エピソード19

壁と同じ素材で出来たドア。

一見、壁に取っ手が付いているように見える不思議なドア。

そのドアを押し開けると眩い光に一瞬視界が真っ白になった。

ドアを一枚隔てたその空間は薄暗かった店内とは違いとても明るかった。

一歩、足を踏み入れると鼻に付くお香の香り。

ドアを閉め鍵を掛けると私の口からは自然と溜め息が漏れた。

……なんか疲れた……。

初めて訪れた店。

つい数時間前まで大嫌いで顔を見るだけでも私の全身が拒否反応を示していたアリサ。

今日が初対面の和樹。

そこで時間を過ごした私は思いの外ストレスを感じていたみたいで……。

1人になれた事で無意識の内に張っていた緊張の糸が解けた。

……一息着けた場所がトイレってのがちょっと微妙だけど……。

まぁこの際贅沢はいってられない。

決して広いとは言えない空間。

ドアを開けるとすぐに個室のような造りになっていた。

右側には大きな鏡。

その下には手を洗う為のスペースがあり

大きな陶器の鉢みたいなモノの中には少しずつだけど水が絶え間なく流れ込んでいる。

その周りにはたくさんの観葉植物の鉢が置いてあった。

しかも、手を洗う洗面台の周りだけじゃなくて至る所に観葉植物が置いてある。

正しく表現するならドアから奥にある便器までかろうじて人が一人歩けるくらいのスペース以外は全て緑で覆われている。

……なに?このトイレ……。

テーマはジャングルかしら?

そう思いつつもたくさんの緑は心を和ませてくれる。

和樹が言った通り、このトイレは防音効果が抜群だった。

あんなに大音量だった音楽が全く聞こえてこない。

ただ聞こえるのは、絶え間なく流れる水の音だけ。

このくらい静かだったらここでも大丈夫。

私は右手に握り締めていたケイタイを開き

着信履歴の一番上にあった番号に発信した。

耳に当てたケイタイから聞こえてくるのは無機質な呼び出し音。

……もし、ケイタイを取った響さんの声が寝起きの声だったらどうしよう……。

時間も時間だしその可能性が無いとは言い切れない。

そんな事を考えた途端、私は緊張感に襲われた。

数回の呼び出し音の後、聞こえてきたのは……。

『――……只今、電話に出る事が出来ません』

……やっぱり、寝てるか……。

私からの電話で響さんを起こさなくて良かったという安心感と

響さんの声が聞けなかったという残念さを胸に抱きながら

私は終話ボタンを押した。

響さんは私に何を言いたかったんだったんだろう?

もう少し早く連絡すれば良かった。

でも連絡は一応したんだし

響さんのケイタイに着歴が残ってるはずだから、

起きたら連絡をくれるかもしれないし……。

……まぁ、いいか……。

私は、アリサ達が待つ席に戻ろうと取っ手に手を掛けた。

……。

……もう、2人の白熱してた会話は終わったかしら?

……多分、まだよね……。

そう悟った私は取っ手から手を離した。

急いで戻ってもどうせ私には分からない話だし……。

ちょっと、ここでゆっくりして行こうかしら。

私はポケットの中を確かめて天井に視線を向けた。

……煙感知器とか付いてないわよね?

見渡す限り天井にあるのは眩い光を発している蛍光灯だけ。

よし、せっかくだからこのジャングルみたいな空間で一服してから戻ろう。

私は蓋の閉まった便器を椅子代わりに腰を下ろした。

タバコに火を点けようとした時、隅に置いてあった灰皿を発見した。

あら、気が利くじゃない。

そこにあったのは使った形跡はないけど、

間違いなく灰皿だった。

灰皿があるって事は、ここは禁煙って訳じゃないらしい。

私は堂々とタバコに火を点けた。

煙を大きく吸い込み一瞬だけ呼吸を止めると

身体が煙を吸収しているような感覚に包まれる。

ゆっくりとその煙を吐き出すと紫掛かった白い煙が上へと漂う。

フワフワと自由気ままに漂う煙。

その煙に手を伸ばすと、私の手を避けるように形を変える。

そんな煙をぼんやりと眺めていると

突然、私の左手の中にあるケイタイが大きな音を発した。

「うわっ!!……びっくりした……」

リラックスモード全開だった私は

突然、鳴り響いた着信音に心臓の動きがおかしくなるくらい驚いてしまった。

派手に動く心臓を抑えつつ動揺してるの所為で微妙に震える指で通話ボタンを押した私は

ケイタイを耳に当てた。

「……もしもし?」

『……綾、悪かったな』

低く優しい声が耳に響く。

「響さん、まだ起きてらしたんですか?」

『あぁ』

「もしかして、私からの着信で起きたんですか?」

『いや、まだ外なんだ』

「外?」

『あぁ、まだ飲んでる』

「そうですか」

……良かった。

私が起こしてしまったんじゃないらしい。

『もう、家に着いたのか?』

「いえ、それが……」

『うん?』

「今、アリサと飲んでるんです」

『アリサ?……アリサってお前がケンカした相手じゃ……』

「えっ!?……あっ……まぁ……」

『また、モメてるのか?』

突然、低くなった響さんの声に私は焦った。

「……いや……違う……」

『どこだ?』

「……はい?」

私の言葉を遮った響さん。

響さんが私の話を聞かない時は……。

『どこで飲んでる?』

……どこって聞かれても……。

「……分かりません」

『分からない?』

「はい。初めて来たお店なんでなんとなくの場所しか分かりません」

『それなら、こっちで調べるからいい。その店の特徴とか従業員の名前とか分かるか?』

こっちで調べるって言われても……。

そんな必要はないんだけど……。

……てか、そんな事が出来るの!?

