エピソード18-2

「……でも……」

「うん?」

珍しく穏やかな口調のアリサ。

「今、あんたが持ってる地位も肩書きも全てなくなるのよ?」

アリサが今持っている“Club Snow Flower”のNo.1の地位と肩書きは夜の世界で働く人間なら誰もが欲しがるもの。

アリサだってそれに執着しているんだと思ってた。

今回の事だってその執着心が原因で私に絡んできたはずなのに……。

「別にいいんじゃない?」

「……いいの?」

「うん。確かにその地位や肩書きはあって困るモノじゃない。それがある間はお金に困る事もないし、この街でも堂々と胸を張って歩くことも出来る」

「……だったら……」

「でもね、私はそれらを失うよりも自分の居場所を失う方が怖いの」

「居場所?」

「そう、私が私のままで私らしくいられるのはあの人の傍だけなの」

それはアリサが言ったとは思えない言葉だった。

いつも偉そうで

いつも自己中心的で

いつもムカつくヤツ……。

……だけど……。

“居場所”を求てて、必死に守ろうとしているアリサに親近感が湧いてしまった。

「……見つけたんだ……」

「えっ?」

「自分の居場所」

「うん」

柔らかく微笑んだアリサを見て少しだけ羨ましいと思った。

「あんたの居場所は雪乃ママのお店だと思ってた」

私は昼間の空みたいな飲み物を口に運びながら呟いた。

「確かに私も最初はそう思ってた。でも、あのお店も私にとっては大事な場所よ」

「大事な場所?」

「そう、あのお店は私に守りたい人と自信を与えてくれた。だから私に出来る限りの事はしたいと思ってる」

「お店が好きなの?」

「ん?好きよ、あのお店も雪乃ママも……」

「……そう。だったら……」

「……?」

「その香水は止めた方がいいわよ」

「は?」

アリサがいつも纏っている甘い香り。

「この前、店長の車に乗った時、同じ匂いがしてた」

「え!?」

動揺したアリサを見て、私は吹き出した。

あの日、店長の車に乗った時には甘い香りがするってくらいしか思わなかった。

今日、待機席でアリサが席を立った時に鼻を掠めた香りがなんか引っかかってた。

そして、さっきアリサの彼氏が店長だと知った時、全てが一本の線で繋がった。

その事実にアリサは全く気付いてなかったらしく固まったまま動かない。

そんなアリサを見て私は爆笑してしまった。

「あんたも人間らしいところがあるのね」

爆笑し過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭った私の言葉で

呆然としていたアリサは我に返ったようで

「……人を化け物みたいに言わないでよね」

私に爆笑された事が気に入らない様子のアリサがふて腐れ気味に呟いた。

「……ところで……」

気を取り直すように咳払いを1つしたアリサが

「あんたはどっちと付き合ってるの?」

全く理解出来ない質問を放った。

「……はい?」

「神宮さんと瑞貴くん」

「……」

「どっちと付き合ってんの?」

アリサはいつもと同じように悪魔みたいな微笑を浮かべてて……。

「……」

「ねえ、どっちよ?」

その表情はとても艶やかだった。

「……どっちとも付き合ってない」

さっきまで明らかにダメージを受けていたはずのアリサが……。

すっかりいつものペースを取り戻してて……。

いつの間にか立場が逆転していた。

アリサの質問を全否定した私に

「……はぁ!?」

納得出来ないって感じの声を出したアリサから

私は視線を逸らしてみた。

悪魔に変身したアリサが簡単に私を逃がしてくれるはずもなく

「ちょっと!!」

大きな声で追いかけてくる。

その声は店内に流れる大音量の音楽を簡単に掻き消した。

『里菜?どうした?』

アリサの馬鹿デカい声がテーブル席だけで留まるはずもなく

カウンターの中から和樹が不思議そうな声を出した。

他の従業員やお客さんも不思議そうにこっちに注目してる。

「和樹には関係ない!!」

和樹は心配をしてくれただけなのに……。

そんな和樹の心配さえも鬱陶しそうなアリサが再び馬鹿デカい声を出した。

どこまでも失礼なアリサを

『そうか?』

和樹はまったく気に留める様子もなくカウンターにいるお客さんと話始めた。

「……あんたどこまでも最低ね……」

思わず本音を吐いてしまった私に

「自分が最低って事ぐらい私が一番分かってるわよ」

「……」

……そんなに自信満々で言い切らなくても……。

「そんな事よりどっちとも付き合ってないってどういう事!?」

私の目の前にいる可愛いらしい女の仮面を被った悪魔は

自分が最低呼ばわりされた事よりも

私の男事情の方が気になるみたいで……。

真実を突き止めようと、自白を促す刑事みたいに私に迫ってくる。

いつの間にか容疑者に仕立てあげられている私の口からは自白の言葉じゃなくて大きな溜め息しか出てこない。

「誰が溜め息を吐けって言ったのよ!?」

挙げ句の果てには人の行動1つにまで因縁をつけ始める始末。

……誰かこの女を止めてよ……。

アリサと飲みに来てしまった現実をとても後悔し始めた私は

微かな期待に望みを掛けアリサにバレないようにカウンターに視線を送った。

そこにはお客さんと話し込んでいる和樹がいる。

正直、全然頼りにはならないけど……。

このお店に来て知ったアリサと和樹の力関係では間違いなくアリサが上。

だけど、和樹以外は話した事のない初対面の人ばかり。

そんな人達よりも和樹の方が最強最悪なアリサをとめれる確率は高い気がする。

……付き合いも長いらしいし……。

根拠はないけど、打たれ強そうだし……。

そう思いつつ和樹に視線を送り続けていると

私の視線に気付いたらしい和樹がこっちに視線を向けた。

……あら、意外と使えるじゃない……。

私は和樹に視線を向けたまま「この女をどうにかしてよ」と瞳で訴えてみた。

私の顔を不思議そうな表情で見ていた和樹。

……どう?

