エピソード9

車の外で、男の人達が響さんに向かって再び頭を下げた。

運転手さんが後部座席のドアを開け響さんが車に乗り込んでくる。

「綾、待たせて悪かったな」

「いいえ、気にしないでください」

ドアが閉まり運転手さんが運転席に座ると車は静かに動き始めた。

その場に残った2人はまだ頭を下げていた。

……あんなに頭を下げていて、頭に血が上らないのかしら?

間違いなく私だったら顔を上げた瞬間に眩暈に襲われるはず……。

タバコに火を点けてあげたり、ドアを開け閉めしたり、頭を下げ続けたり……。

この世界の人達もいろいろと大変なんだ……。

私は心の中で『お疲れ様です』と呟いた。

車が停まったのは繁華街の私が働くお店の近くだった。

すかさず、後部座席のドアを開けてくれる運転手さん。

先に響さんが車を降りて手を差し伸べてくれる。

その手に自分の手を重ねると大きな手が私の手を包み込んだ。

その温もりを感じながら私は車を降りた。

「今日はもう帰っていいぞ」

響さんが運転手さんに声を掛けた。

『分かりました』

運転手さんが頭を下げた。

響さんは私の手を離す事なく歩き出した。

周りには私と同じ様に“同伴出勤中”らしい他のお店のホステスとお客さんらしき人達。

路上の至る所には行き交う人に声を掛けているキャッチの姿。

ビルの出入り口にはお客様をお見送りしているホステスの姿。

今日もここは賑わっている。

その中で私はたくさんの視線を感じていた。

……なんか目立っている気がする……。

至る所から感じる視線。

いつも、出勤する時にはこんな視線なんて感じた事がない。

……という事は……。

やっぱり目立っているのは私の隣を歩いている人が原因?

私は隣を歩いている響さんの顔をチラっと見上げた。

別に何かを気にする様子も無く平然とした表情の響さん。

すれ違う人達が響さんの顔を見て驚いたように慌てて道を譲っている。

……しかも……。

響さんに気付いた人達の反応は様々。

会釈をする人。

わざわざ挨拶をしに来る人。

嬉しそうに瞳を輝かせる人。

自分の働いているお店に誘う人。

遠巻きに歓声を上げる人。

響さんに反応する人も様々。

お店のキャッチ、私と同業者のお姉さん、厳つい雰囲気を全身から醸し出している明らかにそっちの筋の人……。

観察を始めるとキリがない。

色々な人から声を掛けられても響さんは足を止める事もなく、最低限の言葉を発するだけだった。

声を掛けてくる人達は響さんの知り合いだと分かる。

……だけど……。

遠巻きに響さんに視線を送ってきている綺麗なお姉様方は……。

凛が言っていた響さんのファンの人達!?

……痛い……。

派手目で綺麗なお姉様達の鋭い視線が容赦なく私に突き刺さってくる。

……違うの!!

私は貴女達と同業者でただ“同伴”をして貰っているだけなの!!

同業者なんだから貴女達も分かるでしょ?

“同伴”もお仕事なんだって……。

そんな私の無言の絶叫が聞こえるはずもなく……。

私はその視線を必死で感じないようにした。

「どうした?」

響さんが私の顔を覗き込んだ。

「……いいえ……別に……」

正直に答える事が出来ない私は響さんの瞳から視線をそらしてそう答えることしか出来なかった。

響さんと繋いでいる掌から伝わってくる温もり。

当たり前のように繋がれた手に視線を向けた。

……同伴の時って手を繋ぐのが普通なのかしら?

同伴初心者の私には分からない事ばかり。

こんなことなら事前に雪乃ママに聞いておくんだった。

「綾?」

繋がれた手を見つめる私を不思議そうに見つめる響さん。

「……あの……」

「うん?」

「響さんは同伴をする時はいつも手を繋ぐんですか?」

「……」

私の言葉に響さんの表情が驚いた表情に変わった。

「……?」

……私……。

また、おかしい事聞いた!?

驚いた表情の響さんが俯いて……その肩が小刻みに揺れていた。

……!?

「ひ……響さん!?」

「悪い……ちょっと……」

「……?ちょっとどうしたんですか!?」

……気分が悪くなったとか?

私が変なことばかり聞くから!?

