エピソード10

「……痛い……」

翌朝、私は最高に最悪な気分で目が覚めた。

動く度に全身に走る痛み。

熱を出した時のような不愉快な暑さ。

呼吸をするのもダルいような倦怠感。

……それから、頬に感じる違和感。

私は嫌な予感を感じつつ、サイドテーブルに手を伸ばし手鏡を掴んだ。

恐る恐る鏡を覗き込んで絶句した。

……最悪……。

頬が赤く腫れている。

昨日は全く痛みなんて感じなかったけど。

アリサは手加減無しで私の頬を叩いたらしい……。

時計に視線を移すと7時30分。

学校に行くなら準備をしないといけない時間。

このくらいの腫れならメイクで誤魔化せるけど……。

制服に着替えるのは無理かもしれない。

今日まで休もう。

私は持っていた鏡を布団の上に放り投げた。

とりあえずタバコでも吸おう……。

火を点けると白い煙がタバコの先端から上がった。

その煙をぼんやりと見つめていると蘇る記憶。

私は大きな溜め息を吐いた。


アリサに蹴りを入れられた所まではハッキリと覚えている。

……だけど……。

その後の記憶がない。

アリサと殴り合いのケンカをしている時の記憶が私の記憶に全く残っていなかった。

……まぁ、ケンカの時は興奮してるし、理性も吹っ飛んでるから……。

今まででもお酒で記憶を無くした事はほとんどないけど、ケンカをしている時の記憶がないのは初めてじゃない。

相手がケンカ慣れしていたり強ければ尚更の事。

……アリサはケンカが強かった……。

私が女同士のケンカで負ける事なんてないけど、これだけ身体中が痛いんだから、大したモノだと思う。


『止めなさい!!』

雪乃ママの鋭い声が響いて私とアリサは掴み合ったまま動きを止めた。

その瞬間、数人のボーイさん達に押さえつけられた。

私だけじゃなくて、もちろんアリサも私と同じ様にボーイさん達にがっちりと押さえつけられていた。

身体を押さえつけられて自由は効かなかったけど、私もアリサもお互いに視線を逸らすことは無かった。

そのまま雪乃ママの指示で私達はボーイさん達によって控え室に強制的に連れて行かれた。

「一体なにがあったの?」

雪乃ママに尋ねられても私もアリサも答えなかった。

そんな私達に大きな溜め息を吐いた雪乃ママ。

「2人ともそんなに傷だらけになって……せっかくの綺麗な顔が台無しよ」

雪乃ママの言葉に私は隣に座っているアリサを見た。

キレイに整えられていた髪も上品だったドレスもお客様に向けられる可愛らしい顔も、今は見る影もない……。

それはアリサだけじゃなくて私もだけど……。

「なに見てんのよ」

私の視線に気付いたアリサが鋭い眼で睨んでいる。

「は?自意識過剰なんじゃない?」

確かに私はアリサを見てたけど、ここで引くわけにはいかない。

「もう、いい加減になさい!!」

雪乃ママの声に私とアリサは勢い良く視線を逸らした。

呆れ果てた表情の雪乃ママがタバコに火を点けた。

「2人共、今日は帰りなさい」

「……はい……」

「……分かりました……」

「それから、顔の傷がきれいに治るまでお店には出勤しない事」

「「……えっ?」」

私とアリサの声が見事にカブった。

「お客様にそんな顔を見せられないでしょ?」

「……」

「……」

「全治一週間ってとこね」

……一週間!?

一週間も働けないの?

それってかなりキツいんだけど……。

「それが営業中にケンカをした事と早退の罰よ」

ニッコリと微笑んだ雪乃ママに私達は何も言えなかった。

その後、アリサと私は店長とマネージャーによって家に強制送還されてしまった……。

私をマンションまで送ってくれたのは店長だった。

二十代後半のお兄さん。

雪乃ママの片腕としてテキパキと店の中を取り仕切っている。

店長とはお店に入店してから挨拶程度の会話しか交わした事が無かった。

店長が運転する車の後部座席の窓から人で賑わう街を見ていた。

「派手にやったな」

運転席で前を向いたまま店長が口を開いた。

「……すみません……」

「別に俺に謝る必要はない」

「……はぁ……」

「どちらかが一方的に手を出したんなら問題だけど、2人とも似たような顔してたし……」

店長は笑いながら言った。

「……」

私は何も言えなかった。

「何が原因かは知らないけど……どうだ、少しはスッキリしたか?」

……スッキリ?

