エピソード12

仕事を2日間も休み付きっきりで看病してくれた響さんは、窓の外が薄っすらと明るくなる頃、帰って行った。

「また連絡する」

……その言葉を残して……。

玄関まで響さんをお見送りしたら、「俺がここを出たらすぐに鍵を締めろ」と言う響さんの言葉に従いすぐにロックを掛けた。

その音を確認してから遠ざかって行く足音。

その音が聞こえなくなってから私はリビングに戻った。

リビングの窓のカーテンを少し開け外を覗くと、階下に停まっている黒い高級車。

いつからそこに停まっていたのかは分からないけど……。

その車の運転席から男の人が降りてきた。

その人を見て、その車が響さんを待っている車だと確信した。

スーツ姿の男の人。

ただ車を降りて後部座席のドアの前に立っただけなのに、キビキビとした動きと独特の雰囲気は薄暗いそこでも一目で分かる。

マンションから出てきた人影。

さっきまでこの部屋で優しく穏やかな瞳で私と話していた人。

その人影が車に近付くと開けられたドア。

その後部座席に当たり前のように乗り込んだ人影。

何度か見た事のある光景。

何度見ても慣れる事の出来ない光景。

この光景を見る度に思い知らされる。

響さんは、私とは別世界で生きる人。

さっきまでこの部屋にいたのは、本当は響さんじゃなかったのかもしれない。

一緒にいたのは“響”という名の別人だったのかもしれない。

そんな事まで考えてしまう。

響さんが乗った車は静かに動き出し、朝を迎えようとしている街に消えて行った。

窓の外から部屋の中に視線を移すと、視界に入ったテーブル。

灰皿に残る2種類のタバコの吸殻。

並べた様に置いてある二つのグラス。

そして、部屋の中にかすかに残る香水の匂い。

この部屋は私の部屋。

ここに住んでいるのは私。

この空間は私の一人のモノ。

それが当たり前だった。

……それなのに……。

たった少しの時間、ここに響さんが居ただけで、どうして今こんなにも寂しく感じてしまうのだろう……。

その理由は分からない。

分からないから不安になる。

不安が募ると弱い自分が顔を覗かせる。

弱い自分は好きじゃない。

私は心の中にある想いを振り切るように頬を両手で叩いた。

テーブルに置いてあるグラスをシンクに持って行き灰皿の吸殻をゴミ箱に捨てた。

いつもと同じ部屋に戻ると少しだけ不安感が無くなった気がした。

……あっ、ケイタイ……。

いつもテーブルに置いているケイタイが無いことに気付いた私は記憶を辿り寝室に向かった。

ベッドの横のサイドテーブルの上でケイタイが定期的なリズムで赤い光を発していた。

ケイタイの液晶画面を見てみるとマナーモードのマークと“着信あり”の文字。

……忘れてた……。

その時やっと気が付いた。

アリサとケンカをした日、お店でマナーモードに設定していて解除するのを忘れていた。

あの日からほぼずっとここに放置されていたケイタイ。

着信履歴を見てみると、瑞貴と凛の名前がズラリと並んでいる。

多分、二人はものすごく心配しているはず……。

連絡も取れず学校にも来ない私を……。

最後の着信は今から10分ぐらい前に瑞貴からだった。

そのまま、発信ボタンをおそうとした。

……私のこの顔を見て瑞貴はなんて言うんだろ?

頭に浮かんだその疑問に、私は発信ボタンから指を離し、反対の手で近くにあった鏡を取った。

その鏡を覗き込んで私は、絶句した。

殴られて赤く腫れていた頬は、時間が経った今、青紫色に変色している。

痛みは無くなったにも関わらず、痛々しさが増している。

……これはヤバイ……。

『階段から落ちた』って言って瑞貴は信じてくれるかしら?

多分、無理だろうな。

瑞貴がそんな子供騙しみたいな嘘に騙されてくれるはずがない。

……じゃあ、正直に話してみる?