「……ちょっとだけ時間をくれ……」

「……はい!?」

響さんは具合が悪くなったんじゃなくて、ツボに嵌って笑っているだけだった……。

……なんだ、笑いが止まらなくなっただけか……良かった……。

……。

……ていうか、なにがそんなに響さんのツボに嵌ったんだろう?

響さんの笑いがやっと治まったのは雪乃ママのお店が入っているビルが見えて来た時だった。


「大丈夫ですか?」

「あぁ。さっきの答えだが……」

……さっきの答え?

私、何を聞いたっけ?

「実は、俺も“同伴”なんて滅多にしないから分からないんだが、数年前に雪乃と同伴した時には手は繋がなかったな」

……。

雪乃ママと同伴……。

雪乃ママと同伴?

響さんと雪乃ママが同伴!?

……。

……いや……別に驚くようなことじゃない。

響さんは雪乃ママが歳を誤魔化して働いている事も知っているくらいなんだから……。

……同伴するって事は響さんは雪乃ママを指名していたってことだよね。

……ってことは……。

響さんは雪乃ママの事が好きだったとか!?

……あれ?

なんだろう?

なんか胸がモヤモヤするような……。

「……綾」

「……」

「綾」

「……」

「綾!」

「えっ!?」

「俺の勘違いなら悪いんだけど……」

「……?」

「変な想像を膨らませてないか?」

「変な想像?」

「俺が雪乃に惚れていたとか」

「……!!」

「やっぱりな」

響さんが呆れたように溜息を吐いた。


「……違うんですか?」

「期待を裏切るようで悪いけど、天と地がひっくり返ってもそれはないな」

「そ……そうなんですか?」

きっぱりと断言した響さんが足を止めた。

「あぁ。この話の続きは店に入ってからな」

どうやら私が“変な想像”を膨らませている間にお店が入っているビルの前に到着したらしい……。

◆◆◆◆◆


響さんがお店のドアを開けてくれると中から店長の声が出迎えてくれた。

『いらっしゃいませ』

見慣れているはずの店内がいつもと違うような感じがする。

出勤時、いつもは裏口から店内に入るけど、今日は正面から入った所為かもしれない。

「響さん、いらっしゃいませ」

私達の姿を見つけた雪乃ママが笑顔駆け寄ってきた。

「あぁ、悪いな雪乃。少し遅れた」

時計を見ると22時を少しだけ過ぎていた。

「綾乃ちゃん、美味しいもの食べさせて貰った?」

「はい。とても美味しかったです」

「そう、良かったわね」

ニッコリと微笑んだ雪乃ママ。


雪乃ママは私から響さんに視線を移した。

「綾乃ちゃんが楽しい時間を過ごさせて頂いたみたいだから気にしないで響さん。さぁ、お席にご案内しますね。綾乃ちゃんは準備をしてきてね」

雪乃ママと響さんが奥のボックス席に向かった。

その背中を見送ってから私は控え室に向かった。

控え室のドアを開けるとマリさんがいつもと変わらない笑顔で迎えてくれた。

「おはようございます。マリさん」

「綾乃ちゃん、おはよう。初の同伴おめでとう」

「ありがとうございます」

軽く頭を下げた私にマリさんは手招きをした。

「神宮さんが待ってるから、10分で終わらせるよ」

「……!?」

10分!?

いつもは軽く30分は掛かるのに……。

手招きをしているマリさんの笑顔に寒気を感じるのは私だけかしら?


