題?」

「あぁ、瑞貴の事だ」

「瑞貴……ですか?」

「お前は大切な友達だと思っていてもあいつはそうは思っていないんじゃねえか?」

「……それは……」

響さんの言葉を私は否定出来なかった。

瑞貴は大切な友達。

私は瑞貴の事をそう思ってる。

だけど、瑞貴も私を友達だと思っているかと尋ねられたら……。

私はその質問を肯定する事も否定する事も出来ない。

瑞貴と私の間にあるお互いを想う気持ちに温度差があるのは確実だ。

「綾、お前は瑞貴の事を大切な友達だと思っているんだよな?」

響さんは確認するように私に尋ねた。

まっすぐに見つめる漆黒の瞳。

その漆黒の瞳は真剣だった。

張り詰めた空気が緊張感を生む。

緊迫した雰囲気に押し潰されそうになりながらも

これだけははっきりと答えなきゃいけないと思った。

私は小さく深呼吸をした後、響さんをまっすぐに見つめ返して答えた。

「瑞貴は大切な友達です」

「そうか」

響さんが穏やかな声で緊迫した雰囲気を破った。

「はい。でも……」

「……?」

一度は緩んだ響さんの表情が再び緊張感を帯びた。

その表情を見て私は生唾をゴクリと飲み込んだ。

そして、意を決して言葉を吐き出した。

「私は瑞貴と寝た事があります」

……多分、私は一生忘れないと思う……。

この時の響さんの表情を……。

怒っている表情でもなく

驚いている表情でもなく

哀しそうな表情を……。

私には分からなかった。

どうして、響さんがそんな表情を浮かべたのか……。

響さんの表情を見て、今までで一番強い胸の痛みが走った。

響さんにこんなに辛そうな表情をさせるなら

……言わなければ良かったのかもしれない。

私は小さな後悔に襲われた。

「……瑞貴は友達なんだよな?」

響さんが絞り出すような声で私に尋ねた。

「……はい」

「瑞貴に対して恋愛感情はねえんだよな?」

「……ありません」

「じゃあ、どうして瑞貴と寝たんだ?」

「……」

「……綾?」

「……」

「……言いたくねえか?」

私に尋ねる響さんの口調は決して怒ってる風でも責めてる風でもない。

穏やかで

優しくて

いつもと変わらず

心地良く耳にひびく低い声。

私が答えられなかったのは

これ以上響さんに辛そうな表情させたくなかったから……。

「話したくないなら、無理に話さなくてもいい」

「……」

「俺は、誰の言葉よりもお前の言葉を一番に信じる」

「……響さん……」

「ちゃんと理由があるんだろ?」

「……はい」

「なら、それでいい」

響さんは小さく頷くとタバコを取り出し火を点けた。

「……響さん」

「うん?」

「私の事、軽蔑しますか?」

「軽蔑?」

「好きでもない男に身体を許した事のある私を響さんは軽蔑しますか?」

響さんは指に挟んでいたタバコを口に運び大きく吸い込んでから

ゆっくりと紫掛かった煙を吐き出した。

響さんのその一連の動作を私が見つめていたのはほんの数秒だったけど

響さんの言葉を待つ私には途方もなく長い時間に感じた。

「……俺がお前を軽蔑なんて出来る訳ねえだろ」

タバコの先端にある燃え尽きた灰を灰皿に落としながら響さんがようやく口を開いた。

「……えっ?」

「誰にだって過去はあるんだ」

「……」

「綾に過去があるように俺にも過去はある」

「……」

「俺の過去は決して人様に自慢出来るようなもんじゃねえ」

「……」

「でもな過去はどんなに変えようと思っても変える事は出来ない」

「……」

「俺はお前の現在[いま]しか知らない」

「……」

「これから、未来を知ることは可能かもしれないが、過去を全て知る事は出来ないんだ」

「……」

「だから、俺はお前が言いたくないなら過去についてはあれこれ詮索しない」

「……」

「……まぁ、気にならないと言えば嘘になるけどな」

「……」

「お互いに過去があるからこそ今があり、それが未来へと繋がっていくんだ」

「……」

「今のお前に惚れて、共に同じ時間を過ごしたいという事は同時にお前の過去も全て受け入れていかなければいけないと俺は思っている」

「……」

「だから、俺はお前を軽蔑したりはしない」

「……」

「……例え、お前がどんな過去を抱えていたとしても俺はお前を軽蔑したりは出来ないけどな」

「……?」

「それが惚れた弱みってやつだ」

そう言って響さんは苦笑いをした。

私が思っている以上にこの人は大人で

私が思っている以上にこの人は懐が大きくて

私が思っている以上にこの人は温かくて

私が思っている以上にこの人は優しくて

私が思っている以上にこの人は他人の痛みが分かっていて

私が思っている以上にこの人は私の全てを包み込んでくれる人なのかもしれない。

もし、私が逆の立場だったら相手に対してこんな言葉を口に出来るのだろうか?

しかも、優しさを纏った穏やかな口調で……。

……。

……。

……多分、無理……。

仮定の場面を想像しただけでも胸の奥がザワザワして気分が悪くなる。

なんだろう?