……。

……。

……それは、絶対に無いな……。

そんな事になったら面倒くさ過ぎる。

私がそう思うのには理由があった。

瑞貴が、まだチームを作る前。

私達がまだ中学生だった頃。

いつもの溜まり場。

その夜は週末だった事もあり、いつもよりたくさんの子が集まっていた。

みんなが、それぞれ仲のいい子達と話したり、ダーツやビリヤードをして時間を過ごしていた。

私は、一番奥のソファで瑞貴や凛と一緒に他愛もない話をしていた。

その時、溜まり場に入って来た女の子。

その瞬間、入り口辺りがざわめき始めた。

それに気付いた瑞貴がそっちに視線を向けた。

瑞貴につられる様に私と凛も視線を向けた。

入り口付近に集まった子達。

その中心に立っていたのは“ミユ”という女の子。

ミユは私達の1歳下。

人懐っこい笑顔が可愛い女の子。

人見知りで凛や瑞貴以外とはあまり話そうとしない私にも顔を合わせる度に笑顔で挨拶をしてくれる。

ミユは凛が可愛がっている後輩の一人でもあった。

そんなミユの顔を見て私と凛は言葉を失った。

口の端は切れ、頬は腫れ、顔の至る所に擦り傷が出来ている。

「ミユ」

瑞貴の低い声に、騒然としていた溜まり場が、水を打った様に静まり返った。

「は……はい……」

いつもとは違う瑞貴の声に、ミユの顔も引き攣っている。

「その顔どうした?」

瑞貴が尋ねると、いつもはニコニコと笑っているミユが悔しそうに顔を歪めて話し始めた。

前日、ミユは友達と数人で隣の県であった祭りに行ったこと。

その祭りの会場で自分達よりも少しだけ年上くらいの女と肩がぶつかったこと。

どっちからぶつかったという些細な理由で小さな争いに発展してしまったこと。

祭りの会場は熱気とたくさんの人で溢れ返っていて、故意ではなく偶然、肩がぶつかるなんてよくある話。

そこで、お互いが引けばよかったのかもしれない。

だけど、お互いが血の気の多い友達をつれていて、そのうえ祭りの雰囲気が余計に興奮させてしまっていたらしく、お互いに引く事はなかった。

小さな言い争いは、やがて友達も巻き込み殴り合いの乱闘に発展した。

ミユは、ここの溜まり場に来るくらいの女の子で、しかも凛が可愛がっているだけあって、ケンカ慣れしていて負けず嫌い。

相手が自分達よりも年上だとは言っても、友達の加勢もあり余裕で勝てたらしい。

そこで、事は丸く収まると思っていた。

ミユも友人達も……。

……でも、その数十分後、再び祭りを楽しんでいたミユ達は、自分達の倍以上の人数の男達に囲まれた。

抵抗する暇も無く人目の無い場所まで連れて行かれたミユ達。

ミユの話によると、最初にミユと肩がぶつかった女は、祭りが開催されていた街に住んでいて、その街にあるチームのトップの彼女だったらしい。

自分の女の敵討ちとばかりに、仲間を引き連れて現れたその男は容赦なくミユ達に手をあげた。

ミユ達がどんなにケンカ慣れしていると言っても自分達の倍以上の人数の男相手に勝てるはずもなく……。

ミユの口からポツポツと語られる話に溜まり場は静まり返っていた。

そして、その場にいた全員の表情が変わっていた。

鋭い眼付きからは怒りに似た感情が溢れていた。

ここに集まる子は家族に恵まれていない子がほとんど。

家庭という居場所がないからここに集まってきている。

そんな私達は家族という存在に憧れを持っている。

だから、ここで同じ時間を過ごす似たような境遇の子達の間には強い仲間意識が存在する。

仲間を傷付けられて黙ってなんていられない。

みんなの眼はそう叫んでいた。

瑞貴は、いつものソファに深く腰掛け、腕を組み瞳を閉じてミユの話を聞いていた。

そして、ミユの話が終わると閉じていた瞳を開け立ち上がった。

ゆっくりとミユに近付いた瑞貴。

そして、ミユの前で足を止めると腰を曲げミユと視線を合わせた。

ミユは戸惑ったような表情を浮かべていた。

……後から聞いた話だけど……。

その時、ミユは瑞貴に責められると思ったらしい。

瑞貴が負けず嫌いだという事は誰もが知っていること。

男相手とはいえ負けて帰ってきてしまった自分は責められて当然だと思ったらしい。

「相手のチーム名は分かるか?」

「は……はい」

ミユは戸惑いながらもチーム名を告げた。