そう言えば、アリサとケンカするまで感じていたイライラ感が無くなっている。

「……はい」

「良かったな。だがな……」

「……えっ?」

「これだけは分かっていて欲しいんだけど……」

「……?」

「アリサは本当は悪い奴じゃない」

「……」

「確かに口調がキツいところもある。だがな、アイツもNo.1のプレッシャーと闘ってるんだ」

「……はい」

店長の言いたい事は何となくなく解った。

入店してまだそんなに経って無いけど、私もホステスの端くれだ。

煌びやかで優美な雰囲気の世界。

だけど、それは表の顔。

一歩裏に廻ればお金とプライドの世界。

一晩で私が想像も出来ないくらいの額のお金が動いている。

そのお金を動かしているのがアリサ達ホステス。

お客様がお店に落とすお金はホステスの魅力に支払う代金。

そこでNo.1を張ってるアリサはかなりのプレッシャーを感じているはず。

だから、お客に対しての執着心がない方がおかしいんだ。

「お前とアリサはよく似ている。ゆっくりと話せば最高に気が合うはずだ。それには、もう少し時間が必要だろうけどな」

……はっ!?

私とアリサが最高に気が合う!?

最高に気が合わないの間違いじゃなくて?

「……冗談じゃない……」

思わず口から零れ落ちた言葉。

一瞬、ルームミラー越しに驚いた表情で私を見た店長。

その表情が苦笑気味に崩れた。

「……そんなに毛嫌いするなよ」

「……すみません」

店長は楽しそうに笑った。

この人は私とアリサの仲裁をしたいんだろうか?

……それとも……。

もっと仲を悪くしたいんだろうか?

どっちなんだろう?

そう考えてしまう程、店長は楽しそうに笑っていた。

私が住むマンションの前で車は静かに停まった。

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

私は車を降りようとドアに手を掛けた。

「綾乃ちゃん」

「はい?」

「雪乃ママからだ」

「……?」

店長が差し出したのは紙袋だった。

なんだろう?

袋を受け取って中を覗き込むと、消毒液と絆創膏と湿布が入っていた。

……雪乃ママ……。

「あの……」

「うん?」

「……ありがとうございますって伝えて下さい」

「分かった」

店長がニッコリと微笑んだ。

◆◆◆◆◆

私は、短くなったタバコの火を消そうと腕を伸ばした。

その瞬間、全身に激痛が走った。

「……痛っ!!」

痛みのせいで呼吸すらままならない。

……もしかしたら、骨が折れてるとか?

まさか、そんなはずはないよね?

……。

……。

よし!!

とりあえず、寝よう。

起きた時にまだ痛かったらその時考えればいいや。

私はカーテンの隙間から差し込む光を遮るように布団を被った。

その時、部屋にインターホンの音が鳴り響いた。

誰?

こんな朝早くに……。

頭に浮かんだ凛と瑞貴の顔。

昨日、学校をサボったからわざわざ迎えに来たとか?

……いや、あの2人はここにくる前に連絡をするはず……。

他にこの時間にここを訪ねる人なんていない。

……って事は、新聞の勧誘かなんかかな。

シカトしよ……。

聞こえないフリをしていると再び鳴るインターホン。

聞こえないフリ……。

三回目の音が耳に届いた瞬間、私は大きな溜め息を吐いて、ベッドを這うように出た。

私が住む部屋は決して広くない1LDK。

だから寝室から玄関までの距離もそんなに長くはない。

だけど、今日はその距離が途方もなく遠く感じた。

やっと辿り着いた玄関のドア。

ロックを外し、身体でドアを押すように開いた。

薄暗い室内に差し込む朝日。

眩しくて瞳を細めた。

瞳が眩んで訪問者の姿が分からない。

誰?

瞳が慣れて私の視界に映った顔を見て私は驚いた。

「響さん!?」

「……綾……」

私を見つめている響さんも固まっている。

なんで?

どうして?

響さんがここにいるの?

聞きたい事はたくさんあるのに、私の頭は全く動かない。

「その顔どうしたんだ?」

いつもより低い響さんの声。

……顔?

……。

すっかり忘れてた!!

私は慌てて自分の顔を両手で覆った。

「綾?」

「……えっと……これは……!!」

顔を隠したまま慌てていた私は足で支えていたドアの存在をすっかり忘れていて右肩を強打してしまった……。

あまりの痛さにその場に座り込もうとした私の腰を響さんが支えてくれた。

左手でドアを押さえ右腕で私を支えた響さん。

「大丈夫か?」

「はい……ありがとうございます」

「あぁ」

スッポリと響さんの腕に包まれ、いつもより至近距離にある顔。

自分の顔が熱くなるのが分かった。

響さんが何かを言おうと口を開きかけた時、隣の部屋のドアが開いた。

出てきたのは大学生くらいの男の子。

……隣は男の子が住んでたんだ。

今日初めて知った。

その男の子がチラッと私達に視線を向けて軽く頭を下げ立ち去って行った。

……少し慌てたように……。

それがスーツ姿の響さんに怯えたのか、朝っぱらから玄関の前で私達がくっ付いていたからかは分からないけど……。

「響さん」

「うん?」

「中に入って下さい」

「は?……いや……それは……」

……?

