エピソード8
私は瞳を閉じて響さんの話を聞いていた。
頭の中に浮かんだ病室。
響さんと奥さんとの会話がリアルに映しだされた。
あたかも私がそこに居たかのように……。
『私をあなたの籍から抜いて下さい』
病室のベッドの上に正座をして頭を下げる女性。
『な……何を言っているんだ?』
驚いた表情の響さん。
『響さん、私が亡くなる前に私と離婚して、あなたはいい女性と幸せになって下さい』
『あ?冗談が過ぎるぞ』
『冗談なんかじゃありません。私は本気です』
『どうした?なにがあったんだ?』
響さんの引きつった表情とは対照的ににっこりと微笑む女性。
『私がこの世からいなくなったら私のことは忘れて下さい』
『……!?』
『あなたにはいつもあなたらしくいて欲しいんです』
『……俺らしく?』
『あなたはいつも堂々としていてその場にいるだけで存在感がある人。女の人はもちろん男の人にも惚れられるような人であり続けてください』
『……』
『私はあなたのそんなところに惚れたんです』
『……お前は……』
『……?』
『寂しくないのか?』
『寂しい?』
『俺の心が他の女に向いても寂しくないのか?』
『私の人生はとても幸せでした。あなたと出逢う事が出来てあなたの愛を独り占め出来た。あなたが私の望みを全て叶えてくれた』
『……』
『最後に私が望むのはあなたが歳をとっておじいちゃんになって人生が終わったら天国でその優しい笑顔を少しだけ見せてください』
『……』
『その時に今よりももっとかっこ良くてモテるおじいちゃんになっていてください』
『お前の言いたい事は分かった。……だが、それは離婚しなくても叶うんじゃないか?』
『最後の親孝行なんです』
『親孝行?』
『はい。本当ならば親よりも長く生きないといけないのにそれが出来ないので、せめて同じお墓で眠りたいんです』
『……そうか』
響さんは奥さんの頼み事を受け入れる事しか出来なかったらしい。
当時の響さんには残酷な奥さんから頼み事。
……だけど、それは奥さんが響さんの事を想って出した結論だったと思う。
まだ若い響さんの残りの人生を考えると奥さんはそう言って突き放すしかなかったのかもしれない。
最愛の人に自分以外の人と幸せになって欲しいという事は、私が想像出来ないくらいに辛い事だと思う。
目の前に死が待っていて、しかも最愛の人を手放さないといけない……。
でも、それを決意した奥さん。
顔も知らないその人を同じ女性として私は尊敬する。
「……綾?」
「……?」
響さんの低くて優しい声に我に返った私。
ゆっくりと顔を上げると穏やかな瞳が私を見つめていた。
さっきまで悲しく辛そうに揺れていた瞳はもうどこにも無い。
優しい笑みを浮かべた響さんの長い指が伸びてくる。
頬に温もりを感じるのと響さんの声が耳に届いたのは同時だった。
「なんでお前が泣くんだ?」
「……えっ?」
響さんに言われて初めて自分の瞳から涙が溢れている事に気が付いた。
……あぁ、私、泣いてるんだ。
恋愛なんてしたことがないのに……。
人を好きな気持ちなんて分からないのに……。
響さんと奥さんの気持ちが少しだけ分かるような気がした。
一緒にいたいのに……。
離れたくないのに……。
お互いの事を想って別れる事を選んだ2人。
そう考えるとなぜか無性に胸が苦しくなった。
苦しくて……苦しくて……。
いつの間にかその苦しさは涙となって瞳から零れ落ちていた。
響さんの指が溢れる涙を拭ってくれる。
「変な話をして悪かったな」
「いいえ、私なんかに話して頂いてありがとうございます」
「綾、俺はお前だから話したんだ。聞いてくれてありがとう」
響さんがニッコリと微笑んだ。
整った顔の響さんの微笑みはとても綺麗で格好良かった。
そんな響さんの笑顔を見て私の胸は高鳴った。
涙を拭ってくれた左手の薬指で輝きを放つ指輪が視界に入った。
「俺の結婚指輪は離婚届と一緒にあいつに渡した」
