エピソード17

閉店時間の間際。

響さんはとんでもない額の支払いを終えてお店を後にした。

店長が持ってきた計算書を見て、支払いをする響さん以上に私が驚いた。

計算書を店長から受け取った響さん。

響さんの隣に座っていた私は何気なくその計算書に視線を落とした。

……いち……。

……じゅう……。

……ひゃく……。

……せん……。

……まん……。

……じゅうまん……。

……ひゃくまん!?

はぁ!?

百万!?

しかも、先頭の数字が“1”じゃないんですけど。

これって……何かの間違いなんじゃ……。

驚く私を他所に響さんは平然とした表情でスーツのポケットからカードケースを取り出した。

そして、その中に入っていた金色のカードを店長に差し出した。

『お預かりいたします』

そのカードを受け取った店長がVIPルームを出て行く。

響さんと店長。

2人の様子を見ているとどうやら間違ってはいないらしい……。

このお店のお客様はほとんどがカードで支払いをする。

だから、どのくらいの金額を支払っているのか分からなかったし、興味もなかった。

……だけど……。

その金額は私の想像を絶するものだった。

当然と言えば当然なのかもしれない。

私が出勤する度にもらうお給料。

その額は最初に働くつもりだったキャバに比べるとかなり高額だし……。

バイトの私でさえそれだけ貰えるって事は、お店の売り上げがそれだけあるって事で……。

それは理解出来るんだけど……。

それでも、あの金額は……。

店長がVIPルームを出て行くと響さんはタバコをくわえた。

火を点ける為に私が差し出したライター。

その炎が小さく揺れていた。

炎にタバコを翳そうとしていた響さんが、

炎と私の顔を交互に見つめた。

その視線に気付いたけど……。

私はライターから視線を逸らさなかった。

……違う、逸らさなかったじゃなくて逸らせなかった。

私が言っていい事じゃない。

……っていうか言うべきじゃない。

響さんへの想いが大きくなっていると言っても、ここでの立場は、お店に雇われて働いている私とお客様である響さん。

雇われている以上、お客様のお支払について何かを言う権利なんて私にはない。

バイトの私には特に……。

そう分かっていても何かが心に引っ掛かる。

それは響さんが私の為にお金を使ったと分かっているから尚更なのかもしれない。

「……すみません……」

私は呟くように吐き出した。

私が差し出した炎にタバコを翳した響さんがゆっくりと煙を吐き出した。

辺りにタバコの香りが漂う。

その香りが私を誘う。

いつもはちゃんと我慢できるのに……。

お酒を飲んでいた所為かもしれない。

現実を知った所為かもしれない。

その現実が私にかなりの衝撃をもたらした所為かもしれない。

……無性にタバコが吸いたい……。

私はとてつもなくタバコを吸いたい衝動に駆られた。

無意識のうちにゴクリと喉が鳴った。

そんな私の隣で響さんは指で挟んでいたタバコを灰皿に持って行き、

指で弾いて灰を落とした。

ぼんやりとその動きを見ていた私は、タバコを持つ手が近付いてくるのにすぐに気付いた。

その手は私の目の前で止まった。

「……?」

なんだろう?

不思議に思いつつ響さんを見ると

苦笑気味の響さんが

「吸いたいんだろ?」

私が思っていた事をピタリと当てた。

「な……なんで分かるんですか!?」

「顔に書いてある」

「え!?」

慌てて頬を押さえた私を響さんは楽しそうに見ている。

「すげえ吸いたいって顔をしてる」

「……!!」

無性に恥ずかしくなった私は響さんから勢い良く視線を逸らした。

……でも、それが大きな失敗だった。

視線を逸らした先には白い煙をゆらゆらとあげているタバコがあった。

「吸いたいなら吸えばいい」

悪魔の誘惑にしか聞こえない響さんの声。

……吸いたい!!