それを聞いた瑞貴は、それまでポケットに突っ込んでいた右手をミユに伸ばした。

ミユはとっさに固く瞳を閉じ、周りに居た子達も息を呑んだ。

その場に居た全員が見守る中その手はミユの頭を優しく撫でた。

「……!?」

状況が飲み込めない様子のミユは恐る恐る瞳を開けて瑞貴を見つめていた。

そんなミユに優しく微笑みかけた瑞貴。

「あとは俺に任せろ」

その瞬間、ミユの大きな瞳からは涙が溢れていた。

「凛」

瑞貴に呼ばれた凛が立ち上がった。

凛が近付くとミユは凛にしがみ付き泣いていた。

そんな、ミユを凛は優しく包み込みながら私が座っているソファまで連れてきた。

零れ落ちる涙を拭おうともせず泣き続けるミユの頭を撫でてあげる事しか私は出来なかった。

その後、瑞貴は男の子達を引き連れて溜まり場を出て行った。

そのチームが瑞貴達によって潰されたという噂を私が聞いたのはその翌日の事だった。

その噂を聞いて私が驚く事は無かった。

……やっぱり……。

その話題で持ち切りだった溜まり場。

興奮気味の子達を見ながら私はそう思った。

瑞貴がそうする事は何となく分かっていた。

瑞貴はそういう奴。

自分の仲間を守るためなら、相手が誰であろうと牙を向ける。

……警察だろうが、ヤクザだろうが、男も女も関係なく。

自分がどんなに不利になる相手でも……。

何があっても全力で仲間を守る奴。

それが瑞貴なんだ。

……そういう奴だからこそ今の私の顔を見たら、瑞貴は間違いなくこう言うはず……。

『その顔どうした?』

そこで私が『階段から落ちた』なんて軽く言っても、瑞貴は私の嘘をすぐに見破ってしまうはず……。

言い訳を探して隠す事が面倒になった私が『ケンカした』なんて本当の事を言ってしまったら……。

……。

……。

その後の瑞貴の行動が、ばっちりと予想できてしまう。

そんな事になったら、この上なく面倒くさい。

……先に凛に連絡しよ……。

私は凛に発信した。

1コールの途中で聞こえてきた声。

「……もし……」

「凛、喋らないで!!」

私はその声を遮った。

「……!?」

凛が電話の向こうで戸惑っているのが分かる。

「いい?私の質問に『うん』か『ううん』で答えくれる?」

「う……うん」

「今、溜まり場?」

「うん」

「そこに瑞貴もいる?」

「ううん」

……良かった……。

「もう普通に話してもいいわよ」

「綾!!」

「うん?」

「今、どこ?」

「マンション」

「何度も連絡したんだよ!!」

「そうみたいね」

「もしかして、何かあった?」

「……まぁ、ちょっとね」

「『ちょっと』って何?」

「話せば長くなるから……」

「綾、今日は学校に行く?」

「学校?……まだ無理かな」

「無理?体調でも悪いの?」

「そうでもないけど……」

「もう!!電話で話していても全然分からない!!今からそっちに行ってもいい?」

凛が微妙にイライラしているのが分かる。

そんな凛に私は苦笑してしまった。

「うん、どうぞ」

「今から10分で行くから」

「分かった。あっ!!凛!!」

「なに?」

「瑞貴にはバレないように来てね」

「は?なんで?」

「ウチに来てからゆっくり話す」

「……分かった」

◆◆◆◆◆

凛との会話を終わらせて8分後。

インターホンが鳴った。

一度ではなくこの連打は絶対、凛に違いない……。

そう確信した私は玄関に向かいドアのロックを外した。

ドアの外には、私の予想通り凛が軽く息を弾ませて立っていた。

私の顔を見て嬉しそうな笑みを浮かべた凛。

だけど、その笑みはすぐに消えた。

「どうしたの?」

凛の視線は青紫色に変色している頬に向けられている。

「……とりあえず入って」

「うん」

私は、凛を部屋の中に招き入れた。

私がソファに腰を下ろすと、凛が私の正面に立った。

「相手は誰?」

その言葉に私は苦笑してしまった。

「階段から落ちたとか道でコケたとかは思わないの?」

「綾、それは無理だよ」

「どうして?」

私の質問に凛が大きな溜息を吐いた。

「そんな理由で出来た傷にしては不自然過ぎるもん」

「やっぱり?」

「うん」

……良かった……。

凛にもすぐにバレるくらいなんだから瑞貴を騙すなんて絶対に無理。

