エピソード22

気持ちよく眠っていると鳴り響くケイタイ。

私はその音に無理矢理起こされた。

「……」

まだ頭が目覚めてなくても習慣とは恐ろしいもので身体は勝手に動く。

音を頼りにケイタイを掴んだ私は開かない瞳で液晶を覗き込んだ。

……覗き込んだけど視点が定まらず文字が読めなかった。

もうしばらく時間が経てば視点も定まるんだろうけど……。

一刻も早くこの耳障りな音を止めないと……。

働かない頭でそう判断した私は通話ボタンを押しケイタイを耳に当てた。

「……はい」

寝起きってなんでこんなに声が掠れるんだろう?

そんなどうでもいいような疑問を私は感じていた。

『おはよう、綾』

優しくて穏やかな低い声が心地良く耳に届いた。

「ひ……響さん!?」

『あぁ。もしかして、お姫様は今、目覚めたのかな?』

「……え……まぁ……」

『今日の約束は覚えてるか?』

「約束?……も……もちろん!!」

『……忘れていたんだな?』

「……すみません……」

『……まぁ、いい。今日、俺との約束以外に何か予定は入ってるか?』

「いいえ、何もありません」

『良かった。今から準備をして出掛けられるのは何時ぐらいだ?』

「1時間後には出れると思います」

『分かった。じゃあ、1時間後に迎えに行くから』

「はい、お願いします」

『あぁ、じゃあ、あとでな』

ケイタイを閉じた私はベッドから飛び出しバスルームへと向かった。

◆◆◆◆◆

シャワーを浴びて

メイクをして

クローゼットを開けて

洋服を選んで

着替えをして

時計を見ると響さんが迎えにくる時間の15分前だった。

……我ながら素晴らしい……。

自分自身を自画自賛した私はとりあえず朝食代わりにコーヒーを飲んで一服をする事にした。

インスタントコーヒーを入れたカップに熱いお湯を注いだ途端に辺りに漂う芳ばしい香り。

湯気を立てるカップを持ちテーブルに移動した私はソファに腰を下ろし

テーブルの上にあったタバコの箱に手を伸ばした。

口にくわえ近くにあったライターで火を点けようとした時

私はあることを思い出した。

タバコをくわえたまま手に持っていたライターを再びテーブルに置いた私は

昨日、お店に持って行ってたバッグの中をガサゴソと探った。

ポーチとハンカチの間に指を入れた時

指先に感じたヒンヤリとした金属っぽい感触。

私はそれを掴んだ。

バッグの中から姿を現したのはピンクゴールドのデュポン。

蓋の部分を指で弾くと

ジッポよりも高く繊細な金属音がひびいた。

私はそのデュポンでくわえていたタバコに火を点けた。

煙を大きく吸い込みゆっくりと吐き出す。

いつもと同じ銘柄のタバコ。

だけど少しだけ味が違うような気がした。

それは、きっとこのデュポンにアリサの温かい気持ちが詰まっているからで……。

テーブルの上には大量に並ぶタバコと

シガレットケースと

上品な箱に入った指輪とネックレス。

すべてが私への誕生日プレゼント。

久しぶりに祝って貰った誕生日は照れくさかったけどやっぱり嬉しかった。

私は思っていた。

自分の誕生日を人に祝って貰う事なんて一生ないって……。

親でさえ祝う事はおろか私の誕生日さえ忘れてしまっているんだから……。

私は疼く胸の痛みを誤魔化すようにタバコの煙を吐き出した。

指に持っていたタバコを灰皿に押し付け火を消した時

私のケイタイが音を発した。

「……はい」

『綾?準備は出来たか?』

「はい、出来ました」

『階下〈した〉で待ってるから』

「分かりました。すぐに行きます」

そう告げてケイタイを閉じた私はカップに残っていたコーヒーを飲み干し

鏡の前で唇にリップを塗ってから部屋を出た。

◆◆◆◆◆

外に出た私は辺りをキョロキョロと見渡した。

……確か、響さんは階下〈した〉で待ってるって言ってたと思うんだけど……。

……どこにいるんだろう?