でも、今はお仕事中だし……。

お客様のテーブルで女の子がタバコを吸うのは禁止だし……。

湧き上がる欲求を必死で抑えようとしていると、

「早くしないと店長に見つかるぞ」

響さんのその言葉に私の理性は吹っ飛んだ。

まるで、目の前に差し出された肉にかぶりつく犬のように……。

私は目の前に差し出されているタバコをくわえてしまった。

習慣とは恐ろしいモノで、タバコをくわえた瞬間私は大きく煙を吸い込んでいた。

どうやら、タバコをくわえたら煙を吸い込まないといけないという事を私の身体はしっかりと覚えているらしく、

煙をこれでもかっていうくらい吸い込んだ私はタバコから口を離した。

口を離してからもしばらく息を止め少しでも多くその成分を体内に取り込もうとしている私は、

明らかにニコチン中毒者以外の何者でもなかった。

呼吸を止めておくことが限界に達した私は、ゆっくりと煙を吐き出した。

そんな私を見て響さんは

「相当、限界だったみたいだな」

と爆笑している。

「……ですね」

タバコの力を借りてなんとか冷静さを取り戻した私は、ひたすら苦笑いを浮かべるしかなかった。

一頻り爆笑した響さんが

「……それで?」

と尋ねた。

「はい?」

「さっき、なんで謝ったんだ?」

「……あっ……それは……」

「うん?」

「たくさんのお金を使わせてしまって……」

「たくさん?」

響さんは不思議そうな表情を浮かべた。

「……はい」

私は小さく頷いた。

「俺はそうは思わない」

「……えっ?」

「あの金はボランティアでこの店に寄付した訳じゃない」

「……」

「俺がこの店で過ごした時間の代価として支払ったんだ」

「……」

「あの金額に等しいくらい楽しい時間を過ごしたんだからあの値段でいいんだ」

「……」

「それにそう思ってるのは俺だけじゃないはずだ」

「……?」

「この店に来る客はみんなそう思ってるんじゃないか?だから、提示された金を支払うんだ」

「……」

「もし、そうじゃなかったら払わないだろうし」

「……そうですね」

「大人になればなるほど楽しいと思える時間は少なくなる」

「そうなんですか?」

「あぁ。だから楽しめる場所っていうのは、貴重なんだ」

そう言った響さんの表情は、どこか寂しそうだった。

閉店時間の間際。

響さんはとんでもない額の支払いを終えてお店を後にした。

VIPルームでは1人だった響さんは他のテーブルにいたスーツ姿の男の人達に囲まれてお店を出た。

響さんの隣にいた私もいつの間にか囲まれていた。

その居心地の悪さといったら表現のしようがないものだった。

雪乃ママの指示でビルの外まで見送る事になり、

それがまた大変だった。

響さんが率いる集団。

それに加えて見送りの女の子達。

お店のドア付近はたくさんの人で溢れていた。

見送りに出ると言ってもこれだけの人数がいるとエレベーターに乗って一階に降りるだけでも一苦労。

一度にエレベーターに乗り込むのは無理だし……。

……しかも、掟というか決まり事というか……。

この集団にはそういうものが存在するらしく……。

乗る順番にも決まりがある上に、響さんと一緒に乗る人さえも限られているらしい。

時代錯誤もいいところな厳しすぎる上下関係に絶句している私に響さんは苦笑しながら教えてくれた。

「この上下関係があるからこそこの世界は成り立っているんだ」

そんな事を言われても私には全く理解出来ない。

だけど、ここにいる人達にとってはそれが絶対で当たり前なこと。

こんな所で住む世界が違う事を思い知らされる。

見えない大きな壁を感じる。

大の男が自分の為じゃなくて他人の為にエレベーターのボタンを押す事も……。

そのエレベーターに当たり前のように乗り込む事も……。

私には理解が出来ない。

自分は自分。

他人は他人。

そう思っている私には……。

『お待たせしました。どうぞ』

厳つい男の人に促されて響さんとエレベーターに乗った。

……あれ?