マリさんは有言実行の人だった。

手招きされて恐る恐る近付いた私の手に準備していたらしいロングドレスを手渡して「一分で着替えてね」と言い放った。

普段なら「無理!!」と言うところだけど、マリさんの気迫にすっかり飲み込まれていた私は、その場で着ていた服を脱ぎ捨てギリギリ一分以内に着替えを終えた。

着替えを終えた私を有無を言わせず椅子に座らせたマリさんは慣れた手付きで私の顔と髪を弄り始めた。

猛スピードで動く手と同じようにマリさんの口も休まる事はない。

「初の同伴の相手が神宮さんなんてすごいわね」

「そ……そうですか?」

「そうよ。他の女の子もみんな羨ましがっていたわよ」

「……はぁ」

……羨ましがっていた……。

その言葉が引っ掛かった。

私の経験上、女の子に羨ましがられて良かった事なんて一度もない。

……何もないといいけど……。

「出来上がり!ジャスト10分」

鏡越しに満足そうなマリさんの表情があった。

「ありがとうございます」

「今日も頑張ってね」

マリさんの笑顔に見送られて私は控え室を出た。

『綾乃さん、おはようございます』

いつもと同じように裏口から店内に入ると近くにいたボーイさんが声を掛けてくれた。

「おはようございます」

『お席にご案内します』

「お願いします」

笑顔を浮かべたボーイさんが一歩前を歩き出した。

その後ろを歩く私。

……なんとなく予想はしていたけど……。

すでに満席に近い店の至る所から飛んでくる視線。

どうやら今日は注目を浴びる日らしい……。

なんか、面倒くさい。

重くなる気分を振り払うように私は顔を上げた。

『こちらです』

私が案内されたのはやっぱり一番奥のVIPルームだった。

「ありがとうございます」

私は案内してくれたボーイさんにお礼を告げてVIPルームの中に入った。

「失礼します。お待たせしました」

VIPルームに入ると正面にいる響さんと視線が重なった。

響さんの優しい瞳を見るとさっきまでの重い気分が少しだけ和らいだ気がした。

私がいない間、響さんに着いていてくれたのは雪乃ママだった。

「綾乃ちゃん、こっちにどうぞ」


ヘルプ専用の席に座っている雪乃ママが響さんの隣の席を差している。

「失礼します」

私はその席に腰を下ろした。

なんだか、響さんが近くにいると落ち着くような気がする……。

「綾乃ちゃん」

「はい?」

「綾乃ちゃんはお酒に強いらしいわね」

雪乃ママの瞳が輝いている。

「……えっ?」

私は慌てて響さんの顔を見た。

そこには、俯き気味に笑いを堪えている響さん。

……。

……早速、暴露されてるし……。

「綾乃ちゃんはお店であまり飲まないからお酒には弱いんだと思っていたわ」

「……」

その言葉に私は引き吊った笑みを浮かべる事しか出来なかった。

そんな私を他所に雪乃ママは子供みたいに瞳を輝かせている。

……?

なんで、雪乃ママはこんなに嬉しそうなんだろう?

その疑問も雪乃ママの次の言葉で謎が解けた。

「今度、綾乃ちゃんと飲みに行くのが楽しみだわ」

……あぁ、そういう事か……。

昼間、電話で飲みに行く約束したんだっけ。

「雪乃ママはお酒が好きなんですか?」

雪乃ママがお店で飲んでいるところを見た事がない私は尋ねた。

「……飲みに行く?」

突然、驚いたような声を出した響さん。

……?

なに?

「そう。綾乃ちゃんと約束しているの」

響さんの異変に気付いていないのか雪乃ママが答えた。

「2人でか?」

響さんか私の顔を見つめた。

「えっ?は……はい」

「綾乃」

「なんですか?」

「雪乃と飲みに行くのは止めた方がいい」

「はい?」

いつになく真剣な表情の響さんに私の身体にも緊張が走った。

……どういう意味!?

「雪乃と一緒に飲むと潰されるぞ」

「……?」

「ここだけの話だけどな……」

急に声が小さくなった響さんが私の耳に顔を近付けた。

「……!?」

響さん!!

ち……近過ぎない!?