「……あの……響さん……」

『なんだ?』

「ちょっと勘違いされているみたいなんですけど……」

『勘違い?』

「えぇ、確かにアリサはあの日私がモメた相手ですけど……」

『けど?』

「今日は別にモメてる訳じゃないんです」

『どういう事だ?』

「話すと長くなるんですが……」

『別に構わない。話してくれ』

「分かりました」

今、ここにいる経緯を私は話した。

アリサに誘われた事。

あまり気は進まなかったけど同じ店で働いているのに有耶無耶に出来ないと思った事。

アリサが私を連れてきた場所がBARだった事。

そのBARの店員がアリサの同級生で

アリサの行き着けのお店だった事。

「アリサの事は大嫌いだったんですけど……」

『あぁ』

「話してみるとそこまでイヤじゃないって言うか……」

『うん?』

「なんとなく私に似てるって言うか……」

『意気投合したのか?』

「え……まぁ……」

『そうか、良かったな』

響さんが優しい声を出すから

「……はい」

なんだか照れ臭くなってしまった。

『なぁ、綾』

「はい?」

『アリサの同級生の名前は分かるか?』

「え、和樹って言ってましたけど……それがどうかしました?」

『あぁ、ちょっと待ってろ』

「……はっ?」

『……』

「……あの……」

『……』

「……響さん?」

『……』

呼び掛けてみても電話の向こうから返事はない。

でも、そこには確かに響さんがいる。

その証拠に微かに響さんの声が聞こえる。

だけど、その声は電話の向こう側にいる人と会話をしているようで……。

僅かに聞こえてくるのは響さんではない男の人の声。

……なんかあったのかな?

私はひたすらその2つの声に意識を集中した。

……。

……。

ダメだ。

分からない。

どうやら響さんはケイタイを口元から離しているみたいで

かろうじて声は聞こえるけど何を話しているのかは分からなかった。

『……綾』

ケイタイから響さんの声がはっきりと聞こえたのは

私が微かに聞こえてくる声から必死で言葉を聞き取る事を諦めて数十秒が過ぎた時だった。

「はい」

『今、お前がいるのは路地裏のBARだな?』

「えっ!?」

確かに私とアリサはお店の下で待ち合わせをして

メインストリートを通って

この店に来た。

お店に入る前にメインストリートから細い路地に入ったような気がする。

「……そうですね。確かに路地裏にあるお店ですけど……」

……っていうかなんで響さんはこの店が路地裏にあるって知ってるんだろう?

私が言ったっけ?

……いや……多分言ってないよね?

