エピソード15

“Club Snow Flower”

一週間ぶりに見るお店の看板。

いくつものお店が入るビルの前。

私は、まだ電気のついていない看板を見上げていた。

“出勤禁止令”が解禁となって初めての出勤日。

私がここに立ってから、もうそろそろ10分が過ぎようとしていた。

出勤禁止令が解けたのは嬉しいけど……。

なんだか緊張する。

営業時間中に乱闘騒ぎなんて起こすんじゃんなかった……。

営業時間中って事は、お店の女の子達はもちろんボーイさん達も……それにあの時間お店に来ていたお客さん達も知っているはず。

あの時は頭に血が上っていたから何も考える余裕なんて無かったけど……。

いざ冷静になってみると気まずい……。

一体どんな顔をしてお店に入っていけばいいんだろう?

私は、その場に立ち尽くして大きな溜め息を吐いた。

そんな私の脇を女の子が通り過ぎた。

多分このビルに入っている別のお店のホステスだろう。

ビルの入り口に立ち尽くし大きな溜め息を吐く私を訝しげに見つめながらビルへと入っていった。

……分かってるって……。

自分がかなり挙動不振人物だってことぐらい……。

できる事なら、いつもみたいにさっさとビルの中に入ってエレベーターに乗りたいわよ。

だけど、エレベーターに乗ってしまったら、あっという間にお店に着いちゃうし……。

どんな顔をしてお店に入ればいいのかも分からないのに……。

それが分かっているのにエレベーターなんかに乗れる訳がないじゃない。

気分がずっしりと重くなった時、手に持っているバッグの中から音が聞こえた。

それは紛れも無くケイタイの着信音だった。

……誰よ!?こんな時に……。

右手で持っていたバッグに左手を突っ込んでケイタイを取り出した。

液晶で相手が誰かなんて確認する余裕すらない私は、扱い慣れたケイタイに視線を落とす事なく開いてボタンを押し耳に当てた。

「……はい」

不機嫌な声が私の口から零れ落ちた。

どうやら私は余裕が無くなると不機嫌になってしまうらしい。

新たな発見にさえ溜め息が漏れそうになる。

『……』

私の不機嫌さが電話の相手にも伝わったのか、それとも電波が悪いのか……。

ケイタイからは何も聞こえてこない。

まさか、こんな時にイタ電!?

「……もしもし!?」

何も聞こえてこないケイタイに向かって出した声は不機嫌を通り越してイライラ感を含んでいる。

……間違いない……。

これはイタ電だ。

そう確信した私は文句でも言ってやろうと大きく息を吸い込み口を開いた瞬間……。

『……綾?』

聞こえてきた声に全身から血の気が引いた。

こ……この声は……

「ひ……響さん!?」

証拠も根拠もなく、これがイタ電だと思った私。

……いや、思い込んでしまったの方が正しいのかもしれない……。

とにかくそう思ってしまった事を大きく後悔した。

……聞かれてしまった……。

不機嫌な声を……。

それだけならまだしも、イライラ感満載の声まで……。

こんな事になるなら、液晶でちゃんと確認をすれば良かった。

『どうした?なんかあったのか?』

「えっ!?」

後悔する私の耳に届いたのは心配そうな響さんの声。

『誰かにカラまれたのか?』

僅かに響さんの声が低くなったような気がした。

「……へっ?」

響さんが何をどう思ったのか分からないけど……。

どうやら、私が誰かとモメていると勘違いしているらしい。

でも、それは響さんの勘違いで、私は誰ともモメてなんかない。

むしろ、挙動不審者丸出しの私の周りには近寄ってくる人すらいない。

だから早く「違う」って言わないといけないのに……。

響さんに対して不機嫌な声を出してしまったという事実は想像以上に私にダメージを与えていたらしく否定の言葉も上手い言い訳も出てこない。

『……繁華街にいるのか?』

「えっ!?は……はい」

今頃いつもと同じ声を出したところで今更感が満載で……。

『どこだ?』

「お店の近くですけど……」

『分かった』

「……」

分かった?

一体何が分かったんだろう?

『すぐに行く』

そう言った響さんの声と共にドアの閉まるような音が聞こえた。

……!?

すぐに行くって……。

……。

……。

ここに来るって事!?