今の人。

どこかで見た事があるような……。

下降するエレベーターの中で記憶を辿っていると

「どうした?」

響さんに尋ねられた。

「さっきエレベーターのボタンを押してくれた方……」

「うん?」

「どこかでお会いした事があるような気がするんですけど……」

「あぁ」

「思い出せなくて……」

「あの日、運転をしてた奴だ」

「あの日?」

「お前が車の座席から転げ落ちそうになった日だ」

車から転げ落ちそうになった日?

……。

……。

あっ!!

「……もしかして、私が学……」

「綾」

『学校をサボって響さんにお会いした日ですか?』

そう尋ねようとした、私の言葉を響さんが遮った。

「……?」

私の言葉を遮った響さんは、鼻に人差し指を当てている。

それは『喋るな』って事で……。

そんな響さんの言動の意味が分からない私は首を傾げた。

エレベーターの中には響さんと私の他に今日お店に来てくれた人達の中でも権力を持っていると思われる男の人が2人。

その人達はVIPルームに一番近いテーブルに座っていたし、響さんがVIPルームを出てからはずっと傍にいる。

それから、その人達に着いていた女の子が2人。

一番奥に響さんと私が乗っていて、ドア付近に4人。

男の人達は微かに緊張感を漂わせているけど、その雰囲気を女の子達の笑顔と楽しそうな声が和ませてくれているお陰でエレベーター内には穏やかな空気が流れていた。

気を使ってくれているのか……。

それとも全く気にならないのかは分からないけど、

誰一人として、響さんや私に視線を向ける人はいない。

だから、響さんの不思議な言動に気付いてる人も私以外にはいないけど……。

首を傾げながら響さんを見上げていると、呆れた表情の響さんの顔が近付いて来て……。

「その話は禁句だろ?」

耳元で囁いた。

……禁句?

記憶を少しだけ辿った私は、自分が爆弾発言をしようとしていた事にやっと気が付いた。

事務のお仕事をしているという設定の私が『学校をサボった』なんて言ったら大問題になるのは分かりきっている。

しかも密室のエレベーター内で興奮気味で話す私の声が女の子達に聞こえないはずもないだろうし……。

「……!!」

咄嗟に掌で自分の口を塞いだ私。

その行動に自分でも『今更!?』ってツッコミたくなったけど……。

歳を誤魔化して働いてるいる事を自分で暴露するなんてあまりにもマヌケ過ぎる。

もし、響さんが止めてくれなかったら……と思うだけで一気に酔いが醒めた。

「そうだ。あの日だ」

私が言おうとした言葉をただ1人理解した響さんが柔らかい笑みを浮かべて頷いた。

その時、下降していたエレベーターが静かに停まりドアが開いた。

エレベーターから素早く降りる男の人達。

その後を追うように女の子達もエレベーターを降りた。

響さんと2人きりになった瞬間、私は自分の口を塞いでいた掌を外し大きく息を吐き出した。

「……ありがとうございました……」

数秒間、呼吸を止めていた私は何度か深呼吸を繰り返してからその言葉を口にした。

「あぁ、間に合って良かった」

「本当に……」

顔を見合わせた響さんと私は同時に吹き出した。

◆◆◆◆◆

『親父?』

突然、大爆笑をし始めた私達に一旦はエレベーターを降りた男の人が不思議そうな表情で遠慮気味に顔を覗かせた。

一度笑い出すとなかなか止まらない響さんは咳払いをして笑いを飲み込むと

「なんでもない」

と男の人に告げた。

それはいつもと同じ口調だった。

……でも、ちょうど私の目の高さにある響さんの肩が微かに揺れていた。

『失礼しました』

そう言って男の人は再びエレベーターから離れた。

チラッと響さんに視線を戻すと同じタイミングで私に視線を向けた響さんと瞳が合った。

響さんが小さな笑いを零して、それを見た私は自然と顔が綻んだ。

腰の辺りに感じる心地良い温もり。

さり気なく、自然な感じで腰にまわされた大きな手。

さっきよりも少しだけ響さんに近付いた距離にあの香りが私を包み込む。

その手に導かれるようにエレベーターを降りた瞬間、私は驚いた。

そこにはさっきまで一緒にエレベーターに乗っていた男の人と女の子。

そして、上の階でボタンを押してくれた男の人。

数分前に私が自爆しそうになった時に話題となっていたあの運転手さんの姿があった。

しかも、エレベーターに乗ってなかったのに、そこにいたのはその運転手さんだけじゃなくて……。

運転手さんと一緒にエレベーターに乗っていた人も含めて8人ほどの男の人がエレベーターを降りた響さんを出迎えた。

……この人達、どうやって降りて来たの?