なんかものすごく緊張するんですけど……。

そんな私の思いに気付くはずのない響さんが私の耳元で雪乃ママの秘密を教えてくれた。

「雪乃はな、底無しの上に飲ませ上手なんだよ。だから、一緒に飲みに行くと間違いなくお前は酔い潰されて、翌日は二日酔いで起きられなくなるぞ」

「そ……そうなんですか?」

「あぁ」

「響さん」

それまで黙っていた雪乃ママ。

「うん?」

「私の悪口は私がいないところでどうぞ」

ニッコリと微笑んだ雪乃ママ。

でも、その微笑みが逆に怖いんですけど……。

「雪乃」

「はい?」

「お前がいないところでお前の悪口を言うと、陰口になるだろ?」

「そうですね」

「あいにく俺は悪口を言うのは好きだが、陰口は嫌いなんだ」

2人の会話に入れない私はオロオロと2人の顔を交互に見つめる事しか出来なかった。

緊迫した雰囲気。

……これはマズイ……。

そう思った時、雪乃ママが楽しそうに笑い出した。

「それもそうですね。陰口よりも目の前で堂々と悪口を言われた方がいいわ」

「だろ?」

楽しそうに笑い声を上げた2人に私は小さな溜め息しか出てこない。

……この2人の会話は心臓に悪い……。

「綾乃ちゃん」

笑っていた雪乃ママに突然名前を呼ばれた私の身体は驚きでビクッと反応した。

「は……はい?」

「響さんに何を聞かされても今更キャンセルは無しよ」

茶目っ気たっぷりに言う雪乃ママに私は笑顔で頷いた。

「さて、今日もお客様からたくさん飲ませて頂かないと……」

イスから腰を上げた雪乃ママが

「響さん、ごゆっくり」

響さんにニッコリと微笑んだ。

「雪乃」

「はい?好きなモノを好きなだけ飲んでくれ。時間に遅れたワビだ」

響さんの言葉に雪乃ママの瞳が輝いた。

「お言葉に甘えて、思う存分飲ませて頂きます」

「少しは、手加減してくれよ?」

妖艶な笑みを浮かべた雪乃ママが

「一応、気を付けてみます」

VIPルームを出て行った。

響さんはそんな雪乃ママの背中を楽しそうな笑みを浮かべて見送っていた。

響さんと雪乃ママって付き合いが長いだけあって仲がいいんだろうな。


「雪乃は俺が世話になっている人の女だ」

「えっ?」


「さっきの話の続きだ」

……さっきの話?

……なんだっけ?

「店に入る前、変な想像を膨らませていただろ?」

……変な想像……。

あぁ!!

そう言えば……。

……ていうか……。

「雪乃ママ、彼氏さんがいるんですか!?」

「……」

「……」

……なんで響さん固まってるの?

「知らなかったのか?」

「えぇ、全然」

「……」

「……?」

「……俺、雪乃に殺されるんじゃねーか?」

響さんが大きな溜め息を吐いた。

殺される?

響さんが雪乃ママに?

……まさか、そんなはず……。

さすがに雪乃ママだってプライベートを暴露されたからって殺したりは……。

するの!?

「私、何も聞いてません!!」

「はっ?」

響さんが切れ長の漆黒の瞳を丸くしている。

「今、聞いた事はすぐに忘れます!!」

「……忘れる?」

「はい!!もう、忘れました!!」

「……ぶっ!!」

……えっ?

響さん!?

勢い良く吹き出した響さんに今度は私が瞳を丸くする番だった。

……なんで?

……響さんは大爆笑してんの?

私がこんなに慌てて……。

慌てて、かなりおかしな事言わなかった?

……。

……言ったわよね……。

恥ずかしい!!

私は熱くなる頬を両手で抑えた。

響さんの前だとなんで私はこんな風なんだろう……。

今日だけでも一体何度爆笑されたんだろう?

「悪いな、綾乃」

「……え?」

「俺の為にそんな特技まで披露して貰って……」

特技!?

そんな特技を私が持っている訳ないじゃない。

……でも……。

響さんが言う通り特技って事にすれば、この場を乗り切れるんじゃ……。

「えぇ、こんなところで役に立つだなんて思いませんでした」

引きつりそうになる顔を必死に笑顔で隠した。

「あぁ、助かった」

……良かった。

なんとか乗り切れたみたい。

これ以上私のバカさ加減を響さんに披露しなくて済む。

ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。

一時は笑いが収まっていた響さんが再び楽しそうに笑い出した。

……失敗だった。

余計に私の痛さ加減を暴露したようなものじゃない。

「もし……」

「……?」

「雪乃にバレたら素直に謝るよ」

「……そうですね。それがいいですよね」

楽しそうな響さん。

響さんの笑顔は私まで笑顔にしてくれる。

それから、響さんは閉店近くまでお店にいてくれた。

私がお酒を大好きな事を響さんは知っている。

もうバレているんだから今更、隠す必要はなかった。

そんな私に響さんは付き合って一緒に飲んでくれた。

私も自分でお酒には強い方だと思っていたけど……。

響さんは私以上に強い事が判明した。

何本ものボトルを2人で空けてかなりの量のお酒を飲んだにも関わらず、全く酔った様子を見せない響さん。

飲んでいない時と変わらない。

いつもは誰かと飲んでいても相手が先に潰れるか寝てしまう。

だから、いくら飲んでも潰れもせず、寝たりもしない人と飲める事が嬉しかった。

いい感じにほろ酔い気分になった時、私はあることを思い出した。

「響さん」

「うん?」

「ちょっと失礼な事を聞いてもいいですか?」

「なんだ?」

「響さんの息子さんって1人だけですか?」

「は?」

……しまった……。

やっぱりこんな質問なんてするべきじゃなかった……。

「いえ……何でもありま……」

「なんでそう思うんだ?」

『なんでもありません』と言おうとした私の言葉を遮った響さん。

本当に聞いてもいいのだろうか?