見渡す限り、響さんがいつも乗っている黒い高級車はいない。

停まってる車と言えば、マンションの出入り口から少し離れた所に一台だけ停まってるけど……。

……あれは違う気がする……。

響さんがいつも乗ってる車は黒い高級車で白い高級車じゃない。

……まだ、着いてないのかな?

こういう時は連絡をしてみた方がいいの?

……。

……。

……う~ん……。

どうしよう?

悩んでいると白い車から男の人が降りて来た。

……あれ?

あの人って……。

「綾」

白い車から降りて来たのは

「響さん!?」

だった。

黒い車じゃなくて白い車から降りて来た響さんはスーツ姿じゃなくて私服姿だった。

そんな響さんが私に手招きをしたから

私は小走り気味に響さんに近寄った。

「おはよう、綾」

「お……おはようございます」

お昼過ぎの時間には不似合いな挨拶を交わした私と響さん。

響さんは優しくて穏やかな笑みを浮かべたまま私の顔を覗き込んだ。

「どうした?綾、不思議そうな顔をして」

「え!?……あの……いつもと違った感じなので……」

「違う?何が?」

「……車も響さんも……」

私の言葉に白い車と自分の身体と私に交互に視線を向けた響さんが

「あぁ、なるほどな」

納得したように頷いた。

「いつも乗ってるのは組の車でこれは俺の車だ」

「そうなんですか?」

「あぁ。それから今日は仕事が休みだからスーツを着る必要もないだろ?」

「そうですね」

「他に聞きたい事はあるか?」

「ないです」

「よし、じゃあ行くか」

「はい」

私が頷くと響さんは助手席側にまわり

助手席のドアを開けてくれた。

……あれ?