ふと浮かんだ疑問。

このビルには6個のエレベーターがあるけど、設置されてる位置の所為で雪乃ママのお店のお客様が使えるのは3つ。

そのうちの1つは優先的に使えるようになっててそのエレベーターに乗って私達は降りてきた。

他に2つあるけど……。

今の時間はこのビルに入っている殆どのお店が閉店間際でお客様が帰るピークの時間帯。

私達がエレベーターに乗ってすぐにその人達が他のエレベーターに乗るのは不可能に近い。

……って事は……。

階段!?

15階建てのこのビルの最上階から階段を使って降りて来たの!?

ま……まさかね……。

いくら特殊なお仕事の方だって言っても、そんなに特殊な事なんてしないに決まってる。

「……響さん」

私はこっそりと小さな声で隣にいる響さんに話し掛けた。

「どうした」

響さんは、すぐに穏やかな視線を私に向けてくれた。

「……あの……ちょっと質問をしてもいいですか?」

「あぁ、なんだ?」

「あの方達はどうやって降りて来られたんですか?」

「あの方達?」

「えぇ」

私は通路の壁に沿うように立っているその人達にチラッと視線を向けた。

私の視線の先を辿るように響さんの視線も動く。

「あぁ、あいつらか……」

響さんが私の言いたい事を理解したように頷いた。

「あいつらは……」

「……」

「階段を使ったんだろ」

「……!!」

平然と……。

あたかもそれが当然って感じで……。

そう言い放った響さんに私は絶句した。

……いや、いや……。

……響さん……。

「階段って……お店は15階にあるんですよ!?」

「は?」

驚いたように漆黒の瞳を見開いた響さん。

「えっ?」

なんで?

このタイミングで響さんは驚いてんの?

……もしかして、響さんはお店が何階にあるか知らなかったとか?

「……」

「……」

「……綾乃……」

「は……はい?」

「店は15階じゃなくて16階だ」

「えっ!?」

突然、大きな声を出した私に集まる視線。

そんな視線を気にする余裕なんてない私はエレベーターの前の壁にあるビルの案内図に視線を向けた。

……。

……。

……有り得ない……。

自分が働いているお店なのに……。

響さんが言う通りこのビルの最上階は16階でそこには“CLUB Snow Flower”の文字。

シルバーの塗料で掛かれた文字がライトに照らされてキラキラと輝いている。

入店してからずっと15階建てだと思っていたこのビルが実は16階建てだった……。

出勤の度にエレベーターに乗って階数のボタンを押していたにも関わらず全然気付かなかった自分にビックリする。

確かにいつも『お店は最上階』って頭の中にあってズラリと並ぶボタンの一番上を何の迷いもなく押していたけど……。

普通はすぐに気付くでしょ!?