小さな疑問に頭をフル回転させていると、響さんが驚きの一言を言い放った。

『その店は“Heaven”という店だ』

「……ヘヴン?」

『あぁ、ちなみにアリサの同級生っていうカズキって男は従業員じゃなくて経営者だ』

「け……経営者!?和樹が!?」

『その店のオーナー兼店長ってとこだな』

「……」

『綾?どうした?』

「……いや……和樹が経営者って事に驚いてしまって……」

『驚いた?なんで?』

「……和樹が経営を出来るなら私にも出来るんじゃないかと思って……」

失礼極まりない私の発言に響さんは楽しそうに笑った。

『なんだ?自分の店でも持ちたいのか?』

響さんに笑いながら尋ねられた私は

「……いえ、自分の店なんて要りません」

『……?』

「なんだか、いろいろと面倒くさそうなんで……」

『面倒くさいか。お前らしい答えだな』

電話の向こうで響さんが苦笑しているのが分かる。

「そうですか?……ところで響さん……」

『うん?』

「どうしてお店の名前が分かったんですか?」

『どうしてだろうな?』

……私が質問したのに……

響さんは答えるどころか

私に質問を投げ掛けてきた。

「……どうしてでしょうね……」

答えが分からないから聞いたのに……。

どうやら響さんはその答えを教えてくれる気はないらしく……。

小さな笑い声が聞こえてくるだけ。

「……ちょっと分かりませんね……」

答えの検討さえつかない私はなんとも情けないくらいにあっさりとリタイアしてしまい

余計に響さんの笑いを誘ってしまった。

そんな私に響さんはやっと謎の種明かしをしてくれた。

『仕事上、繁華街の情報はすぐに入ってくる』

「……?」

『まぁ、ある意味職権乱用だけどな』

「職権……乱用?」

やっと響さんが種明かしをしてくれたけど……。

私には響さんの答えの意味が理解出来なかった。

それどころか謎は余計に深まってしまった。

『……それより……』

「はい?」

『来週の日曜日は忙しいか?』

「来週の日曜日ですか?」

『あぁ』

「えっと……時間は?」

『そうだな。昼過ぎから夜まで空けて貰えると助かる』

……えっと……。

日曜日は雪乃ママのお店は定休日だし。

バイトがない日に私に予定なんてモノが存在するはずもなく……。

「大丈夫です」

『そうか。良かった』

響さんの安心したような声がケイタイ越しに耳に届いた。

「なにがあるんですか?」

『うん?』

「来週の日曜日……」

『それは、その日のお楽しみだ』

「お楽しみ……ですか?」

『あぁ』

……。

どうやら、響さんはまたしても私に答えはくれないらしい……。

……まぁ、いっか……。

当日になれば分かる事だし……。

「分かりました。それじゃ楽しみにしています」

『あぁ、期待していてくれ』

「はい」

『じゃあ、また連絡する』

「分かりました」

『……綾……』

「はい?」

『まだしばらく、その店にいるんだろ?』

「えっ?……あぁ、多分……」

『もし、何かあったらすぐに連絡して来いよ?』

「はい、分かりました」

『約束は覚えてるな?』

「“自分からケンカは売らない。”ですよね?」

『あぁ、そうだ』

「大丈夫です。ちゃんと覚えてますから」

『安心した。それから、今日は誰かにカラまれたら俺に連絡を入れて5分だけ我慢しろ』

「5分?」

『今、俺がいる場所からお前がいる場所まで5分で行ける』

「えっ!?そうなんですか?」

『あぁ、だから5分だけ我慢しろ』

「……あの……それって……」

『お前にカラもうとする奴はこの街から消してやる』

そう言った響さんの口調はいつもと変わらず優しくて穏やかだったけど……。

響さんが放った言葉はとても威圧的で背筋に冷たいモノが流れた。

冗談にも聞こえるけど……。

響さんはそんな冗談を言う人じゃないような気がする。

それに、この言葉を他の人が言ったら私も笑えるけど……。

響さんが言ったら、全然冗談に聞こえない。

だって、響さんなら……。

その言葉を実行するだけの力を持ってたりする。

……ダメだ……。

なんかよく分からないけど……。

今日は絶対にモメたり出来ない。

「だ……大丈夫です!!」

『えっ?』

「今日は人に絡まれたりしない気がします!!」

『そうか?』

「はい!!」

『なんでそう思うんだ?』

「勘です!!」

『勘?』

「私の勘って結構凄いんですよ」

『凄いのか?』

「高校の入試の時も勘のお陰で合格出来たし……」

『……』

「テストの時だって勘のお陰でギリギリ赤点は免れてるんですよ」

『……』

「凄いでしょ?」

得意気な私の言葉に

『……それは凄いな』

響さんは苦笑気味の声を漏らした。

……あっ……。

また、私ったら動揺して変な事を言ってしまったような……。

「と……とにかく!!大丈夫ですから!!」

『そ……そうか?』

「はい!!せっかく響さんも飲みに行ってるんだから私の心配よりも楽しんで下さい!!」

『あぁ、そうだな。でも……』

「……?」

『俺は、飲みながらお前の心配をするのも充分楽しいけどな』

……出た!!

響さんの必殺技。

私の鼓動を殺人的に速める言葉を平然と吐き出す技。

負けず嫌いな私も響さんのこの技にだけは勝てない事を悟っている。

こんな時、私に出来る事と言えば

「……それはどうもありがとうございます……」

自分でも意味不明なお礼を述べて

『どういたしまして』

響さんの爆笑を誘う事ぐらいしかない。

『まぁ、何かあったら連絡をくれ』

「……はい」

ケイタイを閉じた私は立ち上がり大きな鏡を覗き込んだ。

熱く感じる頬は、案の定赤く色付いている。

……情けない……。

バイトとは言え、夜の仕事をしている私が男の人の一言にこんなにも自分のペースを乱されるなんて……。

一体、数ヶ月前の私はどこに行ったんだろう?

男に甘い言葉を言われてもなんともなかったのに……。

むしろ鼻で笑い飛ばせていたのに……。

響さんが相手だと、どうも調子が狂ってしまう。

私はそんな自分に戸惑っていた。

……しっかりしなきゃ……。

私は頬を両手で叩き気合いを入れてジャングルのようなトイレを後にした。

◆◆◆◆◆

アリサ達がいる席に近付くと

『綾ちゃん、おかえり』

ニッコリと笑顔で迎えてくれた和樹と

「お腹の調子はどう?」

笑いを押し殺しているアリサ。

否定をする事さえ面倒くさい私は

「もう、大丈夫」

そう告げて自分の席に座った。

「やっぱり、お腹が痛かったんじゃん」

我慢の限界に達したらしいアリサが再び爆笑をし始めた。

……この女……。

軽く殴ってみようかしら。

そんな思いが込み上げてきた私は

テーブルの下で拳を握り締めた。

アリサに対する嫌悪感は無くなったけど

なんかムカつく。

力一杯、頭を叩いて「あっ!!虫がとまってた!!」とか言えばいいんじゃない?

……我ながら完璧な作戦だわ。

「一気に飲み干すからお腹が痛くなるのよ」

『えっ?綾ちゃん一気に飲み干したの?』

「そうよ。今回はお腹が痛くなってトイレに籠もるだけで済んだけど次は急性アルコール中毒で病院に運ばれるわよ」

『へえ~綾ちゃん酒に強いんだね。俺、酒に強い女の子大好きだな』

「一週間も罰則喰らって休んだ挙げ句にアル中でまた休むつもりなの?」

『今度、俺とカクテルツアーでもする?あっ!!ちなみにこれはデートのお誘いだから』

「ところであんたどの位飲めるの?」

『里菜、ナイスな質問だな。俺もデートに備えて是非聞きたい』

アリサと和樹は私を見つめている。

……。

この2人そっくりだ。

人の話を全然聞かないところも

どこまでもマイペースなところも

とても似ている。

イラつきを通り越してなんだか笑えてくる。

噛み合っているようで全く噛み合っていない会話。

いつの間にか和樹にはデートに誘われてて

アリサからはアル中扱いをされている。

質問をしているのか、独り言なのかさえ分からない程の機関銃トーク。

それらにひとつひとつ答えるだなんて面倒くさい私は

他の質問は軽くスルーして

最後にアリサがした質問にだけ答える事にした。

「……どの位飲めるかは分からないけど……」

「いつもは何を飲むの?」

「……ビール」

「どの位?」

「友達と飲む時は箱で買わないと足りない」

「は?」

『え?』

「……?」

なに?

この人達……。

なんでこんなにビックリしてんの?

『ねえ、綾ちゃん』

「なに?」

『箱ってケースって事?』

「そうよ」

『それって6本じゃないよね?』

「当たり前でしょ」

『それを何人で飲むの?』

何人って……。

凛と瑞貴だから

「たまに増える事もあるけど基本的に3人かな」

「……」

『……』

私の言葉にアリサと和樹は顔を見合わせた。

「……?」

『里菜、残念だったな。綾ちゃんがアル中でぶっ倒れる事はねえよ』

「そうね。もしかしたら私よりも強いかもしれないわ」

楽しくて仕方が無いって感じの和樹と

呆れ果ててるって感じのアリサ。

そして、相変わらず2人についていけてない私。

アリサの言葉を和樹は鼻で笑っている。

『綾ちゃんが飲めるって分かった事だしそろそろ始めるか?』

和樹は意味ありげな笑みを浮かべてて

「そうね。心配して損しちゃったわ」

始める?

何を?

……てか、心配ってなんの心配?

どうしても二人の会話に着いていけない私が首を傾げていると

『綾ちゃん、さっきの質問の答えなんだけど……』

和樹が私に視線を向けた。

「えっ?質問?」

『うん。さっき綾ちゃんが聞いただろ?何が始まるの?って』

答えが保留になっていた質問の存在すら忘れていた私は

「……あぁ、そう言えば……」

やっとその存在を思い出した。

『……忘れてたんだ』

「そうみたいね」

和樹とアリサが苦笑している。

明らかに私に不利な空気が漂っている事に気付いた私は

「……で、なにが始まるの?」

その空気を変えようと2人に尋ねた。

「これ」

『これ』

珍しく同じ言葉を発した2人がテーブルの中央を指差した。

……なんか……。

息がピッタリ合ってない?