伝わった?

真剣な眼差しの和樹に私の期待も膨らむ。

次の瞬間、真剣な和樹の表情が緩み無邪気な笑みを浮かべた。

……?

和樹はなんか知らないけど嬉しそうに私に向かって手を振っている。

……。

私に愛想を振りまく和樹。

……やっぱり使えない……。

再び私の口から溜め息が漏れた瞬間

「和樹に助けを求めてんじゃないわよ」

低い声が聞こえた。

慌てて声の方に視線を向けると

不機嫌さ丸出しでアリサが睨んでいた。

「……」

「大体、和樹が無言のあんたの訴えに気付くわけないでしょ?」

アリサにバレないように和樹に助けを求めていたのに……。

そんな私の企みにいとも簡単に気付いたらしいアリサは、

和樹の鈍さまで見抜いていた。

「それで?」

「は?」

「ちゃんと説明するまで今日は帰さないわよ」

とうとうアリサは脅迫まがいの脅しまで掛けてきた。

助けてくれる人もいない上に誤魔化しも効かない事を悟った私は仕方なく口を開いた。

「だからどっちとも付き合ってないって……」

「嘘は聞きたくないから」

「……なんで嘘なんて吐かないといけないのよ……」

アリサはまっすぐに私を見つめてて

その視線は私の心の中まで見透かそうとしているみたいだった。

しばらく私を見つめていたアリサは

「……神宮さんの女だと思ってたんだけどな」

つまらなさそうに呟いた。

なんでアリサは私の男事情がそんなにきになるんだろう?

しかもなにを期待しているんだろう?

なんの根拠があってそう思ったんだろう?

謎は深まるばかりだけど……。

これだけは言っておかないと……。

「響さんは私の彼氏じゃない」

「……じゃあ、瑞貴くんは?」

「大事な友達」

「友達?」

「そうよ。元々は遊び友達だけど、今は同じ学校だし……」

「……え!?」

突然、アリサが驚いたような声を出した。

「は?」

「……同じ学校って……」

「……あっ……」

……。

……しまった……。

自分の大失言に気付いた時には既に手遅れで

アリサは指に挟んでいたタバコをテーブルの上に落とした。

「……落ちてる……」

完全に頭の中が真っ白になっているにも関わらず、そう言った私の声は思いのほか冷静だった。

「えっ?」

「タバコ」

私はテーブルの上に転がってるタバコを指差した。

私の顔を唖然と見ていたアリサが指に視線を落として、

その先を辿るようにゆっくりと視線を動かし

「うわっ!!」

テーブルの上に転がっているタバコを拾い上げた。

焦り過ぎたアリサはなぜかフィルターの方じゃなくて火の点いた方を持って

「熱っ!!」

灰皿にタバコを投げ入れた。

まるで1人コントのようなアリサの言動はきっとこんな状況じゃなかったら

私に笑いを提供してくれたはずだけど

……今は全然笑えない……。

「もう!!火傷しちゃったじゃない!!」

少々キレ気味のアリサが誰に怒っているのかは分からないけど……。

どうせならこのまま怒り狂ってさっき私が言った事を全て忘れてくれたらいいのに……。

そんな期待をしてしまう私はかなり追いつめられていたんだと思う。

だけど、私のそんな期待も虚しく

「瑞貴くんって高校生だって聞いたんだけど?」

グラスを掴んで指を冷やしながらアリサは私に視線を戻した。

……。

どうしよう。

なんて言って誤魔化せばいいんだろう?

必死で考えてみてもいい言葉なんて全く浮かんで来なくって……。

『瑞貴くんって高校生だって聞いたんだけど?』

その言葉だけが頭の中をぐるぐるとまわっている。

……どうしよう……。

どうやって誤魔化そう……。

一生懸命考えていた私。

……一生懸命考えていたっていうより全く役に立たない頭でその言葉を繰り返していただけなんだけど……。

「……ねえ、ちょっと……」

「……」

「聞いてんの?」

「……」

「なに、そんな間抜け面してんのよ?」

「……」

好き勝手な言葉でアリサは私に追い込みを掛けてくる。

彼女は私に迷う時間さえ与えてはくれない……。

その事実を悟ってしまった私は必死で誤魔化そうとしている事が馬鹿らしくなってしまった。

……あぁ、もう!!

面倒くさい!!