確かに響さんは今日お店に来てくれるって私と約束している。

……でも……。

「……あの……」

『うん?』

「まだ、お店は開店していませんけど……」

『……』

「……」

『……なぁ、綾』

「はい?」

『誰かにカラまれてるんじゃないのか?』

「いいえ、全然」

『じゃあ、なんで不機嫌な声を出したんだ?』

……やっぱりバレてた……。

「……」

私の口からは大きな溜め息が漏れた。

『綾?』

「すみません、ちょっとイライラしてて……」

『イライラ?』

「イライラの前はドキドキだったんですけど……」

『ドキドキ?』

「ドキドキしてたらジロジロ見られて……」

『ジロジロ?』

「そしたらもっと気分が落ちちゃって……」

『落ちる?』

「なんか、余裕がなくなるとイライラするみたいで……」

『……』

「だから、響さんが悪い訳じゃないんです!!……ごめんなさい……」

『……』

「……」

『……』

「……」

『……悪い』

「……?」

『……話が全然見えない……』

「え!?」

『とりあえず、誰かにカラまれてる訳じゃないんだな?』

「はい、大丈夫です」

『そうか、良かった』

安心したように吐いた小さな溜め息がケイタイから聞こえた。

その溜め息を聞いて自分が響さんに心配を掛けていた事に気付いた。

多分、私が繁華街でよくケンカを売られるって話しを響さんは覚えてくれてたんだろう。

「……すみません……」

申し訳ない気持ちでいっぱいになった私は謝罪の言葉を口にした。

『別に謝らなくていい』

「……でも……」

『何もないならそれでいい。それより……』

「……?」

『なんでドキドキしたんだ?』

「……あの……それは……」

『……』

私がドキドキした理由。

まさしく自業自得って言葉がぴったりと合う理由。

……だからこそ……。

自分が撒いた種だからこそ、その理由は話難い。

でも、話さなければ響さんは違う理由を考えてまた余計な心配を掛けてしまうかもしれないし……。

だからって正直に『乱闘騒ぎを起こしてしまったからお店に入りづらい』っていうのも……。

多分、これは当事者にしか分からない心境で、第三者にしてみれば『じゃあ、乱闘なんてしなければいいじゃん』っていう話でしかない。

そう言われれば、『……ですよね』ってしか言えない。

冷静に考えれば、確かにそうで……。

でも、あの時は『今が仕事中』とか

『今、暴れたらたくさんの人に迷惑が掛かる』とか

『後々、気まずい思いをするのは自分』とか

そんな事を考える余裕なんて全然無くて……。

だけど、今はっきりと分かるのは、一番悪いのは自分って事。

だからこそ言いづらい。

『綾?』

いつまでも口を開こうとしない私を不審に思ったのか、響さんが困惑したような声を出した。

いつまでも黙り込んでたら、余計な心配を掛けてしまうし……。

……かと言って正直にも言えないし……。

……どうしよう……。

板挟み状態になった私は……。

「ひ……響さん!!」

必要以上に大きな声を出してしまった。

『ど……どうした?』

黙りこくった挙げ句、やっと喋ったと思ったら、携帯で話しているという事をすっかり忘れ、突然大きな声を出した私に響さんが驚いた声を出すのも無理は無く……。

「今、お仕事中ですか?」

質問された事には全く関係のない質問をした私に

『えっ!?……あぁ、一応……』

動揺しつつも響さんは答えてくれた。

「そ……そうですか……」

響さんが今、お仕事中だって事は、わざわざ聞かなくても分かっていたこと。

それを敢えて聞いたのは会話を変えたかったからで……。

だけど、その場しのぎの質問をしたところでその会話が続く筈もなく……。

結局、また気まずい沈黙を迎えるしかなかった。

『……お前は……』

「……?」

『今から出勤か?』

「はい」

『そうだと思ったから電話をしてみたんだが……』

「えっと……何かご用事でしたか?」

『いや、そういうんじゃないんだが……』

「……?」

『店に……入りづらいんじゃないかと思って……』

「えっ!?」

『いや……俺の勘違いだったらいいんだけど……』

「……」

『……』