このザワザワ感は……。

ザワザワというかモヤモヤというか……。

今まで感じた事のない感覚が胸の中に広がっていく。

黒くてドロドロとした塊みたいな感覚。

それが心の中にどんどん溜まっていき

やがて大きな塊になっていくように感じた。

私がその不快感が“嫉妬”だと気付くのに時間は掛からなかった。

仮定の想像で、在りもしない話に気分が悪くなり嫉妬までしている自分が信じられなかった。

何よりも信じられなかったのは、私が嫉妬心を向けていたのが想像上の響さんと寝た架空の女だった事。

私は湧き上がる不快感をグッと飲み込んだ。

そして、想像でいっぱいになった頭から全てを振り払おうとした。

冷静さを取り戻そうと小さく深呼吸を1つ。

「綾?」

そんな私を響さんが不思議そうに見つめていた。

「……怖かったんです」

「えっ?」

突然、言葉を発した私に響さんは驚いたように切れ長の瞳を丸くした。

もしかしたら、話さない方がいいのかもしれない。

流れ的にこのまま黙っていればこの話は終わったのかもしれない。

私が話す事で、余計に響さんに不快な思いをさせるかもしれない。

一瞬、そんな考えが脳裏を過ぎったけど……。

それでも、響さんには伝えたいと強く思った。

今、伝えなかったらこれから先も伝える事は出来ないような気がした。

響さんなら受け止めてくれる。

そんな甘えにも似た考えが在ったのも事実で……。

響さんに全てを話そう。

自分の中に渦巻いているいろんな感情を払拭するように私は言葉を声に載せた。

「……最初は一刻も早く大人になりたいと思ったんです」

「……」

「私は、自分の力では何も出来ない事に苛立ちを感じていました」

「……」

「そういう行為を経験すれば少しは自立した大人になれるような気がしていたんです」

「……」

「でも、実際は何も変わりませんでした」

「……」

響さんは何も話そうとはしなかった。

相槌を打つ事も

質問をする事も

私を蔑[さげす]む事もなく

ただ黙って私の話を聞いていた。

部屋の中で聞こえるのは私の小さな声と微かに流れる店内のBGMの音だけ。

時折、閉まった襖の向こうから水の音や食器の重なる音が聞こえてくる。

飲食店にしては、とても静かな空間。

だけど、私はその状況を心苦しいとか話難いとは思わなかった。

それは、私をまっすぐに見つめる響さんの瞳のお陰だったのかもしれない。

真剣な漆黒の瞳には温かさが含まれていた。

その温かさに包まれた私は素直に言葉を紡ぐ事が出来た。

「……それに私は瑞貴の気持ちを受け取れない自分に苛立ちを感じていたんです」

「……」

「彼は、独りで居場所の無かった私にたくさんのかけがえのないものを与えてくれました」

「……」

「親にも必要とされない私にまっすぐな愛情を示してくれました」

「……」

「それなのに私は彼の気持ちを受け止める事が出来なかった」

「……」

「彼の優しさに触れる度に胸が締め付けられるようでした」

「……」

「その行為を経験しても大人にはなれない事は分かっていたのに……彼に強く求められても抗えなかったのは、彼を傷付ける事で自分が傷付くのが怖かったからです」

「……」

「私は弱くて欲張りでズルい女なんです」

「……」

「響さんも瑞貴もどちらも失いたくなかった」

「……」

冷静に淡々と話しているつもりだった。

感情的にならないように気を付けているつもりだった。

だけど、言葉を発する度に喉の奥から熱いものが込み上げて来ていた。

鼻が詰まったように息苦しくて

目頭が熱くなる。

「いつまでもずっと2人の傍にいたいと思っていました」

「……」

……泣いちゃダメ……。

「本当は気付いていたんです」

「……」

「自分が恋愛を意識的に避けている事にも……」

「……」

「瑞貴に対する気持ちと響さんに対する気持ちが違う事にも……」

「……」

……泣いちゃダメ……。

「自分自身がそれに気付かないフリをしていたのは、2人が傍にいてくれる関係性が壊れてしまうのが怖かったから……」

……ヤバい……。

視界が霞んでボヤケた瞬間、私は咄嗟に瞳を固く閉じ俯いた。

意志に反して溢れてそうになった涙が零れないないように……。

その時だった。

私は真向かいにあった気配が動くのを感じた。

その気配がゆっくりと私に近付いてくる。

微かに聞こえる布が擦れる音。

その音が私のすぐ傍で消えた。

それからすぐに私は頭の上に心地いい重みと温もりを感じた。

「綾、話してくれてありがとう」

優しくて穏やかな低い声が私を包み込む。

“ありがとう。”