私は目の前にあったグラスを手に取り徐に口に運んだ。

このお酒が飲みやすい割には酔いやすい事を知っていた私は

少しずつしか飲んでなかったから

グラスの中には結構な量が残っていた。

それを一気に喉に流し込む。

口の中にはジン特有の独特な味が広がった。

真昼の月みたいに浮いていたレモンが溶けかけた氷に張り付いている。

「ち……ちょっと!!」

突然の私の行動に驚いたらしいアリサが焦った声を出した。

その声をシカトして私は静かにグラスを置いた。

「……大丈夫?」

焦った声を出したアリサが心配そうに私の顔を正面から覗き込んでくる。

そんなアリサに

「……平気」

告げた私はバックからタバコとライターを取り出し火を点けた。

煙を大きく吸い込むとタバコの苦味とジンの味が口の中でひとつになる。

「……もう、止めてよね。心臓に悪い」

ぶつぶつと文句を言うアリサの声を聞きながら

私はゆっくりと煙を吐き出した。

「急性アル中でぶっ倒れても知らないから……」

「……高校生なの」

「……はっ?」

ひたすら文句らしき言葉を吐いていたアリサが動きを止めた。

「……私、高校生なの」

「……高校生……」

「そう、私も瑞貴と同じ高校に通ってる」

「高校……はぁぁぁ!?」

私のカミングアウトに本日2度目のアリサの絶叫が店内に響いた。

一方、カミングアウトをした私は自分でも驚くほど気分が軽くなっていた。

「……ねえ、そんなに目を見開いたら目玉が落っこちるわよ」

「……」

「あぁ、落っこちる前にそのマツゲに引っかかるか……」

「……」

「……ぷっ!!間抜けな顔」

さっきまでの仕返しとばかりに挑発的な言葉を投げ掛けてもアリサは無反応。

……全然おもしろくない……。

私は再びタバコをくわえた。

アリサがやっと我を取り戻したのは私がタバコを吸い終わり灰皿に吸い殻が一本増えた時だった。

「ね……ねえ、高校何年なの?」

「1年だけど?」

「1年!?……って事は……15歳!?」

「もう誕生日が来るから16だけどね」

「……!!」

「……」

来週、私は誕生日を迎えるて16歳になる。

響さんには16歳って言ってるけど

本当はまだ15歳だったりする。

「……無理……」

「は?なにが?」

「……見えない……」

「見えない?」

「あんたが15!?冗談は休み休み言ってよ!!」

……そんな事を言われても……。

私は本当に15歳なんだけど。

「……本当なの?」

訝しげな視線を向けてくるアリサに私は頷いて見せた。

「……犯罪じゃない……」

……。

まぁ、犯罪と言われたら犯罪に違いない。

私がお酒を提供するお店で働いちゃいけないって決まってるし……。

高校の校則ももちろん許可なんかしてない。

法律や校則なんて守る気もないうえに全く気にしない私達とアリサは違うだろうし……。

「……そうね」

「あんたのその外見と偉そうな態度は絶対に15なんかじゃない!!もし、本当に15だったら犯罪よ!!」

……。

……。

……そっち?

ねえ、そっちなの?

法律的にとかじゃなくて……。

見た目的な話なの?

