エピソード24
なんとか一大イベントを終えゲームセンターを出ると
いつの間にか外は陽が落ち暗くなっていた。
「腹、減ってねえか?」
さっき食べた食事が中途半端な時間だった事もあり空腹ではなかった私は答えた。
「まだ、お腹は空いてないです」
「そうか。じゃあ、飲みに行くか?」
響さんは、嬉しい提案をしてくれた。
「はい!!」
思わず嬉しい声を出してしまった私に響さんは苦笑した。
「お前は、本当に酒が好きだな」
「はい、お酒は大好きです」
「じゃあ、今日は思う存分飲むか?」
「はい」
私はニッコリと満面の笑みを浮かべた。
「ツマミが美味い店があるんだ」
そう言って響さんが私を連れて行ってくれたのは
繁華街のメインストリートから細い路地に入った所にある小さな小料理屋さんだった。
赤い暖簾を潜り店内に足を踏み入れると
『いらっしゃいませ』
元気な声が私達を出迎えてくれた。
和風の造りの店内。
暖色系の灯りに包まれたその空間は柔らかくて温かい雰囲気。
カウンターの中にいたのは着物の上に白い割烹着を着た年配の女の人だった。
その人は響さんの顔を見た瞬間
『響!!』
嬉しそうに表情を崩した。
……えっ?呼び捨て?
初めて響さんを呼び捨てにする人を見た私は驚きを隠せなかった。
呆然とその女の人を眺めていると
その女の人はカウンターの中から響さんの元へと駆け寄って来た。
『響、久しぶりじゃない』
その女の人は、そう言いながら響さんの腕をバシバシと叩いた。
「はい、ご無沙汰しています」
腕を叩かれながらも、笑顔で答える響さん。
『元気にしてたの?』
「え、お陰様で」
そんな、2人のやり取りを見ていた私は違和感を感じた。
……あの響さんが敬語を使ってる……。
……てか、このおばさん響さんを叩いてるんですけど!?
目の前で繰り広げられる信じがたい光景に私はひたすら固まったまま2人を眺める事しか出来なかった。
そんな私の存在に気付いたらしい女の人が
『あら?』
響さんから隣にいる私に視線を向けた。
『綺麗なお嬢さんね』
私を見つめるその瞳はとても優しい瞳だった。
「綾といいます」
私の紹介をしたのは響さんだった。
『そう、綾ちゃんって言うのね。私は椿。どうぞ、よろしくね』
差し出された右手。
私は戸惑いながらもその右手を握った。
小さなその手はとても柔らかくて、温かかった。
「綾は、今、雪乃の店で働いているんです」
『えっ?そうなの?』
椿さんが驚いた表情で私を見つめた。
でも、それは一瞬の事で……。
すぐに優しい表情に戻り
『雪乃も頑張ってるみたいね』
しみじみと呟いた。
「はい」
響さんが頷くと、椿さんは嬉しそうな笑みを浮かべた。
『そう、良かったわ。さぁさぁ、座ってちょうだい』
女の人がカウンターの椅子を指した。
「椿さん、今日は座敷にお邪魔してもいいですか?」
『え、もちろんよ。好きな席にどうぞ』
「ありがとうございます」
響さんは椿さんに軽く頭を下げ、店の奥にあるらしい座敷へと向かった。
『綾ちゃんも、どうぞ』
笑顔の椿さんに促されて
「はい」
私も響さんの後に着いて座敷へと向かった。
◆◆◆◆◆
畳が敷き詰められた部屋。
テーブルを挟んで響さんの正面に座った私は小声で響さんに尋ねた。
「……あの……」
「うん?」
「椿さんって、雪乃ママの知り合いなんですか?」
「あぁ、あの人は雪乃が独立して店を持つまで働いていたクラブのママだった人だ」
「えっ?クラブのママさん!?」
「今は引退してるけど、現役の頃はかなりの有名人だったんだぞ」