なんで響さんったらこんなに動揺してんの?

「ここだと目立ちますよ?」

「……」

「……」

「……それじゃ、ちょっとだけ……」

「どうぞ」

かっこよく『どうぞ』と部屋の中に案内するつもりだったのに……。

全身に走る激痛のせいでぎこちない動きのうえにフラフラの私。

なんとか玄関の段差は響さんに支えて貰ってクリアー出来た。

でもここからリビングまでが途方もなく遠く感じる。

私の口から小さな溜め息が漏れた。

その時、上から響さんの声が降ってきた。

「少しだけ我慢しろ」

「えっ?」

響さんの言葉の意味を考える間もなく私の身体は宙に浮いた。

……正確には、響さんに抱き抱えられていた……。

「辛いんだろ?」

至近距離で平然と響さんが言った。

「……はい……」

「無理するな」

「はい」

多分この体勢はものすごく恥ずかしいと思う。

いつもの私なら抵抗して拒否するはず。

だけど、今日は無理。

今の私にはそんな余力は残っていない。

だから、大人しく響さんに身体を預けた。

響さんはリビングに入るとソファに近付き壊れ物を扱うように私を座らせた。

「大丈夫か?」

響さんは床に腰を下ろし顔を覗き込み、私が『大丈夫です』と答える前に「大丈夫じゃねえな」と呟いた。

顔に掛かる私の髪に響さんが手を伸ばした。

その髪を長い指が左耳に掛けた。

響さんが優しく頬に触れる。

ひんやりと冷たい指先。

「熱、持ってんな」

……あぁ。

響さんの手が冷たいんじゃなくて私の身体が熱いんだ。

その時初めて気が付いた。

響さんの手が額や首筋に動く。

「綾」

「はい?」

「傷口は冷やしたか?」

「……いいえ」

「薬は飲んだか?」

「……いいえ」

「どこが痛い?」

「……全体的に……」

私をまっすぐに見つめる漆黒の瞳。

その視線に私の心臓が信じられないくらいの速さで動き出した。

それに伴って感じる息苦しさ。

……私って病気なんじゃ……。

不吉な予感が頭を巡り私は響さんから慌てて視線を逸らした。

逸らした視線の先にあったグラスを見て思った。

……あっ!!そうだ!!

せっかく部屋の中に招き入れたんだからコーヒーでもお出ししないと……。

……って言っても我が家にはお湯を注ぐインスタントしかないんだけど……。

響さんはインスタントのコーヒーなんて飲んだことあるのかしら?

「……響さん……」

「ん?」

「インスタントコーヒーって飲んだことあります?」

「は?」

……この反応からして絶対に飲んだことないな……。

「結構、美味しいんですよ」

これは是非、ご馳走してあげなきゃ!!

私は小さく息を吐いて気合いを入れた。

そして、素早く立ち上がった。

「綾!?」

「……痛っ……」

驚いた声を出して私を見つめる響さんとまたしても激痛に襲われ息が詰まった私。

なんとか呼吸を整えた私はキッチンに向かおうとした。

「どこに行くんだ?」

「ちょっとキッチンに……」

「なんで?」

「響さんにコーヒーを飲んで頂こうと思って」

私は響さんに向かって得意気に微笑んだ。

そんな私を見て響さんは小さな溜め息を吐いた後苦笑気味に笑った。

「ありがとう、綾」

「いいえ」

「今日はその気持ちだけ貰っておく」

「えっ?」

私は響さんの言葉の意味が理解出来ずに首を傾げた。

「コーヒーはお前のケガが治ってからご馳走してもらう」

「……そうですか……」

残念。

せっかく響さんに喜んで貰おうと思ったのに……。

肩を落とした私を見て、響さんは困ったような優しい笑みを浮かべた。

「綾の自慢のコーヒーが早く飲みたい」

「えっ?」

立ち上がった響さんを私は見つめていた。

「だから、早く元気になってくれ」

ゆっくりと私に近付いた響さんが私の正面で足を止めると少しだけ腰を屈めた。

……?

響さんの整った顔が近付いてきたと思った瞬間、左頬に感じた温かくて柔らかい感触。

そのまま時間が止まったような感覚に包まれた。

……これって……。

……キス?……

……響さんが私の頬にキスしてる?