「……」

『……綾?』

「……どうして……」

『うん?』

「……どうして、分かるんですか!?」

再び私の驚いた大きな声が辺りに響き渡った。

動揺のあまり思わずケイタイを握り締める私の耳には、響さんが小さく笑う声と『やっぱりな』と呟く声が聞こえた。

あんなに“ドキドキ”の理由を隠そうと頑張っていたのに……。

響さんは全てをお見通しで連絡をくれたらしくて……。

こんな結末が待っているならあんなに頑張らずに最初から素直に話せば良かった。

自分の頑張りが無駄だった事が分かった瞬間、どっと疲れに襲われて私はその場にしゃがみ込んでしまった。

『“ドキドキ”の原因はそれか?』

「はい」

もう隠す必要のない私は素直に頷いた。

『今、店の前にいるんだろ?』

「えぇ」

『そこに着いてからどのくらい経った?』

「20分くらいです」

『なるほどな』

「……?」

『お前の言葉の意味がやっと分かった』

「言葉の意味……ですか?」

『あぁ、“ドキドキ”と“ジロジロ”と“イライラ”と“落ちる”。全部の意味が分かってやっと話が見えたよ』

響さんの優しい笑い声が私の耳を刺激する。

その小さな刺激のお陰で少しだけ緊張が解れたような気がした。

「あの……どうして私がお店に入りづらいって分かったんですか?」

『どうして?そうだな……多分、年の功かな』

「としの……こう?」

『俺にも経験がある』

「えっ?」

『若い時は後先を考えて行動する事が苦手だったからな』

響さんが電話の向こうで苦笑している。

今、響さんがどんな表情で笑っているのかが実際に自分の瞳で見ているかのように想像出来る。

……きっと……。

響さんは困ったように鼻の頭を掻いている。

実際は響さんと私の間にはかなりの距離がある。

どのくらいの距離があるのかは、はっきりとは分からないけど……。

今、私と響さんを繋いでいるのは、目に見えないケイタイの電波だけ。

だけど、その電波にのって伝わってくる声が、すごく身近なものに感じる。

すぐ傍に響さんがいるような錯覚に包まれる。

「そうなんですか?」

そう尋ねた私の声は自分でも驚くほど穏やかなものだった。

傍にあるように感じるその存在感が私の気持ちを穏やかにしていく。

『あぁ、自分が仕出かした事に対して感じる気まずさは自分にしか分からないもんだからな』

「……そうですよね……」

『綾は変なところで生真面目だから、もしかしたら店に入れずに困っているんじゃないかと思って……』

変なところで生真面目?

私が?

……。

……。

私が生真面目だとは思わないけど……。

「どんな顔をしてお店に入ればいいのか分からなくて……」

気付くと、さっきまで必死で隠そうとしていた想いを素直に口に出していた。

『あぁ、分かるよ』

自分の気持ちを分かってくれる人がいる事がこんなに嬉しいと思ったのは初めてだった。

「……響さん」

『うん?』

「こういう時ってどうすればいいんですかね?素直にみんなに謝った方がいいんですか?」

『……そうだな……』

響さんはそう呟くと黙り込んでしまった。

流れる沈黙。

だけどこの沈黙は気まずいものではない。

きっと響さんは電話の向こうで私の為に答えを見つけてくれている。

なんとなくそれが分かったから私は静かに響さんの言葉を待っていた。

しばらくすると私の耳に響さんの声が届いた。

『……なぁ、綾』

「はい」

『あと2時間ぐらいで俺もそっちに行く。それまでいつもと同じようにしてろ』

「えっ?」

『できるな?』

「いつもと同じように……ですか?」

『あぁ』

「他には?」

『他に?例えば?』

「お店の女の子達やボーイさん達に謝ったりとか……」

『必要ない』

「えっ!?じゃあ、反省の気持ちを込めてトイレ掃除をするとか……」

『トイレ掃除はボーイにでも任せておけ』

「そ……そうですか……じゃあ……」

『……綾』

「えっ?」

『いつもと同じでいいんだ』

「……でも……」

『どうしても何かしたいなら……』

「何かしたいなら?」

『堂々としてろ』

「へっ!?」

堂々としてろって言われても……。

本当にそれだけでいいんだろうか?