その言葉に、必死で堪えていた涙が溢れそうになる。

お礼を言って貰えるような話なんかしてないのに……。

私にはそんな言葉をもらう資格なんてないのに……。

響さんだってこんな話は聞きたくなかったはずなのに……。

それなのに響さんはいつもと変わらない優しさを私にくれる。

いつもはその優しさが嬉しいけど

……今は……。

今だけは苦しいくらいに胸を締め付けた。

でも、このくらいの苦しさは感じなければいけない。

……ううん、響さんを傷付けたんだから本当はもっと苦しまなければいけないんだ。

そう思うと自分が情けなくて惨めで……。

私は膝の上に置いていた手を強く握り締めた。

込み上げてくるのは幾つもの苛立ち。

情けない自分への苛立ち。

弱い自分への苛立ち。

惨めな自分への苛立ち。

そして、自業自得なのに涙が溢れそうになっている自分への苛立ち。

響さんを傷付けたのは私。

私が傷付けたのは響さん。

私が加害者で、響さんは被害者。

それなのに泣きそうになっている自分自身に腹が立つ。

他人に対してではなく自分自身に対しての苛立ちは発散の仕方が分からない。

他人に対する苛立ちならば自分の感情を相手にぶつける事も出来るのに……。

私は、やり場のない苛立ちを指先に込めた。

赤いネイルを纏った爪が掌に食い込む。

掌に走る痛み。

その痛みが徐々に脳に伝わってくる。

不思議な事に痛みを感じると少しだけ苛立ちが収まったような気がした。

そう気付いた私は指先に一層、力を込めた。

さっきよりも強い痛みが掌に走る。

痛みを感じている間は苛立ちを忘れる事が出来る。

私は、掌を力いっぱい握り締めていた。

「綾」

いつの間にか痛みだけに集中していた私はその声に驚いた。

身体が大きく揺れ、響さんの声で私は痛みだけの世界から現実へと引き戻された。

手元に落としていた視線を恐る恐る上げると

響さんの視線は私の手元に向けられていた。

自分に対する苛立ちに支配されていた私は、すぐ傍にいる響さんの存在をすっかり忘れていた。

握り締めている手は力が入りすぎて色が変わっている。

そんな私の手を見つめる響さん。

響さんの視線の先にある私の手は微かに震えていた。

……その時だった。

ゆっくりと響さんの両手が伸びてきて、壊れ物を扱うように私の両手を包み込んだ。

……温かい……。

響さんの手の温かさになぜか私はホッとした。

握り締めた手から自然と力が抜けた。

完全に力が抜けた拳を響さんはその長い指で解いた。

掌には爪の跡がクッキリと残っていた。

熱を持ちジンジンと痛むその跡を響さんは親指の腹で優しく撫でた。

「そんなに力を入れて、綺麗な手に傷がついたらどうするんだ?」

……私はこんなにも醜いのに……。

響さんは心配そうな声を出した。

まるで爪の跡を消そうとするように響さんの親指は私の掌を撫で続けていた。

しばらく続いた静寂の時。

その間中、響さんの顔を見る事が出来なかった私はずっと俯き、動き続ける指と大きな手を眺めていた。

あんなにどうしようもなく感じていた苛立ちはいつの間にか薄れていた。

少しだけ冷静な気持ちを取り戻した私の心には響さんの優しさがひしひしと伝わってきた。

その優しさにさっきまで必死で我慢していた涙が再び溢れそうになった。

「……なぁ、綾」

「……はい……」

「お前は人前で泣くのが苦手か?」

響さんの質問に私の手がピクッと動いた。