今までの2人の言動を見ていた私は

そんな2人に驚いてしまった。

驚きつつも私の視線は2人の指先の延長線上で交差する位置に向けた。

そこにあるのはアリサが注文した“あれ”がある。

登場はしたもののなかなか出番が来なかった“あれ”。

「……テキーラ?」

“あれ”の正体はテキーラのボトルだった。

「そうよ」

「これをどうするの?」

「どうするって飲むに決まってるでしょ?これを他に使う方法があるの?」

テキーラを飲む以外に使う方法?

……。

……。

「……傷の消毒とか?」

私が頭をフル回転させて出した答えに

『綾ちゃん、面白い答えだね』

爆笑している和樹と

「バカじゃない?こんなモノで傷の消毒なんてしたら痛くて堪らないじゃない」

呆れているらしいアリサ。

「……」

……まぁ、確かに痛いだろうけど。

……飲むって……。

なんでボトルで出てくる訳?

普通はカクテルに姿を代えて登場しない?

「……まったくバカだとは思ってたけど本当にここまでバカだなんて」

真顔で人を貶すアリサ。

暴言を吐いているアリサを他所に和樹はテキパキとショットグラスを3つ並べている。

私はアリサの言葉を軽くスルーして慣れた手付きでグラスにテキーラを注ぐ和樹の手を見ていた。

グラスに溢れそうなくらい注がれた透明の液体は青いライトに照らされて青み掛かっている。

そのグラスを和樹は、私達の前にそれぞれ置いた。

「……ねえ……」

『なに?綾ちゃん』

「これって何かで割ったりしないの?」

『うん、しない』

「このまま飲むの?」

『そうだよ。綾ちゃんはテキーラをストレートで飲むのは初めて?』

「うん」

『そっか。んじゃあ、俺の真似をしてくれる?』

「うん」

『まず左手でレモンを持って』

和樹は小さなお皿に載っていたカットしたレモンを親指と人差し指で摘んだ。

「うん」

和樹と同じように私もレモンを左手で摘む。

『んで、ここに塩を載せる』

和樹は小さな瓶に入っている塩を左手の親指の付け根に少量載せた。

「うん」

同じように私が塩を載せると

『これで準備は完了』

「完了?」

『うん、これの飲み方は……』

和樹は右手でショットグラスを持つと

『見ていてね』

そう言ってニッコリと笑みを浮かべた。

「分かった」

私が頷くと、和樹は

塩を舐め

テキーラを喉に流し込み

レモンをかじった。

流れるようなその動きに私は固まった。

テキーラをストレートで飲んだ事がないからどんな味かは分からないけど……。

これって、そんなに水みたいに飲めるもんなの?

……てか、塩を舐めたら塩っ辛いでしょ!?

レモンをかじったら酸っぱいんじゃないの!?

一連の動作を終えた和樹は微かに眉間にシワを寄せた後

『……美味い!!』

私が想像出来なかった言葉を発した。

……はぁ?

……美味い?

“塩+テキーラ+レモン=美味い”

マジで!?

そんな図式が成り立つの?

「……美味しいの?」

『うん、美味しいよ。綾ちゃんも飲んでみなよ』

「えっ?私も飲むの?」

『大丈夫、練習だよ、練習』

……練習って……。

一体、何の練習よ?

……てか、なんでお酒を飲むのに練習が必要なの?

「私も練習しちゃおう」

アリサがなぜか嬉しそうにレモンを摘み、塩を載せグラスを持った。

『お前には練習なんて必要ねえだろ』

呆れた表情の和樹を他所にアリサは

塩を舐め

テキーラを一気に喉に流し込み

レモンをかじった。

和樹の言葉通り、アリサの動きはとても手慣れていて

練習なんて必要がないように思えた。

ショットグラスをテーブルに置いたアリサは

和樹と同じように微かに眉間にシワを寄せた後

「美味しい」

青み掛かった液体を絶賛した。

アリサを見ていると和樹の反応は間違ってなかったらしく……。

どうやら、この液体はとても美味しいらしい。

しかも、アリサは「幸せ~」とお店では絶対に見せないような表情をさらけ出している。

『本当に里菜はテキーラが好きだよな』

和樹は苦笑している。

「は?あんたテキーラが好きなの?」

私がアリサに視線を向けると

「うん、大好き」

色気満載の微笑を浮かべた。

「そ……そう……」

アリサの表情があまりにも色っぽくて……。

不覚にも顔を熱くしてしまった私。

そんな、私とアリサのやり取りを見ていた和樹が

『……ぶっ!!』

勢い良く吹き出した。

『里奈、綾ちゃんが引いてんぞ』

和樹の言葉はアリサには届いていないらしく

空になったグラスにいそいそとテキーラを注いでいるアリサ。

「……」

そんなアリサに言葉を失っている私。

『里奈にとってテキーラはある意味彼氏みたいなもんだ』

和樹は苦笑気味に口を開いた。

「……男?」

和樹に私が問い掛けた瞬間

「……チッ……」

私の耳に届いたのは……舌打ちの音。

その音を発したのは、もちろん私でも和樹でもなく

今まで青み掛かった透明の液体を幸せそうに見つめていたアリサだった。

突然のアリサの豹変ぶりに

「……!?」

動揺を隠せない私を他所に和樹は

『里菜、どうした?』

不思議そうではあるけど呑気な口調で尋ねた。

不機嫌さを思う存分顔に出しまくっているアリサはおもむろにバッグに手を突っ込んだ。

な……なに?