先に凛に連絡して正解だった。

「それで?」

「ん?」

「相手とその傷の原因は教えてくれるの?」

凛にしては珍しいくらいの真剣な瞳。

私の顔を見たんだから仕方が無いのかもしれない。

ここに凛を呼んだ時から全て話すつもりだったし……。

「もちろん話すわよ。でも、一つだけ条件があるの」

「条件?」

凛は不思議そうな表情で首を傾げている。

「……このケガとその理由は瑞貴に言わないで欲しいの」

「はぁ?」

普段でもクリクリと大きな凛の瞳。

その瞳が一層大きく見開かれている。

この反応も予想通り。

「約束してくれる?」

私は凛の顔を覗き込んだ。

「……無理だよ……」

凛が首を大きく左右に振った。

「どうして?」

「その顔のケガが完全に治るまで何日掛かると思ってるの?その間、ずっと瑞貴と会わないつもりなの?」

「……」

「この数日間だって、綾と連絡取れないからってかなり心配してたんだよ。もう瑞貴の限界はとっくに超えてる。今、私達がこうしている間に、瑞貴は動きだしているかもしれないんだよ?」

「……」

「瑞貴が率いているのは、もう“仲良しクラブ”なんかじゃない。綾だって分かってるでしょ?瑞貴の一言で動く人間はたくさんいる。瑞貴がここに来るのだって時間の問題だよ」

「……」

「瑞貴が綾の顔を見て何も言わないと思う?」

真剣な表情の凛。

私は、凛の顔をからテーブルに視線を向けた。

「……だからよ」

そこにあったタバコの箱を手に取り1本銜えて火を点けた。

「え?」

タバコの箱とライターを凛に手渡す。

「私の顔を見て、瑞貴が取る行動は分かってる」

凛は迷う事無く、タバコを取り出し火を点けた。

「……だったら」

「これは私の問題なの」

「……」

「瑞貴は、私が相手の名前を言わなくても、絶対に動く」

「瑞貴に手を借りて相手を病院に送っても何の解決にもならない」

「……」

凛は何かを考えているかのようにタバコの煙を見つめている。

「ねえ、凛」

「……うん?」

「私達が、瑞貴のチームに入ったのは、男に守ってもらう為なの?それとも、男相手でも引かないからなの?」

「……」

「……」

「……もちろん……」

「……?」

「男相手でも絶対に引かないからでしょ」

真剣だった凛の表情が和らいだ。

「でしょ?私達は相手が誰でも負けないわ」

「うん!!」

「今日の夜、溜まり場に顔を出すから」

「……!?……でも、その傷……」

「このくらいの傷なら、メイクでいくらでも隠せる」

「……分かった。出来る限り、綾に協力する」

「ありがとう」

「別に……お礼なんて言わないでよ」

凛が照れたように私から視線を逸らした。

「……ところで」

「……」

「そのケンカ」

「ケンカ?」

「負けてないでしょうね?」

「当たり前でしょ。……でも……」

「でも?」

「思ったより強かったの」

「マジで!?」

凛の瞳が輝いている。

「うん」

「綾がそんな事を言うなんて珍しいじゃん。相手は女?それとも男?タメ?年上?どこの子?」

「年上の女」

「なんだ。女か」

何を期待していたのか、凛が肩を落として私の隣に座った。

「……で、誰なの?」

「……アリサ」

自然と低くなった声。

名前を口にするだけでも、ムカついてしまう。

そんな私に気付いていないのか凛は腕を組んで首を傾げている。

「アリサ?誰?繁華街にそんな名前の子いたっけ?」

「……多分、本名じゃないわよ」

「え?それって……」

「お店の女の子」

「……」

「私が働いている店のNO.1の女よ」

「……やっぱり……」

「あら、凛もアリサの事、知ってるの?」

「……ねえ、綾……」

「なに?」

「……綾は知らないかもしれないけど……」

「……?」

「雪乃ママが経営しているお店って、繁華街の数あるお店の中でもかなり人気があって有名なんだよ」

「そうなの?」

「……やっぱり、知らなかったんだ……じゃなくて、その系列店の中でも、綾が働いているクラブは人気も売り上げもダントツなの」

「へえ~だから毎日、大盛況なのね~」

タバコの煙を吐き出しながら言うと怪訝そうな瞳で凛が私を見ていた。

……。

私、何かおかしな事言ったっけ?