……。

……。

「……犯罪って言われても……それは自分じゃどうすることも出来ないでしょ……」

冷静さを装って口にした言葉は自分でも分かるくらい不機嫌さが滲み出ていた。

「……」

「……」

穴が開くんじゃないの!?っていうくらい私を見つめるアリサが

「……それはそうだけど……・」

納得いかないって感じの声を出した。

……まぁ、アリサの反応が珍しい訳じゃない。

……年相応の外見じゃないって初対面の人に言われるのはいつものことだし。

大体、雪乃ママのお店にいても私の歳を疑う人なんて誰もいない。

それに、このお店だって私が“ジンバッグ”を注文したら疑うことも無くすんなりと出てきた。

自分が老け顔なのは嫌ってほど分かってる。

「……外見はともかく態度のデカさはどうにか出来るんじゃない?」

「……」

遠慮も何も無いアリサに私は言葉を失った。

偉そうな態度って……。

それだけはアリサには言われたくなかった。

「……あんたには言われたくない……」

私の言葉にアリサが不思議そうな表情を浮かべた。

「……どういう意味よ?」

「どういう意味ってそのままの意味だけど」

「は?」

アリサの『は?』は不機嫌な『は?』じゃなくて本当に私の言葉の意味が理解出来ないって感じの『は?』だった。

「……私よりもあんたの方がかなり偉そうじゃない」

「偉そう?私が?」

『信じられない』って顔全体で言っているアリサに私の方が驚いた。

「あんた以外にその単語が相応しい人なんていないと思うけど?」

「……」

「……」

「……知らなかった……」

「……?」

「私って他人の目にはそんな風に映ってるのね」

……。

……この人……。

……変だ……。

この人は、自分が偉そうな人間だって知らなかったらしい。

あんなに偉そうな態度を前面に押し出していたくせに……。

“アリサ=偉そう”っていう図式までしっかり形成してたくせに……。

自分の新たな一面を発見したらしいアリサは、どことなく嬉しそうに目の前のグラスを口に運んだ。

「……本当に気付いてなかったの?」

「うん?」

「……自分が偉そうだって……」

とてつもなく失礼な私の質問に気分を害した様子も無くアリサは頷いた。

「うん」

「そ……そう」

どうやらアリサは本当に気付いていなかったらしい。

「……人見知りが激しいのよね」

「えっ?」

「初対面の人と話すのは苦手なの」

「……そう」

「うん、だから自分からは話し掛けない」

「は?話し掛けないってあんた一応、NO.1でしょ?」

「そうよ。だから仕事中はかなり無理してんの」

「……」

「お店の女の子達とも話すのは苦手だし……」

「……」

「だから必要最低限の言葉しか交わさない」

「……」

「まぁ、そっちが都合のいい事もあるし……」

「都合のいい事?」

「私がみんなと仲良くするよりも一人でいる方がお店の雰囲気も引き締まるでしょ?」

「……?」

「あれだけの女の子がいれば当然“仲良しグループ”みたいな派閥が出来る。現に幾つかの派閥が出来ているでしょ?」

「……うん」

「もし私がそのどこかの派閥の子と仲良くなってそこに入ったらどうなると思う?」

「……?」

「お店の雰囲気が滅茶苦茶悪くなる」

「えっ?」

アリサの言葉が理解できない私。

そんな私を鼻で笑ったアリサが手元にあったタバコの箱を取った。

箱からタバコを一本ずつ取り出しテーブルの上に横一列に5本並べた。

「いい?これがお店にある派閥だとするわよ?実際にはもっとあるけど……」

「うん」

「人数や勤務年数の差はあるけど今はどの派閥も大体同じくらいレベルと位置を保っているの」

「そうなんだ」

「もし私がこの派閥に入るとするでしょ?」

そう言ってアリサは右端にあったタバコを少しだけ上に上げた。

「なんで上に上がったの?」

「これは派閥のレベルが上がったんじゃなくてその派閥の女の子の意識が上がったの」

「意識?」

「そう。『ここには№1がいるのよ』みたいな」

「あぁ、なるほど」

「んで、この子達は大きな勘違いを始めるの」

「勘違い?」

「うん。自分達がお店のトップクラスの女だと思い込みの勘違いをして他の派閥の女の子達を見下すようになる」

「……」

「そうなったら他の派閥の女の子達もいい気はしないでしょ?」

「うん」

「そうなったらお店としては成り立たない」

「えっ!?」

「女の子同士の足の引っ張り合いが激化して険悪な雰囲気満載。そんな女の子達の仲裁に手を焼くから幹部クラスの店長やマネジャー達はお客様のおもてなしにまで目が届かなくなってサービスの質もどんどん落ちていく」

「……」

「お客様だってわざわざ高いお金を払ってそんなお店には行かないでしょ?」

「うん」

「そうなったら、経営破綻でお店は永久閉店ね。そうならないためにも……」

アリサは右端の1本だけ上に上がってるタバコを手に取ると口に銜えた。

「私は一人でいる方がいいのよ」

そう言ってタバコを火に翳したアリサ。

炎に照らされたアリサの瞳がどこか寂しそうに見えたのは私の気の所為だったのかもしれない。

「……で?」

タバコの煙を吐き出したアリサがいつもと変わらない表情で私の顔を見た。

「は?」

「もう飲まないの?」

アリサが空のグラスを指差した。

「……」

……そうは言われても……。

本当の歳を暴露してしまったんだからここはソフトドリンクを注文するべきかしら?

……だけど……。

今日はお店にいる時からずっと飲んでいたのにここでソフトドリンクなんて飲んだら一気に酔いが回るかもしれないし……。

……かと言ってお酒の注文もし難いし……。

「あら?もうギブアップ?やっぱりガキね」

ちょっと待って!!

……今ガキって言った!?

冗談じゃない。

なんで私がアリサごときにガキ呼ばわりされないといけないの!?

「……なに言ってんのよ?まだ全然飲めるに決まってるでしょ」

老けてるって言われるのもムカつくけど……。

それ以上に“ガキ”呼ばわりされる方がもっとムカつくのはなんでだろう……。

「そうよね。あんた見るからに酒に強そうだし」

「当たり前よ。あんたよりは強いわよ」

アリサの言葉は私の負けず嫌いを引き出すには充分な言葉だった。

「次はなにを飲むの?」

アリサにそう聞かれた私はふとアリサのグラスが目に入った。

「……それ……」

「えっ?」

「なに?」

私はアリサのグラスを指差した。

その指を辿ったアリサが

「これ?」

自分のグラスを持ち上げた。

「うん」

「テキーラサンライズ」

「ふ~ん」

「飲んでみる?」

アリサがグラスを私の前に置いた。

アリサがいつも飲むらしい定番。

オレンジ色のそれを私は口に運んだ。

「……甘っ!!」

思わず私は眉を寄せた。

「そう?」

「……うん」

私はグラスをアリサに返した。

そのグラスを受け取りながら

「甘いかしら?」

首を傾げている。

「私、甘いお酒は苦手だから」

「そうなの?」

口に残るオレンジジュースの甘酸っぱさはまだ我慢できる。

……でも、甘さの原因はきっとそれだけじゃない。

「これ、シロップか何か入ってない?」

「あぁ、クレナディン・シロップが入ってるわ」

「は?オロ○イン?」

「オロ○インじゃなくてクレナディンよ。カクテルに軟膏を入れてどうすんのよ?」

「そんな事よりクレ……なんとかってなに?」

「……クレナディンだってば。このグラスの底に赤い液体が入ってるでしょ?それの事よ」

「へえ~。クレ……とにかく勉強になったわ」

「……シロップの名前すら覚えてないのに?」

「……」

「……」

「大丈夫!!シロップの名前を知らなくても全然生きていけるから!!」

「……あんたいい性格してるわね……」

「そう?ありがとう」

「……全然褒めてないんだけどね……」

呆れ果てたような溜息を吐いたアリサが

「……あっ!!」

突然、瞳を輝かせた。

「……?」

「あんた、甘いの苦手なんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、甘くなかったらいいのよね?」

「うん」

「だったらいいのがあるわ」

「……いいの?」

なんでこの人はこんなに嬉しそうなんだろう?

