エピソード11

引きつった笑顔で固まっているとテーブルの上のケイタイが震えながら無機質な電子音を発した。

その音に私の身体はビクッと反応した。

そんな、私の頭を響さんは優しく撫でてからテーブルの上のケイタイに手を伸ばした。

ケイタイを掴んでボタンを押して耳に当てた響さん。

「……はい」

『……』

「……あぁ」

電話の相手と話しながら響さんはチラッと私に視線を向けた。

その視線に私は違和感を覚えた。

……?

なんだろう?

……。

あっ!!

……もしかして、私がいたら話難いとか?

少し離れてた方がいいのかしら?

私は物音を立てないように立ち上がろうとした。

腰を上げた時、響さんが私の手首を掴んだ。

驚いて響さんに視線を向けると私を見たままケイタイを差し出している。

「……?」

首を傾げる私に響さんが言った。

「お前と話したいらしい」

「……えっ?私と?」

「あぁ」

誰だろう?

……っていうか、この電話の相手は私が知ってる人なの?

……どうしよう……。

全然知らない人だったら……。

私は、恐る恐る差し出されてるケイタイを耳に当てた。

自分のケイタイじゃない事に少し違和感を感じた。

「……もしもし?」

『綾乃ちゃん?おはよう!!』

耳に届いた声は聞き慣れた声だった。

「おはようございます、雪乃ママ」

『どう?大丈夫?痛い?』

「そうですね、痛いです」

機関銃のような雪乃ママの質問に私は苦笑した。

『そうよね。アリサちゃんも動けないみたいよ』

「そうですか。すみません、雪乃ママ、ご迷惑をお掛けしてしまって……」

『気にしなくていいわ。私は全然痛くないから』

茶目っ気たっぷりに言ってくれた雪乃ママ。

「……すみません」

そんな雪乃ママに心から謝罪した。

『もう、謝らなくていいから……。それより、響さんがそっちに行ってるでしょ?』

「はい」

『今日は綾乃ちゃんの看病を頑張ってくれるらしいから、なんでもやって貰いなさいね』

「えっ!?」

『思う存分こき使っていいから』

「はっ?」

『それじゃあ、ゆっくり休むのよ』

「あ……あの……雪乃ママ!?」

『綾乃ちゃん、お大事に』

「雪乃ママ!!」

ケイタイの受話口から聞こえてくる通話終了の音に私は絶句した。

……雪乃ママ……。

私の話を全く聞いてなかった……。

呆然と手の中にあるケイタイを見つめた。

……響さんをこき使っていいって……。

使える訳ないじゃん!!

組長である響さんを女子高校生でホステスの私が顎で使えるはずがない。

心配してここに来て貰っただけでもかなり恐縮してんのに……。

「そういう事だ」

心の中で絶叫しながら唖然と手の中ののケイタイを見つめる私に向かって響さんが口を開いた。

「……はい?」

「雪乃から聞いただろ?今日は思う存分俺をこき使え」

……!!

まさかのドM発言!?

もしかして、聞こえていたの!?

「そ……そんな訳にはいきません!!」

「ん?なんでだ?」

不思議そうな表情を浮かべる響さん。

「な……なんでって……響さんにはお仕事もあるんだし……」

上着は脱いでいるもののYシャツを着て、ネクタイを締めている響さんは、きっとお仕事の前にここに寄ってくれたに違いない。

学生の私と違って響さんは忙しいはず……。

こんな所にいつまでも引き止めている訳にはいかない。

「あぁ、なるほど……」

何かに納得したように頷いた響さんは私の手の中にあるケイタイを指差した。

「ちょっと貸してくれ」

……『貸してくれ』って……これは響さんのケイタイなんだから……。

そう思いながら私はケイタイを響さんに手渡した。

そのケイタイを受け取った響さんは慣れた手付きでボタンを押して耳に当てた。

「……俺だ」

『……』

「今日は事務所に行かないから、お前達は先に戻れ」

……。

響さん!?