「ま……まぁ、それはどうでもいいんだけど……お店が有名って事は、NO.1張ってるアリサも有名人なんだよ」

「ふ~ん」

「夜の世界のお姉さん達の間じゃちょっとしたカリスマ的な存在……」

「は?カリスマ?あの女が?凛、冗談は止めてよ」

「……綾……」

「なに?」

「アリサの事が大嫌いなのね?」

「どうして分かるの?」

「……分からない方が、不思議だと思うけど……」

「……」

「それで、そのアリサと何があったの?」

私は、凛にお店での出来事を全て話した。

私が初めて響さんと会った日、響さんはアリサじゃなくて私を指名してくれたこと。

学校をサボって家に帰ろうとしていた時、偶然、響さんに会い、私が高校生だと言う事がバレてしまったこと。

それでも、響さんは私と同伴してくれたこと。

同伴の席で響さんの知り合いに会ったこと。

その人に彼女かと聞かれても響さんが否定しなかったこと。

私なんかに、奥さんの話をしてくれたこと。

その日、帰る響さんを見送ろうとしていたら店の外でアリサと鉢合わせしたこと。

2人きりになった時、アリサにケンカを売られたこと。

私が、そのケンカを買うために挑発したこと。

その後、アリサと殴り合いのケンカをしたこと。

思った以上にケンカのダメージが大きくて、寝込んでいたこと。

その間、響さんが看病してくれたこと。

凛に全てを話した私は気分が軽くなった。

……だけど……。

私とは対照的に凛の表情が険しくなっているような……。

「……綾……」

いつもより低い声。

「な……なに?」

「私、ちょっと行ってくる」

「は?どこに?」

「アリサの所に決まってるでしょ!!安心して、私が綾の敵を討ってくるから!!」

玄関に向かって歩き出した凛。

私は慌ててその腕を掴んだ。

「……だから、負けてはいないんだってば……」

「えっ?負けてないの?だって綾、傷だらけじゃん」

「私も傷だらけだけど、アリサも体中が痛くて動けないらしいの」

「……そうだよね」

凛の身体から力が抜けた。

「綾がケンカで負けるはずないよね。私ったら興奮して冷静な思考力を失ってたわ」

苦笑気味の凛。

だけど、その瞳は楽しそうに輝いている。

そんな凛の腕を私は小さな溜め息と共に放した。

「綾、なんか飲み物貰ってもいい?興奮したら喉が渇いちゃった」

「どうぞ。冷蔵庫になんかあるでしょ?」

いつも、何も入っていない冷蔵庫だけど、お茶かミネラルウォーターくらいは入っていたはず……。

キッチンへ慣れた足取りで向かう凛の背中を眺めながらそんな事を考えていた。

戸惑う事も遠慮も無く開けられる冷蔵庫のドア。

この部屋に来る人は限られている。

その誰もが遠慮なんてしない。

私には多くの友人がいない。

顔見知りとか顔を合わせたら挨拶を交わすくらいの知り合いならたくさんいる。

だけど、心の中にある本音を告げられる友人はごく僅かしかいない。

この部屋を訪れるのは、そのごく僅かな友人だけ。

そんな友人達と私の間に“遠慮”なんてものは必要がない。

だから、私はその友人達に気を使う事もない。

喉が渇いたら冷蔵庫を勝手に開けて貰っても構わないし、

もし、私がこの部屋に居なくても、ここで自由に過ごして貰っても構わない。

その距離感が私には心地良い。

もちろん、凛も私にとって大切な友人の1人。

私以上にこの部屋のどこに何が在るのか熟知している1人だ。

「うわっ!!」

奇声を発した凛が冷蔵庫の前でドアを開けたまま固まっている。

「どうしたの?」

「……それは、私のセリフなんだけど……」

「……?」

冷蔵庫に頭を突っ込んだまま、動こうとしない凛を不思議に思いながらも私は彼女に近付いた。

背後に立った私の気配を察知したらしい凛がやっと冷蔵庫から頭を出し私の顔を見上げた。

「……一体、何があったの?」

「……はっ?」

凛の言葉の意味が全く理解出来ない。

「……綾、料理なんて出来ないよね?」

凛は堂々と失礼な質問をした。

「……出来るわよ……」

「冗談でしょ?」

……凛……。

……どこまで失礼なの?