せっかくの楽しい時間が台無しになってしまうかも……。

……だけど……。

私の言葉は響さんの耳に届いてしまった。

どんなに今を取り繕っても過去を消すことは出来ない。

私は覚悟を決めて口を開いた。

「さっきお会いした方が響さんの事を“親父”と呼んでいらっしゃったので……」

「さっき?」

響さんの視線が私から宙に移った。

しばらくして、響さんが思い出したように口を開いた。

「さっきって食事の後の事か?」

「えぇ」

私が頷くと響さんの表情が変わった。

不思議そうな表情から穏やかで優しい表情に……。

「なぁ、綾、お前は俺の仕事を知ってるよな?」

「はい」

「あいつらは、ウチの組の人間だ」

……やっぱり……。

「俺達の世界は独特な世界でな。組の人間同士は家族みたいなモノなんだ」

「家族?」

「あぁ、組の長である俺が父親で組員は全員が息子だ」

「だから、あの人達は響さんの事を親父って呼ぶんですか?」

「そうだ。組員同士でも兄と弟の関係がある」

「そうなんですか?」

「あぁ、上下関係が厳しい分、絆も深い世界なんだ」

……家族……。

……絆……。

私には縁遠い言葉に聞こえた。

「ありがとうございます、勉強になりました」

「勉強?」

「えぇ、社会勉強です」

「役に立つかは分からないけどな」

そう言って響さんは笑みを浮かべ私の頭を優しく撫でた。

楽しい時間は過ぎるのが早い。

この日私は改めて実感した。

「また、連絡する」

会計を終えた響さんが言った。

「お待ちしています。今日はありがとうございました」

「礼を言うのは俺の方だ。楽しい時間をありがとう」

響さんの言葉に私の心は温かくなった気がした。

「響さん、ごちそうさまでした」

雪乃ママが席を立つ響さんを見つけて駆け寄ってきた。

「またお待ちしていますね」

雪乃ママと響さんが楽しそうに話す会話を私はぼんやりと見つめていた。

「綾乃ちゃん!!」

「はい」

「響さんのお見送りをお願いね」

「分かりました」

私は響さんと一緒にお店を出た。

店の前ではNo.1のアリサがお客様のお見送りをしていた。

私達に気付いたアリサは一瞬こちらに視線を向けたけど、すぐに自分のお客様に視線を戻した。

……あんまり顔を合わせたくないんだけど……。

「じゃあな、綾乃」

「ありがとうございました、響さん」

「時間がある時はいつでも連絡をしてくれ」

「はい、分かりました」

少し離れた所にはアリサとお客様がいるのに……。

響さんは私の頭に手を伸ばすと優しく撫でた。

たったそれだけの事なのに……。

私の胸は高鳴り、顔が熱くなった。

そんな私を見て響さんは優しい笑みを浮かべた。

響さんとアリサのお客様が同じエレベーターに乗りドアが閉まった。

お見送り終了……。

出来ればアリサと二人きりにはなりたくない。

「お疲れ様です」

とりあえず、私はアリサに声を掛け店の中に戻ろうとした。

「羨ましい」

背中から聞こえて来た言葉。

間違いなくアリサの声。

「……はい?」

私はドアに掛けようとしていた手を止め振り返った。

そこには、いつもお客様に見せる可愛らしい笑顔ではなく冷めた表情のアリサがいた。

……嫌な予感がする……。

一瞬シカトしてお店の中に戻ろうかと思った。

……だけど……。

私の性格がそれを許さなかった。

「響さんを自分の客に出来るなんて凄いわ」

「そうですか?たまたま運が良かっただけだと思いますけど?」

「そお?綾乃ちゃんの事雪乃ママもお気に入りみたいだし……」

「……なにが言いたいんですか?」

「裏でどうやって取り入っているのか、ぜひ教えて欲しいわ」

アリサはにっこりと笑みを浮かべた。

だけど、その瞳には女特有の嫉妬心が溢れている。

「……」

……やっぱりね……。

何となくこの展開は予想していたし……。

……っていうか、アリサは私にケンカを売っているのかしら?