「そうなんですか!?」
「椿さんの店は、この街でもトップクラスの店だった。その店で雪乃は椿さんに水商売のやり方を1から教えてもらったんだ」
「そうですか。じゃあ、響さんもその頃からのお知り合いなんですか?」
「……知り合いというか……」
「……?」
「俺に説教をする唯一の人だな」
「えっ!?響さんに説教!?」
「あぁ、椿さんは俺がガキの頃からの付き合いなんだ」
「子供の頃から?」
「椿さんと俺のお袋が友達同士で、俺がガキの頃はよく家にも遊びに来てた」
「……なるほど……」
「椿さんは俺にとってお袋みたいな存在なんだ」
「だから、響さんにお説教が出来るんですね」
「あぁ。幾つになっても怖い存在だ」
そう言った響さんの表情は言葉とは裏腹に穏やかだった。
『響、何が怖いって?』
障子が開き突然登場した椿さんに
響さんの身体がビクっと揺れた。
「えっ……いや……その……」
動揺が隠せない様子の響さん。
そんな響さんはいつもとは全く違う感じで……。
いつもは堂々としている響さんが椿さんの前では幼い子供のように見えた。
2人のやり取りを見ているとなぜか心が温かくなった。
響さんと会話しながら椿さんはたくさんのお皿をテーブルに並べていた。
そのお皿には和食のお料理が美味しそうに盛り付けられていた。
白和え。
肉じゃが。
お魚の煮付け。
ひじきと大豆の煮物。
大根とイカの煮付け。
玉子焼き。
切り干し大根。
「……美味しそう」
思わず呟いてしまった私に
『たくさん食べてね』
椿さんは嬉しそうに微笑んだ。
「はい、ありがとうございます」
それから、椿さんは私から響さんに視線を向けると
「響もどうせ外食ばかりしてるんでしょ?たまには身体の事も考えてあげないと年をとって苦労するわよ」
まるでお母さんが子供に言うような口調で言った。
「はい」
困ったような表情で苦笑い気味に答える響さんもまるで子供みたいで……。
2人のやり取りはまさしく親子のやり取りみたいだった。
『飲み物はなににする?』
「俺は、生ビールで。綾は?」
「私も生ビールをお願いします」
『はい。すぐにお持ちしますね』
椿さんは優しい笑みを残して部屋を出て行った。
「響さんにも怖い人がいるんですね」
「まぁな」
「意外な一面を発見できました」
「そうか?」
「え」
「今度、ここに来る時は雪乃も連れて来よう」
「雪乃ママですか?」
「雪乃の意外な一面が見れるぞ」
「……それって……」
「椿さんは雪乃にも遠慮なく説教をするんだ」
「雪乃ママにもですか!?」
「あぁ、椿さんと雪乃のやり取りは俺と椿さんとのやり取りよりもおもしれえぞ」
楽しそうに笑う響さんを見て、私は無性に見てみたくなった。
雪乃ママの意外な一面は一体どんな感じなんだろう?
「じゃあ、今度来る時はぜひ雪乃ママも一緒にお願いします」
「あぁ、任せとけ」
私にとって楽しみな“約束”がまた1つ増えた。
◆◆◆◆◆
椿さんが生ビールを運んで来てくれて
私と響さんは乾杯をした。
グラスが重なった瞬間
「綾、おめでとう」
響さんが言った。
「えっ?」
動きを止めた私が響さんに視線を移すと
「今日、誕生日だろ?」
穏やかな漆黒の瞳が私を見つめていた。
「……なんで知ってるんですか?」
「ん?聞いた」
「誰にですか?」
「雪乃」
「雪乃ママ!?」
「あぁ、軽く脅してみた」
「えっ!?」
「冗談だ」
……。
……。
響さんが言うと全然冗談に聞こえないんですけど……。
……あれ?