もう1人の自分に激しくツッコまれた私はガックリと肩を落とした。

「どうした?酔ったのか?」

私の顔を覗き込む響さん。

酔っていて間違ったんならこんなに落ち込まなくて済んだのかもしれない。

自分のバカさ加減に私は深い溜め息を吐いた。

「珍しいな」

何も答えない私を酔っていると思ったらしい響さんが、

私の腰にまわしている手に少しだけ力を込めて、

私の身体を引き寄せた。

右半身に感じる温もりがとても心地いい。

もしかしたら、私は酔っているのかもしれない。

お店の階数を間違ったのは酔っていた所為じゃないけど……。

この心地良さはお酒の所為かもしれない。

「……ちょっと……」

「ん?」

「飲み過ぎたかもしれません」

「そうか」

響さんは優しい瞳で私を見つめると、腰にまわしている手とは反対の手で私の頭を優しく撫でた。

その心地良さにどっぷりと浸っていると“音”が聞こえた。

微かに聞こえる音は徐々に大きくなりながらこっちに近付いて来る。

私は響さんから音が聞こえてくる方に視線を向けた。

そこには壁と一体化している一枚のドアがあって……。

そのドアはこのビルに初めて来た人は気付かないようなドアで……。

だけど、このビルを何度も訪れている私は知っている。

……階数は間違ってたけど……。

あのドアの向こう側には……。

ここから最上階に繋がる階段がある。

1つや2つの足音じゃないその足音がドアの向こうでピタリと止まった。

静かに開くドア。

『すみません。遅くなりました』

そこから現れたのは一目で響さんの連れだと分かる黒いスーツ姿の人達。

呼吸一つ乱さず、現れた人達。

この人達は最上階から階段を使って降りてきたらしい……。

……信じらんない……。

私は呆然とその人達を眺めていた。

その人達は、私の視線を気にする様子もなく、

次々とエレベーターから降りて来る人達を出迎えていた。

「あいつらはまだ一人前じゃない」

瞬きさえ忘れて瞳が乾き始めていた私の耳に響さんの声が落ちてきた。

「……?」

「この世界は“道を極める”世界だ」

「道を……極める?」

「あぁ、だから俺達は極道と呼ばれるんだ」

「……なるほど……」

「あいつらはまだ道を極めている途中なんだ」

「……途中……」

「サラリーマンでも新入社員に研修期間があるだろ?」

「はい」

「それと一緒だ」

「一緒?」

「あいつらも研修期間中みたいなもんだ」

「そうなんですか?」

「あぁ、この世界で生きていくのに必要な決まり事を徹底的に叩き込まれる」

「……」

響さんが言う“決まり事”は、きっと私が理解出来ないものなんだと思う。

そのどれもが『今時!?』って思うようなものばかり……。

「見栄や逃げ場所だと思ってこの世界に入った奴は、その期間中に振り落とされる」

「……そうですか……なんだか……」

「ん?」

「大変そうですね」

思わずそう呟いた私に

「……だな」

響さんは苦笑していた。

よく分からないけど……。

響さんがいる世界は何かと大変らしい。

もし、私が男だったら絶対に入りたくない。

一体なんでこの人達はそんな世界に入ったんだろう?

