エピソード16

『綾乃さんご指名です』

マネージャーの声に私はハッと瞳を開いた。

……もしかして……。

……私、寝てた?

アリサが店長に呼ばれて席を立ったところまでの記憶はあるけど……。

気が抜けたというか……。

緩んだというか……。

瞳を閉じていた私はいつの間にか寝てしまっていたらしい。

待機席にはまだたくさんの女の子がいるし、そんなに長い時間じゃないと思うけど……。

『綾乃さん?』

いつまでも席を立とうとしない私にマネージャーが困惑した声を出し……。

「……はい」

寝ていた事をみんなに悟られないように、私は出来るだけ平然と返事をして腰を上げた。

マネージャーの元へ歩く私の全身に感じる視線。

それは、遠慮気味に向けられていた。

僅かに感じる違和感。

その変化に私の予感が強まった。

『神宮様がお見えです』

マネージャーが私の耳元で囁いた。

「はい。分かりました」

私は笑顔で頷き客席へと向かった。

◆◆◆◆◆

一歩前を歩くマネージャーの後ろを歩きVIPルームへと向かう私はまたしても視線を集めていた。

でも今度の視線は女の子達の視線じゃなかった。

女の子じゃなくて男の人達。

ホステスじゃなくてお客様の視線。

VIPルーム近くのボックスをいくつも占領しているその人達。

そのテーブル席にはまだ女の子が着いていないから、今、来たばかりらしい。

「いらっしゃいませ」

VIPルームへと足を踏み入れそこにいるはずのその人に頭を下げる。

「遅くなって悪かったね」

約束の時間よりも随分早く来てくれたにも関わらず、その人は私に優しい言葉を掛けてくれる。

「いいえ。ありがとうございます」

顔を上げるとそこには私を見つめる漆黒の瞳。

その瞳はいつもと変わらず優しくて温かい。

私は響さんの隣に腰を下ろした。

座った私に向けられる視線。

今日幾つもの視線を感じたけど……。

この視線は、そのどれとも違い心地よかった。

私の顔を見つめていた瞳がふと下がった。

響さんが見ているのは、膝の上に置いている私の手で……。

……?