私と和樹に注目されているアリサがバッグから取り出したのはケイタイだった。

ブルブルと振動するケイタイが七色の光を発している。

液晶を見たアリサは、面倒くさそうに溜め息を吐きながらダルそうに腰を上げた。

自分のケイタイから無言で注目していた私達に視線を移したアリサは

「……客……」

それだけ言い残して、さっき私が行ったトイレへと消えて行った。

「……?」

アリサが残した言葉の意味が分からず首を傾げていた私に

『アリサの客から連絡が入ったんだよ』

状況を理解したらしい和樹が教えてくれた。

「……あぁ、なるほど……」

頷いた私は、気になった事を尋ねた。

「ねえ、さっきのはどういう意味?」

『うん?さっき?』

「そう、さっき言ったでしょ?“アリサにとってテキーラは男みたいなもんだ”って」

『あぁ、言った』

「それってどういう意味?」

『気になるの?』

「うん、ものすごく」

『そっか~』

なぜか和樹は驚いたような表情を浮かべた。

だけど、その表情はすぐに嬉しそうに緩んだ。

『本当は俺の口から話すべきじゃねえのかも知れねえけど……』

和樹はそう言いながら、ポケットからタバコを取り出した。

そのタバコはアリサと同じ銘柄のタバコだった。

『綾ちゃん、吸ってもいい?』

タバコの箱を左右に振る和樹。

「うん、どうぞ」

私はテーブルの中央に置いてある灰皿を和樹の前に引き寄せた。

『ありがとう』

和樹はタバコをくわえるとさっき私に火を差し出したジッポで火を点けた。

金属の重なり合う高い音を聞いていると

『綾ちゃんには話してもいいかな』

和樹の呟くような声が聞こえた。

その声はとても小さくてすぐに大音量の音楽に飲み込まれたけど

でも、わたしの耳にはしっかりとその言葉が届いた。

憂いを帯びた優しい声が……。

『あいつさ、悪い奴じゃねえけどあんなんじゃん?』

ゆっくりと煙を吐き出した和樹がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

『人に対して無愛想って言うか偉そうっていうか……』

和樹の言いたい事を理解した私は

「……うん」

頷いた。

『やっぱり綾ちゃんもそう思ってんだ』

苦笑気味の和樹。

『でも、それはあいつが育って来た環境の所為や今あいつがいる場所の所為なんだ』

「……?」

『あいつが育った環境は複雑って言うか……決して恵まれた環境じゃなかった』

「……」

『それがどんな環境だったかは俺の口からは言えない』

「……」

『でもさ、あいつが人に対して壁を作って1人になろうとする癖はその環境で身に付けた自己防衛みたいなもんだ』

「自己防衛?」

『うん。そうする事であいつは自分を守ろうとしてんだ。昔も今も……』

和樹は私の顔から宙に視線を移した。

きっと和樹の瞳には私には見えないモノが見えている。

私が知らない頃のアリサが……。

『人ってさ、自分がどんなに1人でも生きていけるって思ってても実際は無理じゃん』

「……うん?」

『どんなに強がってても、誰にでも寂しい時はあるし、辛く悲しい時もある。逆に嬉しい時も誰かとその喜びを分かち合いてえとか思うだろ?』

「うん」

『でもさ、あいつはそんな時でも人に甘える事はなかった』

「……」

『まぁ、甘える方法が分からないって言った方が正しいのかもしれねえけどな』

「……」

『そんなあいつを支えたのがこれなんだ』

和樹が引き寄せたのはテキーラのボトル。

「……?」

『1人で寂しい時も、仕事で辛く悲しい事があった時もNo.1になって嬉しい時も……』

「……」

『いつもあいつはここでこれを飲んでた』

「……そうなんだ。だから……」

『うん?』

「さっき聞いたの。前はほぼ毎日ここに通ってたって……」

『あぁ、あいつは強がってはいるけど誰よりも弱いんだよ』

「……うん」

『酒の力を借りないと本当の自分を出せない』

……やっぱり私とアリサはよく似ている。

他人の前ではいつも強がってしまう弱さも……。

和樹はとても優しい瞳でボトルを見つめている。

きっと和樹はずっと……。

とても長い時間こんな瞳でアリサを見つめていたんだと思う。

弱く儚いアリサを見守っていたんだ。

それが友情ゆえのものなのか

それとも愛情ゆえのものかは分からないけど……。

……もしかしたら……。

『正直、俺は心配だった』

「心配?」

『あぁ、あいつがいつも飲んでたこれは強い酒だろ?毎日仕事でも酒を飲んでその上朝までここでこれを飲んで。いつか身体を壊してぶっ倒れるんじゃねえかって気が気じゃなかったよ』

「そうだね」

『だけど今は心配いらない』

「えっ?」

『今、あいつを支えてんのはこれじゃなくて人間の男だ』

「はぁ?知ってるの?」

『あぁ、知ってる。あいつが今付き合ってんのは店の店長だろ?』

「……」

『ここにも、たまに2人で飲みに来る』

「……」

『人が仕事してんのにイチャ付いてんじゃねえよな?』

和樹の言葉は明らかに冗談っぽいけど……。

「……ねえ」

『うん?どうした?』

「私、アリサと同じ店で働いてるんだけど……」

『あぁ、知ってるよ?』

「私に店長とアリサの事を話しても大丈夫なの?」

『……?』

「もし、私がアリサ達の事を知らなかったら……ヤバくない?」

『あぁ、そういう事か』

和樹は穏やかな笑みを浮かべた。

『大丈夫。だって綾ちゃんは知ってるんだろ?』

「……うん、でも……もし知らなかったら……」

『大丈夫』

私の言葉を遮り断言した和樹。

なんでそんな風に断言出来るのかが私には分からない。

「だ……大丈夫なの?」

『うん。大丈夫』

「な……なんで断言出来るの?」

『うん?それはね……』

和樹の穏やかな笑顔が自信に満ち溢れた笑顔に変わった。

『綾ちゃんは里菜がここに連れてきた女の子だから』

「……はぁ?」

……それだけ?

たったそれだけの事でこの人は断言しちゃったの!?

『里菜はさ、俺以外に友達なんていないんだよ』

衝撃の事実をサラッと暴露した和樹。

「……」

私はその事実になんて言っていいのかが分からなかった。

『あっ!!でも、全く人との繋がりが無いわけじゃないよ?あいつも雪乃さんの店のNo.1なんだからそれなりに有名人だし、顔見知りや自分の客は俺なんかよりもたくさんいる』

「う……うん……」

『俺が言う友達ってのは里菜が自分の心の内をさらけ出せるって意味なんだけど』

「あぁ……なるほど」

『そう言う意味で言えば里菜は綾ちゃんを友達として認識してるはずだよ』

……。

……はい?

アリサが私を……。

友達として認識してる?