それだけ電話の相手に告げると響さんはケイタイを閉じてテーブルの上に置いた。

そして、ニッコリと笑みを浮かべた。

「今日は仕事が休みになった」

その言葉に私は大きな溜息を吐いた。

休みになったって……。

響さんが一方的に休みにしたんじゃ……。

……だけど……。

私はその言葉を飲み込んだ。

響さんがそうしたのは私のため……。

それが響さんの“優しさ”だと分かったから……。

「……ありがとうございます」

響さんはニッコリと微笑んだ。

「そうと決まれば……」

響さんが締めているネクタイの隙間に指を差し込み緩めた。

「……?」

「薬も飲んだ事だし、しばらく寝ろ」

背中と太ももの後ろに手をまわされた瞬間、私の視界が大きく揺れた。

「……!!」

軽々と抱え上げられた私は驚きのあまり響さんの顔を見つめた。

私の視線なんて全く気にならない様子で響さんは私を抱き上げたまま寝室のベッドに向かった。

そして、壊れ物を置くように私をベッドに寝かせると掛け布団を私に被せた。

「ゆっくり休め」

そう言ってベッドの端に腰を下ろした響さんは、小さな子供を寝かせつけるように布団の上から私の身体をポンポンと叩く。

……ガキじゃないんだから……。

そう思いながらも私は瞳を閉じた。

まっすぐに私を見つめる漆黒の瞳を見つめ返すのが照れくさかったから……。

真っ暗な視界の中、聞こえる規則正しい音と布団越しに感じる響さんの手の温もり。

それを心地いいと思いながら私はあっという間に意識を手放してしまった。

◆◆◆◆◆

どのくらいの時間、眠っていたのかは分からない。

重い瞼を開けると、見慣れた天井があった。

途中で何度か目が覚めたような気がする。

その度に、優しい眼差しを見て安心したような気がする。

掌を大きくて温かい手で包まれていたような気がする。

焼け付くような喉の渇きを感じたような気がする。

その度に冷たいミネラルウォーターを誰かが飲ませてくれたような気がする。

そのどれもが夢だったのか現実だったのかは分からない。

だけど、安心してぐっすりと眠ったお陰で身体の痛みも不快感も無くなっていた。

私はベッドの上でゆっくりと身体を起こした。

暗い部屋をサイドテーブルの上の間接照明が淡い灯りで照らしている。

時計の針は1時を指していた。

部屋の中の暗さからそれが昼の13時ではなく、深夜の1時だという事が理解出来た。

いつもと変わらない見慣れた部屋。

その中で一つだけいつもと違うのは……。

私が眠っていたベッドの傍らに寄り添うようにいる人影。

フローリングの床に直接腰を下ろし、ベッドの端に腕を置き、その腕に頭を預け眠る男の人。

スヤスヤと眠る寝顔。

いつも私が見ている表情よりも幼く見えたのは、その人が無防備だった所為かもしれない。

肩書きやプライドや責任という鎧を脱いだその人は、とても無防備に見えた。

いつもは、無意識のうちに頼ってしまいそうになるその人の寝顔は、守ってあげたいと思うような寝顔だった。

私の左手を両手で包み込んでいる大きな手。

私は反対の手をその人に伸ばした。

いつもはキッチリとセットされている髪が今はサラサラで額に前髪が掛かっている。

私は額に掛かっている髪を撫でるように掻き上げた。

規則正しく繰り返されている呼吸。

その微かな音を聞きながら頬に触れてみる。

その頬は大きな手と同じ様に温かかった。

見れば見るほど見惚れてしまう顔。

綺麗に整っている眉毛。

伏せている瞳を縁取る長い睫毛。

筋の通った鼻。

薄くて形のいい唇。

私は無意識にその唇に指で触れていた。

見た目よりも柔らかくて温かい唇。

……この唇がさっき私の唇に触れたんだ……。

何の前触れもなく突然でびっくりしたけど……嫌ではなかったような気がする。

……この人ともう一度キスをしたい……。

そう思った時だった。

「……ん……」

その唇が小さく音を発し大きな身体が微かに動いた。

驚いた私は慌てて唇から指を離した。

「……綾……」

寝起きの掠れた声。

私の名前を呼んだけど、響さんは再び動かなくなった。

「……?」

恐る恐る顔を覗き込んで見ると閉じられている瞳。

……もしかして、寝言?