私は小さな違和感を感じた。

「どうぞ」

響さんの声に促されて私は助手席のシートに腰を降ろした。

私が座った事を確認してから閉められるドア。

しばらくして、運転席のドアが開き響さんが乗り込んで来た。

ドアを閉めた響さんは慣れた手付きでフレームのない眼鏡を掛けると

ギアを入れ換えサイドブレーキに手をかけた。

「あ……あの!!」

「どうした?」

突然大きな声を出した私に響さんは動きを止め不思議そうな顔を向けた。

「まさかとは思うんですけど……」

「うん?」

「もしかして、響さんが運転するんですか!?」

「えっ?……あぁ……一応そのつもりでここに座ってるんだが……」

「え!?」

「ど……どうした?」

「……ですか……」

「綾?」

「響さん、運転出来るんですか!?」

私がそう思ったのにはちゃんと理由があって……。

響さんが車に乗る時には必ずと言っていいほど運転手さんがいた。

それを私は響さんが車の運転が出来ないからだと思っていた。

「一応、出来るけど?」

「……一応?」

「あぁ」

「……一応というのはどの位ですか?」

「えっ?」

「あっ!!免許!!免許は持ってます?」

「もちろん、持ってる」

「……」

……じゃあ、大丈夫かな……。

「綾?」

「……えっ?」

「そろそろ出発してもいいか?」

「……あっ……はい……」

私が頷くと響さんはサイドブレーキを降ろし

車はゆっくりと動き出した。

◆◆◆◆◆

「……なぁ、綾」

「はい?」

「そんなに見つめられると緊張するんだが……」

「あっ!!すみません」

「事故なんて起こさねえから安心しろ」

響さんは苦笑しながらチラッと私に視線を向けた。

そう言われて初めて私は気が付いた。

車のシートには背もたれという便利なものが装備されているのに、

なぜか私の背中は背もたれに触れる事もなくどちらかと言えば前のめり気味で……。

上半身がそんな体勢だから必然的に足で踏ん張って身体を支えている状態だったりする。

膝の上で組んでいる両手にも必要以上に力が入っているし……。

そんな状態で瞬きも忘れて運転する響さんを見つめていたらしい。

……響さんが緊張するのも無理はない……。

響さんは『緊張する』って言ったけど

本当は鬼気迫る感じの私にドン引きしていたのかもしれない。

そう気付いた私は力を抜いた身体を背もたれに委ねた。

今まで響さんの手元ばかり見ていて気付かなかったけど

響さんが運転する車は颯爽と車道を走り抜けていた。

隣の車線を走る車を悠然と追い越し

車道の脇に生えている草木が次々と後方に流れて行く。

「下手そうに見えたか?」

突然、掛けられた言葉に視線を移すと響さんは前を向いたままだった。

「えっ?」

「そう見えたから警戒してたんじゃねえのか?」

……下手そう?

……警戒?

……。

……。

「ち……違います!!」

「うん?」

「そう、思った訳じゃなくて、響さんが車に乗る時はいつも運転手さんがいらっしゃったので、てっきり響さんは免許を持っていないと勝手に解釈していたんです」

「なるほどな。そういう事か」

「はい」

「車の運転は好きなんだ」

「そうなんですか?」

「あぁ」

……そう言われてみると、車を運転する響さんの横顔はどことなく楽しそうにも見えるような気がする。

「楽しいですか?」

「ん?」

「車の運転」

「あぁ、楽しい」

「そうですか」

「綾は運転しないのか?」

「はい!?」

「……?」

「あの……私はまだ免許が取れる歳じゃないんですけど……」

「あぁ、知ってるよ」

「免許がないと車の運転なんて出来ませんよね?」

「まぁ、公道は無理だな」

「は?」

「……質問の内容がマズかったな。えっと……車の運転をしてみたいとは思わないか?」

「運転?」

「そう、運転」

……。

今まで人にそんな事を聞かれた事も考えた事も無かったけど

してみたいか、したくないかと聞かれたらもちろん答えは

「……してみたいです」

「だよな?」

まるで私がそう答える事が分かっていたかのような響さんの言葉に

「……?」

私は首を傾げるしかなかった。

「じゃあ、挑戦してみるか?」

「挑戦?」

「あぁ」

響さんは頷くとハンドルを大きく切り進行方向を変えた。

……挑戦ってなにに?

