エピソード7
翌日、お昼過ぎに目を覚ました私はかなり焦っていた。
……寝過ごした!!
今日は土曜日でも、日曜日でも、祝日でもない。
だから当然、学校に行かないといけないのに……。
今は13時。
……なのに、私は学校の教室ではなくマンションの部屋の自分のベッドにいる。
……ヤバイ……。
調子に乗って、朝まで遊ぶんじゃなかった。
大きな後悔に襲われながらも、タバコを銜えた私。
再びサイドテーブルの上にある時計に視線を移した。
……何度、見ても……
どんなに時計を凝視してみても……。
……13時。
時間が戻る事はない。
「……仕方ない。今日は休もう……」
瑞貴や凛だって、私と朝まで繁華街にいたんだから学校には行ってないはず。
私は、学校をサボることにした。
サボるんだから、もう一眠りしよう。
火の点いたタバコを灰皿に押し付け、私は布団に潜り込んだ。
「……幸せ」
布団に入って眠りに就く前の幸せな一時。
瞳を閉じた時、私はある事を思い出した。
「寝ている場合じゃない!!」
身体の上にある布団を跳ね飛ばし起き上がった私はスマホを掴み取った。
雪乃ママに連絡しないと!!
着信履歴から雪乃ママの番号を呼び出した私は発信ボタンを押した。
『……もしもし?』
電話口から聞こえてきた上品な雪乃ママの声。
「おはようございます、雪乃ママ」
『おはよう、綾乃ちゃん。なにかあった?』
さすが、雪乃ママ。
鋭い。
「実は、ご相談したい事があって……」
『あら、どうしたの?』
「実は……昨日、響さんに会ってしまって……」
『響さんに?どこで?』
「……それが……学校の近くで……」
『そう。響さんお元気だった?』
……。
雪乃ママ……。
気にするところ……間違ってるし……。
「あの……元気は元気だったんですけど……バレてしまって……」
『バレた?なにが?』
「響さんと会った時、学校の制服を着ていたんです」
『……制服?』
「……はい」
『……』
「……」
……やっぱり、マズいよね……。
電話の向こう側で雪乃ママが驚いている姿が想像できる。
だけど、次に聞いた雪乃ママの声は想像と違うものだった。
『大丈夫よ!!』
「……へっ!?」
『バレたのは、響さんにでしょ?』
「……はい」
『それなら、全く心配いらないわ』
「そうなんですか?」
『えぇ、響さんはそんな事を人に話すような人じゃないし、それに……』
「それに?」
『私が歳を誤魔化して夜のお仕事をしていた事も響さんは知っているもの』
「そうですか」
雪乃ママの言葉で気持ちが軽くなったような気がした。
響さんは大丈夫なんだ。
雪乃ママが歳を誤魔化して働いていた事も知っていたらしいし……。
……。
……ちょっと待って……。
あまりにも、雪乃ママが自然に言うからスルーしそうになったけど……。
「雪乃ママも歳を誤魔化していたんですか!?」
『あら、話した事なかったかしら?』
「初耳です!!」
『そうだったかしら?』
どこまでも暢気な口調の雪乃ママ。
この人、仕事中とプライベートではまるで別人みたい……。
『綾乃ちゃん、今度二人で飲みに行きましょうか?』
「……えっ?」
『私、綾乃ちゃんとゆっくり話してみたいわ』
雪乃ママの提案を私は素直に嬉しいと思った。
「はい!!」
雪乃ママが受話器の向こうで嬉しそうに笑ったのが分かった。
『それより今、学校から?』
「いいえ。家です」
『今日はお休みなの?』
「……ちょっと寝過ごしちゃって……」
雪乃ママが楽しそうに声を上げて笑った。
『じゃあ、今日もお店に出る?』
茶目っ気たっぷりの雪乃ママ。
そんな雪乃ママに私まで笑顔になる。
「そうですね……あっ!!」
『どうしたの?』
「昨日、次、出勤する時に連絡するように響さんに言われたんです」
『それって……同伴してくれるって事?』
「はい」
『すごいじゃない、綾乃ちゃん!!』
すごいの!?