触れていた所為で起こしてしまったんじゃないかとヒヤヒヤしていた私はホッと胸をなで下ろした。

それと、同時に笑いがこみ上げてきた。

響さんが寝ぼけている姿を見れた嬉しさと寝言で自分の名前を呼ばれた照れくささに思わず笑ってしまった。

私は笑いが零れる口を右手で押さえた。

もう少しだけ無防備な響さんを見ていたい。

込み上げてくる笑い声を飲み込んだ。

そうやって私は必死で我慢していたのに……。

「……綾!?」

突然、響さんが私の名前を大きな声で呼んで勢い良く顔を上げるから……。

「どうしました?」

そう言いながら私はとうとう吹き出してしまった。

まだ、眠そうな瞳で私を見つめている響さん。

そんな、響さんを私はとても穏やかな気持ちで見つめていた。

「……えっと……綾?」

「はい」

「大丈夫か?」

「えぇ、響さんのお陰で大分楽になりました」

「そうか、良かった」

響さんは安心したように笑った。

「私はもう大丈夫なので、響さんはもう少し休んで下さい」

私は瞼を掌で擦る響さんに声を掛けながら、今まで寝ていた場所を譲ろうとした。

「いや、その前に……」

「……?」

「うどんと雑炊、どっちが好きだ?」

突然の質問。

「はい?」

まだ寝呆けてるのかしら?

「うどんと雑炊、今、食うならどっちが食いたい?」

……うどんと雑炊……。

どちらも好きだけど、今食べたいのは……

「……うどん……」

呟くようにそう言った私に

「分かった」

響さんが頷いた。

「……?」

響さんの言葉が理解出来ない私は首を傾げた。

立ち上がった響さんが首をコキコキと鳴らし腕を回している。

……どうやら座ったまま眠っていた所為で身体が痛いらしい……。

「昨日から……あぁ日付が変わったから一昨日か……まぁ、とりあえず何も食ってないから、腹が減っただろ?」

「えっ!?」

「うん?」

「……」

「どうした?」

一度は立ち上がった響さんがベッドに手を付き私の顔を覗き込んだ。

「……今……何て言いました?」

「ん?『何も食ってないから、腹が減っただろ?』って……」

「……その前です」

「『一昨日』の事か?」

「一昨日!?」

「……あぁ」

私はサイドテーブルの上に置いてあったケイタイを掴むと勢い良く開いた。

……本当だ……。

日付が変わってる。

私は全身から血の気が引いた。

「綾?」

「……あの……」

「うん?」

「……まさかとは思うんですけど……」

「なんだ?」

「響さんは……今日……じゃなくて昨日はお仕事に行きました?」

「……?いや」

……やっぱり……。

「すみませんでした!!」

私は響さんに向かって頭を下げた。

「綾!?」

響さんの声が微かに戸惑っている。

「私の所為で2日間もお仕事をお休みさせてしまって……」

「お前の所為じゃない」

優しい口調が耳に届いたのと頭に温もりを感じたのは同時だった。

「仕事に行かなかったのは俺の意志だ」

「……」

私の頭を優しく撫でてくれる大きな手。

「それに、俺は休暇を取っただけだ」

「休暇?」

「あぁ、最近忙しかった仕事が一段落したから休暇を取っただけだ。それは自分の疲れをとる為だ。だからお前の所為じゃない」

響さんの言葉が嘘なのか本当なのか私には分からない。

本当に仕事が一段落したから疲れを取るために休んだのかもしれない。

だけど、どっちにしたって響さんの貴重な時間を私の看病に費やした事には変わりが無かった。

申し訳ない気持ちで一杯になった時、雪乃ママの言葉が頭の中に浮かんだ。

『この世界に入ろうと思うのなら、人の好意に甘える事を覚えなさい』

面接の時に雪乃ママが言った言葉。

真実がどっちにしても、響さんが言った言葉は私に対する響さんの優しさ。

それだけは確信できる。

だったら、その気持ちに甘える事で感謝の気持ちを示す事が出来るのかもしれない。

「……響さん……」

「うん?」

顔を上げると穏やかな視線を私に向けている響さん。

「……ありがとうございました」

「あぁ」

私の言葉に響さんは照れたように笑った。

「さて、うどんでも作るか」

再び立ち上がった響さん。

……はい?

……うどんでも作る?