……どうしよう……。

響さんの言葉が全く理解出来ない。

響さんが運転する車は大きな道から細い路地へ入り右折と左折を繰り返す。

「……あの……響さん?」

「なんだ?」

「一体、どこに行ってるんですか?」

「ん?人目につかない所」

「人目につかない所!?」

「あぁ」

やっぱり響さんの答えは私には理解出来ないようなものだった。

◆◆◆◆◆

「よし、着いたぞ」

響さんが車を停めたのは広い空き地のような場所だった。

見渡す限りが広大な空き地で、辛うじて遠くに倉庫のような建物が数軒並んでいるのが見える。

車を停めた響さんはえンジンを止め私に鍵を差し出した。

「……?」

「頑張れよ」

意味不明な応援をした響さんは鍵を私の手の平に置くと運転席のドアを開けた。

「ひ……響さん!?」

「ん?」

「どこに行くんですか?」

「そっち」

響さんが指差したのは私が座っている助手席のシートだった。

「えっ!?な……なんで!?」

「運転してみたいんだろ?」

「え……まぁ……」

「だったら運転してみたらいいじゃん」

「……」

「……?」

「それって今からって事ですか?」

「もちろん」

「私が?」

「あぁ」

「この車を?」

「あぁ」

「運転するんですか?」

「正解」

「……」

唖然とするしかない私と

「……」

とても楽しそうな響さん。

「……」

私と響さんの間に明らかに温度差があった。

「……」

「……無理です!!」

「なにが?」

「私、運転した事なんてないんですよ?」

「あぁ、だからしてみたらいい」

「いやいや、ちょっと待って下さい!!」

「……?」

「初めてなのにこんな高級車なんて運転出来る訳ないじゃないですか!!」

「出来ないのか?」

パニック状態の私に比べて響さんはいつもと変わらず冷静で穏やかな口調を崩さない。

「出来ません!!」

「なんで出来ないんだ?」

「なんでって……もし私が車をどこかにぶつけてしまったらどうするんですか?」

「どうするって……別にどうもしないけど?」

「はい!?」

「ん?なんか俺、答えを間違ったか?……あぁ、じゃあ、綾が車をぶつけたら修理に出す。ってのでどうだ?」

……。

……『どうだ?』って聞かれても……。

別にクイズをしている訳じゃないんですけど……。

「……もし、車をぶつけた時にケガをしたら……」

「ケガ?」

「しないとは限らないでしょ?」

「あぁ、そうだな。でも……」

「でも?」

「大丈夫だ」

「……?」

「俺が傍にいるんだ。ケガなんてさせない」

眼鏡越しに見える漆黒の瞳が優しく私を見つめる。

その漆黒の瞳には自信が満ち溢れていた。

……どうして、響さんはこんなに自信満々なんだろう?

そんな疑問が浮かんだけど

包み込むような響さんの視線は私に目に見えない何かを与えた。

頭ではダメな事だって分かってる。

だけど、響さんに見つめられた私の身体は自然と動いた。

私を見つめる響さんの瞳が満足気に細められた。

◆◆◆◆◆

「ブレーキに足を載せてキーを回してえンジンをかけたら、ギアをドライブに入れてサイドブレーキを下げる。それから、ゆっくりとブレーキから足を離すんだ」

突然、始まった響さんのドライビングスクール。

助手席に座った響さんの言葉に運転席に座った私は耳を傾けていた。

「じゃあ、とりあえずそこまでやってみて」

「は……はい!!」

返事をした私の声からは自分でも分かるくらいに緊張感が漂っていた。

助手席から見える視界とは全く違う運転席から見える視界。

同じ車内なのに

隣り合ったシートなのに

どうしてこんなに違うの?

……っていうか、このハンドル……デカくない?

響さんが片手でいとも簡単に操っていたから全然気付かなかったけど……。

私には両手でも操れない気がするんだけど。

「綾?」

「は……はい?」

「大丈夫か?」

「……いえ、あんまり」

緊張のあまり強がりの言葉さえ出てこない私。

そんな私を見て響さんは一瞬驚いた表情を浮かべた後

ふとその表情を崩した。

「なんでそんなに緊張してんだ?」

「なんかよく分からないけど緊張しちゃって……」

「別に緊張するような事じゃないだろ?」

「……そうですね」

私は無意識のうちに俯き気味になっていた。

無意識の行動だったけどそれは明らかに私の心情の現れだった。

たかが車の運転。

ここは公道と違って他に車が走っている訳じゃないし

人や障害物がある訳じゃない。

そう頭では分かっているのにどうしてこんなに緊張するんだろう?

……あれ?

……これって本当に緊張感なの?