……。

……。

「はぁぁぁ!?」

私の驚きの声が店内に響き渡った。

『あ……綾ちゃん!?』

私の馬鹿デカい声に和樹が驚いた声を出したけど

今はそんな事を気にしている場合じゃない。

「……アリサが……私を……友達……」

『……』

ブツブツと呟く私に和樹が引いているのは分かる。

そりゃあ、絶叫したりブツブツ呟く私は誰から見ても気持ちが悪い人に違いない。

自分でもそう思うし……。

……だけど!!

和樹が放った言葉は私を気持ちの悪い人に変貌させるには充分過ぎる言葉だった。

「……私は……アリサの……友達……」

自分の頭に理解させるように何度も呟く私に……。

『だ……大丈夫?綾ちゃん?』

よほど心配になったらしい和樹が恐る恐る声を掛けて来る。

「……なんで和樹はそう思うの?」

『えっ?』

「アリサが私の事を友達だと思ってるって……どうしてそう思うの?」

『あぁ、それはね……』

「……」

私は和樹の顔を真剣に見つめていた。

自分でも、どうしてこんなに必死なのかは分からないけど……。

なぜか和樹の言葉を聞かないといけないと思った。

『綾ちゃんをここに連れてきたのが里菜だから』

……さっきとは多少違う言葉だけど……。

和樹が口にした言葉はさっきと同じ意味の言葉だった。

和樹の言葉の意味がいまいち理解出来ない。

確かに、私をここに連れてきたのはアリサだけど……。

それがどうしてアリサが私を友達と認識している事に繋がるのかが分からない。

『分からない?』

どうやら私の疑問だらけの心境が顔にも出ていたらしく

和樹は私の顔を覗き込むように尋ねる。

「……うん、ごめん」

『いや、別に謝るような事じゃ……うん、分からなくて当たり前なんだ』

「分からなくて当たり前?」

『うん、なんて言えばいいのかな……』

和樹はテーブルの上のボトルを見つめている。

一見、ぼんやりと眺めているようにも見えるけど

その行動は、和樹が適当な言葉を探しているんだと悟った私は

黙って和樹が口を開くのを待った。

しはらくして、和樹は小さく頷いてから口を開いた。

『里菜がこの店に人を連れて来るのは綾ちゃんが2人目なんだ』

「そうなの?」

『うん、1人目は里菜の男だった』

「……そう」

『んで、2人目が綾ちゃん』

「私?」

『うん。だから、綾ちゃんは里菜にとって特別なんだって俺は思ったんだ』

「特別?なんで?」

『里菜にとってここは本当の自分を出せる数少ない場所なんだ』

「……」

『あいつは自分の客や職場の女の子をここに連れてくる事は絶対にない』

「……」

『それってさ、多分あれなんだと思うんだ』

「あれ?」

『誰でも、自分のテリトリーってあるじゃん。他人をそこに入れたくないみたいな。分かるかな?』

「……もしかして、私が自分の部屋には、本当に気を許した人しか入れたくないって思う感じみたいな事?」

『そう!!それそれ。里菜にとってここもその一つなんだ』

「……なんとなく分かる」

『良かった。だから里菜が綾ちゃんをここに連れてきたっていう時点で里菜は綾ちゃんに好感を持ってたんだよ』

「……好感……」

『あいつって分かり難いよな?』

「……うん、かなり……」

和樹が苦笑するから私も溜め息を吐きながらも笑ってしまった。

『でもさ、あいつが「あなたと仲良くしたいんです」とか素直に言ったらそれはそれで気持ち悪ぃだろ?』

「……確かに……」

想像しただけでもその気持ち悪さは充分だった。

だってアリサはあれがアリサだと思う。

偉そうで

口が悪くて

黙ってたら可愛いのに口を開くともう最悪。

でも、それがアリサなんだ。

過去に何があったのかとか

どんな傷を抱えているとか

そんな事は私には分からないけど

現在(いま)私が見ているアリサを

私は嫌いじゃないと思う。

……だから……。

「アリサはアリサだから……」

『うん?』

「アリサのままでいいと思う」

私は、思ったままの言葉を口にした。

『……えっ!?』

和樹は驚いたような声を出したけど

私は言葉を紡いだ。

「私、数時間前までアリサの事が大嫌いだったの」

『……うん』

「でも、ここでいろいろ話してみてアリサに対する印象が変わった」

『……うん』

「もっと器用に生きたら楽なのに。不器用にしか生きれない」

『……うん』

「でも、それは私も同じ」

『うん?』

「私も不器用にしか生きれないの。その辺にいる女の子みたいに自分よりも強い相手に媚びを売って愛想笑いをするくらいなら敵を増やす方がまだマシだと思う」

『……うん』

「だから、アリサの生き方には共感する事はあっても悪いとは思わない」

『……うん』

『だから、アリサの事も面倒くさいと思う事はあっても……嫌いじゃないわ』

初対面の和樹に私がそう言えたのは

きっと和樹が心を裸にして私と話してくれたからだと思う。

先に自分の心をさらけ出してくれたから

私も素直に自分の想いをさらけ出せたんだ。

それに和樹には話しやすさがあった。

話を聞く態度も相槌を打つタイミングも……。

和樹が持つ雰囲気が私から言葉を引き出していく。

そんな感じがした。

アリサが和樹に心を開いた理由が何となく分かった気がした。

どことなく嬉しそうな表情を浮かべている和樹が

『この前、里菜が殴り合いのケンカをした相手って綾ちゃんだろ?』

表情を変える事なく私に尋ねた。

「……うん」

『里菜はその時に「もしかしたらこの子と仲良くなれるかもしれない」と思ったらしいよ』

「はぁ?」

『顔中傷だらけで嬉しそうに話してた』

「……」

『んで、あいつが言ったんだ。「近いうちにここに連れて来る」って』

「……」

『だから、俺もすげえ楽しみにしてたんだ』

和樹はそう言って私に右手を差し出した。

その手を戸惑いながらも握ると、

和樹は私の手を握り返しながら言った。

『里菜共々よろしくな』

全身がくすぐったくなるような言葉。

照れくさい私は

「……うん」

和樹から視線を逸らし俯きながら答えた。

◆◆◆◆◆

「ちょっと和樹!!」

トイレから戻ってきたアリサが不機嫌そうな声を出す。

『うん?里菜、終わったのか?』

「うん、やっと諦めてくれたわ」

『やっぱりお誘いだったのか?』

「そうよ。今日店に来た客がこの近くで飲んでるらしくって今から来いってうるさいのよ」

『断ったんだろ?』

「もちろん。仮病を使ってやったわ」

『仮病?どんな?』

「お腹が痛くて行けないって」

『……まさか……』

「お腹が痛いのは私じゃなくて誰かさんだけどね」

小悪魔みたいな表情でアリサは私にウィンクを放った。

……誰かさんって……。

もしかして、私の事!?