「……別に冗談じゃないわよ」

「じゃあ、何が得意?」

……こんな会話、最近したような……。

「……お茶漬けとか」

「……」

「カップ麺とか」

「……」

「あっ!!あと、トースト……」

「もう、分かった!!」

私の言葉を凛が遮った。

……なんで、遮られたの?

……てか、なんで凛は可哀想な人を見る目で私を見てるの?

「……大丈夫だよ、綾」

「何が?」

「カップ麺だってお茶漬けだってお湯の量とかタイミングとか大事だもんね。美味しく作るのは難しいんだよ……きっと……」

「……」

「トーストだってちょっと油断したらすぐ焦げちゃうしね」

「……」

「それも、愛情を込めたら立派な料理だよね」

「……」

「でも、その料理には食材なんて必要ないよね?」

「えっ?」

「とりあえず、お湯とトースターがあれば他は必要ないでしょ?」

「……まぁ、そうだけど……」

「じゃあ、これはなんの冗談?」

……はっ?

……冗談?

……なにが?

私は、凛が指差した先を辿った。

「……!?」

……なに?これ……。

……違う……。

これは、ウチの冷蔵庫なんかじゃない。

色も形も私が一人暮らしを始める時に買ったモノと同じだけど……。

ウチの冷蔵庫は、家電専門店で“一人暮らしセット”として売られていたもの。

冷蔵庫と洗濯機とテレビと再生専用のDVDと掃除機がセットで売られていた。

一つ一つ選ぶのが面倒くさかった私は、即決でそのセットを購入した。

2ドアの小さな冷蔵庫。

いつも、ミネラルウォーターとお茶と缶ビールが数本入っているくらい。

その冷蔵庫に食材が、パンパンに詰め込まれている。

牛乳、オレンジジュース、リンゴジュース、アイスコーヒー、ヨーグルト、ゼリー、プリン、豆腐、チーズ、バター、パック詰めされているお肉やお魚。

今まで、何も入れた事のない野菜室には、たくさんの種類の野菜が詰め込まれていた。

いつもは、冷蔵庫の中で主役的存在の缶ビールが隅っこに追いやられている。

……なに?これ……。

どう考えても1人暮らしの冷蔵庫じゃない。

この食材達には賞味期間というものが存在したりするんじゃないの?

……無理でしょ?

食べきる前に腐っちゃうんじゃ……。

……てか、これはどう料理して食べればいいの?

「これ、綾が買ったんじゃないの?」

「……多分、私じゃないと思う……」

私は、冷蔵庫を見つめたまま首を横に振った。

「はっ?」

凛がビックリした表情で私を見つめているのが視界の端に映っている。

凛の大きな瞳が『綾が犯人じゃないなら、誰の仕業なの?』と問い掛けている。

凛の疑問はよく分かる。

でも、その答えが私には分からない。

私が何も答えない事を悟ったらしい、凛が私の顔から冷蔵庫に視線を戻した。

それから、今度はおもむろに冷凍庫のドアを開けた。

「……!!」

「……!!」

またしても固まってしまった私と凛。

「ね……ねえ」

固まりながらも何とか口を開いた凜。

その口調から、凜の動揺が手に取るように分かった。

「な……なに?」

凜の呼び掛けに答えた私。

だけど、私の口調も動揺が隠せていなかった。

「綾ってアイス好きだったっけ?」

「……嫌いじゃないけど……」

「よっぽど好きじゃないとこんなには食べ切れないよね?」

「……うん……」

冷蔵庫同様、冷凍庫もパンパンだった。

隙間なく詰め込まれているアイス。

アイスってこんなに種類があるんだ……って思うぐらいの種類のアイスがそこには収まっていた。

そんな冷凍庫を唖然と眺めている時に目に付いた“それ”。

透明の容器に入っている“それ”を見て、やっと謎が解けた。

「……響さんだ……」

私の口から零れ落ちるように出た言葉。

その言葉を凜が拾った。

「響さん?……って、神宮さん?」

「うん」

「なんで分かるの?」

「……ネギ……」

私は透明の容器に入っている“それ”を指差した。

「ネギ?」

「うん。うどんに入ってた」

響さんがここにいる間、私は気付く事が出来なかった。

『俺を使え』という言葉通り、私が飲むものまで準備してくれた響さん。

私が冷蔵庫を開ける必要は一度も無かった。

だから、気付けなかった。

「誰の仕業が分かって良かった。てっきり、綾が夢遊病になったのかと思っちゃった」

凜が安心した表情で大きな溜め息を吐き、その場に座り込んだ。

……そこなの?