なんで?

どうして?

……。

……。

どんなに考えても答えは分からない。

腰にまわされている大きな手。

その手から伝わった熱が全身に広がっていく。

今日何度目か分からない胸の高鳴り。

……響さんって……。

……実は外人とか?

もしそうなら、今のこの状況でも別に何も問題はないような……。

……。

……。

……てか、そんなはずない!!

響さんが外人なはずがない。

こんなに流暢に日本語を喋る外人がいるはずないじゃん……。

……多分ね……。

あぁ!!

もう!!

分かんない!!

事の成り行きが理解出来ない私の頭は完全に現実逃避モードに突入していた。

どのくらいの時間響さんの唇が私の頬に触れていたのかは分からない。

数秒かもしれないし……。

数分だったのかもしれない。

ゆっくりと離れていく響さんの顔。

響さんは私と瞳が合うと優しく微笑んだ。

その笑顔は大きな安心感を与えてくれたはずなのに……。

私の心臓はまだ正常には戻ってくれない。

大きすぎる鼓動が響さんに聞こえてしまうような気がして私は急いで口を開いた。

「……ですか……」

「……?」

「響さんの出身はどこですか?」

「生まれも育ちもこの街だ」

「あっ!!長期間の留学の経験があるとか?」

「旅行や仕事で海外に行くことはあるが一週間が限度だな」

「……」

「……?」

「……身内の方に外国人……」

「いない」

「……ですよね」

……やっぱり、私の推理も虚しく響さんは生粋の日本人らしい。

しかも、突然、訳の分からない質問をした私を不思議そうに見ている。

私は響さんにニッコリと微笑みかけてみた。

そんな私に向かって響さんは尋ねた。

「なんでそんな事を聞くんだ」

……間違ってない。

響さんの質問は決して間違っていない。

もし私が逆の立場だったら同じ質問をすると思う。

「……挨拶かと思って……」

「挨拶?」

「え。外国流の挨拶をしているのかと……」

「……なるほど……」

響さんが私に負けないくらいの微笑みを浮かべた。

「残念ながら挨拶じゃないな」

やっぱりそうだよね。

私は一人で納得した。

この時点で私は間違っていた。

響さんの行動の意味を考えないといけないのに、響さんが日本人だという事に納得してしまった。

明らかにズレてしまっているのに全く気付いていない私。

そんな私を見ながら響さんが呟いた。

「……想像以上に強敵だな」

「えっ?」

その言葉は私に話し掛けているというよりも独り言のように感じた。

私が首を傾げるのと、響さんの顔が再び近付いて来たのは同時だった。

響さんの唇が触れたのは私の頬では無く唇だった。

唇を塞いだまま、腰にまわされた大きな手が私を引き寄せる。

瞳を閉じる事さえ思い付かない私の視界に映るのは伏せ気味の漆黒の瞳。

間近で見るその漆黒の瞳に吸い込まれてしまいそうな気がした。

唇に感じる感触。

この感触は初めてじゃない。

響さんとこういう事をするのは初めてだけど、キスが初めてって訳じゃない。

瑞貴とは何度もしたことがある。

瑞貴は強引に私の唇の隙間から舌を侵入させてくる。

唇を食べられるんじゃないの?っていうくらいに激しいキス。

……それに比べて……。

……ていうか、比べていいのかは分からないけど、響さんのキスはゆっくり甘い感じがする……。

別に本当に甘味を感じる訳じゃなくて……微かにタバコの苦味があるんだけど……その触れ方自体が甘い感じがする。

優しくて穏やかなキスをする響さんと激しく求めるようなキスをする瑞貴。

……もしかしたら、キスって性格が出るのかもしれない……。

キス経験の少ない私はそんな発見に納得した。

響さんは唇を重ねるだけでそれ以上の事をしようとはしない。

ただ触れるだけ。

なのに私の鼓動は時間が経つに連れて加速していった。

私はなんとなくその理由が分かっていた。

密着している所為で感じる私とは全然違う響さんの身体。

スーツを身に纏っていても分かる広い胸。

私をしっかりと支える逞しい腕。

そして、何時もより強く感じる香水の匂い。

その全てが私の鼓動を速くした。

ゆっくりと私から離れた響さん。

唇が離れた瞬間、響さんは動きを止めた。

漆黒の瞳が私の瞳を捉える。

何時もと変わらない優しい笑みを浮かべた響さん。

その笑みに妖艶さを感じるのは……気の所為?

私の瞳を見つめていた響さんの視線が微かに下がった。

……?