「……そうですか。だから今は奥様のお墓にあるんですね」
「あぁ。ちなみにこれは息子が俺の誕生日にプレゼントしてくれたモノだ」
「息子さんが!?」
……響さんの息子って……。
確か“神宮 蓮”って名前だったような……。
照れたようにはにかんだ響さん。
その瞳は優しい父親の瞳だった。
自分の父親の顔も声もいまいち思い出せないけど……。
……あの人も私をこんな瞳で見つめてくれた事があったのかな……。
今まで親なんて必要ないと思っていた。
今でもその考えは変わらないけど……。
少しだけ寂しさを感じた。
その思いを振り切るように私は立ち上がった。
親の事は考えない。
一度考え出すとどんどん深みに嵌ってしまう。
溢れ出すたくさんの疑問。
そのどれもが私の心を重くする。
しかも、どんなに考えても答えなんて出ない事も分かっている。
だから、考えたくない。
「行きましょうか」
私は響さんに微笑み掛けた。
「綾」
「はい?」
「また、誘ってもいいか?」
「もちろん」
私の言葉に響さんが嬉しそうな笑みを浮かべた。
◆◆◆◆◆
このお店に来た時、笑顔で出迎えてくれた和服姿の女の人に笑顔で見送られてお店を出た。
門の外には黒い高級車が停まっている。
そこには、黒いスーツを着て厳つい雰囲気を纏っている3人の男の人がこっちに向かって頭を下げていた。
……増えてる……。
ここに来た時は運転手さん1人だったのに、なぜか2人も増えている。
その人達は響さんに頭を下げているって分かるんだけど……。
響さんの隣にいる私は居心地が悪かった。
だから、さり気なく響さんの背中の後ろに隠れてみた。
「綾?どうした?」
「……いえ……ちょっと……」
『あの人達が頭を下げていて居心地が悪いのでちょっと隠れてみました』
……だなんて言えないし……。
私は響さんの脇からちらっと車の方に視線を向けた。
もう頭は下げていないけど、すっごい見てるし……。
黒いスーツに厳つい顔と雰囲気。
明らかにそちらの世界の人達。
1人ならまだしも3人もいるとかなり怖い。
私とスーツ姿の人達を交互に見た響さんが何かに気付いたように頷いた。
「大丈夫だ」
そう言った響さんが私の手を掴んだ。
「……?」
……なにが?
一体、何が大丈夫なの?
響さんの言葉の意味が分からない私はただ首をかしげるしかなかった。
そんな私を他所にそのまま手を引いて歩き出した響さん。
響さんに手を引かれたまま近付いてきた私を見て男の人達は一瞬驚いたような表情を浮かべた。
……だけど……。
その人達よりも私の方が驚いた表情をしていたに違い無かった。
響さんが車の傍で足を止めると1人の男の人が小さな声で言葉を発した。
『親父、ちょっと話が……』
……親父!?
この人響さんの息子なの?
……いや……違う!!
だって響さんの子供はまだ小学生のはず……。
「ちょっと待て」
その男の人の言葉を制した響さん。
「綾、先に車に乗っていろ」
響さんが後部座席のドアを開けた。
言われるがまま私はフカフカのシートに腰を下ろした。
静かにドアが閉められ外の音は全て遮断された。
……何かあったのかな?
声は聞こえないけど真剣な表情の男の人達。
そんな男の人達の話を聞いている様子の響さん。
響さんが話を聞きながらポケットからタバコを取り出すとそれが当たり前のように火が差し出される。
これは私が知らない響さん。
私が知っている響さんはいつも優しくて穏やかで『この人、本当に組長なの!?』って思うような人。
だけど、今、目の前にいるのは全身から威圧感を醸し出していて鋭くて冷たい……尖った氷みたいな人。
一体どっちが本当の響さんなんだろう……。
そんな疑問が浮かんだ。
疑問と同時に浮かんだ興味。
自分では全く気付いていなかったけど、この日から私は響さんに惹かれていたんだと思う。
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