「うん!!ちょっと待ってて」

アリサがカウンターに向かって大きな声を出した。

「和樹!!」

『うん?』

「“あれ”持って来て!!」

……“あれ”?

“あれ”ってなに?

またまたアリサが発した謎の言葉。

でも、その言葉を謎だと思ったのは私だけらしく

『了解』

和樹は笑顔で頷いた。

……“いつもの”とか“あれ”とか……。

一体、アリサはどんだけこの店の常連なんだろう?

「ねえ」

なぜか楽しそうに鼻歌を歌っているアリサに声を掛けてみた。

「うん?」

この店に来てすぐに比べると私の呼び掛けに穏やかな返事を返すようになったアリサに疑問をぶつけてみた。

「この店って結構来てるの?」

「最近はそうでもないわよ」

「……?」

「前はほぼ毎日来てたけど」

「ほぼ……毎日!?」

「うん。それがどうかした?」

……いやいや……。

毎日って……。

確かに私もバイトを始める前は毎日溜まり場のBARに行ってたけど……。

でも、あそこは営業してないBARだし……。

ここは、営業してるBARでしょ?

「あんたそんなにお酒が好きなの?」

「別に大好きってわけじゃないわよ。あったら飲むけどないなら飲まなくてもいいし」

「じゃあ、なんで毎日来てたの?」

「……ここには人がいるから……」

グラスに付いた水滴を親指で拭いながら答えたアリサはどことなく寂しそうだった。

「前ってどのくらい前?」

「ん?あの人と付き合い始める前かな」

アリサが言う“あの人”が店長っていう事はすぐに分かった。

それと同時にアリサが毎日ここを訪れていた理由も分かった。

きっとアリサは寂しかったんだと思う。

お店でも孤立しているアリサの孤独なんて私には到底理解出来ない。

そんなアリサがここに求めたモノが

人の温もりだったのか

自らの存在を認めてくれる居場所だったのか

それは私には分からないけど……。

アリサは喪失感を抱いていたんだと思う。

その喪失感を埋めてくれたのが店長なんだ。

店長はアリサよりも年上。

確か26か27ぐらいだと思うけど……。

世間一般的にはかっこいい部類に入る人種。

整った顔と優しい性格。

その反面、頭のキレは最高に良くて歳上のマネージャーを差し置いて店長の肩書きを背負っている。

お店の女の子はもちろん黒服をはじめとする男子従業員、

そして、雪乃ママからの信頼は絶大。

「……あの人が言ったのよね……」

独り言のようなアリサの声に私は現実に引き戻された。

「え?」

「『綾乃ちゃんとお前は最高に気が合うと思うんだけどな』って……」

……ん?

どこかで聞いた事のあるような言葉。

……誰が言ってたんだっけ?

……。

……。

あっ!!