もっと反省してます的ななにかが必要なんじゃ……。

『お前は自分がやるべき事をやって今そこにいるんだ。これ以上お前がしないといけない事は何もない』

「……」

『俺がそこに行くまでいつもと同じように振る舞えるな?』

「……でも……」

『大丈夫だ』

低くて甘さを含んだ声。

『なにも心配する事はない』

落ち着いていて穏やかな口調。

『いつもと同じでいいんだ』

その声が全身の細胞に染み込んでいくような感覚。

これは俗にいう一種の洗脳のような状態なのかもしれない。

“大丈夫だ”。

その言葉にある根拠なんて全然分からないのに……。

もしかしたら、根拠なんて全然ないかもしれないのに……。

なぜか不安が無くなって本当に大丈夫な気がしてくる。

「……分かりました。いつもと同じようにしています」

当たり前のように私の口から言葉が出てきて

『あぁ、それでいい』

満足そうな響さんの声が心地良く耳にひびいた。

『出来るだけ急いで行くから』

「ありがとうございます」

『じゃあ、あとでな』

「はい」

私は耳からケイタイを離して瞳を閉じた。

そのケイタイを胸に当ててゆっくりと深呼吸を1回。

もう一度、響さんの言葉を頭の中に思い浮かべ自分に言い聞かせる。

それから、ゆっくりと瞳を開けた。

胸に当てていたケイタイを閉じ右手に握り締めた私は足を踏み出した。

◆◆◆◆◆

お店の裏口にある従業員専用の通路を通り、1つのドアの前で足を止めた私は

「おはようございます」

いつもと同じように挨拶の言葉を口にしながらそのドアを開けた。

一斉に集まる視線。

その部屋の中にいたのは、身支度途中の数人の女の子達。

ドアを開けた私を少し驚いた表情で見ていた。

これは、予想していた事。

でも、この視線は正直ツラい……。

『堂々としていろ』

響さんの言葉が頭に浮かんだ。

……そうだった……。

堂々としてなきゃ……。

この視線に怯んじゃいけない。

私は手に持っていたケイタイをキュッと握り締めた。

……その時、

「あっ!!綾乃ちゃん、おはよう!!」

声を掛けてくれたのは、マリさんだった。

いつもと同じ元気いっぱいの笑顔と声に私は救われた。

「おはようございます」

「もうすぐ髪とメイク出来るから、先に着替えてくれる?」

マリさんは部屋の奥を指差しながら私に手招きをしている。

「はい」

私が部屋に入ると、女の子達は興味本位な視線を向けながらも

「おはよう」

挨拶を返してくれた。

「おはようございます」

とりあえず、1人1人に挨拶をしてから、部屋の奥へ行くと

「綾乃ちゃんのドレスはそれね」

忙しそうに女の子の髪を弄りながらマリさんが指差したドレスは、私が大好きな深紅のロングドレスだった。

「はい!!」

そのドレスを見た私は、一気にテンションが上がった。

そんな私にチラッと視線を向けたマリさんがクスクスと小さな笑いを零していた。

部屋の奥で着替えを済ませ、マリさんにメイクと髪をセットしてもらった。

私の髪や顔を弄るマリさんはいつもと同じように慌ただしく手を動かしながら機関銃のごとく口も動かしていた。

だけど、その口からは一度もあの日の話は出てこなかった。

マリさんがあの話を耳にしていないはずはないのに……。

いつもと同じように私を笑わせてくれたマリさんは、いつもと同じように

「綾乃ちゃん今日も綺麗よ。頑張ってね!!」

笑顔とその言葉で私を部屋から送りだしてくれた。

その言葉に見送られて私はお店へと続く通路を歩いた。

ドアの前でもう一度深呼吸。

「……よし!!」

小さな声で気合いを入れて、

綾乃の唯一の居場所であるお店のドアを開けた。

「おはようございます」

背筋を伸ばしまっすぐ前を向けて堂々と歩く。

「綾乃さん、おはようございます」

近くにいたボーイさんが私に気付いて挨拶を返してくれた。

その声を聞いた他のボーイさん達も慌ただしく動いていた足を止め挨拶をしてくれる。

その声に軽く頭を下げ待機席に行こうとした私の肩を誰かが叩いた。

「……?」

振り返るとそこに立っていたのは

「綾乃ちゃん、おはよう」

一週間ぶりに会う雪乃ママだった。

妖艶な笑みを浮かべた雪乃ママを見ると張っていた気が緩みそうになった。

「雪乃ママ……」

「すっかり元通りになって良かったわ」

雪乃ママの指が私の頬に触れた。

「……あの!!」

響さんは謝らなくていいって言ったけど……。

どう考えても、雪乃ママにはかなり迷惑を掛けちゃったし……。

「なぁに?綾乃ちゃん」

やっぱり雪乃ママには一言……。

「雪乃ママ、いろいろとご迷惑をお掛けしてしまって……」

『すみません』の言葉と一緒に頭を下げようとしたら、

「綾乃ちゃん」

雪乃ママに腕を掴まれた。

……えっ?