売られたケンカは買う主義だけど……。

……。

だめ、だめ!!

今はお仕事中だった!!

こんな女の相手をしている場合じゃない。

早く戻らないと……。

「アリサさん」

「なに?」

「私、仕事に戻りたいんですけど、言いたい事はそれだけですか?」

私は笑顔と穏やかな口調を意識した。

……それが失敗だった……。

私の態度がアリサの怒りに触れてしまったらしい……。

それまでとは比べものにならないほど険しい表情になったアリサ。

「……残念だわ」

「はい?」

「私、響さんの事を素敵な方だと思っていたけどそうでもないみたいね」

「……はっ?」

ちょっと待って。

なんで、響さんがそんな風に言われるの!?

「こんな、頭の悪そうな人を指名するなんて響さんは人を見る目がないわ」

「……!?」

「たくさんの人の上に立つ人なのに残念だわ」

……頭の悪そうな人……。

……ってもしかして私の事!?

どんなに辺りを見渡してもここにいるのは私とアリサだけ……。

……いや、確かに私は頭が悪い。

今通っている高校だってそんなにレベルの高い学校じゃないけど、入試の時には何日も徹夜して必死で勉強した。

クラスでの成績だって下から数えた方が早いし……。

……こんな女に言われる筋合いなんてないけど……まぁ、事実だから仕方がない……。

だから、そこは100歩譲って我慢しよう。

……でも!!

なんで響さんの事まで悪く言われないといけないの!?

その疑問は私を怒りで震えさせた。

……殴りたい……。

身体中を駆け巡る怒りとイライラ感。

そのイライラ感は大きく膨らみ行き場を探している。

原因を作った本人にその矛先を向けるのは間違った事じゃない。

私の中ではそれが正論なんだ。

今にも動き出しそうな手を私は必死で止めていた。

先に手を出しちゃダメ。

今まで生きて来て学んだこと。

理由がなんであれ先に手を出した方が負けなんだ。

こいつにだけは負けたくない。

私はアリサにバレないように小さく息を吐いた。

「……アリサさん」

「なに?」

「私も残念です」

「えっ?」

アリサは私の言葉が予想外だったらしく眉間に深い皺を寄せた。

それを確認した私はアリサに向かってニッコリと微笑んだ。

「私もアリサさんの事を勘違いしていたみたいです。可愛らしくて、この仕事に誇りを持っている素晴らしい女性だと思っていたんですけど……」

「……?」

「人を見る目がない、私欲の塊の人だったんですね」

「……!!」

アリサは可愛らしい顔を悔しそうに歪めた。

もう一息だ。

「No.1だからって全ての人が素敵な女性とは限らないんですね。勉強になりました……」

言い終わらないうちに乾いた音が響き、左頬に痛みを感じた。

……よし、作戦通り!!

先に手を出せないなら、相手を挑発して、手を出させればいいだけの事。

アリサの事なんて一度も“素敵な女性”だなんて思った事はない。

だけど、挑発する為にはお世辞も仕方がない。

一度、持ち上げ一気に落として詰る。

そうすれば、相手はより一層不快感を覚え冷静さを失う。

そうなれば私の思い通りに事は進む。

先に手を出したのはアリサだ。

次の瞬間、私の身体は動いていた。

私の蹴りをお腹で受け止めたアリサがその場にうずくまった。

だけど、その位じゃ私の怒りは収まらない。

それは、アリサも同じだった。

年下でヘルプ専門の私に馬鹿にされたんじゃNo.1のプライドが許さないらしい。

大抵の女は一撃で逃げの態勢に入る。

でも、アリサは違った。

一瞬、驚いた表情を浮かべたもののすぐに立ち上がったアリサ。

私が蹴りを入れたように、私にも蹴りを返してきた。

……なんか、楽しい……。

殴り合っているんだから、もちろん痛みはある。

だけど、そんな痛みも感じないくらい私の気分は高揚していた。



R.B~Red Butterfly~ 【完】

R.B~Red Butterfly~ Ⅱ に続きます。この後の番外編もお楽しみください。

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