……この女、マジで最悪……。

アリサはどうしても私をお腹が痛い事にしたいらしい……。

言い返す気力さえない私を和樹はチラッと見て笑いを零す。

「……それより、和樹。私が席を外した隙になんで手なんか握ってんのよ?」

アリサは私と和樹の手に視線を移した。

突然のアリサの登場で手を離すタイミングを逃していた私と和樹。

その手はがっちりと握手を交わしたままだった。

だけど、アリサには和樹が私の手を握っているように見えるらしく

「……全く油断も隙もないんだから……」

和樹を睨みながら文句を言うアリサに

『お前、タイミング悪過ぎ。今、綾ちゃんを口説いてたんだよ。もう少し気を使えよ』

和樹はアリサを煽るような言葉を口にした。

口にしただけならまだしも繋いでいる私の手を引き寄せ

私の手の甲に唇を寄せた。

「……!?」

アリサの顔がみるみるうちに青ざめていく。

だけど和樹の行動に驚いたのはアリサだけじゃなくて……。

「……!!」

……一番、驚いたのは私だった……。

空気が凍り付く中、和樹は数秒間、私の手の甲に唇を寄せていた。

振り払おうと思えば出来たはず……。

私の手を掴んでいる和樹の力は入ってないに等しかったし……。

寄せている唇も微かに触れている程度で……。

でも、驚き過ぎた私の身体は全く動かなかった。

ついでに言うと、頭も真っ白でこの状況が理解出来なかった。

ただ呆然と至近距離にいる和樹を眺めていた。

まるで映画やドラマを見るように現実味がない。

そんな状況に終止符を打ったのはアリサだった。

トイレから戻ってきて一度は椅子に腰を下ろして私達を見ていたアリサが

ハッと我に返ったように再び立ち上がり

和樹の頭を力一杯叩いた。

辺りに響いたその音でやっと我に返った私の耳に

『……痛っ!!』

和樹の悲痛な声が聞こえ

同時に手の甲から温もりが離れた。

「なにやってんのよ!!」

アリサは悪魔を通り越し鬼のような形相で和樹を睨むと

徐にテーブルの上に置いてあった濡れた布で私の右手の甲をゴシゴシと拭き始めた。

力任せに拭かれる私の手の甲はみるみるうちに赤くなってて

「……痛い……」

思わず口から零れた私の言葉に

「あぁ?」

アリサは低い声で威嚇してくる。

「……」

……今は何も言わない方がいい……。

そう悟った私はさり気なくアリサから視線を逸らした。

『……里菜……』

「なによ!?」

『……それ……』

「はぁ!?どれよ?」

『綾ちゃんの手を拭いてるそれ』

和樹はアリサが私の手を拭いている布を指差した。

「これがなによ?」

『それ、おしぼりじゃなくてテーブル拭きだぞ』

……!?

「それが何よ?別に問題ないでしょ?」

……!!

『まぁ、俺とお前には別に問題なんてねえけど』

「……」

『綾ちゃん的にはすげえ嫌だと思うぞ』

アリサは手に握っている布巾に視線を落とした後

私に視線を向けた。

そして

「……嫌なの?」

当たり前な質問を私にぶつけてくる。

「……かなり……」

私がそう答えると、アリサは大きな溜め息を吐きながら

「……面倒くさい女ね」

呟いた。

……はい?

面倒くさい女?

私が?

誰だってテーブル用の布巾で手を拭かれたら嫌でしょ!?

てか、なんで私が面倒くさい女なのよ!?

どう考えても私は被害者じゃない。

和樹には手にキスをされて……。

アリサには力一杯手を拭かれて……。

痛いって正直に言ったら威嚇されて……。

挙げ句の果てにそれはおしぼりじゃなくてテーブル用の布巾だったなんて……。

最悪以外のなにものでもないじゃない。

アリサがやっと解放してくれた手をさすりながら和樹に視線を移すと

自分が全ての原因のくせに

楽しそうに笑っていた。

そんな和樹に怒りを通り越し呆れるしかない私。

小さな溜め息を吐き出した私に

「……ねえ……」

アリサが真剣な表情で話掛けてきた。

「……なに?」

「拭くだけじゃ心配だから消毒もしておけば?」

「消毒?」

「うん、ちょうどこれがあるし」

アリサが私に差し出したのはテキーラのボトルだった。

「……なっ!?」

「ちゃんと消毒しといた方が後々安心よ」

冗談のような言葉を真顔で言うアリサ。

『……ひっでえな、おい。俺は病気なんて持ってねえぞ』

「病気は持ってなくてもあんたの馬鹿が感染ったらどうすんのよ?」

『……まぁ、それは否定出来ねえけどな……』

えっ!?