「……それ、私も言われた……」

「はっ!?誰に?」

「……店長……」

「何時よ!?」

「あんたと殴りあった日の帰りの車の中で……」

「……もしかしてその時香水に気付いたの!?」

「いや……その時は『甘い香りがするなぁ』って思ってて、気付いたのは今日なんだけどね」

「今日?」

「そうそう、お店であんたが隣に座った時になんか心に引っ掛かってて、あんたの話を聞いて確定みたいな?」

「……もしかして……」

「……?」

「私、自爆したの?」

「……今頃、気付いたの?」

「……」

「……」

「……マジで勘弁してよ……」

アリサはテーブルに突っ伏した。

そんなアリサに苦笑してしまった私。

「……で?」

「は?」

「あんたは店長にそう言われてなんて答えたの?」

「……聞きたいの?」

「えぇ、とっても」

「……『冗談じゃない!!』って……」

「えっ!?」

テーブルから顔を上げたアリサはとても驚いた表情で……

「本当にそう言ったの?」

私の顔を凝視してくる。

「うん」

「……そう……」

そしてなぜか私に右手を差し出してきた。

「な……なによ?」

突然のアリサの奇行に動揺を隠せない私。

そんな私にアリサは小悪魔的な笑みを浮かべた。

「あの人が言う通り、私達最高に気が合うわ」

「……はい?」

「私も同じ言葉を言ったのよね」

「同じ言葉?」

「『冗談じゃない!!』って……」

「……」

「……」

「……ぷっ!!」

アリサの言いたい事を理解した瞬間、私は吹き出してしまった。

……確かに……。

私達は気が合うのかもしれない。

この数時間の間にアリサの印象は私の中で確実に変わっていた。

顔も見るのも声を聞くのも嫌な大嫌いだった女が

言葉を交わすうちに面白い女に変わった。

自分の肩書きや地位の事しか頭にない女だと思ってたけど

本当は寂しがり屋で大切な人の事を一途に想っている事も分かった。

そして、誰よりも雪乃ママのお店が大好き事も……。

そんな女は嫌いじゃない。

私は差し出されている手を強く握った。

そんな私を見るアリサはどことなく嬉しそうで……。

なんだか私は照れくさくなってしまった。

「仕方がないから、あんたがまだ高校生だって事は忘れてあげるわ」

「それはどうも。じゃあ、私も仕方がないから、あんたが店長と付き合ってる事は忘れてあげる」

「あら、それは助かるわ。その代わり絶対にバレないようにしなさいよ」

「……その言葉、そのまま返すわ」

溜息交じりの私の言葉にアリサ苦笑気味に頷き

私の手を強く握った。

あんなに苦手だと思っていたアリサと今こうして笑い合いながら手を握っている事が不思議で堪らない。

だけど、それは全然不思議な事じゃないのかもしれない。

結局私とアリサは似たもの同士で……。

不器用にしか生きれないところも

寂しがりやなくせに強がってしまうところも

似ているを通り越して共感してしまう。

そして、一人の人を一途にその全てを掛けて大切に想うアリサを尊敬してしまう。

私が他人に興味を持つきっかけはただひとつ。

それは、その人を尊敬出来るかどうか……。

私は“アリサ”という人間に興味を持ち始めていた。

『お待たせ~あれ?』

アリサが注文した“あれ”を持って登場した和樹が

『なんで、お前ら手なんか握り合ってるんだ?』

怪訝そうにテーブルの上でしっかりと握り合っている私とアリサの手を見つめている。

『もしかしてお前ら……』

「……?」

「……?」

明らかに動揺しまくっている和樹を見つめるアリサと私。

『そういう仲なのか?』

和樹は素敵な勘違いを私達にぶつけてきた。

「……」

……ただ握手をしていただけなんですけど……。

想像力豊かな和樹に私は言葉を失った。

一方、アリサはというと……

驚きを隠せないって感じの和樹を鼻で笑いタバコに火を点けた。

そして、静かに煙を吐き出しながら

「そうよ」

不敵で色っぽい笑みを浮かべた。

……。

……ちょっと……。

アリサさん?

もしかして、酔ってらっしゃいます?

『……は?マジで?』

アリサの意味不明な言葉は高校時代から付き合いのある和樹にも理解不能だったらしい……

「和樹、そういう事だからお願いがあるの」

『えっ!?お願い!?な……なんだ?』

「あのバカ男達に『この子は私のだから手を出すな』って伝えてくれない?」

そう言ってアリサがカウンターの方を顎で指した。

「……?」

カウンターに視線を向けるとなぜかそこにいる全員が私達に注目していた。

その異様な現象に私は慌てて視線を戻した?

なんで注目されてんの!?

『あれ?バレてた?』

苦笑交じりの和樹に

「当たり前じゃない。鼻の下伸ばしながらかっこつけてんじゃないわよ……」

『さすがだな里菜。男の下心を見抜く力だけは天下一品だ』

「私じゃなくてもあれだけ分かり易かったらすぐに分かるわよ。分かってないのはこの子だけ……」

アリサが楽しそうに私を指差した。

「……は?……私?……ってかなんの話?」

「ね?全然分かってないでしょ?」

『……本当だ。もしかして綾ちゃんは純粋っ子?』

「純粋かどうかは分からないけど鈍いのだけは確かね」

……もしかして、鈍いって私の事!?

なんで!?

どうしてそんな話になってるの!?

……てか、私って鈍かったっけ?