「……はぁ……」
『せっかくの響さんからのお誘いなんだから美味しいものをお腹一杯食べさせてもらいなさい』
「はい」
『それから、同伴の時は22時までにお店に入ればいいから』
「分かりました」
『じゃあ、お店で待ってるわね』
「はい、お疲れ様です」
私はスマホを閉じた。
……次は……。
響さんに連絡しないと……。
財布に入れていた名刺を取り出す。
響さんに貰った名刺。
裏に書いてあるスマホの番号。
なんか緊張する。
まだ、お昼すぎだし……。
もう少し時間が経ってからでいいか。
連絡する前にシャワーでも浴びて頭をスッキリさせよう。
響さんの番号を登録して私はバスルームに向かった。
……なんでこんなに緊張するんだろう……。
テーブルの上にはスマホと響さんに貰った名刺。
その前で気合いをいれて正座してからもうすぐ一時間。
無情にも時計の針が時間を刻んでいく。
もうすぐ15時……。
いい加減に連絡しなきゃ……。
恐る恐る掴んだスマホ。
液晶には響さんのスマホ番号が表示されている。
……だけど……。
発信ボタンが押せない。
元々電話で話すのは得意じゃない。
顔を合わせて話すのだって苦手なのに、電話だと尚更だ。
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返し準備は完璧。
あとは、発信ボタンを押すだけ……。
どうしよう。
出来れば掛けたくない……。
……でも……。
これもお仕事だから。
自分に言い聞かせて発信ボタンを押した。
スマホを耳に当てると聞こえてくる呼び出し音。
……留守電にならないかな……。
そんな、自己中的な願いが伝わるはずもなく……。
『……はい』
聞こえてきたのは優しくて穏やかな声。
その声のお陰でさっきまで感じていた緊張感が少しだけ和らいだ気がした。
「こんにちは、響さん」
『こんにちは、今日は出勤するのか?』
「はい」
『分かった。19時にマンションの前まで迎えに行く』
「お願いします」
『あぁ、また後でな』
「はい、失礼します」
スマホを閉じると同時に身体の力が抜けた。
……疲れた……。
ただ電話をしただけなのに、なんでこんなに疲れているんだろう?
……だけど、何はともあれ無事に約束は出来た。
私は小さな達成感に包まれた。
この約束が私に転機をもたらすなんてこの時の私には全く予想出来なかった。
◆◆◆◆◆
響さんとの約束の時間の10分前。
準備を整え階下に降りると、マンションの前には黒の高級車。
この前の車とは違うけど、あの車には響さんが乗っている……。
そう確信して車に近付くと窓がゆっくりと開いた。
「昨日はゆっくり寝たか?」
「はい、お陰様で」
「そうか、乗れ」
響さんが反対側の後部座席のドアを顎で指した。
響さんの言葉にすかさず運転手さんが後部座席のドアを開けてくれる。
この前とは違う運転手さん。
黒いスーツ姿と厳つい顔と雰囲気は同じだけど。
……一体何人の運転手さんがいるんだろう?
「ありがとうございます」
私が声を掛けると頭を下げて答えてくれる。
座席に座ると閉められるドア。
運転手さんが運転席に座るとゆっくりと走り出す車。
「今日はちゃんと学校に行ったのか?」
流れるように移り変わる景色を見ていると響さんに尋ねられた。
「……えっと……今日は……」
「……?」
「……ちょっと……寝過ごしてしまって……」
「行ってないのか?」
「……はい」
「一体、何時間寝てたんだ?」
呆れたような笑みを浮かべた響さん。
「……別にずっと寝ていた訳じゃ……」
そこまで言って私は慌てて口を手で塞いだ。
……しまった!!
余計な事を言ってしまった。
朝まで遊んでいて寝過ごしただなんて言える筈がない。
視線を合わせる事も出来ず瞳を泳がせる私。
私の挙動不審な行動を怪訝そうに見つめていた響さん。
「ずっと寝ていた訳じゃないのか?」
「……えぇ、まぁ……」
「そうか」
響さんはそれ以上、何も聞こうとはしなかった。
ポケットからタバコを取り出し火を点けた響さん。
少しだけ窓を開け、タバコの煙がゆっくりと吐き出される。
「綾」
響さんの低い声で名前を呼ばれると胸が苦しくなるのは何でだろう?