「大丈夫だ」

低い声が聞こえて、私は頭の上に微かな重みと温もりを感じた。

「……えっ?」

恐る恐る視線をあげるとやっぱり響さんは私を優しく穏やかな瞳で見ていた。

「とりあえず一服するか?」

響さんはギアの傍にあったタバコの箱を掴むと慣れた手付きで箱を振り

飛び出したタバコを私に差し出した。

私は迷う事なくそれに手を伸ばした。

それを口にくわえると絶妙のタイミングで差し出されるジッポの火。

赤い炎にタバコの先端を翳[かざ]した私は大きく煙を吸い込みゆっくりと吐き出した。

「“初めて”って緊張するよな」

響さんが穏やかな口調で口を開いた。

「……そうですね」

「人間ってさ、すげえ臆病なんだよな」

「臆病?」

「あぁ」

響さんは頷くと紫掛かった煙を吐き出した。

「……響さんも臆病なんですか?」

「もちろん」

響さんは当然って感じで頷いたけど……。

私にはそうは思えなかった。

どう考えてみても、“臆病”って言葉と響さんが結びつかない。

“臆病”って言葉に相応しいのは響さんじゃなくて私なのに……。

「人ってさ、必ずと言っていいほど新しい世界に足を踏み入れようとする時に躊躇してしまう」

「……」

「例えそれが自分が強く望んでいた事だったとしても一度は足を止めてしまうんだ。なぜだか分かるか?」

「……なんでですか?」

「人は頭で考えるという事が出来る生き物だからだ」

「頭で考える?」

「あぁ。人ってさ、失敗を必要以上に恐れる生き物なんだ」

「……そうなんですか?」

「自分の成功を自慢気に他人に話す奴はいても失敗談を自慢気に話す奴はいないだろ?」

「そう言われてみれば……そうですね」

「他人に話せないって事は失敗を恥ずかしい事だと思ってるからだ」

「……なるほど……」

「だから人は恥ずかしい思いはしたくないと思っているから極度に失敗を恐れる」

「……はい」

「その思いは歳を重ねいろんな経験を積むほど強くなる」

「そうなんですか?」

「出来れば認めたくはねえけど、実際俺もそうなんだ」

「……?」

「何かをしようとする時、無意識に足を止め頭で考えてしまう。それもポジティブに考えれるならいいけど、大抵はネガティブな考えばかりが浮かぶ」

「……」

「そうしているうちに不安に支配されて足を踏み出せなくなる」

「……」

「本当に不思議だよな?」

「不思議?」

「初めての事に挑戦するって事は自分の持つ可能性を広げるって事で手にするものもたくさんあるはずなのに……」

「そうですね」

「確証もないリスクへの不安感に苛まれて結局は諦めてしまう」

「……」

「諦めてしまうって事は自分の可能性や手に出来るはずの世界まで捨ててしまうという事だ。勿体ないとは思わないか?」

「……思います」

そう答えた私の頭を響さんは優しく撫でた。

「なぁ、綾」

「はい?」

「お前はまだ若い」

「……?」

「お前の目の前には様々な世界が広がっている」

「……」

「お前の手の中にはたくさんの可能性が詰まっているんだ」

「……響さん?」

「俺は、お前にその可能性と新しい世界をひとつでも多く掴んで欲しいと思ってる」

「……」

「失敗する事は恥ずかしい事じゃない」

「……」

「本当に恥ずかしいのは、諦めてしまう事だ」

「……」

「最初から上手く出来る奴なんていない」

「……」

「何度も失敗を繰り返しながら上達していくんだ」

「……」

「失敗しなければ、上達は出来ない」

「……そうですね」

「大丈夫だ」

「えっ?」

「綾なら出来る」

「……」

「必ず出来る」

響さんの言葉が耳から入り全身を駆け巡って心の中にスゥーと染み込んでいくような気がした。

“必ず出来る。”

それは、根拠なんてどこにもない言葉。

もちろん確証だってない。

だけど、響さんがその言葉を口にすると本当に何でも出来そうな気がした。

失敗する事は恥ずかしい事じゃない。

本当に恥ずかしい事は諦めてしまう事。

響さんの言葉を心の中で呟いた私は気付いた。

さっきまで感じていた緊張感がなくなっている事に……。

心が軽くなっている事に……。

◆◆◆◆◆

「綾、楽しいか?」

響さんが助手席で笑いを堪えているのが前を見つめていても分かる。

「はい!!」

ハンドルを両手でガッチリと握り締めながら私は大きく頷いた。

ノロノロと動く車。

歩いた方が絶対に早いくらいの速度だから

車を走らせているとは、お世辞でも言えない。

それでも、私は楽しくて堪らなかった。

結局、響さんの言葉に促されて私がえンジンを掛けて車を動かすまでに1時間近くかかった。

“失敗する事は恥ずかしい事じゃない。本当に恥ずかしいのは諦めてしまうこと。”

その言葉を何度も繰り返し

私は大きく深呼吸をして

キーを差し込み

えンジンを掛けた。

そこで1つ目の問題が発生した。

「……響さん」

「ん?どうした?」

「ブレーキってどれですか?」

「足元にペダルがあるだろ?」

……足元?