響さんがどこを見ているのかが分かった私は再び身体が固まった。

薄く形のいい響さんの唇。

その唇の間から覗く紅の物体。

私はぼんやりとそれを見つめていた。

私と響さんの距離は微妙。

キスをするには遠く、言葉を交わすには近過ぎる。

その所為か沈黙が流れた。

気まずい時間じゃないけど、なんか緊張する。

……多分、それは私だけだと思う。

だって響さんはいつもと同じ余裕の雰囲気を全身から醸し出している。

私を見つめる視線にも……。

まだ私の腰を引き寄せている大きな手にも……。

間近にある整った綺麗な顔にも……。

焦りなんて全くない。

むしろこの時間を楽しんでいるようにさえ見える。

瞳に妖艶さと悪戯っ子みたいな相反する色を含んだ響さんは微かに私に近付き……。

……!?

私の唇を舐めた。

その瞬間私の身体には電流が流れたような感覚に陥った。

実際に電流が流れた事なんてないけど……。

身体の奥深くをビリビリとしたモノが駆け抜けるような感覚。

その感覚の所為で私の身体はビクッと震えた。

私の反応は間近にいる響さんにも伝わっているはず……。

満足そうな笑みを浮かべた響さんが私から離れていく。

離れたと言っても屈めていた腰を伸ばしただけ。

普段と同じ位置に戻っただけ。

上から私を優しく見下ろした響さんが言った。

「外国流の挨拶じゃなくて俺流の愛情表現だ」

自信に満ち溢れた漆黒の瞳が私をまっすぐに見つめていた。

……。

……愛情表現……。

挨拶じゃなくて愛情表現。

……良かった、響さんが外人でも、外人もどきでもなくて……。

正真正銘この街生まれのこの街育ちで、仕事や旅行で外国に行っても一週間が限界らしい響さんは生粋の日本人らしい。

そんな響さんにとって、さっきの行動は挨拶じゃなくて愛情表現だそうで……。

……。

はぁ?

愛情表現!?

愛情!!……ってなんだっけ?

私も生粋の日本人なはずなのに……。

……日本語が理解出来ない……。

“愛情”という言葉が私の狭い頭の中をグルグルと回っていて、私は軽い眩暈を感じた。

私の眩暈の原因を言い放った響さんは相変わらず妖艶さを醸し出しながら楽しそうに私を見てる。

やっぱりこの人はドSなのかもしれない。

私が動揺している姿を見て楽しんでいるし……。

……。

……よし!!

とりあえず落ち着こう。

このままだと余計にドツボに嵌りそうな気がした。

私は深呼吸をした。

大きく息を吸い込んだ瞬間、身体に激痛が走った。

「……いたっ……」

私が痛みの所為で顔を歪めるのと何かが動く気配を感じたのは同時だった。

俯いた視界に映るのは黒いスーツの袖と大きな手。

その手は私が着ていたロンTの裾を掴んだ。

……?

裾を掴んだままその手は上に動いた。

……!?

今まで服に覆われていた肌が空気に晒されてヒンヤリとした感覚が広がる。

「ひ……響さん!?」

私の言葉が聞こえていないのか響さんはロンTを捲り上げようとする。

空気に触れる肌の面積がどんどん広がっていく。

ロンTの下には何も着ていない。

このままだとあと少しで胸が登場してしまう。

登場した後に間違い無く目の前の響さんにご挨拶する事になるだろう。

しかもこんなに明るい所で真っ正面から……。

それだけは避けたい!!

私は慌てて響さんの腕を掴んだ。

あと数ミリというところでなんとか“ご登場”は阻止する事が出来た。

響さんは私の胸に“ご挨拶”をしたかったんだろうか?

しかもなぜこのタイミングで?

……っていうか……。

ドS疑惑の次は強制猥褻行為!?

響さんは性格も外見も最高級。

でも、全てが完璧な人なんてこの世にはいない。

こういう落とし穴があっても仕方がないのかもしれない。

なんかショックだけど……。

かなりヘコむんだけど……。

強制猥褻の容疑を掛けられてる響さんは空気に晒されてる私の肌に視線を向けている。

その瞳にはさっきまでの妖艶さも優しさも穏やかさもない。

もし、悪戯っ子みたいな表情だったら私は引きつりながらも笑って流せたかもしれない。

だけど……残念な事に響さんの瞳は真剣で……。

眉間には深い皺を寄せている。

そして、私は聞き逃さなかった。

響さんの口から漏れた小さな舌打ちの音を……。

一体、響さんは何で不機嫌になってしまったんだろう?

……。

ついさっきまでは普通だったはず……。

「……綾……」

いつもより低い声。

「は……はい?」

不機嫌でちょっと変態チックな響さんに完全に怯えてしまった私の声が微かに裏返ってしまった。

「薬あるか?」

……薬?