『綾乃』って呼ばれるのは全然平気なのに……。
「はい?」
「毎日、楽しいか?」
「……えっ?」
響さんの質問にすぐには答えが出なかった。
私は楽しいのだろうか?
凛や瑞貴と一緒にいる時は楽しいのかもしれない。
それに、親と一緒に住んでいる時に比べると自分の居場所もちゃんとあるし……。
……っていうか、“楽しい”ってなんだろう?
「……まぁ、それなりに……」
私はそう答えることしか出来なかった。
「そうか」
「どうして、そんな事を聞くんですか?」
「お前くらいの歳が人生の中で一番楽しい時間だったなぁと思ってな」
そう言う響さんの視線は宙に向けられていたが、その瞳には響さんの過去の想い出が映っているのが分かった。
「……そうですか」
私は窓の隙間から流れ出ていくタバコの煙をボンヤリと見つめていた。
私は、心から楽しいと思ったことが無いかもしれない……。
そんな事を思いながら……。
車が停まったのは、落ち着いた雰囲気の和食料理の看板のお店の前。
運転手さんにドアを開けて貰い、車を降りた私は響さんに促されて目の前の門を潜った。
老舗の佇まいの門を潜って私は息を飲んだ。
そこに広がるのはテレビに出てくるような日本庭園。
枯山水に獅子脅し、池には錦鯉、綺麗に手入れされた草木。
……ここは私が来る場所じゃない……。
そう、思った私はくるりと半回転した。
「どうした?」
私の目の前には不思議そうな表情の響さんが立っている。
「ここはちょっと……」
「うん?和食は嫌いか?」
「……」
……響さん。
そういう問題じゃなくて……。
どう見ても私は場違いでしょ?
……確かに響さんにはピッタリなお店だけど。
むしろ、響さんはこの日本庭園がものすごく似合っていて絵になっているけど。
私がここにいると違和感がありすぎるでしょ!?
「……いえ……和食は嫌いじゃないんですけど……」
「……?」
「……こんなに、高級なお店じゃなくても……」
「どんな、店に行きたいんだ?」
「……えっと……ファミレスとか……」
「ファミレス?」
響さんが楽しそうに吹き出した。
あっ!!響さんはファミレスとか行かない!?
……また、爆笑してるし……。
響さんの爆笑癖にはすっかり慣れた私は、響さんの笑いが治まるのを待った。
……果たして、響さんはファミレスに行った事があるのだろうか?
ぜひ、後で聞いてみないと……。
一頻り笑った響さん。
「分かった。ファミレスは今度連れて行くから今日はこの店で我慢してくれるか?」
「……でも、私は場違いなんじゃ……」
「場違い?そんな事はない。俺はここぐらいの店じゃないと綾には似合わないと思ったからここを選んだんだ」
優しい表情の響さんの言葉を素直に嬉しいと思った。
「……ありがとうございます」
「入るか?」
「はい」
私が頷くと背中に当てられた大きな手。
さりげなくエスコートしてくれる響さん。
この時、私は思い出した。
凛が言っていた響さんがすごくモテるという話。
その理由がなんとなく分かる気がする。
奥さんがいても響さんがモテる理由。
外見はもちろん、この優しさ。
響さんみたいな人から愛される奥さんは幸せ者なんだろうな……。
私は、顔も知らないその女性を少しだけ羨ましいと思った。
店内に入ると着物姿の女の人が嬉しそうに微笑んだ。
『いらっしゃいませ、神宮様。いつもご利用ありがとうございます』
……響さん、ここの常連さんなんだ。
初めて来た私にもこのお店が高級だって事が分かる。
そんなお店の常連さんだなんて、響さんは一体どれだけお金持ちなんだろう?
着物姿の女の人と言葉を交わす響さんの背中を眺めていると、私の存在に気付いたらしい女の人が頭を下げた。
『いらっしゃいませ』
私は小さく頭を下げた。
『お部屋にご案内します』
そう言って私と響さんの一歩前を歩き出した。
案内されたのは、これまたテレビで観る様な和風の個室だった。
広い和室の中央には大きなテーブルと座椅子。
部屋の隅に飾られた豪華な生花が目を引く。
『どうぞ』
女の人に促されてすでに座っている響さんの向かいの席に腰を下ろした。
私が座ると目の前に出される淹れたてのお茶。
「ありがとうございます」
私の言葉に女の人がニッコリと微笑んだ。
『すぐにお料理をお運びしてもよろしいですか?』
「あぁ」
『分かりました』
部屋の中に響さんと私の二人だけになった。
私はキョロキョロと部屋の中を見渡した。
この部屋に在るモノ全てが高そうに思えるのは私だけかしら?