……なに?

私は足元に落としていた視線を慌てて雪乃ママに向けた。

雪乃ママはニッコリと笑っている。

「……?」

「もう済んだ事よ」

「えっ?」

「もう全て終わってるの」

「終わってる?」

「えぇ、貴女は私に対してきっちりと自分の責任を果たしてくれたでしょ?」

「……責任……」

「そう、私が言った通り怪我が治るまで出勤しなかったでしょ?」

「はい」

「だからもう終わりなの」

「……」

「いつまでも過去ばかり気にしてたら未来まえには進めないわよ」

いたずらっ子みたいな瞳をした雪乃ママが口元に優しい笑みをたたえていた。

「……」

「貴女にとって現在いまというこの時間は二度と戻ってはこないの」

「……」

「貴重な時間をクヨクヨと悩むような時間に使い過ぎてはダメ」

「……はい」

「綾乃ちゃんには似合わないわよ」

「……?」

「悩み過ぎて疲れた顔なんて」

雪乃ママの言葉に私は両手で自分の頬を覆った。

「……そんなに疲れた顔をしてますか?」

「う~ん。そうね、『充分悩みました』って顔をしてるわね」

「……!!」

そんなに!?

私、そんなに疲れた顔してるの!?

……大変だ……。

ただでさえ老け顔なのに……。

老け顔プラス疲れ顔なんて……。

最悪じゃない!?

「心配しなくても大丈夫よ。美味しいお酒を飲んでたくさん笑えば疲れなんてあっという間に吹っ飛ぶわ」

「そ……そうなんですか?」

「そうよ。私なんか毎日美味しいお酒を飲んで、たくさん笑ってるから疲れ知らずよ」

雪乃ママの言葉には妙な説得力があった。

「今日はたくさん飲ませて貰えるわよ」

「……?」

「響さんからご予約を頂いてるわ。今日は綾乃ちゃんの“復帰祝い”なんですって」

ふんわりと柔らかい笑みを零した雪乃ママを見て思い出した。

このお店は完全予約制。

『近くまで来たから』とか言って

ふらりと立ち寄って気軽に飲みに来れるお店じゃない。

最低でも前日、たくさんのお金を使ってくれる“お得意様”のお客様でもその日の午前中のうちには予約を入れないといけない。

私は昨日の夜に響さんから聞いていた。

『明日店に顔を出す』

響さんは私を指名してくれるお客様。

お店に来てくれる事を聞いた時点で私がお店に予約を入れるべきだった。

それなのに、私ったら自分の事に夢中になり過ぎて……。

自分がやるべき事さえもしていない。

……していないどころか思い付きもしなかった。

……最悪……。

「すみません!!」

私は勢いよく雪乃ママに頭を下げた。

「……えっ……綾乃ちゃん?」

不思議そうな表情で首を傾げる雪乃ママ。

「……あの……私……」

胸の中に広がる自己嫌悪の所為で言葉さえ見つからない。

「あら、嫌だわ。私ったら……本当は『内緒にしておいて欲しい』って言われてたんだったわ」

「へっ!?」

思わずすっと呆けた声を出した私を軽くスルーして気まずそうな雪乃ママ。

「ビックリさせたいんですって」

「ビックリ?誰がですか?」

「響さん」

「誰をですか?」

「綾乃ちゃん」

「……」

響さんが私をビックリさせる?

……。

……。

……ダメだ……。

どんなに考えても話が見えない。

響さんが私をビックリさせたいって言っても……。

私は響さんが今日お店に来る事を知ってるんですけど……。

だから、例え雪乃ママがうっかりバラしてしまったとしても驚きはしないし、何も問題はない。

ただひとつ問題があるとすれば、響さんがなんでそんな事を言ったのかということ。

今日から出勤するという事を響さんに言ったのは私。

それを聞いて響さんはお店に顔を出すって言ってくれたんだから、

響さんがお店に予約をしたのは、それ以降って事になる。

……って事は、響さんが予約の電話を入れた時には私もその事を知っていると分かっていたはずなのに……。

どうして響さんは雪乃ママにそんな事を言ったんだろう?