ちょっと待って。
……っていう事は、もしかして……。
「響さん」
「うん?」
「もしかして、今日私を誘ってくれたのは誕生日だからですか?」
「えっ?……あぁ……まぁ……」
響さんは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
それは、響さんの癖の1つ。
照れている時、響さんは鼻の頭を掻く癖がある。
多分、これは響さん自身も気付いてなくて無意識の行動。
だから、言葉を聞かなくても私は響さんの優しい心遣いが分かった。
「ありがとうございます」
「……」
「とても楽しかったです」
「それは、良かった。でも、違うんだ」
「えっ?」
「確かに、誕生日だからその特別な時間を一緒に過ごさせて欲しいと思った。だけど、それだけじゃないんだ」
「それは、どういう意味ですか?」
「どうしても、今日話したい事がある」
「話したい事……ですか?」
「あぁ」
私は乾杯をしたまま手に持っていた生ビールのジョッキをテーブルの上に置こうとした。
「綾」
「はい?」
「話をする前にタバコを一本だけ吸いたい。いいか?」
「えっ?どうぞ」
なんで響さんはわざわざ私の了解を得たんだろう?
私もタバコを吸うんだから今更そんなに気を遣わなくてもいいのに……。
不思議に思いながらも、私はテーブルの端に置いてあった灰皿に手を伸ばし響さんの前に置いた。
「ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「お前も喉が渇いただろ?ビールが温くなる前に飲めよ」
「……でも、大切なお話があるんじゃ……」
「確かに大事な話だけど畏[かしこ]まって聞く必要はない。それに、その方が俺も助かる」
大事な話だけど畏まって聞く必要はない?
それって気楽に聞いててもいいって事?
……一体、どんな話なんだろう?
いろんな意味で話の内容が気になるけど……。
私が気楽な気持ちで聞いていた方が響さんは助かるらしい。
それなら……。
「すみません。それじゃあ、お言葉に甘えて頂きます」
「あぁ、どうぞ」
私は、響さんが頷いたのを確認してから
一度テーブルに置いたジョッキを再び両手で持ち
少しだけ掲げてから口に運んだ。
琥珀色の液体を口の中に流し込むと
冷たい感覚と泡の柔らかさ
そしてビール特有の香りと渋みが口内に広がり
それを飲み込むと炭酸の弾けるような感覚が喉を刺激する。
「美味しい」
思わず、顔が綻[ほころ]んだ私に響さんは、声を押し殺して笑っていた。
「響さん?」
「いや……本当に美味そうに飲むなって思って」
「美味しそうじゃなくて、本当に美味しいんですよ」
「あぁ、分かってる」
そう言いながらも響さんはまだ笑ってて……。
響さんが一度笑い出したら、しばらくは収まらない事は私も既に学習済みだから
「お料理も頂いていいですか?」
しばらくの間、ビールとお料理に集中させてもらう事にした。
「もちろん。たくさん、食えよ」
「はい、いただきます」
テーブルの上にたくさん並ぶお料理。
そのどれもが美味しそうだから
どれを食べようか迷ってしまう。
迷った挙げ句に出した結論は……。
どうせだから全部食べちゃおう。
そんな無謀という表現がピッタリな結論に達したのにはちゃんと理由かある。
これだけの種類があるんだから、例え1品のお料理を少しずつ食べたとしても
全て種類を食べたらかなりの量になる。
しかも、食べるだけならまだしも今日、ここに来たのは響さんの『思う存分飲むか』という魅力的なお誘いを受けたからで……。
……っていう事は、思う存分飲んでそれプラスたくさん食べる事になる。
もちろん“体重の増加”という恐怖の言葉が脳裏を過ぎらなかった訳じゃない。
だけど、このお料理を残してしまうのは作って下さった椿さんやこの食材達にも失礼にあたってしまう。
……と言うのは結局、言い訳に過ぎず
要は、目の前に並んだ美味しそうなお料理に私がどうしても我慢出来なくなっただけで……。
今日は繁華街をたくさん歩いて体重も減っているはずだから
少々、食べ過ぎても大丈夫!!