その微かな動きは私の手を包み込んでいる大きな手にも伝わったのは必然的で……。

私が答える必要は無かった。

「そうだよな。人前で泣く事は勇気がいるよな」

響さんは呟くようにそう言った。

そして、私の頭の上に載せていた手を後頭部まで撫でるように滑らせた。

後頭部に温もりを感じた瞬間

「……!?」

私は、響さんの身体に引き寄せられていた。

「こうすれば、お前が泣いているかどうかなんて誰にも分からないだろ?」

響さんの広い胸に全ての視界を遮られた真っ暗な世界。

そこで聞いた響さんの声はいつも以上に優しい声だった。

その優しい声を聞いた瞬間、私の我慢は限界に達した。

頬を流れ落ちる熱い雫。

それは止め処なく瞳から溢れ、音もなく頬を伝い零れ落ちていく。

「綾、焦る必要はないんだ」

背中と後頭部を撫でる大きな手。

「どれだけ時間が掛かっても俺は待てる」

全身を包む温もり。

「だから、お前が納得できる方法で瑞貴に伝えたらいい」

優しい声色。

「……でもな、1つだけ覚えていて欲しい」

「……」

もう、私は言葉を発することさえ出来なかった。

「自分の身体は大切にして欲しい」

その言葉に私の瞳からは熱い雫がより一層溢れた。

「お前が人の為に自分の身体を犠牲にする必要はないんだ」

「……」

「そうする事を俺は望んではいない」

「……」

「……多分、瑞貴も同じだ」

「……」

「お前に触れる事が出来るのは、お前が選んだ男だけだ」

「……」

「その決定権を持つのはお前なんだ」

「……はい……」

「それに、お前に気持ちがないのに身体を許しても瑞貴は喜ばない」

「……そうですね」

「もちろん、俺も例外じゃねえぞ」

「……えっ?」

「時には、強く拒絶する事も優しさなんだ」

「……」

「それで離れて行くような男なら所詮それだけの価値しかねえ男なんだ」

「……」

「本当にお前の事を大事に想っているならそのくらいの事で関係が崩れる事はねえよ」

「……そうなんですか?」

「あぁ、瑞貴はお前が認めた“大切な友達”なんだろ?」

「……はい」

「それなら、大丈夫だ。自信を持て」

「……分かりました」

響さんの腕の中で私は小さく頷いた。

そんな私を響さんは強く抱きしめた。

「なぁ、綾」

「はい?」

「お前は女王様でいていいんだ」

「……はっ?女王様ですか!?」

……女王様って……。

……。

……。

もしかして、SMの話かしら?

……。

……。

もし、そうならドSなのは響さんの方だと思うんだけど……。

だから、私は女王様にはなれないんじゃ……。

……まぁ、SかMかって聞かれたら私もS寄りかもしれないけど……。

突然の響さんの“女王様”発言に驚いた私はすっかり涙も止まってしまっていた。

「……響さん……」

「うん?」

「……女王様ってSMのお話ですか?」

「はっ!?」

「……」

……しまった……。

……どうやら違うらしい……。

完全に私は勘違いをしてしまったらしい。

響さんの反応でそう気付いてしまった私は慌ててその言葉を誤魔化そうとした。

「……いや……私の勘違い……」

「そうか」

……けど、響さんの言葉に遮られてしまった。

「……!?」

「綾にはそんな趣味があったのか」

「はい!?」

思わず私は響さんの胸に埋めていた顔を上げた。

そこには、納得したように頷いている響さん。

ちょ……ちょっと待って!!

なんでそんな話になっちゃってるの!?