誰が?

……。

……。

もしかして、響さんが作るの!?

「響さん!!お料理出来るんですか?」

寝室を出ようとしていた響さんが足を止め私を振り返った。

「うどんや雑炊くらいの簡単なモノならな」

……はぁ?

うどんや雑炊って簡単なの?

呆然とする私を他所に響さんは寝室を出て行った。

……本気らしい……。

響さんは本気でうどんを作るらしい。

……。

……。

……っていうか、ウチのキッチンには食材なんてないんだけど!?

私はベッドを飛び降りキッチンに向かった。

そしてリビングに足を踏み入れてすぐに固まった。

リビングから見えるキッチンでは響さんが袖を捲り上げネギを刻んでいる。

その手元からは包丁がまな板を叩く軽快な音がひびいていた。

キッチンから良い香りが漂ってくる。

その香りは間違いなくうどんのお出しの香りだった。

その香りに誘われるように私はキッチンに近付いた。

コトコトと湯気を立てているお鍋。

ネギを刻む音。

準備されている丼。

キッチンでお料理をする人を眺めるのなんて、どの位振りだっけ?

私は無意識に記憶を辿っていた。

まだ、私が幼い頃。

あれは、多分、幼稚園に通っている頃だったと思う。

あの人はキッチンに立っていた。

『お母さん!!ただいま!!』

『おかえり』

『今日のご飯はなに?』

『お父さんと綾が大好きなオムライスよ』

『やった!!お父さん、早く帰って来ないかな』

『もうすぐ帰ってくるわよ』

そう言って微笑んだあの人の顔は窓から差し込む夕日に照らされてとても綺麗だった。

きっと、あの頃はお父さんもお母さんもそして私も幸せだったんだろう。

その幸せは当たり前のようにずっと続くと思っていた。

だけど幸せは、音も無く脆くも崩れてしまった。

「……そんなに見つめられると緊張する」

その言葉で私は現実に引き戻された。

視線を上げると手元を見つめている響さん。

一見、いつもと変わらない表情に見えるけど……

微かに耳が赤くなっていた。

……可愛い……。

口元が緩んでしまう。

「何かお手伝いしましょうか?」

「お前は、怪我をしてるんだから、大人しくしてろ」

「……はい」

「辛かったら、横になってろよ」

響さんが顎でソファを差した。

「ありがとうございます……でも……」

「うん?」

「……居心地がいいので……」

「そうか」

響さんが口の端を片方だけ上げて笑った。

「はい」

響さんは慣れた手付きで料理を進めていく。

その動きを私はボンヤリと眺めていた。

それは、心が和む落ち着く時間だった。

ボンヤリと響さんを眺めているとふと異変に気付いた。

あれ?