「こんな店に来るのは初めてか?」
私の行動が初心者丸出しだったらしく、響さんは笑いを堪えている。
「はい」
「同伴の時にはこんな店が定番だろ?」
「そうなんですか?」
「……もしかして、同伴も初めてなのか?」
響さんが瞳を丸くした。
「えぇ、初めてです」
「誘われたりしないのか?」
「私、バイトなんでお店では殆どがヘルプなんです。たまに、誘われても歳がバレると困るのでお店以外では会わないようにしているので……」
「なるほどな。だったら俺は運が良かったな」
「えっ?」
「昨日、制服姿の綾と会えたから、今日飯に付き合ってくれたんだろ?」
響さんがニッコリと微笑んだ。
「……はぁ」
確かにそう言われたらそうかもしれない。
……てか、響さんってこんな事言うキャラだった!?
大人だからこんな事をサラっと言えるの?
なんか、顔が熱い。
この部屋が暑いのかしら?
……なんか冷たい飲み物が欲しい……。
『失礼します』
絶妙なタイミングで運ばれてきたビール。
さっきの女の人とは違う仲居さん風の女の人。
グラスと瓶ビールとお通しの小鉢がテーブルの上に並べられる。
……飲みたい……。
その思いと私は必死に戦っていた。
仲居さん風の人が部屋を出て行くと、響さんがビールの瓶を私に差し出した。
「飲むだろ?」
響さんの優しい笑顔に思わず頷きそうになってしまう。
飲みたいけど、ここは頑張って断らないと!!
「……いえ……お酒は……」
なんとか頑張って言えた。
「飲まないのか?」
「……はい」
響さんはビールの瓶をテーブルに置いた。
ビールの誘惑に勝った私は自分を褒めたい気持ちでいっぱいになった。
今日は家に帰ったらビールを好きなだけ飲んじゃおう。
私は心の中で誓った。
「綾」
「はい」
「この食事はお前にとって仕事か?それともプライベートか?」
……えっ!?
なんで、響さんはそんな事を聞くんだろう?
同伴は仕事の一環。
だけど、それは正直に答えると失礼になってしまう。
“同伴”はホステスにとっては仕事の一環でも、指名をしてくれるお客様にとってはその女の子とデートをしている様な感覚だって前に雪乃ママに教えて貰った事がある。
……だから、ここは……。
「プライベートです」
この答えが正解のはず……。
「だよな」
響さんが満足そうに笑みを浮かべた。
……良かった……。
私は響さんの反応に胸を撫で下ろした。
だけど、それは束の間の事だった。
再びビールの瓶を手に持った響さん。
「プライベートなら飲めるよな?」
……しまった……。
その時、初めて響さんの罠にハマった事に気が付いた私。
気が付くのが遅かった。
もう、断る事は出来ない。
私は諦めて目の前のグラスを手に持った。
そのグラスに並々と注がれたビール。
「我慢は良くないぞ」
「バレてました?」
「ビールが運ばれて来た時、一瞬だけ瞳が輝いていた」
……響さんには全てお見通しだったみたいだ。
「あっ!!響さん、お注ぎします!!」
私は手に持ったグラスをテーブルに置こうとした。
「綾」
響さんの声に私は動きを止め、視線を向けた。
「俺と一緒にいる時にお前は俺に気を使う必要はない」
「……でも……」
「今はプライベート中だろ?」
茶目っ気たっぷりに言う響さん。
この人は分かっている。
こう言えば私の返事が一つしか無いことを……。
「はい」
「だったら、俺といる時は遠慮せずに好きなように過ごせばいい」
「好きなように?」
「好きなモノを好きなだけ食べて、飲みたいモノを好きなだけ飲めばいい」
「……」
「もし、ここで飲み過ぎたら店に行って俺の横に座って寝てればいい。雪乃にバレる前に起こしてやる」
いたずらっ子みたいな瞳の響さんに私は笑みを零した。
響さんがこんな事を言う人だなんて知らなかった。
「それに……」
「……?」
「酒には強いんだろ?」
「ど……どうして知っているんですか!?」
驚いた私は手に持っていたグラスを危うく落としそうになった。
「早く飲まないと不味くなるぞ?」
「えっ?……あっ!!頂きます!!」
私はビールを喉に流し込んだ。
しかも、凛や瑞貴と飲む時の癖で一気にグラスを開けてしまった……。
美味しい~!!