……っていうか、ないし!!

私にはそんな趣味ないから!!

心の中で叫んではみたけど、それが響さんに聞こえるはずもなく……。

「正直、俺はSMには興味はねえけどお前がどうしてもって言うなら……挑戦してみるか?」

はぁ!?

いい!!

挑戦なんてしなくていいから!!

「ち……違うんです!!」

「ん?」

「ぜ……全然そんな話じゃなくて……あの……その……」

完全に私はテンパっていた。

「……綾、とりあえず落ち着け」

それが響さんにもしっかりと伝わったようで……。

響さんは私にジョッキを差し出してきた。

それを受け取った私は中身をゴクゴクと喉に流し込み大きく息を吐き出した。

「どうだ?落ち着いたか?」

「はい」

「それは良かった……で?」

「はい?」

「お前はSとMどっちなんだ?」

「そうですね、どちらかと言えばS寄り……って違うんです!!」

「そうか、Sか。困ったな」

響さんは本当に困ったていう表情を浮かべた。

「……!?」

「俺もどちらかと言えばSなんだが……まぁ、お前がどうしてもっていうならMに挑戦してみてもいい」

……!!

「だから違うんですってば!!」

「何が違うんだ?」

「私が言いたいのはSMに挑戦してみたいって話じゃなくて響さんが女王様って言ったからで……」

そう説明しながらふと響さんの顔に視線をむけると……。

……!?

……響さんは必死に笑いを堪えていた……。

……。

……もしかして……。

私、からかわれてたの?

「響さん!!」

思わず、私が大きな声を出した瞬間

「……ぶっ!!」

響さんは勢いよく吹き出した。

私の嫌な予感は見事に的中した。

楽しそうに大爆笑をする響さんを私は呆然と眺めるしかなかった。

「……冗談なんですね?」

「あぁ」

笑いながら頷いた響さんに多少イラっとしたけど、それ以上に私はホッとしていた。

「……響さんはどう頑張ってみてもMにはなれないと思います」

「そうか?」

「え、残念ながら……」

「どうしてそう思うんだ?」

「……だって……」

「うん?」

興味津々って感じの響さんに私は言った。

「響さんは正真正銘のドSですから」

「……ドS……」

「え、私をからかって楽しんでるでしょ?」

「バレたか?」

「はい」

「そうか。頑張って隠してるつもりだったんだがな」

「……全然隠せてませんでしたよ」

「それは残念だったな」

「残念ですね」

“残念”と言った割りには、響さんは全然残念そうな感じじゃなくて……。

どちらかと言えば楽しそうにさえみえた。

そんな響さんに私は苦笑するしかなかった。

「まぁ、“女王様”ってのは例えだ」

「例えですか?」

「あぁ、お前にはいつも気高くあって欲しいんだ」

「気高くですか?」

「そうだ。今の世の中、心の安い女はたくさんいる。年を重ねた時、お前にはそんな女にはなって欲しくないんだ」

「そうなる為にはどうすればいいんですか?」

「自分に価値があることを自覚する事だ」

「価値?」

「あぁ、お前はまだ気付いていないかもしれないが……」

「……?」

「お前は、価値のある女なんだ。その価値を自ら下げるような事はするな。例え、それが人の為であってもだ」

……響さんが私に伝えたい事はなんとなく分かった。

上手く説明は出来ないけど……。

要は、自分を大切にしろって事を伝えたいんだと思う。

それは、瑞貴の為にという理由で気持ちもないのに身体を許していた私に間違いを諭す言葉。

はっきりとそれを指摘しなかったのは……多分、響さんの優しさだと思う。

私を傷付けずに間違いに気付かせる為の気遣いだったに違いない。

「……もし、私がそういう女になったら……」

「ん?」

「私は響さんと釣り合うようになれるでしょうか?」

「当たり前だ……いや……」

「……?」

「お前は、今でも俺にはもったいないくらいの女だ」

少しだけ照れくさそうに……

だけどまっすぐに私を見つめるその漆黒の瞳に……

私の表情は緩んだ。

この日、私は強く決意した。

自分を大切にすることを……。

気高く生きることを……。

そして、響さんに釣り合う女になることを……。

……私は16回目の誕生日に響さんから大切な事を学んだ。

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