確か、ここに来た時はスーツ姿だった響さん。

でも、今はラフな普段着を着ている。

ラフな普段着とは言ってもそのままの格好で繁華街を歩いても全然かっこいい感じだけど。

「響さん」

「うん?」

「一度お家に帰られたんですか?」

「なんで?」

「お洋服が……」

私が向けた視線を辿るように自分を見た響さん。

「あぁ、昨日の夕方に一度帰ってきた」

「そうですか……あっ!!」

「どうした?」

「息子さん!!」

「……?」

「まだ、小学生でしたよね?」

「あぁ」

「夜に家を空けて大丈夫ですか?」

子供と接した事がない私にはよく分からないけど、小学生くらいだったらまだ親と一緒にいたい年頃じゃないのかな……。

「それなら、心配は要らない」

「……?」

「この頃は、親といるより友達といたいらしい」

響さんが苦笑している。

「お友達?」

「息子には幼稚園の時からツルんでいる幼馴染みがいるんだ。その子が週の半分は泊まりに来てる」

「そんなに?」

「あぁ、しかも残りの半分は息子がその子の家に泊まりに行っている」

……。

……それって……。

「毎日、24時間一緒にいるんですか!?」

「すげえだろ?」

呆れたように響さんは笑った。

「……すごいですね」

「だろ?いつも2人で楽しそうに遊んでる」

そう言った響さんの瞳は父親の瞳だった。

「そう言えば……」

「……?」

「昨日、ここを出ていたのは一時間位なんだが、鍵がなかったから……」

あぁ、私が爆睡してたから……。

「大丈夫ですよ。鍵を開けていても盗られるようなモノなんてないですから。それに、私もたまに鍵を締め忘れたまま寝ていますから」

「あ?」

驚いた表情の響さん。

「えっ?」

「……鍵を締め忘れる?」

「えぇ、つい、うっかり……」

「……」

「……?」

響さんは大きな溜め息を吐いた。

「頼むから鍵はちゃんと締めてくれ」

「……はい。でも……」

「うん?」

「昨日、響さんも鍵を開けたまま出掛けたけど、大丈夫だったでしょ?」

「鍵は開けたままだったが……」

「……?」

「立たせていた」

「誰を?」

「組の人間だ」

……。

……それって、見張りって事!?

呆然としている私を他所にうどんを盛り付けている手を休める事なく響さんが言った。

「なぁ、綾」

「はい?」

「お前は女なんだ。何かがあってからじゃ遅い。もう少し気を付けてくれ」

「……はい」

いつもは女だからと言われる事が嫌で堪らない。

だけど、響さんに言われても嫌な感じがしなかった。

むしろ、女として見られている事が嬉しいと感じてしまった。

……そんな自分に戸惑っている私がいた……。

◆◆◆◆◆

テーブルを挟んで向き合っている私と響さん。

「美味しい!!」

うどんを一口食べて感動している私を響さんは楽しそうに見つめている。

響さんが作ってくれたうどんはお世辞なんかじゃなく、本当に美味しかった。

「口の中の傷は痛くないか?」

「はい、大丈夫です」

「良かった」

「久々に家で手作りの料理を食べました」

「そうか」

「はい」

「ところで……」

「……?」

「お茶漬けとか」

「お湯を入れるだけだよな?」

「カップ麺とか」

「それもお湯を入れるだけだよな?」

「……」

「……」

「あっ!!トースト……」

「パンをトースターに入れるだけだな」

「……」

……ヤバい……。

もうレパートリーがない。

「料理はしないんだな?」

「……はい……」

響さんは楽しそうに笑っている。

何か言い返したいけど、こんなに美味しいうどんを作れる響さんには何も言えない。

「……響さん」

「うん?」

「今度、うどんの作り方を教えて貰えますか?」

「もちろん」

響さんは嬉しそうに頷いてくれた。

◆◆◆◆◆

「ごちそうさまでした」

私は、両手を合わせた。

そんな私を響さんはソファに座りタバコを吸いながら眺めていた。

時計に視線を向けると深夜3時。

「響さん、眠くないですか?」

「あぁ、さっきぐっすりと寝たからな」

「そうですか」

「お前は?」

「私は一週間分くらい寝ましたから」

「復活したか?」

「復活しました」

「良かったな」

響さんが優しい笑みを浮かべた。

一昨日に比べたら身体の痛みも殆どなくなっている。

私は、空になった食器を持って立ち上がった。

「響さん、ちょっとゆっくりしていてくださいね」

「……?」

「私、シャワーを浴びて来ますから」

よくよく考えて見たら、私が最後にシャワーを浴びたのはアリサとケンカをした日だった。

いい加減気持ちが悪い。

「あぁ、分かった」

響さんが吸っていたタバコを灰皿に押し付けながら答えた。

私はシンクに食器を置いて、寝室のクローゼットから、下着と着替えを取り出しバスルームに向かった。

バスルームに続く狭い脱衣場のドアを開けると……

「……響さん、何をしているんですか?」

そこには、響さんが立っていた。

「シャワーを浴びるんだろ?」

「はい」

「だったら、早く脱げよ」

……。

……いや、いや……。

あなたがそこにいるから脱げないんですけど……。

「シャワーを浴びたいので、出てて貰ってもいいですか?」

「なんで?」

……はい?

今『なんで?』って言った!?

私は間違った事なんて言ってないわよね?

……どうしよう……。

響さんに日本語が通じなくなっちゃった!!

「……」

「……?」

不思議そうに私の顔を見つめていた響さんが

「あぁ、そうか」

何かに気付いたように頷いてドアの傍に立つ私に近付いて来た。

……良かった、やっと分かってくれた……。

そうそう、私はシャワーを浴びるから響さんは出ててくださいね。

心の中で呟きながら胸をなで下ろしている私の目の前で足を止めた響さんが……

「……!?」

おもむろに私が着ているロンTの裾を掴んだ。

な……なに!?