「なんで握り締めてるんだ?」

「えっ?」

「ケイタイ」

響さんが指差す先には確かにケイタイを握り締めている私の手。

「……あっ!!」

「……?」

「……すっかり忘れてた……」

「忘れてた?」

「響さんから連絡を頂いてからずっと手に持っていたんですけど……」

「えっ?ずっと?」

「えぇ。……あっ!!ドレスに着替える時はさすがに置きましたけど……」

「……なにか……」

「……?」

「大切な連絡でもあるのか?」

「いいえ、特には……」

「じゃあ、どうして?」

「……ちょっと……」

「うん?」

「心細かったので、お守り代わりに……」

「……お守りか。それで効果はあったかい?」

「え、効果絶大でうたた寝をしてしまいました」

「それは良かったね」

響さんは楽しそうに笑った。

お店の前で立ち尽くしていた時、離れた場所にいる響さんの声を私に届けてくれたケイタイ。

そのケイタイを持っていると響さんが傍にいてくれるような気がした。

それはただそう思い込んだだけなのかもしれないけど……。

響さんが傍にいてくれると思うだけで不思議と私は一歩を踏み出せた。

どんな時でも俯く事なく顔を上げていられた。

なんとか上辺だけでも堂々と振る舞う事が出来た。

「いらっしゃいませ、響さん!!」

その声にVIPルームの入り口に視線を向けると、満面の笑みを浮かべた雪乃ママが立っていた。

「いつも突然で悪いな」

「いいんですよ。響さんは特別なお客様なんですから」

「……雪乃」

「はい?」

「相変わらず営業が上手いな」

「一応、経営者ですから」

苦笑気味の響さんと無邪気な笑みを浮かべた雪乃ママ。

……やっぱりこの2人の会話は心臓に悪い……。

だけど、ヒヤヒヤしているのは私だけで2人は至って普通。

むしろどちらかというと楽しそう。

どうやらこれが雪乃ママと響さんの付き合い方らしい。

長年付き合ってきたからこそ思った事を素直に口に出せるんだと思う。

雪乃ママも相手が響さんじゃなくて他のお客様だったらこんな事絶対に言わないし、

響さんも他のホステスからこんな事を言われたらいい気はしないはず。

仲が良いからこそ出来る会話。

「それに今日はお祝いですもんね」

「あぁ」

「良かったわね、綾乃ちゃん」

「へっ!?」

突然、話を振られ驚いた私の口からは、すっと呆けた声が漏れた。

響さんと雪乃ママ。

2人のリアクションは全く同じだった。

一瞬、驚いた顔で私を見つめ

その後、私から勢いよく視線を逸らして肩を震わせ笑いを堪えていた。

気まずさと恥ずかしさが容赦なく私を襲ってくる。

……もう、最悪……。

私はすっと呆けた声を出してしまった自分を心底恨んだ。

「……ところで……」

しばらくの間肩を震わせながら笑いを堪えていた……と言っても堪えていたのは声だけで、充分に笑った響さんが咳払いをして口を開いた。

「雪乃、なにが『良かった』んだ?」

その問い掛けにこれまた響さんと同じように充分に笑い涙目になった雪乃ママが咳払いをしてから答えた。

「そう、そう。今日は綾乃ちゃんも飲みたい日なのよね」

「そうなのか?」

2人に見つめられた私は、さっきの二の舞を踏まないように慎重に答えた。

「えぇ、まぁ……」

慎重になり過ぎたその声はとても小さくてとてもじゃないけど

『飲みたい!!』って感じではなかった……。

そんな私を不思議そうに見つめた響さんが訝しげな視線を雪乃ママに向けた。

「何か吹き込んだだろ?」

響さんに見つめられた雪乃ママは

「あら、人聞きの悪い」

そう言いながらもやっぱりどこか楽しそうで……。

「吹き込んだんじゃなくてアドバイスをしただけですよ」

艶やかな笑みを崩そうとはしなかった。

「アドバイス?」

「えぇ、疲れの取り方を……」

「それはどうすればいいんだ?」

「簡単な事ですよ。美味しいお酒を飲んでたくさん笑えば疲れなんて吹き飛びます」

「……なるほどな……。だったら……」

「……?」

「お前は疲れ知らずだな」

「はい、お陰様で」

笑顔で頷いた雪乃ママを見て響さんは喉を鳴らして笑っていた。

「そんなに効果があるなら試してみるか」

「えぇ、是非」

そう言って響さんは新しいボトルを入れてくれた。

そのボトルは雪乃ママのお店で一番高価なボトル。

私がそのボトルを間近で見るのはもちろん飲むのも初めて。

それだけでも充分驚いたのに……。

高級ボトルが入ってさっきにも増して嬉しそうにVIPルームを出て行こうとしている雪乃ママに響さんは更に驚きの一言を告げた。

「……雪乃」

「はい?」

「あいつらのテーブルにも疲れが取れるような上手い酒を入れてやってくれ。それから、遊んでる女はみんな呼んで好きなモノを飲ませろ」

そう言って響さんが顎で指したのは、VIPルームの外で……。

「はい。分かりました」

一段と顔を輝かせた雪乃ママが嬉しそうに頷いてVIPルームを出て行った。

「……あの、響さん」

「うん?」

「あちらのテーブルの方はお連れ様だったんですか?」

「あぁ」

……やっぱり……。

この席に来るまでに感じていた視線。

その視線は響さんのお連れ様の視線だったらしい……。

ざっと見渡した限りでも20人以上はいたスーツ姿の男の人達。

初めて響さんと会った日に比べたら少ないけど……。

それでも充分に個人様じゃなくて団体様だ。

「ありがとうございます」

「うん?」

「たくさん連れて来ていただいて……」

「あぁ、大人気のない見栄だけどな」

「見栄ですか?」

「どうせ注目されるならとことん注目された方がいい」

響さんのその言葉で全てが理解出来た。

今日、響さんがお店に来てくれた理由も……。

たくさんの方を連れて来てくれた理由も……。

響さんが高価なボトルを入れてくれた理由も……。

このお店にたくさんのお金を落とそうとしてくれている理由も……。

その全てが私のため。

今、悪い意味で注目されている私。

そんな私があの日以来初めての出勤である今日にこれだけの売上をあげれば、違う意味で注目される。

そうする事で注目される意味を覆そうとしてくれているんだと思う。

「……ありがとうございます」

お礼を言った私の頭をポンポンと撫でた響さん。

言葉なんかじゃ全然足りないけど……。

その優しさが胸に染みた。

「……あっ!!」

「どうした?」

「……予約……」

「うん?」

「本当は私から雪乃ママに連絡を入れるべきだったのに……すみません」

「あぁ、別に気にしてない」

「……でも……」

「誰にでも余裕のない時はある」

「だから“お祝い”なんですか?」

「えっ?あぁ……まぁ……」

気まずそうに鼻の頭を掻いている響さん。

そんな響さんを見て私は笑みを零した。

◆◆◆◆◆

「そう言えば……」

2本目のボトルの残りがちょうど半分位になった時、それまで優しくて穏やかな笑みを絶やさなかった響さんが急に真剣な表情を浮かべた。

いい感じに酔っていた私も響さんがこれから真剣な話をしている事を悟った。

「どうなった?」

「なんの話ですか?」

「“アリサ”……だったか?お前がケンカした相手」

「……」

「もう顔を合わせたんだろ?」

「……えぇ、まぁ……」

突然……何の前触れもなくアリサの話題が出た事に私は明らかに動揺した。

これは正直に話すべきだろうか?

それとも『まだ、何も……』と誤魔化すべきだろうか?

これだけ響さんに迷惑を掛けたんだから、正直に話すべきなのかもしれない。

だけど、アリサとお店の後に話す約束はしてるけど、全てが解決した訳じゃない。

ちゃんとした報告をするのは全てが解決した後の方がいいのかもしれない。

そう考えた私は、

「さっき顔を合わせただけでまだ話はしていません」

と響さんに告げた。

ウィスキーのロックを口に含んだ響さんが静かにグラスを置いた。

「……そうか」

「はい」

「なぁ、綾」

「はい?」

「約束は覚えているか?」

「ケンカはしないって約束ですよね?」

「あぁ。もし、そういう状況になりそうになったらすぐに連絡をしてこい」

「……?」

「いいな?」

「……はい」

響さんがなんで今このタイミングでそんな事を言うのは分からなかった。

でも、響さんの表情が余りにも真剣だったから……。

私は頷くしかなかった。

頷く私を見て響さんは安心したように表情を崩した。

「それから……」

「……?」

「今日、家に着いたら連絡をくれ」

「……えっと……今日はお店の後に用事があって家に帰るのは遅くなるかもしれないんです」

「別に何時でも構わない」

「……分かりました」

……やっぱり分からない。

なんで響さんはこんな事を言うんだろう?

なんで漆黒の瞳に心配そうな色を含んでいるんだろう?

この時の私は知らなかった。

響さんには私が言わないと分からないと思っていた。

だけど私が言わなくても響さんは全てお見通しだった。

響さんは私が思い付かない程の情報収集力を持っている事を……。

私がそれに気付くのは、まだもう少し先の事だった。

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