「……薬ですか?」

「あぁ、消毒液と湿布と鎮痛剤」

「何に使うんですか?」

「……」

「……?」

「……痛いんだろ?」

響さんの視線が私の顔に戻ってきた。

そこでやっと気が付いた。

響さんは私の身体を見ていたんじゃない。

いや……身体を見てたのは見てたんだけど……。

別に厭らしい目で見てたんじゃなくて、痛がる私を心配して看ていたらしい……。

どうやら響さんは変態じゃなかったらしい。

「どうした?」

響さんの良心を変態扱いしてしまい自己嫌悪に陥った私を不思議そうに見つめる響さん。

『どうした?』って聞かれても、『響さんに強制猥褻罪の容疑が掛かっていました』だなんて言える筈がない……。

もし、そんな事を言ったら私は全く動けなくなるくらいの傷を負わされてしまうかもしれない。

……それはマジで勘弁して欲しい……。

「無いのか?」

「えっ!?」

「……」

「えっと……何の話でしたっけ?」

「……」

「……」

「……頭も打ったのか?」

「へっ?……あぁ、頭は……多分、打ってないと思います。いくらアリサがケンカ慣れしてるって言っても私の方が背も大分高いですし、さすがに私の頭まではアリサも攻撃……」

「ケンカ?」

私は言葉を遮った響さんを見て固まった。

固まったと同時に痛みに耐える覚悟をした。

私が殴られる覚悟をしてしまうくらい響さんの瞳は鋭くて険しかった。

人は自分の身に危険が迫ると頭が真っ白になり声すら出せず指一本すら動かせなくなる事に初めて気が付いた。

「……“アリサ”って雪乃の店にいた女か?」

「……」

「その女がこの傷を作ったのか?」

「……」

私は響さんのこんな声を聞いた事がない。

その声は冷たいのに熱すぎる位の怒りを含んだ声だった。

別にアリサを庇おうという思いは無かった。

私は嫌いな女を自分の身を危険に晒してまで庇うような“いい人”じゃない。

響さんの言葉は真実だから頷けば良かったのかもしれない。

……だけど……。

出来なかった。

全く動かない頭でも、私が響さんの言葉を肯定してしまったら、響さんの怒りがアリサに向く事が分かったから。

確かに、私はアリサとケンカをしてこの傷を負った。

でも、それはアリサも同じ。

今日はアリサに会っていないから、アリサが昨日のケンカでどれだけの傷を負っているのかは分からないけど……。

私もアリサもお互いが被害者であり加害者なんだ。

ケンカをするって事はそういう事。

世間一般的には解らないけど私が生きている世界ではそれがルールだから。

学校の校則すら守ろうとしない私達が唯一守る決まり事。

だから、私は頷かなかった。

「綾」

険しく鋭い瞳の響さんが私の名前を呼ぶ声が少しだけ柔らかくなったような気がした。

「……はい……」

「お前に傷を負わせたのはアリサなんだな?」

「……」

「答えろ」

「……」

何も答えない私を見て響さんが溜め息を吐いた。

「お前が答えないなら、アリサって女を探し出して直接聞いてもいいんだぞ」

「……!?」

響さんはスーツの内ポケットから黒いケイタイを取り出した。

ケイタイのボタンを押そうとしている響さん。

それを見た私の身体は勝手に動いた。

無我夢中だった。

私が我に返ったのは全身に走る痛みのお陰だった。

声にならない悲鳴を上げて俯いた私の手には触り慣れない黒いケイタイがしっかりと握られていた。

……どうやら私は響さんのケイタイを奪い取ってしまったらしい……。

手の中にあるケイタイを見て、私の背中には冷たいモノが流れた。

……しまった……。

つい、やってしまった。

無我夢中だったとは言えケイタイを奪ったら余計響さんの怒りを買うじゃん。

……どうしよう……。

返すべきだろうか?

でも、返したらアリサが……。

……って言うか、身体が痛いんですけど……。

「……綾……」

俯いた私の耳に溜め息混じりの響さんの声が聞こえた。

その声は呆れてはいるけどさっきみたいに冷たい声では無かった。

恐る恐る顔を上げるとやっぱり呆れた表情の響さん。

「……とりあえず、話は後だ」

響さんはそう言って私に一歩近付くと私を抱え上げた。

「……!?」

このままベランダから階下に落とされるんじゃないでしょうね?

ここは7階だから落ちたら……。

不吉な予感に私は響さんのスーツを強く握った。

そんな私に響さんは「もう少しだけ辛抱しろ」と言った。

……もう少し?

……。

それって、もう少しで楽になるって事?