幸せ!!
喉が乾いた時のビールってなんでこんなに美味しいのかしら?
「気持ちのいい飲みっぷりだな」
その言葉で我に返った私は、一瞬で全身から血の気が引くくらいに自分の行動に驚き、そして後悔した。
……すっかり響さんの存在を忘れてた……。
固まる私を他所に、空になったグラスに再びビールを注いでくれる響さん。
「……」
……素の私を見せたんだから今更、猫を被っても仕方がない。
それから、私は響さんに勧められたお酒を断る事が無くなった……。
今まで食べた事もないような美味しいお料理に、お酒が入った私は幸せな気分だった。
私よりも飲んでいる響さん。
だけど響さんは全く顔にも話し方も変わらなかった。
どちらかと言えば私はお酒に強い方。
そんな私よりも響さんの方が強い事が判明した。
絶やさない笑顔と途切れる事のない楽しい会話。
そして、常に私へのさりげなく優しい気配り。
響さんと過ごす時間は私にとって心地良く安心出来る楽しい時間だった。
その心地良い空間に鳴り響いた音。
その音は、着信を知らせる無機質な電子音だった。
音の発信元は、響さんのスーツの内ポケットだった。
スマホを取り出し液晶画面を見た響さんは「悪いな」と私に声を掛けた。
別に何とも思っていない私は「いいえ」と答えた。
響さんが通話ボタンを押し、スマホを耳に当てた。
微かに漏れてきた声が男の人だったので私はホッとした。
もし、電話の相手が女の人だったら……。
それが、響さんの奥さんだったら……。
今まで居心地の良かったこの場所が、変わってしまう。
楽しかった時間が終わってしまう。
お店に入らないといけない時間まであと、1時間ちょっと……。
もう少しだけこの時間を楽しんでいたい。
今日だけでいいから……。
私はそう思っていた。
「……あぁ……」
『……』
響さんは右手でスマホを持ち、左手はテーブルの上の箱からタバコをとり出している。
電話をしている響さんを見ているのも悪いと思い、私もバッグの中からタバコを取り出し火を点けた。
「……分かった、通せ」
響さんの言葉に思わず私は視線を向けた。
『通せ』って言った?
それって、いつの話?
……まさか……。
今からここに誰か来たりとかする!?
……いや……そんな事ないわよね!?
会話を終わらせた響さんがボタンを押してスマホをテーブルの上に置いた。
「綾」
「はい」
「お前、“高藤”っていう男を知っているか?」
「……?いいえ」
「店で会ったことはないか?」
お店で?
私は記憶を辿った。
だけど、そんな名前の人は出てこなかった。
「いいえ、ありません」
「そうか」
響さんは何かを考えているようだった。
……?
なんだろう?
「綾。ちょっとこっちに来い」
響さんが自分の隣の席を顎で指した。
「……?」
私は横に置いていたバッグを手に取り響さんの言う通りに席を移動した。
響さんの隣に腰を下ろした私の鼻に香水の香りが掠めた。
この香りなんだったっけ?
どこかで嗅いだことのある香り。
……っていうか、響さん香水つけていたんだ。
今まで気付かなかった。
「今から“高藤”という男がここに来る」
「えっ?」
響さんの声で私は現実に引き戻された。
「その男はお前が働いている店にもたまに行っているはずだ」
「……そうなんですか?」
「あぁ。そいつがここに来て話し掛けられる事があっても正直に答える必要はない」
「……?」
「適当に笑って聞き流せ」
……。
響さんはどうしてこんな事を言うんだろう?