下を覗き込むと確かにペダルがあった。

「ありました!!」

「だろ?それを踏むんだ」

「なるほど」

私はそのペダルを力いっぱい踏んでみた。

その瞬間、えンジン音がけたたましく鳴り響いた。

「……!?」

「……綾、それはブレーキじゃなくてアクセルだ」

「へっ!?」

「ブレーキはその隣のペダルだ」

「そ……そうなんですか?」

「あぁ」

……また、爆音が鳴り響いちゃったらどうしよう……。

私は恐る恐る隣のペダルを踏んでみた。

「……あれ?音がしない」

「ブレーキだから音はしない」

「……そうですか」

「次は、ギアをドライブに入れるんだ」

「はい」

響さんに言われた通りギアのレバーを動かそうと手を掛けて

「ドライブ?」

私は首を傾げた。

どんなに探してみても“ドライブ”なんてどこにも書いてない。

「ドライブは“D”の事だ」

「……もしかして……」

「……?」

「“D”ってドライブの“D”なんですか?」

「あぁ、そうだけど……」

「じゃあ、この“P”は?」

「パーキング」

「“N”は?」

「ニュートラル」

「なるほど。全部、意味があるんですね」

「だな。一応、全部に意味はある」

「ありがとうございます。勉強になりました」

「どういたしまして。結構ごちゃごちゃあるけどとりあえず、パーキングとドライブさえ理解してれば車の運転は出来る」

「そうなんですか?」

「あぁ、車を走らせる時はドライブで停める時はパーキングにギアを入れればいいんだ」

「……結構……」

「うん?」

「簡単なんですね」

「だろ?」

「はい」

「じゃあ、軽く走ってみるか?」

「はい!!」

私は慣れない手付きでギアのレバーを動かした。

「それから、サイドブレーキを下ろす。上にボタンが付いてるから下ろす時はそのボタンを押しながら下ろすんだ」

「はい」

「後はゆっくりとブレーキから足を離せば車は動き出す」

「……あの……」

「うん?」

「離した足はどこに置けばいいんですか?」

「アクセルペダルの上に載せたらいい。でも、ある程度慣れるまでは軽く載せておくだけだぞ?」

「強く踏んじゃダメなんですか?」

「ハンドルに慣れるまでは止めといた方がいい」

「分かりました」

響さんに教えて貰った通りに

サイドブレーキを下ろし

ブレーキペダルからゆっくりと足を離すと

車は少しずつ動き出した。

「う……動いた!!」

車が動く事は当たり前なのに、この時の私はとても感動していた。

自分が車の運転をしているという事が……。

自分が車を動かしているという事が……。

嬉しくもあり

信じられなくもある。

「あぁ、動いたな」

興奮気味の私の言葉に響さんも楽しそうに答えてくれた。

◆◆◆◆◆

「アクセルのペダルを少しだけ踏み込んでみて」

「はい」

アクセルのペダルの上に置いていた足に少しだけ力を入れるとゆっくりと車が加速し始めた。

「きゃっ!!」

スピードに慣れていない私は

車体が加速する感覚に驚いてハンドルを強く握り締めた。

「大丈夫」

その声と共に伸びてきたのは響さんの手で……。

その手は私が握り締めているハンドルに添えられるように載せられた。

「もう少しスピードを出していいぞ」

「は……はい」

再びアクセルペダルを踏むと車体はますます加速し、スピードを示すメーターは60という数字を示していた。

響さんは助手席に座ったまま器用にハンドルを操っている。

手元のハンドルと目の前に広がるクルクルと変わる景色を交互に見つめながら必死にハンドルを握っている間にも時間はどんどん流れ

しばらくするとスピード感にもかなり慣れて来た。