……。

……。

……そう言えばいつだったか凛にもそんな事を言われたような気がする……。

『綾ちゃんっておもしろいね』

和樹は爆笑しながら右手に持っていたトレーに載っているものを次々とテーブルに並べ始めた。

……いやいや、私は全然面白くなんか無いんですけど……てかこれは一体……。

私は和樹がテーブルに並べたものから視線を動かせなくなった。

「……ねえ……」

「なに?」

「これが“あれ”なの?」

「そうよ」

『さて、始めようか』

和樹が私とアリサの間の椅子を引き、なぜか私寄りの場所に動かして座った。

「「は?」」

私とアリサの声が見事にカブッた。

だけど、その後に続いた言葉は全く別のモノだった。

「始めるって何を?」と尋ねた私と

「和樹!!なんであんたがそこに座ってんのよ!?」と和樹に激怒しているアリサ。

またしても私とアリサの声はカブッていた。

そんな私とアリサを交互に見た和樹は『お前ら似てるのか似てねえのかいまいち分かんねえな』と笑った。

それから、私に視線を向け『綾ちゃんの質問の答えはちょっと待っててね』とニッコリと笑みを浮かべアリサに視線を戻した。

『里菜、安心しろ。お前の伝言は俺が責任を持ってあいつらに伝えておく』

「は?」

『あいつらが手を出さないようにビシって言ってやる』

「……」

『だから心配する事は何もない』

「……てか、あんたが一番心配なんですけど?」

『いやいや、里菜が言ったんだろ?「あいつらに手を出させるな」って……』

「うん、言ったわよ?」

『あいつらって事はその中に俺は入ってねえじゃん。って事は俺がどこに座ろうが、どう口説こうか俺の自由だろ?』

「……」

『……』

呆れ果てた表情のアリサと勝ち誇った表情の和樹。

そして、2人の会話に全くついていけてない私。

仕方がないので私は暇潰しにタバコを銜えた。

その瞬間、手早く隣から炎を点したジッポが伸びてきた。

あまりの素早さに驚いた私が和樹に視線を向けると

『どーぞ、綾ちゃん』

相変わらずニッコリと笑みを浮かべてる和樹。

「あ……ありがとう」

『どういたしまして』

そんな私達のやり取りを見ていたアリサが盛大な溜息を吐き出した。

「……?」

『どうした?里菜?』

「……別にいいわよ……」

『うん?』

「あんたがどこに座ろうが、誰を気に入ろうが、誰を口説こうがあんたの自由だから私が口を挟む必要はない」

『応援ありがとう!!』

「……全然応援はしてないけどね」

『……』

「でも、あんたの友達として忠告しておくわ」

『……?』

「この子には手を出さない方がいい」

『あ?』

その声は私が初めて聞く和樹の低い声だった。

「この子は神宮 響のお気に入りよ」

『はぁ!?』

「だからこの子には手を出さない方がいい」

『おい、里菜』

「なに?」

『神宮 響ってあの神宮 響かよ?』

「え」

『……マジかよ……』

私は対照的な2つの表情に見つめられた。

ニッコリと楽しそうなアリサと

驚きを隠せない様子の和樹。

その視線の先にいる私は最高に居心地が悪い。

私はその居心地の悪さをどうにかしようと口を開いた。

「……別にお気に入りって訳じゃ……」

「現に神宮 響はあんた指名の客じゃない」

私の言葉を遮りアリサが言い放った。

『はっ?指名?あの神宮 響が?綾ちゃんを?』

驚きを隠せないって感じの和樹がさっきにも増して、私を見つめてくる。

「……」

見つめるだけならまだしもどんどん距離を縮めてくる。

『ねえ、本当に神宮 響に指名されてんの?』

「あ……あの……」

『綾ちゃんと神宮 響はどんな関係?』

「いや……だから……」

『なに?もしかして付き合ってるとか?』

「あぁ!!もう!!近いってば!!響さんはお客様よ!!」

どんどん距離を縮めてくる和樹に我慢の限界を超えてしまった私は思わず大きな声を出してしまった。

私の絶叫に近く微妙にドスの効いた声にピタリと動きを止めた和樹。

そんな和樹と距離を取ろうと椅子と一緒にズリズリと後退りする私。

そんな私達を正面から見ているアリサ。

……この人……。

……一体なんなのよ?

人の話は聞かないし……。

どんどん迫ってくるし……。

……アリサも変な話題を振らないでよね。

大体、この話を持ち出したのはアリサなんだから助けてくれてもいいじゃない?

なんで優雅に見物してんのよ!?

『へえ~お客さんなんだ』

なぜかこのタイミングでニッコリと笑みを浮かべた和樹に

私の心がザワついた。

……なんだろう?

この嫌な予感は……。

アリサに視線を向けるとこっちを見ていた瞳が呆れてたように細められ

ピンクのグロスを纏った唇から今日一番大きい溜め息が漏れた。

……えっ?

なんでこの人はこんなに呆れ果ててんの?

『なぁ、里菜。聞いただろ?』

「……」

『神宮 響はお客らしいぞ』

「……」

『……って事は、俺にもチャンスはあるじゃん』

「……さっきも言ったでしょ?神宮 響はこの子を指名してるって……」

『それがどうした?』

「あの男が指名するって事はかなりのお気に入りなのよ」

『……だろうな』

「そんな子に手を出したら、あんたこの街にいられなくなるわよ」

『……面白えじゃん』

「和樹?」

『あの男が気に入る女が目の前にいるんだぞ?』

「……どういう意味よ?」

『なぁ、里菜お前は聞いた事があるか?』

「なにを?」

『神宮 響のそういう噂』

「……ないわよ。この子が初めて」

『だろ?あれだけの知名度や肩書きそれからあの外見でしかも金まで持ってる男が今までそういう噂ひとつねえんだぞ?』

「……」

『てっきり俺は女に興味がないもんだと思ってた』

「はぁ?そんなはずないでしょ?子供もいるし、死別とはいえ奥さんもいたんだから」

『まぁ……そうだけど……でもな、噂ひとつなかったらそう思うのは俺だけじゃねえだろ?』

「それはそうかもしれないけど……」

『そんな男が気に入ってる女が目の前にいるのに興味が湧かねえ方が可笑しいだろ?』

「……だから、なによ?」

『……それはあとのお楽しみ』

「和樹!!やめときなって!!」

『……』

「あの人は普段は温厚そうに見えるけど、自分に刃向かう奴には容赦なんてしない」

『……』

「あんた、この店ごと潰されるわよ?」

『……里菜』

「……?」

『お前が俺に友達としてくれる忠告だけ有り難く受け取るよ』

「それじゃ、諦めて……」

『それとこれとは別だ』

「……!?」

『お前だって知ってるだろ?』

「……」

『俺が、欲しいモンは力ずくでも手に入れるって』

2人のやり取りを私はぼんやりと眺めていた。

眺めていただけで聞こえてくる言葉が頭の中にまで入ってくる事がなかった。

内容が理解出来ない言葉達は右耳から入り左耳から抜けていく。

ただ、何度か聞こえた響さんの名前だけが鮮明に耳に残った。

……そう言えば、『家に着いたら何時でもいいから連絡しろ』って言ってたな。

響さんはまだ起きてるのかな?