もう少ししたら、ベランダから落ちて意識がなくなる。

意識が無ければ痛みも感じなくて楽になれるって事!?

……楽になるっていうか……。

・ ……マジで勘弁して欲しい……。

そんな私の不安を他所に響さんは私をソファに座らせた。

ベランダから落とされてしまうと思っていたのに響さんは静かに私をソファに置いた。

大切なモノを扱うように……。

……助かった。

私は響さんにバレないようにこっそりと額の汗を拭った。

「……で、薬はあるのか?」

……薬……。

……。

……そう言えば!!

昨日、雪乃ママがくれたんだ!!

確か、その袋は寝室のサイドテーブルの上に……。

私は立ち上がろうと足に力を入れようとして

「動くな!!」

銀行に押し入った強盗犯のようなセリフを発した響さんに止められた。

「……はい?」

「頼むからもう動くな」

「へっ?」

「お前が痛そうな表情をする度に俺まで心臓が痛くなる」

心臓?

響さん、心臓が弱いのかしら?

「……すみません……」

「謝らなくていいから、薬がどこに在るのかを教えてくれ」

「……サイドテーブルの上に」

私は寝室を指差した。

それを確認した響さんが私の指先に向かって歩いていく。

寝室からガサガサと袋の音がして響さんが戻って来た。

手には薬が入った袋が握られていた。

ソファに座っている私の正面のフローリングに直接、腰を下ろした響さんが袋の中身をテーブルの上に出して行く。

消毒液に絆創膏に湿布にガーゼにテープ、そして鎮痛剤……。

「これは自分で買って来たのか?」

「いいえ、雪乃ママから頂いたんです」

「雪乃から?」

「はい」

「さすがだな」

響さんは唇の端を片方だけ上げて笑った。

「……?」

「よし、始めるか」

「始める?何を?」

「綾」

「はい?」

「泣くなよ?」

響さんはそう言ってスーツの上着を脱いだ。

泣く?

私が?

なんで?

「綾、後ろを向けるか?」

響さんがソファの背もたれを指差した。

……?

私はソファに足を上げソファの背もたれの方に身体の正面を向けた。

「そのケイタイはまだ放さないのか?」

そう言われて、まだ手の中に響さんのケイタイが在ることに気付いた。

……返しても大丈夫?

また、どこかに連絡したりしない?

私は肩越しに響さんの顔を見た。

そして、持っていたケイタイを響さんに手渡した。

響さんの瞳がさっきまでとは違い優しく穏やかだったから……。

ケイタイを受け取った響さんはそれをテーブルの上に置いた。

それを見て私はホッと胸を撫で下ろした。

「手、上げろ」

……?

私は不思議に思いながらも右手を上げた。

「両手だ」

……?

私は左手を右手と同じ高さまで上げた。

その時、横腹辺りに温もりを感じたと同時に勢い良くロンTが上がりあっという間に今までロンTに覆い隠されていた肌が空気に晒された。

「ひ……響さん!?」

「うん?」

「い……一体……何を……」

ソファの背もたれには今まで私が着ていたはずのロンTが掛けるように置かれている。

「手当てだ。もう手は降ろしていいぞ」

「……手当て……」

「きちんと手当てしねえと跡が残るぞ」

「……はぁ……」

「……手は降ろさなくていいのか?」

「は?」

「俺は上げてもらってた方がいいけどな」

後ろで苦笑している響さん。

……?

視線を動かして私は言葉を失った。

……!!