というポジティブ思考が出した結論だった。
「くぅ~!!美味しい!!」
奇声にも聞こえる声を発しながら感動する私。
そんな私を現実に引き戻したのは
「だろ?」
響さんの低くて優しい声だった。
お料理に夢中になり過ぎてて全然気付かなかったけど
いつの間にか響さんの笑いは収まっていたみたいで
響さんは笑顔で私を眺めていた。
さっきよりも少しだけ背もたれに寄り掛かるように座っているのは
私にタバコの煙が流れないようにする為の心遣い。
私を、ジッと見つめているんじゃなくて眺めているのは
私が食べ難くならない為の気遣い。
響さんのそんなさり気ない心遣いや気遣いに私が気付けたのは
雪乃ママのお店で働かせてもらってるから。
もし、私が雪乃ママのお店で働いていなかったら絶対に気付かなかったに違いない。
私は雪乃ママにお客様にに対して気遣いや心遣いを意識するように教えてもらった。
自分で意識する機会が出来たから、私は響さんのさり気ないそれに気付く事が出来たんだと思う。
「はい、とても美味しいです」
私の言葉に響さんは嬉しそうに頷いた。
それは、まるで自分の事を誉められたような表情だった。
そんな響さんの心情はなんとなく分かった。
きっと、響さんは自分が親のように慕っている椿さんが誉められたから嬉しいんだと思う。
私もさっき凛の話をした時、響さんが今度会ってみたいと言ってくれて嬉しかった。
それは自分の価値観を人に分かってもらえたという嬉しさだった。
自分の価値観を他人に認めてもらう事は難しい。
そう分かっているのに、わざわざそれを伝えて分かって貰おうとするって事は
それだけその人を自分が大切だと思っているからかもしれない。
それが意識したものか、無意識かは別として
言葉は悪いかもしれないけど、自分にとって興味のない人やどうでもいい人には
リスクを負ってまで自分の価値観を分かってもらおうなんて思わない。
逆に、相手がそうしてきても私は受け入れようとはしないはず……。
でも、凛や瑞貴や雪乃ママ、そして最初は大嫌いだったアリサが相手だったらとことん話し合ってでも
結果は場合によるけど
私は、その価値観を受け入れると思う。
価値観を通して、そこには“絆”のようなものが存在する。
人それぞれが持つ価値観を共有するって事は
大変で難しい事だけど、
それ以上に幸せで嬉しい事かもしれない。
価値観を共有出来る関係性は様々。
親子同士だったり
恋人同士だったり
友達同士だったり
夫婦同士だったり
先輩、後輩同士だったり
同級生や同僚だったり
……私は……。
親とお互いの価値観を共有する事は出来なかった。
だけど、その分多くの友達と価値観を共有する事が出来ていると思う。
……じゃあ、響さんと私は一体どんな関係なんだろう……。
「綾、どうした?」
「えっ?」
「気分でも悪いのか?難しい顔をして」
「い……いいえ……あの……これ!!」
「……?」
「すごく美味しいからどうやって作るのかなと思って……」
『響さんとの関係を考えていました』だなんて言えない私は
不意に思い付いた言葉を口にした。
「あぁ、それか。あとで椿さんも一緒に飲もうって誘うからその時に聞いたらいい」
「教えてくれるんですか?」
「うん?」
「聞いても『企業秘密だから』って言う理由で断られたりしませんか?」
「多分、大丈夫だと思うぞ」
「……?」
「この前、お前の家で俺がうどんを作っただろ?」
「はい」
「あれは数年前に息子が風邪をひいて食欲がない時に椿さんに教えてもらったんだ」
「そうなんですか?」
「あぁ、それから息子が風邪をひいたらあのうどんが定番なんだ」
「そうですか」
「あぁ見えて意外に丁寧に優しく教えてくれる」
……あぁ見えてって……。
そこがものすごく気になるんだけど。
「分かりました。あとで聞いてみます」
「あぁ」
響さんは小さく頷いてから手に持っていたタバコを灰皿で揉み消した。
響さんは、ポケットから何かを取り出すとテーブルの上に置いた。
その箱は手の平にすっぽりと収まってしまうくらい小さい箱。
そのくらい小さいのに上品なその箱の存在感は大きい。
それは見た事のある箱だった。
今日、家を出てくる寸前まで眺めていたその箱。
だから、この箱の中に何が入っているのかは何となく分かった。
……だけど……。
分かるからこそ、私は動揺を隠せなかった。
「……響さん?」