……てか、家に帰ったんだろうか?

もしかしたらあの後、他の店に飲みに行ったかもしれないし……。

ところで今、何時なんだろう?

私は話に夢中になってる2人にバレないようにこっそりとケイタイを開いてみた。

……は?もう、2時30分!?

この店に入ってそんなに時間が経つの!?

店内の薄暗さと異様なくらいの大音量の音楽そしてアリサとの会話は

明らかに時間の感覚を狂わせていた。

もうすぐこの時間は終わりを迎えたりするだろうか?

……。

……。

……いや……多分ないな……。

熱すぎる会話を繰り広げているアリサと和樹。

その内容は全く理解出来ないけど

2人が白熱した会話をしている事はなんとなく雰囲気で分かる。

それが、まだ終わるような気配がない事も……。

それにテーブルの中央に堂々と鎮座していらっしゃる“これ”。

アリサが注文して、和樹が持ってきた“あれ”。

運ばれては来たものの、まだ出番が無く待機している状態の“それ”。

多分、“これ”が活躍しないと今日はお開きにはならない気がする。

……って事は、今日私が家に辿り着けるのは何時なんだろう?

外が明るくなるまでに帰れるんだろうか?

できれば、始発が動き出す前には帰りたいんだけど……。

私が心の中で密かに抱いた希望が2人に伝わる筈もなく……。

相変わらず見つめ合ったまま視線を逸らす事もなく真剣な様子の2人。

……今のうちに響さんに連絡してみようかしら?

響さんは『家に着いたら』って言ってたけど、

何時に帰れるか分からないし

遅くなって、響さんが寝ている時に電話なんてしたくないし

もしかしたら、お店では言えないような話があって響さんは連絡をするように言ったのかもしれないし

……よし、ちょっと連絡してみよう。

私は辺りを見渡した。

さすがにこの大音量の中でケイタイ越しに会話をするなんて無理。

どこか少しでも静かな場所は……。

目に付いたのはトイレを示す壁に掛かった木の板。

……この際、トイレの中でいいか……。

私は掌にケイタイを収め立ち上がった。

「どこに行くの?」

『どうした?』

それまで私の存在すら忘れていたように会話をしていた2人が同時に

私に視線を向けた。

「……ちょっとトイレに……」

「あぁ、いってらっしゃい」

「……うん」

椅子から腰を上げた私は隣に座ってる和樹の後ろを通りトイレへ向かおうとした。

『綾ちゃん』

私の手首を掴んだ和樹。

「……?……なに?」

突然、手首を掴まれた私は足を止め和樹に視線を向けた。

ニッコリと笑みを浮かべている和樹。

だけど、その瞳にはさっきまでの人懐っこさがなくなっている。

……瞳が笑ってない……。

どこか冷たささえ感じる瞳に私は

視線を逸らせなくなった。

『……分かる?』

「……えっ?」

『場所』

「場所?」

『うん。トイレの場所』

「……あっ……うん、あっちでしょ?」

私は木の板に書いてある矢印の指す先を指指した。

『うん、足下が暗いから気を付けて』

「……ありがとう」

『トイレの中は防音効果が効いてるからごゆっくり』

「……はい?」

和樹の言葉の意味が分からず聞き返した私に和樹は再びニッコリと微笑んだ。

「なに?あんた、お腹でも痛いの?」

大爆笑しているアリサ。

「……はぁ?お腹は全然痛くないけど?」

爆笑しているアリサに少しムカつきながらも私は和樹の言葉の真意を確かめようと

視線を和樹に戻した。

相変わらず和樹は笑っている。

さっきは確かに笑っていなかった瞳も今は無邪気さを取り戻していた。

……見間違いだったのかしら?

そんな思いが頭を過ぎった時

和樹は私の手元に視線を落とした。

和樹が掴んでいる左手とは反対の右手。

だけどそれは、一瞬の事ですぐに私の顔に戻ってきた和樹の視線。

和樹の瞳を見ていたから私はその視線の動きに気付いたけど

いまだに大爆笑しているアリサは和樹のそんな動きに気付いていない。

和樹が一瞬だけ視線を動かした先には

ケイタイを握りしめている私の掌。

……。

もしかして、私がトイレで電話をしようって思っている事に和樹は気付いてたりする!?

『ごゆっくり』

和樹はそう言って私の左手を放した。

「早く行かないと間に合わなくなるわよ」

「だから、お腹は痛くないんだってば!!」

「はい、はい。分かったから早く行きなよ」

アリサはそう言いつつも笑いを止めようとする気はないらしく、

涙まで浮かべている。

「……」

これはなにを言っても言い訳にしか受け取ってもらえない。

そう悟った私は誤解を解く事を諦めてトイレへと向かった。

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