ちょっと待って!!

この展開は……。

「早く手を上げろ」

間違いない。

この銀行強盗のようなセリフを私は覚えている。

「……響さん……」

「うん?」

「何をしているんですか?」

響さんのこの後の行動は99%の確率で予想出来るけど、もし違ったらものすごく失礼になるから、とりあえず私は尋ねてみた。

「は?脱がせて欲しいんだろ?」

……。

……やっぱり……。

私の予想は当たっていた。

「大丈夫です!!自分で脱げます!!」

「そうか?」

響さんは不思議そうな表情で私の服から手を離した。

だけど、一向にその場を離れる気配はなく……

「……」

「……?」

ずっと不思議そうな表情で私を見つめている。

「……あの……」

「うん?」

「どうしてここにいるんですか?」

「なんでいたらダメなんた?」

私の質問に質問で返してきた響さん。

「私、シャワーを浴びたいんです」

「あぁ、分かっている」

「響さんがここにいたら恥ずかしくて服が脱げないんですけど……」

「……恥ずかしい?」

「はい」

「今更、何を言っているんだ?」

「今更?」

「何度も着替えさせた」

そう言って響さんが指差したのは私の洋服。

「……?」

「お前が熱を出して汗を掻いていたから、何度も着替えさせた」

響さんの指を辿るように視線を動かした。

自分が着ている服。

……。

……。

……!!

……確かに眠る前に着ていたロンTもハーパンも違うものに替わっている……。

……まさか……。

私はハーパンの隙間から中を覗き込んだ。

……良かった……。

パンツは替わってない。

私は胸を撫で下ろした。

「……さすがにそっちはどうしようか迷ったんだけど……なぁ?」

「……」

きっとここはお礼を言うところ。

熱があった私の看病をしてくれたんだから……。

頭ではそう理解出来るんだけど……。

……なんか、複雑……。

しかも、『なぁ?』って言われて、私は何て答えればいいんだろ……。

「だから、恥ずかしがる事はない」

「……」

「早く脱げ」

「……そうですね……」

「あぁ」

「……って言う訳ないでしょ!?」

「……?」

「恥ずかしいものは恥ずかしいんです!!響さんの前で堂々と服を脱いだりなんて出来ません!!」

「……」

「……」

興奮気味の私とそんな私を見つめる響さん。

……ヤバい……。

興奮し過ぎて言い過ぎたかも。

この沈黙が気不味い。

もう少しソフトに言ったほうが良かったような……。

……もしかして……。

響さん、怒ってる?

……てか、怒らない方が不自然かも……。

どうしよう。

響さんの顔が見れない。

「それもそうだな」

俯いた私の耳に落ちてきた声。

その声はいつもと変わらず優しく穏やかな声だった。

その声に思わず顔を上げると、声と同じように優しく穏やかな表情の響さんが納得したように頷いていた。

……怒って……ないの?