「さあ、綾乃ちゃん。お客様がみえたら、いっぱいお仕事してもらうから、それまでは待機席でゆっくりしてて」

「え!?……あっ……はい」

雪乃ママの声で現実に引き戻された私は促されて待機席へと向かった。

先に待機席に座っていた女の子達に「おはようございます」と挨拶をしてからソファに腰を降ろす。

そこには、さっき控え室で顔を合わせた女の子達と今日初めて顔を合わせる女の子達が座っていた。

その子達から少し離れた席に座った私は瞳を閉じた。

閉じていても感じる視線。

やっぱり私はここでもその視線に晒されることとなった。

でも、その視線はさっき控え室で感じた時よりは辛くなかった。

そう感じたのはきっと雪乃ママと話せたから。

自分にとって大切な人にさえ分かって貰えれば他の人にどう思われても構わない。

私にとって雪乃ママは尊敬すべき大切な人。

今、待機席に座っている子達は私にとって同じお店で働く女の子っていう存在に過ぎない。

雪乃ママにさえ分かって貰えれば、女の子達にはどう思われても構わない。

そう思うと痛いくらいに感じる視線も大した事はなかった。

そう思った時、ふと浮かんだ疑問。

もし、ここにアリサがいたらこの子達は、アリサにも同じ態度を取るんだろうか?

アリサの姿はそこにはなかった。

当たり前と言えば当たり前。

No.1のアリサはきっと今頃同伴の真っ最中。

私が知る限りアリサが同伴をしない日なんてない。

それに例え同伴が無くてもアリサがこの時間にお店にいるはずがない。

アリサを含めたトップクラスの女の子達は私達バイトとは違う。

売り上げは関係なく時間でお金を稼ぐ私達。

一方、アリサ達に時間は関係なくノルマによってお給料が決まる。

何時に出勤しようがノルマさえこなせればそれでいい。

そんなお店のシステムを知っている私は

アリサがここにいない事を分かっていた。

……とは言え、遅くても22時までには、アリサも出勤してくる。

とりあえず、仕事は同じテーブルに着かない限りシカトしよう。

多分それが私の為にもアリサの為にもお店の為にもなる。

……でも、それからどうしよう……。

その時、待機席の雰囲気が変わったような気がした。

微かに空気が張り詰めたような……。

しないような……。

……。

……。

……気の所為か……。

そう納得しようとした瞬間。

誰かが私のすぐ隣に座った。

……?

私は閉じていた瞳を開いた。

……!!

そして、驚いた。

……なんで!?

……どうして !?

隣に座ったのは、私がここにいるはずがないと思っていたアリサだった。

次々と頭の中に浮かび上がる疑問。

なんでここにアンタがいるの?

どうして今アンタがここにいるの?

……てか、なんで隣に座ってんのよ!?

席なんてここじゃなくてもたくさん空いてるじゃない!!

喉まで出掛かっている言葉を私が口に出さなかったのは驚き過ぎた所為か……。

それとも、微かに張り詰めた空気が私に冷静さを保たせていた所為か……。

自分でもいまいちよく分からないけど……。

私は正面の壁に飾ってある雪の結晶の絵を見つめたまま、隣に座るアリサを視界の端に捉えていた。

視界の端にちょこっとだけ映っているクセにアリサは堂々とその存在感を放っていた。

さっきまで痛いくらいの視線を送って来ていた女の子達も今はひたすら俯き顔すら上げようとはしない。

私とアリサ。

彼女達にとってみれば最高な話題のネタになるはずなのに……。

大好きな噂話に華を咲かせるどころか好奇の視線を向けようともしない。

所詮、他人なんてこんなモノ。

自分より強い立場の人間には絶対に刃向かおうとはしない。

誰でも結局は自分が一番可愛くて堪らない。

権力がある人間の前ではひたすらひれ伏し、自分より弱い人間の前では自分を大きく見せようとする。

こんな人間を見る度に私は思う。

こんな大人にはなりたくない。

こんなに魅力のない女性にはなりたくない。

さっきまで女の子達の視線をツライと思っていた自分が情けなくなる。

どうしてこんな子達の視線に怯んでいたんだろう?