テーブルの上にある箱と響さんを交互に見比べていると
響さんは苦笑しながら口を開いた。
「誕生日プレゼントだ」
「誕生日プレゼント?」
テーブルの上に並ぶたくさんのお料理のお皿の中で1つだけ明らかに異質な雰囲気を醸し出すそれを私は見つめていた。
「あぁ」
「そうですか」
「……と言いたいところだが……」
「……?」
「本当はそれだけじゃない」
「それはどういう意味ですか?」
視線を上げるとそこには私を見つめる漆黒の瞳があった。
いつもと同じように私を見つめるその瞳。
ただ1つだけ違ったのは
いつもは優しく穏やかな視線で私を見守るように見つめる瞳が
今日はとても真剣だったこと。
「響さん?」
いつもとは違うその瞳に私は不安を覚えていた。
「綾」
「はい?」
「俺と付き合って欲しい」
「……」
「……」
「……付き合う?」
「あぁ」
「……それは」
「どこにとか聞くなよ?」
「……」
まさしくそう聞こうとしていた私は固まってしまった。
そんな私を見て響さんは真剣だったその表情を緩めた。
「そう答えるような予感がしていた」
呆れているような笑みを零した響さんに私は胸を撫で下ろした。
真剣な表情の響さんを見慣れていない所為か
それとも緊張感が漂う雰囲気の所為なのかは分からないけど
なぜか私は落ち着かなかった。
だから、ようやく響さんがいつもと同じように優しくて穏やかな瞳を見せてくれた事に私は胸を撫で下ろしていた。
「……すみません」
「いや、別に謝らなくてもいい。俺の言葉が足りなかったんだ」
「……?」
響さんはそう言うと目の前に置いてあったジョッキを手に取ると口に運んだ。
そして、1口だけ喉に流し込むとジョッキを再びテーブルに置いた。
「さっき、俺が言った付き合って欲しいって言うのは、そういう意味じゃない」
「違うんですか?」
「あぁ、違う」
「じゃあ、一体どういう意味なんですか?」
「まぁ、簡単に言えば……」
「簡単に言えば?」
「『俺の女になってくれ』って意味だ」
……。
……俺の女……。
……俺のって事は響さんのって事よね?
響さんの女。
響さんの女?
響さんの女!?
「……あの!!」
「どうした?」
「それって“響さんの彼女”って事ですか!?」
「あぁ、そうだけど……」
「それは一体誰に言ってるんですか?」
「誰だと思う?」
響さんにそう尋ねられた私はキョロキョロと辺りを見渡した。
「えっと……椿さんとか?」
「椿さん!?」
「……」
「……勘弁してくれ。残念だけど俺は熟女好きじゃない」
「……そうですか」
「大体、百歩譲って俺が椿さんを口説こうと思ってるなら、ここに椿さんがいないのは不自然じゃねえか?」
「……ですよね」
「頼むから、椿さんは選択肢から外してくれ」
「……はい」
……という事は……。
響さんが彼女にしたい人って……。
……いやいや、そんなはずは……。
……。
……。
でも、どんなに考えてみてもここには私と響さんしかいなくて……。
「……響さん……」
「ん?」
「あの……こんな事を聞くのはものすごく失礼なんですけど……」
「なんだ?」
「あっ……でも、もし私の勘違いだったらすごく恥ずかしいんで……」
「勘違いか勘違いじゃないかは聞かねえと分からないだろ?」
「……それはそうなんですけど……」
「いいから言ってみろ」
「……」
……どうしよう……。
「綾」
「……」
どう考えても勘違いしている確率の方が高い気がするんだけど。
「言え」
あぁ!!もう知らない!!
勘違いしてたら笑って誤魔化せばいいや!!
半分ヤケになった私は響さんに尋ねた。
「響さんが彼女にしたい人って……もしかして、私ですか?」
「あぁ、そうだ」
響さんはあっさりと認めた。
「へっ?」
あまりにもあっさり過ぎて、私は拍子が抜けてすっと呆けた声を出してしまった。
……あんなに勘違いだったらどうしようと悩んだ私って一体なんだったんだろう……。
「な?勘違いかどうかなんて聞いてみないと分からないだろ?」
余裕すら感じる笑みを浮かべた響さんに
「……そうですね」
私は力無く答えた。
「そんなに驚いた顔をしてるって事は、全然気付いてなかったんだな?」
「それは、響さんの気持ちにって事ですか?」
「あぁ」
「……すみません。そういう事には疎くて……」
「別に謝る必要はない。なんとなくそれは分かっていた」
「……はぁ……」
……。
これってフォローなのかしら?