……そこは否定しないんだ……。

こっちがビックリするくらい自分が馬鹿だって事をあっさりと認めた和樹に

「でしょ?」

アリサは勝ち誇った表情を浮かべてて

2人の会話にやっぱり口を挟めない私は

やっぱり2人のやり取りを見ている事しか出来なくて……。

『どうせ消毒するなら飲んだ方が早くねえ?』

自虐的とも取れる和樹の発言に

「それもそうね」

アリサが神妙な表情で頷いた。

『……って事で、綾ちゃん』

「……?」

『どうぞ』

和樹が掌で指したのは、私の目の前にある青み掛かった液体で……。

……どうやら、和樹は私にこれを飲む事を勧めているようで……。

それはなんとか理解出来たけど

「はい、分かりました」

って飲むことは出来ない。

だって、これは今までに飲んだ事のない液体だし……。

飲んだ事のない割には、とても強いお酒だって知ってるから

余計、手を出す事に躊躇ってしまう。

目の前のショットグラスと私を楽しそうに見つめる和樹の顔に交互に視線を向ける私に

「なにボヤボヤしてんの!?」

痺れを切らしたのはアリサで

「は?」

「早く飲んで消毒しないと感染るわよ」

「感染る?」

「そうよ、和樹の馬鹿さ加減は最強よ?」

「……」

「あんた、それ以上馬鹿になりたいの?」

……。

……これ以上、馬鹿にはなりたくないけど……。

冗談なのか真剣なのかいまいち分からないアリサから和樹に視線を向けると

『……最強らしいよ』

まるで他人事のような口調でアリサの意見に賛同する。

和樹はこの状況が楽しくて仕方がないって感じで……。

どう考えてもここには「飲みたくないなら飲まなくてもいい」という私の味方はいないらしい。

……って事は、私はこれを飲まないといけないらしく……。

この人達もそれを望んでいるらしい。

そう悟った私は、小さな溜め息を吐き出しレモンを摘んだ。

さっき、和樹に教えて貰ったように

左手の親指の付け根に塩を載せ

ショットグラスを持つ。

チラッと視線を上げるとアリサと和樹は私を見ていて

その瞳はとてつもなく輝いていた。

その瞳を見て完全に諦めた私は

塩を舐め

テキーラを喉に流し込み

レモンをかじった。

本能的に味わうのは危険だと判断し、口に入った瞬間に飲み込んだから

味は分からないけど……。

喉が焼けるように熱い。

テーブルにグラスを置くと

アリサと和樹が身を乗り出して私の顔を覗き込んでくる。

「どう?」

『どう?』

2人共感想が聞きたいらしいけど……。

今、声を出すのは危険。

絶対にムセてしまう。

いつもなら絶対にレモンをかじったりとかしないのに……。

レモンを口から離す事が出来ない。

「……ちょっ!!大丈夫」

ひたすら俯いているとアリサの焦った声と

『おい!!水、持って来い!!』

これまた焦った和樹の声が聞こえる。

和樹の珍しく大きな声にカウンターにいた男の子が慌てた様子で水の入ったグラスを持ってきた。

『綾ちゃん、これ飲んで』

差し出された水を私は一気に飲み干した。

喉の焼け付くような感じが冷たい水によって冷まされる。

私は大きく息を吐き出した。

「大丈夫?」

心配そうなアリサの声に

「……まずっ……」

私は顔を歪めた。

そんな私を見た和樹が心配そうな表情を崩し

楽しそうに声を出して笑い出した。

アリサも安心したように表情を緩め

「心配させるんじゃないわよ」

呆れたように溜め息を吐いた。

◆◆◆◆◆

この日、私は生まれて初めて記憶を無くすくらい酔った。

あんなにマズいと思ったテキーラ。

最初の一杯を飲んだ後は

こんなにマズいなら一生飲まなくていいと思ったのに……。

その考えは長くは続かなかった。

私がテキーラを飲み干した後、しばらく動けなかった事もあって

心配した和樹が『無理しなくていいよ』とジントニックを出してくれた。

それを飲んでいる私の前でガバガバとテキーラを飲むアリサと和樹。

それを喉に流し込む度に「美味しい!!」と幸せそうな声を出す2人を見ていると

さっきマズいと思ったテキーラが段々美味しそうに見えてきた。

もしかしたら、私はこの時一杯目のテキーラですでに酔っていたのかもしれない。

美味しそうにテキーラを飲み干すアリサを見ていると

「飲む?」

私の視線に気付いたらしいアリサが尋ねた。

きっとアリサはもちろん和樹も

私が断ると思っていたに違いない。

その証拠に

「……飲む」

私の言葉に

「えっ!?」

『マジで!?』

2人が驚いた表情ですっと呆けた声を出した。

和樹はともかくアリサは自分から聞いてきたくせに……。

「……うん」

「そ……そう。じゃあ、私が注いであげる」

アリサは空のまま放置してあった私のショットグラスにテキーラを注いだ。

『あ……綾ちゃん、大丈夫?』

和樹はよほど私の事が心配らしい。

そんな和樹に

「大丈夫」

告げた私はレモンを摘んだ。

「あっ!!待って!!」

「……?」

「折角だからみんなで飲もうよ。ほら!!和樹!!なにボサッとしてんのよ!?早く注いでよ!!」

『えっ!?……あっ……あぁ』

小さな子供を心配する親のような瞳で私を見ていた和樹が

アリサの声で我に返ったようで

テキーラをアリサと自分のグラスに注いだ。

『ほらよ』

和樹がグラスを差し出し

「ありがと」

アリサが受け取った。

「乾杯」

どことなく嬉しそうにグラスを差し出したアリサ。

『イエ~イ』

3つのグラスがぶつかり合い軽やかな音を奏でた。

テキーラを一気に飲み干した私を

同じく一気にテキーラを飲み干した2人が見つめる。

その瞳はやっぱり心配そうで……。

だから、私は口を開いた。

「……さっきよりも美味しい気がする」

私の言葉にアリサと和樹はお互いに顔を見合わせ

「やっぱり強いのよ」

『……だな』

苦笑した。


それからは、3人で何度も乾杯をした。

途中からはカウンターにいた男の子達も参加して

みんなでテキーラを飲んだ。

結構、入っていたボトルの中身がどんどん減っていく。

そのボトルが空いたあたりから私の記憶は曖昧になった。

微かに残っている記憶と言えば……。

その場にいた全員が笑顔だった事。

テキーラを飲んでも水を飲んでいるようにしか感じなかった事。

身体がフワフワと宙に浮いているようでとても気持ちが良かった事。

和樹や男の子達が面白くて私とアリサは涙を浮かべて笑っていた事。

そして帰る間際、アリサが私に「ありがとう」と言って手を差し出した事。

……どうして、アリサがそんな事を言ったのか

その時の私には考える余裕なんてなかったけど……。

アリサのその言葉がなぜか嬉しくて

そしてなぜか照れくさくて

だけど、なぜか心の中が温かくて柔らかい気持ちで一杯になった私は

迷う事なくその手を握り返した。


それを最後に曖昧にしか残っていなかった私の記憶は完全に途切れた。

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