凜が心配したのって……

「ねえ、凜」

「うん?」

「アイス食べる?」

「うん!!」

凜がにっこりと笑い、私達が朝っぱらからアイスを食べる事が決定した。

ソファに並んで座りアイスを食べる私と凜。

「綾は、ぶっちゃけ神宮さんと付き合ってるの?」

……はぁ?

凜からの突然の質問に私は手に持っていたアイスを落としそうになってしまった。

私がアイスを落としそうなくらい動揺してしまった質問をした凜は、アイスに視線を向けたまま黙々と口に運んでいる。

「どうしてそう思ったの?」

「神宮さんは、2日間も自分の仕事を休んで綾の看病をしてくれたんでしょ?」

「……うん」

「綾とアリサがケンカをした理由を神宮さんには話してないんでしょ?」

「……うん」

「……でしょ?それに……」

「……?」

「綾が他人の事でキレるなんて初めてじゃない?」

「……」

……そう言われてみれば……。

「珍しいよね。他人に興味を示さない綾が……」

凜の言う事が全てその通り過ぎて、私は何も言えなくなった。

……だけど……。

これだけははっきりと言わないといけない。

「私は、響さんと付き合ってない」

「そっか~」

「うん」

「でも、それって“今は”って事でしょ。この先どうなるかは時間の問題じゃない?」

「……時間の問題?」

「綾は、神宮さんの事が気になってるんじゃないの?」

「……」

「神宮さんの方は間違いなく綾の事が気になっていると思うよ」

「……!?」

「まぁ、あの神宮さんが綾を指名した時点で私は分かっていたけどね」

そう言って凜は私に可愛らしくウィンクを飛ばした。

「……そんなんじゃないと思うよ。響さんは優しいだけ」

「はっ?優しい?神宮さんが?」

なに?

このリアクション……。

「うん、優しいでしょ?響さん」

「……綾……」

「なによ?」

「……神宮さんは優しくなんてないよ」

「はっ?」

……なに言ってんの?

響さんが優しくなかったらこの世に優しい人なんていないじゃない。

なんの冗談?と思ったけど、凜の表情は真剣だった。

「綾が神宮さんを優しいと思うなら確定だね」

「確定?何が?」

「神宮さんは、綾にものすごく惚れてる」

「……」

響さんが……

「……」

私に……

「……」

惚れてる!?

「そ……そんなはずないでしょ!!」

……そう言った私の声は自分でもビックリするくらい大きかった。

大きかった上に裏返っていた……。

それに自分でも気付くくらいなんだから、凜が気付かない筈なんてないのに……。

「あっ、綾アイス落ちたよ」

そう言って私の膝をティッシュで拭いている。

いつもと変わらない表情で……。

この温度差は一体何だろう?