でも、全然フォローにはなってないような……。
「恋愛が苦手なんだろ?」
「えっ?」
「俺には、恋愛に疎いんじゃなくて意識的に恋愛を遠ざけているように見える」
「……そうかもしれないですね」
「それは、なんでなんだ?」
「……それは……」
私が“恋愛”をしたくない理由。
ううん……違う。
したくないんじゃなくて出来ないんだ。
私は“恋愛”が出来ない。
これは響さんに話すべき事かしら?
“恋愛”が出来ないのは私の弱さの所為で……。
それを響さんに言うって事は自分の弱さを晒け出す事になる。
弱い自分を人に見せる事はわたしにとってとても勇気がいる事で
同時にとてもイヤな事。
今まで“疎い”という理由で響さんの気持ちに気付かないフリをしていたけど……。
全然、気付かなかった訳じゃない。
どんなに“恋愛”に疎い子だって、響さんのまっすぐで分かりやすい表現に気付かないはずがない。
ただ、私には響さんの気持ちを受け取る事が出来なかっただけなんだ。
だから、私は自分の疎さを理由にして響さんの気持ちに気付かないフリをしてた。
そうする事で弱い自分と響さんとの関係を守ろうとしていた。
だけど、響さんがこうして正面から気持ちを伝えてくれたんだから
もう逃げる訳にはいかない。
……私には、もう逃げ道はない……。
「……それは……」
「それは?」
響さんの視線を感じながら私は意を決して口を開いた。
「恋愛感情には永遠がないからです」
感情を抑えて吐き出した言葉は無感情な声になった。
それは自分でも分かるくらい冷たい声だった。
「永遠がない?」
冷たい自分の声を聞いた後だから余計に響さんの声に温もりを感じる。
「……どんなに好きで付き合って結婚したとしてもいつかはその気持ちと関係は冷めてしまうんです」
「……」
「私はそれがイヤなんです」
「……綾……」
私は響さんに視線を向ける事が出来なかった。
だから、俯いたまま言葉を紡いだ。
「私の両親は、私が幼い時に離婚しました」
「……あぁ……」
「私の記憶には家族3人で過ごした記憶が殆どありません」
「……」
「今でも、はっきりと思い出せるのは、父親が家を出て行く少し前の頃の事です」
「……」
「毎日、ケンカばかりの日々」
「……」
「耳を塞ぎたくなるような暴言をお互いにぶつけ合っていました」
「……」
「お互いに好きで付き合ったはずなのに……」
「……」
「どちらかが人生を終えるまで寄り添っていたくて結婚をしたはずなのに……」
「……」
「永遠の愛を誓ったはずなのに……」
「……」
「どうして、こんなに憎しみ合ってるんだろう?って幼いながらに思っていました」
響さんは黙ったまま私の話を聞いていた。
驚いた表情も
面倒くさそうな表情も
かと言って興味本位な表情もせずに……。
ただ、まっすぐに私を見つめていた。
そんな響さんに視線を返す事が出来なかったのは私の方だった。
自分の心の内を見せるという事はとても勇気のいる事で……。
どこまでも弱い私は響さんじゃなくてテーブルの上にある小さな箱を見つめていた。
「私はそんな両親達を見ていて分かった事があるんです」
「分かった事?」
「はい」
「なんだ?」
「人が抱く感情の中で“愛情”という気持ちほど曖昧で信じられないモノはないって事に……」
自分で吐き出した言葉に
私は自分で胸が痛くなった。
それがなぜかは分からない。
私は、それに気付いてから今までずっとそう思って生きてきた。
そして、これから先もその考えは変わらない。
……変わらない筈なのに……。
それが現実なのに……。
どうして、こんなに胸が痛いんだろう?