その日、響さん達集団は私に大きな謎を残して帰って行った。

『ありがとうございました』

お礼を言った私に響さんは爽やかな笑顔で答えてくれた。

……でも……。

深夜の繁華街へと消えて行くその集団はとてもじゃないけど爽やかという言葉には程遠かった。

突然、繁華街のメインストリートに現れた集団は堂々と道のど真ん中を占領して歩いていた。

2人、3人でも充分に目立ちそうなのにこれだけの人数が集まればそれは圧倒的な存在感を知らしめる。

通行人達は、それが当たり前のように道を譲り

独特な雰囲気を纏うその人達は見えない何かを誇示するかのようにその道を歩く。

その光景はとても不思議なものだった。

今は“平成”でこの国で生きる人はみんな平等なのはずなのに……。

繁華街のこのメインストリートを歩く権利は誰にでもあるのに……。

その光景は歴史の教科書で見た、日本に階級があった時代を連想させた。

……大名にひれ伏す農民……。

そんな事を考えながら、黒いスーツの集団が夜の闇に溶け込むまで見送った私は

『綾乃ちゃん』

女の子達の声に我に返った。

慌てて振り返ると、

『テーブルに呼んでくれてありがとう。助かった』

親しげな口調と馴れ馴れしい笑顔。

数時間前とは全然違う私に向ける視線。

手の平を返したようなその態度。

込み上げてくる不信感を飲み込み、

引きつりそうになる顔を笑顔で隠して

私は言葉を吐き出した。

「いいえ、こちらこそ助かりました。ありがとうございます」

上辺だけの私の言葉に満足したらしい彼女達が

『そろそろ閉店だね。早く戻ろう!!』

エレベーターに向かって歩き出した。

その後ろ姿を見ていた私の口からは小さな舌打ちが漏れた。

私が心から感謝していないように、彼女達も感謝なんてしていないはず……・。

上辺だけの言葉ほど無駄なモノはない。

……マジで面倒くさい……。

『綾乃ちゃ~ん!!早く!!』

その声に私は深い溜め息を吐いて重い足を踏み出した。

◆◆◆◆◆

エレベーターの中で『息継ぎしてんの!?』って聞きたくなるくらい次々と言葉を放つ女の子達。

私にとってはどうでもいい言葉達は耳障りな音でしかなくて……。

ガラス張りのエレベーターから夜の繁華街を眺めていた。

間近で見たら大きなネオンの看板も階が上がるにつれてどんどん小さくなっていく。

この妖しい光が全て消えたらこの街にも闇が支配する夜が訪れるんだろうか?

そんな当たり前の事がこの街では時として分からなくなる。

夜は暗くて、昼間は明るい。

そんな常識が通用しない街。

それが繁華街。

今日もこの街はたくさんの人で溢れている。

「綾乃ちゃん、お疲れ様」

お店に戻ると雪乃ママが駆け寄って来た。

「お疲れ様です」

「どう?たくさん飲ませて貰った?」

「はい、たっぷりと……」

「そう、良かったわね」

「はい」

「今日はもうあがっていいわよ」

「はい、お先に失礼します」

いつもと同じように他の女の子達より一足先に仕事が終了した私は、控え室へと向かった。

他の女の子達が仕事を終えて控え室に雪崩れ込んで来るまであと15分くらい。

それまでに着替えを終えて脱出しないと……。

……もう、あのテンションに付き合うのは無理……。

エレベーターの中で嫌って程、女の子達の甲高い声を聞かされた私はウンザリしながら控え室のドアを開けた。

誰もいないと思っていた私はその人の姿を見た瞬間、ビクッと身体を揺らした。

「……お疲れ様」

私の姿を見たその人は気怠そうに言葉を発した。

「……お疲れ……様です……」

……そう言えば約束をしていたんだっけ……。

偉そうに椅子に座ってタバコの煙を吐き出しているその人を見て、

私は半強制的に交わされた約束を思い出した。

「……どの位掛かる?」

「は?」

「着替え」

「5分位で……」

私が答えるとアリサはタバコを灰皿に押し付けて立ち上がった。

立ち上がったアリサは帰る気満々の私服姿だった。

……どうやら彼女は……。

今日は仕事をしたくない日らしい……。

同伴もしなかったし……。

お店の誰よりも先に帰る気満々だし……。

「階下〈した〉で待ってるから」

「……はぁ」

帰る気満々ついでにまっすぐ家に帰ってくれたらいいのに……。

そう思っている私を他所にアリサは控え室を出て行った。

……はぁ……。

面倒くさい……。。

『カタをつけてこい』って言われても……。

何をどう切り出せばいいのかが分からない。

モメた時の解決法なんて私は1つしか知らない。

面倒な話し合いなんてしたくないし……。

難しい駆け引きなんて出来ない。

こうなったらもう一度殴り合いのケンカでもしてみようかしら?

それで白黒はっきりさせるのが一番手っ取り早いんじゃない?

よし!!

その方法で……。

……あっ!!

でも、自分からケンカを売っちゃいけないんだった。

……って事は……。

アリサが先に殴ってくれないかな……。

そうしたら、全てが丸く収まるのに……。

こうなったら、もう一度だけ軽く挑発してみようかしら?

挑発だけなら自分からケンカを売った事にはならないんじゃない?

……それなら、響さんとの約束も守れるし、

瑞貴が出した条件も飲めるし、

私もこれ以上頭を悩ませる必要もない。

……この作戦で行ってみよう……。

私は自分のロッカーに向かいドレスから私服に着替えた。

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