さっきあれだけ頑張って“ご登場”を避けたのに……。

今、堂々とご登場していらっしゃる。

しかも、私は両手を上に上げたまま……。

「ひっ!!」

私は慌てて胸の前に両手を降ろした。

私の背後からはクスクスと声を押し殺した笑い声が聞こえてくる。

「……しょ?」

「うん?」

「……見たでしょ?」

「……見てない」

「……本当は?」

「……見た」

……やっぱり……。

私は大きな溜め息を吐いた。

ソファに座っている私の背後に立っている響さん。

背中を向けているにしても立っている響さんからは私の肩越しにバッチリ見えたはず……。

……恥ずかしすぎる……。

……もう、立ち直れないかもしれない。

私のテンションはあっという間にどん底まで落ちた。

「これ使え」

響さんがスーツの上着を私の膝の上に置いた。

「……ありがとうございます」

私はその上着で隠しながら大きな溜め息を吐いた。

「気にするな」

「はい?」

「確かに見た。だが……」

「……?」

「こっちが気になってそっちは殆ど見てない」

響さんが言う“こっち”が何なのかはすぐに分かった。

そこに響さんが触れたから……。

響さんの指が私の腰を滑る。

「いつ彫った?」

「雪乃ママのお店で働く事が決まった時に……」

「そうか」

響さんの指が横腹に近い蝶の羽の線をなぞった時、擽ったさを感じて私の身体がピクッと反応した。

「良かったな」

「えっ?」

「綺麗な蝶は無事だ」

「……そうですか」


私は自分がどれだけ身体に傷を負っているのか分からなかった。

左頬が赤みを帯びて腫れているのはさっき鏡で見た。

でも、身体の傷は確認しなかった。

あれだけ動く度に激痛が走ってたから軽い怪我じゃない事はなんとなく想像は出来た。

だけどこんなに酷いとは思わなかった。

「……!!」

私の口から声にならない悲鳴が零れるのは今日何度目だろう……。

響さんに借りたスーツを握りしめ痛みに耐えた。

コットンに染み込んだ消毒液が肌に触れる度に鋭い痛みが走る。

一カ所や二カ所じゃない。

背中、腕、足……。

血の滲んだコットンがテーブルの上に山積みになっていた。

その使用済みのコットンを見て私の身体は全身が傷だらけだって事にようやく気が付いた。

「骨は折れてないようだ」

全身の手当てを終えた響さんが安心したように呟いた。

その言葉に私も胸を撫で下ろした。

「でも、今晩は熱が上がるぞ」

響さんが使った薬を片付けながら言った。

今でも、全身が熱い。

「……ですね」

「しばらくは店も休んだ方がいい」

「……はい」

昨日、雪乃ママはこうなる事を分かっていて私とアリサに罰を与えたのかもしれない。

それは都合のいい考えかもしれない。

だけど、私の為に必要な薬を準備してくれた雪乃ママ。

そんな雪乃ママの優しさに胸がいっぱいになる。

私がこんな状態になることが分かっていたら……。

……もし、雪乃ママからの罰が無かったらきっと私は無理をしてでもお店に出勤すると思う。

それを見通しての罰なのかもしれない。

罰という名の優しさ。

私はそんな気がしてならなかった。

痣だらけで動く度に軋む身体。

……私は思ったよりも重症らしい……。

「多分、これで大丈夫だと思うけど、欲しいならもっと効き目の強いヤツもあるぞ」

紙袋に入っていた市販の鎮痛剤の箱を響さんはヒラヒラと翳している。

「……これで大丈夫です……」

「そうか」

頷いた響さんは立ち上がるとキッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターを持って戻ってきた。

そのペットボトルと箱から取り出した錠剤を差し出された。

この痛みから解放されるなら……。

そう思って錠剤をミネラルウォーターで流し込んだ。

私の様子を見届けた響さんは私の隣に腰を降ろした。

そこでずっと気になっていた事を尋ねてみた。

「響さん」

「うん?」

「どうしてここに?」

「さっき、雪乃から連絡があった」

「雪乃ママから?」

「あぁ、『綾乃ちゃんが大変なの!!』って……」

「……私が……大変……」

「『何が大変なんだ?』って聞いても答えねえし」

「……」

響さんと雪乃ママの会話の様子が想像出来るのはなんでだろう?

「それだけ、言って一方的に電話を切りやがった……。しかも、その後何度、電話を掛け直しても直留守だ」

「……なるほど……」

それで、私を心配して響さんはここを訪ねてくれたんだ。

「しかも、玄関に出てきたお前はロボットみたいな動きで、顔は腫れてるし……」

ロボットみたいな動き!?

……まぁ、確かに否定は出来ないけど……。

「朝から驚きの連続だ」

響さんはそう言って笑った。

「……すみません……」

私は肩を竦めた。

「謝るくらいならその怪我の原因を正直に話せ」

……。

……しまった!!

また、その話に戻ってしまった……。

どうにかして話を逸らさないと!!

……。

……。

……。

……ダメだ……。

全然、頭が働かない。

「まぁ、いい」

響さんが大きな溜め息と共に呟いた。

えっと……。

『まぁ、いい』って事は……。

私が怪我をした理由を話さなくてもいいって事かしら?

……って事は私が話さなくても、響さんがアリサを探し出して直接聞き出す事も無いって事で……。

私が仕事中にケンカした事もこのまま有耶無耶に……。

一件落着じゃない?

……良かった!!

安心した私は身体の力が抜けソファの背もたれに身体を埋めた。

「時間はたっぷりある」

……はい?

「焦って、今、聞き出す必要はない」

……!?

響さんはにっこりと微笑んだ。

……だけど、漆黒の瞳は全然笑ってない……。

……響さん……。

なんだか、その笑顔がものすごく怖いんですけど!?

そんな響さんの笑顔に私は引きつった笑顔を返すことしか出来なかった。


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