胸の内側を鋭利な刃物で抉[えぐ]られたような痛みを私は感じていた。
そして、それまで表情を変える事無く私の話を聞いていた響さんも表情を崩していた。
……辛く、苦しそうに……。
ようやく私から視線を逸らした響さんは瞳を閉じた。
それは何かを考えているようにも見えた。
だけど、今の私には正面からまっすぐに見つめられるよりはそっちの方が話しやすかった。
……瞳は固く閉じているけど寝てはいないはず……。
そう思った私は小さな声で話を続けた。
「だから、私は人に愛情を持つ事を止めたんです」
「……止めた?」
響さんは閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
「え、愛情という絆で繋がれた関係に永遠がないなら、私は一生恋愛なんてしなくていい」
「……」
「大切な人と少しでも長く同じ時間を共有出来るなら、私はその関係性には全くこだわりません」
「……それは……」
「……?」
「……つまり、どんなに好きな男が目の前に現れたとしてもその関係を壊したくないから一生友達のままでいい。……という事か?」
「そうです」
「……なるほどな」
「だから、響さんのお気持ちはとても嬉しいんですけど……」
「……」
「私は、そのお気持ちに答える事は出来ません。……ごめんなさい……」
私は響さんに向かって深々と頭を下げた。
……これでいいんだ。
さっきより強くなった胸の痛みを感じながら私はそう思った。
これが一番正しい結論だと思う。
響さんとの関係はこれで終わってしまうかもしれない。
だけど、私達は憎しみ合いながら別れる訳じゃない。
……響さんは分からないけど
少なくとも私は違う。
この関係が今日終わってしまう事になってしまっても
もし、この街のどこかで顔を合わせる事があれば
私は笑顔で響さんと言葉を交わす事が出来る。
限りある時間を密接に付き合うよりも
半永久的に顔見知り程度でも繋がっていられる方がいい。
大切な人だから。
響さんは私にとって、とても大切な人だから……。
「……分かった」
響さんの低い声に私の身体は小さく揺れた。
響さんがそう答える事は分かっていた。
私がどんなに我が儘な要求をしたとしても
必ず響さんは受け入れてくれる。
この話だって、ちゃんと理由を話して受け入れられない事を伝えれば
響さんはちゃんと理解してくれる。
私はそれが分かっていた。
……ほらね。
響さんは分かってくれたでしょ?
……これでいい。
……これで良かったんだ。
俯いた私の口から小さな溜め息が零れ落ちた。
こうなることを望んだのは私なのに……。
胸の痛みはどんどん強くなるばかりだった。
強くなった胸の痛みは
息苦しさまで引き起こし
私の呼吸まで乱した。
「お前の言いたい事はよく分かった」
「……すみません……」
「別に謝る必要はない」
「……」
「俺が納得したのは、お前が恋愛をしない理由だ」
「……えっ?」
「勘違いするなよ?綾」
「ひ……響さん?」
恐る恐る視線を上げてみると
そこには、自信に満ち溢れた表情の響さんが余裕の笑みを浮かべていた。
「俺はお前を諦めた訳じゃない」
“諦めた訳じゃない”って……。
響さんは分かってくれたんじゃないの!?
“理由”を理解した上で納得してくれたんじゃないの!?
「……あの……」
「お前の恋愛観はよく分かった」
「……じゃあ……」
「だが、それは俺がお前を諦める理由にはならない。なんでか分かるか?」
「……?」
「それはな、“恋愛”は頭でするものじゃないからだ」
「えっ?」
「確かに俺はお前の恋愛観を理解した。でも、それは頭の中での事だ」
「頭の中?」
「あぁ、その証拠にお前に対する気持ちは話を聞く前も聞いた後も何ひとつ変わっていない」
「……!?」
……響さんは一体なにを言ってるんだろう?
私はただ呆然と響さんを見つめる事しか出来なかった。
「なぁ、綾」
「……?」
「人を好きになるのは意識したり頭で考えて好きになるもんじゃねえだろ?」
「……」
「お前だってそれは分かっているはずだ」
「……」
「お前は人を好きにならないんじゃない」
「……」
「好きって気持ちを必死で隠しているだけだ」
「……あ……」
「どうだ?違うか?」
響さんの言葉は何ひとつとして間違ってはいない。
恋愛は頭で考えてするものじゃない。
この人を好きになろうと思って好きになる訳じゃない。
もし、意識的に人を好きになれたら……。
それはどんなに楽だろう?