なんか、動揺して取り乱しまくってる私がバカみたいじゃん。

「綾が前に言ってたじゃん」

使い終わったティッシュを凜がゴミ箱に向かって投げた。

それは、弧を描いてゴミ箱の中に収まった。

「何を?」

私は得意気な表情の凜に尋ねた。

「綾は『人を愛する事ができない』って……」

「……うん」

「でも、それは愛する事が出来ないんじゃなくて愛すべき人と出逢ってないだけだと思うよ」

「……?」

「人を好きになる事ってさ、好きになろうと思って好きになる訳じゃない」

「……」

「……上手く言えないんだけど、頭で考えるよりも先に身体で感じるものなんだよね」

凜は手に持っているアイスを眺めながら、穏やかな表情で言葉を紡いでいる。

それは、私に話していると言うよりも独り言を呟いているような口調だった。

だから、私は凜の言葉に素直に耳を傾ける事ができた。

「だから、なかなか自分では気付けないんだよね」

「……」

「もし、人の事だったらすぐに分かるような状況だったとしても、自分の事となると分からない」

「……」

「決定的な出来事がたくさん溢れているのにね」

「……」

凜の言葉の意味は分からない。

だけど、言いたい事は何となく理解できた。

「ねえ、綾は気付いてる?」

「なにを?」

「神宮さんの話をしてる時の綾はいい表情をしてる」

そう言って微笑んだ凜の表情はとても綺麗だった。

「……」

「その顔は……やっぱり気付いてなかったか。気付いてないついでにもう一つ教えてあげる」

「……?」

「神宮さんは優しくもないし、いい人でもないよ」

「は?」

「あの人はヤクザの組長さんだよ」

「……」

「別に私は神宮さん達みたいな職業の人達に偏見を持っている訳じゃない」

「……」

「私みたいな生活をしてたら、そういう人達と関わる機会も多いし、本当の親以上に可愛がって貰ってるし、お世話にもなってる」

「……」

「それは、私だけじゃない。瑞貴や夜の繁華街を居場所にしてる子達はみんな少なからず関わりを持ってる」

「……」

「だから、私達は絶対に忘れちゃいけない事があるの」

「……忘れちゃいけないこと?」

「うん」

凜は、私の瞳をまっすぐに見つめて言い放った。

「あの人達は、人に対してどこまででも冷酷にも残酷にも非道になれるんだよ」

……そうかもしれない。

私はすっかり忘れていた。

響さんの優しさばかりを見ていたから。

もし、響さんが私の思っているような人なら……。

響さんは人からあんな視線を向けられるはずがない。

あんな風に人から頭を下げられるはずがない。

何度もこの目で見てきたはずなのに……。

何度も全身で感じてきたはずなのに……。

響さんに向けられる視線には羨望や興味に混じって畏怖が含まれていた。

人は本能が自分より上だと理解した人にしか頭を下げない。

それが建て前で頭を下げているのか、自分の身を守る為に下げているのかは、見極めようと意識してみれば簡単に分かること。

そう考えてみたら、響さんに頭を下げる人達は、間違いなく後者だ。

「だから、私達は忘れちゃいけないの」

「……」

「あの人達を甘く見てたら痛い目に合う」

「……」

「繁華街には、あの人達と関わりを持っている子達がたくさんいる」

「可愛がってもらっている子達がいる反面あの人達の優しさを勘違いして地獄を見た子がたくさんいるのも事実だよ」

「……うん」

「そんな人達のトップにいる響さんは優しくていい人なんかじゃないよね?」

「……そうだね」

「その神宮さんが優しく出来るのは、自分にとって大切な人だけ」

「……」

「それだけは分かってあげなよ、綾」

「……うん……」

私にキスをした時に『愛情表現』だと言った響さん。

あれは冗談なんかじゃなかったらしい。

今まで冗談だと思っていた私は救いようが無いくらい鈍感だったらしい。

自分の鈍感さに腹が立つ。

「ねえ、凜」

「ん?」

「私って鈍感だよね?」

「……今更?」

楽しそうに爆笑している凜。

「……私って鈍感だったんだ……」

「でもさ、その鈍感なところも綾のいいところじゃない?」

「……そう?」

「うん」

凜のその言葉と笑顔に重くなっていた気分が少しだけ軽くなった。

……凜の次の言葉を聞くまでは……。

「これから先は前途多難だと思うけど」

「は?前途多難?なにが?」

凜は空になったアイスのカップをゴミ箱に放り投げた。

「うん……瑞貴の事とか」

「瑞貴?」

なんで、ここで瑞貴の名前が出てくるの?

そう思ってしまった私はやっぱり鈍感だった。

「そのケガ、瑞貴にバレないようにしないとね」

「うん」

「綾のケガの原因が神宮さんだって分かったら、瑞貴は狂うよ」

「……」

……狂う?

それって頭がおかしくなるってこと?

……。

……。

今更、そんな心配なんてしなくても、瑞貴は私に負けず劣らずバカじゃん……。

「あれ?それも気付いてなかった?瑞貴も神宮さんに負けないくらい、綾に惚れてるよ」

「……!?」

「なんか最高に楽しくなってきたね!!」

「……」

「神宮さんVS瑞貴!!」

「……」

「今のところ神宮さんが一歩リードってとこだね」

「……」

「これって賭けの対象にしたらかなり稼げるんじゃない?」

……それは、マジで勘弁してほしい……。

瞳をきらきらと輝かせた凜に私は軽い眩暈を感じた。

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