「分かった。向こうで待ってるから、傷口が痛かったり、気分が悪くなったらすぐに声を掛けるんだぞ?」

「……はい」

響さんは、私の頭を優しく撫でて脱衣場を出ようとした。

「……響さん!!」

「うん?」

「……ありがとうございます……」

「あぁ」

……嬉しそうな笑みを浮かべた響さんを見て私は胸が痛くなった……。

◆◆◆◆◆

私の予想では、シャワーを浴びたら、心身ともにスッキリとする筈だった。

だけど、私は、ぐったりと疲れ果てフラフラとした足取りでバスルームを出た。

バスルームを出ると、ドアの外の壁に寄りかかり響さんが立っていた。

「大丈夫……じゃなさそうだな」

「……」

響さんの言葉に私は無言で小さく頷いた。

響さんが脱衣場を出た後、私は響さんへの多少の罪悪感を感じながらも着ていた服を脱いだ。

身体を動かす度に痛みを感じたものの、ケンカをした翌日の痛みに比べれば大した痛みじゃなかった。

だから、すっかり油断していた。

バスルームに入ってシャワーヘッドを手に取り、蛇口を捻るところまでは何時もと同じだった。

シャワーヘッドから勢い良くお湯が出た瞬間

「……!!」

私は声にならない悲鳴をあげていた。

全身に出来た無数の傷。

その傷にお湯が染みとてつもなく痛い。

すぐに私は選択をせまられた。

気持ち悪さを我慢して今すぐシャワーを浴びる事を断念するか、痛みを我慢してシャワーを浴びるか。

そこで、断念すれば良かったのかもしれない。

だけど、また私の負けず嫌いは顔を出してしまった。

……ここでバスルームを出たら負けてしまうような気がする……。

結局、私は痛みを我慢する方を選んでしまった。

痛みに耐えているうちに私の中で何かが吹っ切れた。

吹っ切れたついでに痛みに耐えながらも丁寧にボディソープで身体を洗ってみた。

……そして、後悔した……・。

本当ならば爽快感に包まれるはずのバスタイムが疲労感に包まれるバスタイムとなった。

シャワーをなんとか浴び終え脱衣場の鏡の前で、私は自分の目を疑った。

鏡に映る私の身体は赤、青、紫ととてもカラフルな斑点でデコレーションされている。

……すごい……。

こんな状態なら痛くて当然だ。

ケンカをしてこんな状態になったのは初めてかもしれない。

今度、アリサとケンカをする時は、もっと気合いが必要だ。

私は、一人で闘志を燃やした。

疲労感に半分負けながらもなんとか洋服を着た私はフラフラと脱衣場のドアを開けた。

「もう少しだけ頑張れるか?」

「……?」

響さんの言葉に私は首を傾げた。

「ちょっと、こっちに来い」

手を引かれて連れて行かれたのはソファ。

そこに座らされた私。

……ここからがまた地獄の始まりだった……。

「……痛い!!」

「我慢しろ」

「……もう無理!!」

「もう少しだ」

「……痛っ……」

「今、ちゃんとしとかねえと後々辛い思いをするのはお前だぞ」

「……!!」

「よし、終わった」

響さんのその言葉に全身から力が抜けた。

私はぐったりとソファに横になった。

そんな、私を見て響さんは大きな溜め息を吐いた。

「なぁ、綾」

「はい?」

「ケンカをすると後が辛いだろ?」

「……そうですね……」

そう答えてしまってから私は慌てて手で口を塞いだ。

ヤバイ!!

今、明らかに誘導尋問に嵌ってしまった!!

恐る恐る響さんに視線を向けると使い終わった消毒セットを片付けていた。

……あれ?

誘導尋問じゃなかったのかな?

片付けを終えた響さんが消毒セットをテーブルに置き、私に視線を向けた。

「もう、隠さなくてもいい」

「……はい?」

「全部聞いた」

「は?」

「雪乃に全部聞いた」

「……!!」

……。

……。

どうして?

……雪乃ママ……。

どうして、話しちゃったの!?

私は、亜然と響さんを見つめた。

「雪乃も最初は『お店の中の事だから』って話そうとはしなかった」

「……じゃあ、なんで……」

「軽く脅してみた」

「脅した!?」

「あぁ、そっちは得意分野だからな」

不敵な笑みを浮かべた響さんに私は固まった。

……得意って……。

まぁ、これだけ自信満々で言えるんだから、相当得意なんだろう……。

……。

……。

……てか、雪乃ママをどんな風に脅したんだろ?

そこがものすごく気になる。

これは聞いてみてもいいんだろうか?

「……あの……」

「うん?」

「……雪乃ママに何て言ったんですか?」

「気になるか?」

「えぇ」

「企業秘密だ」

……。

……企業……。

……秘密……。

……企業秘密!?

「……!!」

「まぁ、そこはあんまり突っ込むな」

「……」

……やっぱり聞かなければ良かった……。

私は大きな後悔に襲われてしまった。

「そこはどうでもいいんだが……」

「……」

……いや、いやかなり重要だと思うんですけど……。

「大切なのはお前がケンカをして怪我をした事だ」

「……」

「……で、理由はなんだ?」

「……」

響さんの質問に私はさり気なく視線を逸らしてみた。

そんな私に大きな溜め息を吐いた響さん。

「答えるつもりはねえんだな」

その言葉は私に問い掛けてると言うよりも、納得して諦めたように感じた。

もしかして、私が話さない事を悟って諦めてくれたのかもしれない。

……もし、そうだったらいいのに……。

……。

でも、ちょっと待って。

響さんは私のケンカの相手がアリサだって100%知っているんでしょ?