ずっと添えられていた響さんの手も時折、放され一人でハンドルを操る時間が少しずつ増えていく。

恐怖感と緊張感はいつしか高揚感と楽しさに変わっていった。

広大な空き地をクルクルとまわっているだけ。

しかも、ハンドルの操作はほとんどが響さんにやってもらってるんだから

運転してるなんて全然言えないんだけど……。

むしろ、運転席に座ってるだけなんだけど

それでも、今まで私が足を踏み入れた事のない世界に少しでも入れた事が嬉しかった。

車を運転するという初めての経験はまるで自分が少しだけ大人になったような気さえさせた。

「よし、少し休憩するか?」

「はい!!」

車を停めた私と響さんはお互いにタバコに火を点けた。

「ここ、いい場所だろ?」

響さんの言葉に

「そうですね、こっそり車の運転をするには最適の場所ですね」

私は頷いた。

「俺が始めて車を運転したのもここだったんだ」

「そうなんですか?」

「あぁ」

「教習所じゃなくてですか?」

「教習所にはまだ入校出来なかったんだよ」

苦笑いを浮かべる響さんを見てその言葉の意味はなんとなく理解出来た。

「……ちなみに、それって幾つの時の話なんですか?」

「……中坊……」

言い難そうに呟いた響さんに私は驚いた。

「中坊って……中学生ですか!?」

「あぁ」

「……それって誰の車を運転したんですか?」

「……組の車だ」

「はい!?組の車って……」

「……友達と遊ぶ約束をしてて、出掛けようとしたら運良く家の玄関の前に鍵が着いたままの車が停まってたんだ」

「……」

「友達の家まで歩いて行くのは面倒くせえから、ちょっとだけ拝借してみた」

「……拝借って……。でも、その時は運転をした事なんてなかったんですよね?」

「もちろん。だが、ガキの頃から運転する奴を観察してたからどうすれば車が動くのかっていうのはばっちり理解していた」

「そ……そうですか」

「それから、友達を迎えに行って、ここに来たんだ。一人じゃ躊躇うような事も何人か集まると恐いモンなんてなくなるんだよな」

「じゃあ、楽しかったんですね?」

「あぁ、その時はな」

「……?」

「ここに着いて1時間もしねえうちに組の奴らに見つかって強制的に家に送還された」

「……!?」

「それから、半日近くも親父に説教された」

「……!!」

「まぁ、俺も親父に説教されて反省するようなガキじゃなかったけどな」

「……」

「それからしばらくはどうやって車を持ち出そうかとそればっかり考えていた」

「全然、反省してなかったんですね?」

「もちろん」

自信満々に言い放った響さんに私は苦笑してしまった。

「それから、先輩の車を運転させてもらったり、親父の目を盗んで車を持ち出したりして。堂々と免許を取れる年齢になった時には運転は完璧に出来るようになってた」

「運転が好きだったんですね?」

「あぁ、今でもな」

そう言った響さんの瞳は小さな子供みたいにキラキラと輝いていた。

「嫌な事や気分が沈んだ時にスピードを出して走ると全てが吹っ飛ぶんだ」

「そうなんですか?」

「試してみるか?」

「はい!?」

私が言った“はい”は疑問形の“はい”だったのに……。

どうやら響さんは了承の“はい”だと勘違いをしてしまったらしい……。

私がそれに気付いた時には既に遅かった。

瞳を輝かせている響さんにはとてもじゃないけど今更説明なんて出来る雰囲気じゃなくて……。

ましてや断れるような状況でもない。

……もう、なるようにしかならない……。

半分投げやりな気持ちで私はギアを動かしサイドブレーキを下ろし踏んでいたブレーキペダルから足を離した。

緩やかなスピードで動く車体を響さんは器用にハンドルを操って空き地の端の方に移動させた。

……何が始まるんだろう?