それが出来ないからこんなに苦しいのかもしれない。
そして、私はその気持ちを必死で隠そうとしている。
……それも事実。
出来れば、認めたくはないけど……。
私は、“恋愛”という言葉やそれに伴う感情に嫌悪感を抱いている。
嫌悪感を抱いているからこそ自分がその感情を持つことが嫌で堪らない。
だから、自分が抱く感情に必死で気付かないフリをしていた。
気付かないフリをして、そのまま全てを無かった事にしようとしてた。
……私は、逃げようとしてたんだ……。
「綾、お前は恋愛が出来ない訳じゃない」
「……」
「恋愛をしたくないだけだ」
「……」
「安心しろ」
「……えっ?」
「お前が抱く恋愛観は俺がぶち壊してやる」
……ぶち……壊す!?
「……壊せるんですか?」
「あぁ」
「……私の恋愛観を?」
「あぁ」
「どうやって?」
「お前は、恋愛感情の好きって気持ちが永遠には続かないから恋愛をしたくないんだろ?」
「……え、まぁ……」
「なら、簡単だ」
「簡単?」
「確かに永遠は難しいかもしれねえけど……」
「……?」
「俺が死ぬまでお前を愛し続けて、変わらない気持ちと関係を証明してやる」
私をまっすぐに見つめる漆黒の瞳。
その瞳には自信が満ち溢れていた。
「……でも、それって……」
「うん?」
「確実ではないですよね?」
「だな。俺が死ぬまで結果は分からない」
「……ですよね」
「だから、決めるのは綾、お前だ」
「決める?」
「あぁ、俺の言葉を信じるのか、信じないのか。その決定権はお前にある」
……そんな事を急に言われても……。
「……私には、分かりません」
「いや、お前の中で答えはもう決まっているはずだ」
「えっ?」
「お前はなんで腰に蝶を彫ったんだ?」
「蝶?」
……なんでって聞かれても……。
「その蝶はお前の決意の表れじゃねえのか?」
……決意……。
……。
……。
あぁ、そうだった。
私がこの蝶を彫った理由は
“蝶”になりたいと思ったんだ。
本当に好きなものだけを手に入れて華麗に生きていたい……。
綺麗な花から花へ……。
好きなものだけを選んで優雅に舞う蝶。
そんな“蝶”みたいに生きたいと私は強く思った。
だから私はTATTOOを彫ったんだ。
どんなに願っても『蝶』には、なれないと分かっていたから……。
私は瞳を閉じ腰に手を回し服の上からその蝶に触れた。
私が本当に好きなものはなんだろう?
私が本当に手に入れたいものはなんだろう?
今にも飛び立ちそうなこの蝶が次に羽根を休める場所はどこだろう?
瞳を閉じた真っ暗な世界に浮かび上がってきた人の顔。
私は、ゆっくりと瞳を開けた。
照明の灯りが眩しくて私は少しだけ瞳を細めた。
次第に色を取り戻していく視界。
真っ先に私が見たのは、優しく穏やかに見守るように見つめる漆黒の瞳だった。
「思い出したか?」
「はい。すっかり忘れていたけど思い出しました」
「それは良かった」
「はい」
「じゃあ、お前の中にある答えも見つけたか?」
「はい」
「俺に聞かせてくれるか?」
「はい。私は響さんの言葉を……」
「……」
「信じます」
私がそう答えた瞬間、響さんは満足そうな笑みを浮かべた。
……そして、私も……。
そう答えた瞬間、胸に詰まっていたものが溶けてなくなるような感覚を感じていた。
もう今は痛みもなくなり、あるのはすっきりとした爽快感だけだった。
恋愛に怯え
一生恋愛なんてしなくていいと思っていた私に
初めて“彼氏”と呼べる存在の人が出来たのは
私の16回目の誕生日の日だった。
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