……だったら、また『お前が答えないなら、アリサに直接聞く』とか言い出すんじゃないでしょうね!?

……。

有り得ない事はない。

そうなる前に響さんのケイタイを捕獲しなきゃ!!

私はソファに座ったまま視線を動かした。

……あった!!

テーブルの上にタバコと一緒に置いてある黒いケイタイ。

発見したけど、私の目の前には響さんがいる。

その後ろにあるテーブルからケイタイを捕獲するには、響さんをどうにかしないといけない。

……さて、どうしよう……。

私は普段使わない頭を必死で動かそうとした。

「別にアリサからケンカの理由を直接聞こうなんて思ってねえよ」

「……!?」

私の顔を見て苦笑気味の響さん。

どうやら、私の顔がそう言っていたらしい……。

そんなに表情に出ていたのかしら?

ちょっと複雑な心境になってしまった。

……でも……。

響さんは、アリサに直接理由を聞いたりはしないらしい……。

……って事は、この話はもう終わりって事よね?

良かった!!

私は胸を撫で下ろした。

「まだ、話は終わりじゃねえぞ」

「……!!」

響さんの言葉に私は固まった。

……なんで、分かるの?

私ってそんなに分かりやすい人間だった!?

……っていうか……。

『まだ、話は終わってないぞ』って言わなかった!?

恐る恐る響さんに視線を向けると、まっすぐに私を見ていた。

とっさに私は視線を逸らしてしまった。

「……綾」

大きな溜息とともに私は名前を呼ばれた。

「は……はい?」

出来れば返事をしたくないと思った私の声は明らかに裏返っていた。

「ケンカの理由を話したくねえなら無理には聞かない。もう終わった事をいつまでも言ってても仕方がないしな。でもな、一つだけ約束をして欲しい」

「……約束?」

「これから先、ケンカはしないと俺と約束して欲しい」

「……」

「出来るか?」

響さんが私の顔を覗き込んだ。

「……」

「……」

「……あの……」

「うん?」

「ここで約束をしてしてしまったら、私は2度とケンカが出来なくなるって事ですよね?」

「あぁ、そうだ」

「……もし……」

「繁華街を歩いている時にケンカを売られたらどうすればいいんですか?」

「……よくケンカを売られるのか?」

「よくって言うか……たまに……」

「……」

「それに、突然、殴り掛かられても手は出しちゃいけないんですよね?」

「……突然、殴り掛られたりもするのか?」

「……100%無いとは言い切れません……」

「……」

響さんの漆黒の瞳が、驚いたように見開かれている。

……?

……。

なんか、私、ドン引きされてたりする?

「……一体、どんな生活を送っているんだ?」

響さんが呆れたように呟いた。

……どんなって言われても……。

ここは正直に話してもいいところなのかしら?

……でも、正直に話したらまた引かれそうな気がするし……。

……どうしよう……。

「……分かった」

「……?」

「約束を変えよう」

「……?」

「ケンカはしないで欲しい。でも、例外もある」

「例外?」

「あぁ、自分の身を守る時とケンカを売られた時だけだ」

それって、『売られたケンカは買っていい』ってことかしら?

……って事は自分からケンカを売っちゃいけないってことよね?

そう考えた私は、少しだけ記憶を辿った。

今までのケンカは大抵が相手から売られたケンカがほとんど。

人に対して興味を持つ事が少ない私が他人にわざわざケンカを売る事は滅多にない。

人が他人に敵対心を抱くには、その人に興味がないと出来ない事。

“興味”の延長線上に“好き”や“嫌い”という感情は存在する。

だから、人に興味を持つ事があまり無い私は好き嫌いの感情が乏しいのかもしれない。

現に、アリサとのケンカも“売られた”モノだった。

……その約束だったら守れるかもしれない……。

「……分かりました、約束します」

私の答えを聞いた響さんが満足そうな笑みを浮かべた。

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