首を傾げていると

「綾、ブレーキを踏んで車を停めてくれ」

「はい」

私は響さんの言葉に従いブレーキペダルを踏んで車を停めた。

「いいか?今から車を走らせるんだが、今度はブレーキから足を離したらすぐに力一杯アクセルを踏むんだ」

「力一杯ですか?」

「そうだ、ハンドルは真直ぐにしたまま動かさなくていい」

「はい」

「……んで、俺が合図を出したらアクセルから足を離すんだ」

「……?」

「スピードが出ている時に、急にブレーキを踏むとタイヤにロックが掛かって逆に危険なんだ」

「危険!?」

「大丈夫。俺が隣にいるんだ。ケガはさせない」

「……はぁ……」

「よし、じゃあやってみるか」

響さんの言葉に私は小さく頷くとブレーキから足を離し、言われた通り力一杯アクセルペダルを踏んだ。

その瞬間大きなえンジン音が辺り一面にひびき渡り大きな車体が信じられないくらいの速さで動き出した。

「……!!」

私が一瞬でパニック状態に陥った事は言う迄も無く……。

助手席から身を乗り出し、ハンドルを操っている響さんだけがとても楽しそうで

まるで幼い子供みたいに瞳を輝かせていた。

視界から伝わってくるスピード感に思わず視線をずらした私はとんでもないものを見てしまった。

……スピードを示すメータの数字が100を超えてる……。

しかも、その数字は留まる事はなく、どんどん増えている。

……それは、私の予想ではスピードメーターが壊れているのか……。

……もしくは、それだけスピードが出てるって事なんだと思う。

出来ればスピードのメーターが壊れている方がいいんだけど……。

車外の景色の変わり方からしてメーターは正常で、示されている数字に相当するだけのスピードが出ているに違いない。

「綾、どうだ?」

楽しくて堪らないって感じの響さんの声に

恐る恐る視線を上げると

そのスピード感に少しだけ慣れたのか恐怖感が薄れていた。

「……すごい……」

次々と迫ってくる景色がものすごい勢いで後ろへと流れていく。

まるで自分が乗っている車が動いてるんじゃなくて

私達の周りにある景色が動いているように感じる。

自分の足で歩いているだけじゃ絶対に体感出来ないスピード感に

私は瞬きすら忘れて見嵌っていた。

数軒並んだ建物が見えてきた時

「そろそろアクセルから足を離すか」

響さんの声に私は現実に引き戻された。

その言葉に従い、力一杯踏んでいたアクセルペダルから足を離した。

今まで加速していたスピードが緩やかに減速しているのが分かる。

スピードを表すメーターもその数字を減らしていて

私が今まで体験した事のない未知の世界が終わりを告げようとしていた。

……100……。

……90……。

……80……。

……70……。

……60……。

このくらいのスピードになると、それなりのスピードが出ているにも関わらず

とても遅い速度に感じた。

「もうブレーキを踏んでもいいぞ」

「はい」

ブレーキペダルを踏むと車体は数軒並ぶ建物の前で止まった。

「どうだった?」

響さんに尋ねられたら私は躊躇う事なく答えた。

「とても気持ち良かったです」

「だろ?」

響さんの満足そうな笑みに私まで自然と笑顔になった。

「はい」

「……でも、1つだけ約束して欲しい」

「……?」

「もし、これから先、車の運転をしたくなったら俺に言って欲しい」

「響さんにですか?」

「お前が運転したいって言うならいつでも俺が車を貸してやる」

「……いいんですか?」

「あぁ、でも俺が一緒にいる時以外は絶対に運転はしないで欲しい。友達に誘われても絶対にダメだ。約束出来るか?」

どうして響さんがそんな約束を求めるのかが分からなかった。

この時の私には、響さんが私を守ろうとしてくれている事に全く気付いていなかった。

……ただ、響さんの表情が真剣だったからその約束は絶対に守らないといけないと思った。

……だから、私は頷いた。

「分かりました」

その瞬間、真剣だった響さんの表情が和らぎ優しくて穏やかな表情に戻った。

私と響さんの間に2人だけの約束がまた1つ増えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る