そう考えると気分が晴れるように軽くなった。

……晴れて軽くなってすっかり忘れてたいた……。

隣で腕と脚を組んで偉そうにソファにふんぞり返っている“天敵”の存在を……。

「……今日……」

ボス殿スタイルを崩す事なくアリサが口を開いた。

アリサの声を聞いただけでも私の身体は拒否反応を示す。

抑えるのが精一杯なイライラ感が身体の底から湧き上がってくる。

そのイライラ感を吐き出すように私は息を吐き出した。

「……」

「お店が終わった後、時間を空けといて」

私に視線を向ける事もなく正面に顔を向けているアリサは瞳を閉じている。

そして私もアリサに視線を向ける事なく正面の絵を見つめたまま視界の端にその姿を捉えているだけ。

……お店が終わった後……時間を空けといて……。

……はい?

『時間ある?』じゃなくて『時間を空けといて』って……。

こんなところでもアリサはアリサだった。

もし仕事の後、私に用事があったとしても、アリサ的にはどうでもいい事らしく……。

……って事は、『アンタの私用よりも私との約束を優先させなさいよ』って言っているのと同じらしい。

なんで、私がアンタに合わせないといけないのよ!?

そう言いたいところだけど……。

てか、本当に言いそうになったんだけど……。

『一週間以内にきっちりカタをつけて来い』

瑞貴と交わした約束。

もし、その期間中に瑞貴との約束を果たせなかったら……。

瑞貴が動く事になっている。

それは、どうしても避けたい。

別に瑞貴が動いてアリサがどうなろうと私には全く興味のない話。

だけど自分が巻いた種の後始末も出来ない女には成り下がりたくない。

結局、どんなに粋がってても男がいないと何も出来ない女にはなりたくない。

アリサからの提案にのるっていうのは、納得いかないけど……。

ものすごくイヤだしムカつくけど……。

「……分かった」

私は正面を見据えたまま頷いた。

私とアリサの会話はそれで終わった。

あとから時間はいくらでもあるんだから今ここで話す事は何もない。

私は静かに瞳を閉じた。

会話が終わってからもアリサがその席から移動する事はなかった。

約束をする為に私の隣に座ったんなら、どこかに行ってくれた方がいいのに……。

そう思っているのはきっと私だけじゃない。

待機席にいるはずのないアリサがどっしりと座っている所為か、いつもはうるさいくらいの空間が静まり返っている。

続々と出勤してくる女の子達。

その誰もが『……おはようございます……』

控えめな挨拶を口にして私達から離れた席に腰を下ろす。

瞳を閉じていても気配で分かる。

誰1人として私達の近くに座ろうとはしない。

それは私に遠慮をしている訳じゃなくて、私の隣にいる人……。

肩が触れそうな距離に座っているNo.1に遠慮しているんだ。

女の子達が挨拶をしようが微動だにしないNo.1。

瞳を閉じ動かないNo.1を見て女の子達は『アリサさんは疲れているんだ』と思い、話し掛ける事も出来ずひたすら沈黙を守っている。

……まったく、少しは周りに気を使いなさいよ。

客には最高の心遣いが出来るクセに……。

お金を貰えない相手には出来ないのかしら?

……まぁ、私は好奇の視線に晒される事も噂話の的にされる事もなくて助かるけど……。

……。

……。

……えっ?

ちょっと待って。

……もしかして、アリサがここに座ったのって……。

……。

……。

……まさか……ねえ?

『アリサさん』

No.1が作り出した静けさを破ったのは店長だった。

女の子達にとって店長は救世主だったに違いない。

『ちょっといいですか?』

「……はい」

隣で気配が動く。

鼻を掠める甘い香り。

……あれ?

……この香り……。

どこかで嗅いだような……。

ソファの上を布が滑る音がして、気配が離れて行く。

絨毯の上をヒールが弾む音。

その音が遠ざかるとどこからともなく安堵の溜め息が聞こえてきた。

彼女達にとっても苦痛な時間だったらしい。

微かに残るアリサの香水の香り。

その甘い香りが心に引っ掛かっていた。


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