私には全く分からなかった。
高藤って言う人がこの部屋に入ってくるまでは……。
わざわざ、こんな席に来るくらいだから、響さんの親しい知り合いだと思っていた。
高藤 要 (たかとう かなめ)
この時、人に興味を持たない私はこの人の事を全く知らなかった。
響さんの事さえ知らなかったんだから無理もないけど……。
この人も響さん程ではないけど、裏の世界では有名な人らしい……。
その事を私が知るのはもう少し先のことだった。
『失礼します』
部屋と廊下を仕切る襖の向こう側から聞こえてきた男の声。
まだ、若そうな声だけど、とても落ち着いた感じを受けた。
「入れ」
響さんが声を掛けた。
いつもと同じ低い声。
だけど、優しい口調ではなかった。
冷たさを感じる口調。
襖の方に向けていた視界の端に映った響さんの顔。
その瞳を見て私は驚いた。
いつも私に向けられる漆黒の瞳じゃない……。
鋭さと威圧感を含んだ瞳。
その瞳を見た私は自然と背筋が伸びた。
私はこの時気付いたのかもしれない。
この空間がこれから緊迫した雰囲気に包まれる事を……。
響さんのこんな眼をみると、思い知らされる。
いつもは、優しくて、穏やかで紳士的な響さん。
だけど、この人は本当に裏の世界の人。
それは紛れもない事実って事に……。
私とは生きる世界が違う人なんだ。
静かに開いた襖。
そこにいたのは20代前半くらいのスーツ姿の男の人。
……この人も響さんと同じ世界の人だ。
この世界の人独特の雰囲気をこの人も持っている。
『ご無沙汰しています、神宮組長』
部屋の入り口で高藤は響さんに向かって頭を下げた。
「あぁ、久しぶりだな。要」
「はい」
「座れ」
響さんに促されて高藤は部屋の入り口に近い席に腰を下ろした。
その時、再び襖が開きグラスとビールが運ばれてきた。
高藤の前に置かれたグラス。
そして、栓を空けたばかりのビールの瓶に響さんが手を伸ばした。
「お楽しみのところ、突然すみません。たまたまこの店に来たら組長の車を見たのでご挨拶をと思いまして……」
高藤が微かに笑みを浮かべた。
「わざわざ、悪かったな。飲んでいけ」
空のグラスに注がれるビール。
そんな二人のやり取りを見ていて私は違和感を感じた。
言葉だけ聞いていれば知り合い同士の会話。
だけど、何かが違う……。
私がその理由に気が付くのに時間は掛からなかった。
それは二人の眼だった。
会話を交わしながら、笑みも浮かべているけど……。
二人とも眼が笑ってない……。
そう気付いた私は、響さんと高藤の関係をなんとなく理解出来たような気がした。
もし、私が想像した関係だったらさっき響さんが私に言った言葉の意味もなんとなく分かる。
……って事は、響さんはこの人と私をあまり関わらせたくないんだろう。
そう思った私は響さんに言われた通りにすることにした。
響さんの隣で、高藤と視線を合わせる事もなくひたすら存在を消そうとしていた。
それでも、二人の会話は耳に入ってくる。
「親父も神宮組長とゆっくり話したいって言っていましたよ」
「そうか。今度、時間があれば食事に行こうと伝えてくれ」
「分かりました」
「要、親父さんの跡目を継ぐのも、もうすぐじゃないのか?」
「いえ、自分はまだまだ勉強中なので」
「そうか?お前の噂は俺の耳にも届いているぞ?」
「それが、いい噂なら嬉しいんですが……」
高藤と会話をしながらも、響さんは私への気配りを忘れない。
グラスのビールが減ると注ぎ足してくれるし、たまに私に優しい視線を向けてくれる。
二人の会話には入れないけど、別に居心地は悪くはなかった。
初対面の人と話す事は苦手だし、この高藤という男に全く興味のない私は会話に参加したいとは全く思わなかった。
それに響さんにも言われているし……。
むしろ、話し掛けられない事を願ってしまう。
……だけど……。
そんなに甘くはなかった。
この高藤って人もいくら響さんとは仲が良くは無いって言っても、響さんをたててわざわざ挨拶にやってくるくらいなんだから、響さんと一緒にいる私を完全にシカトする事は出来なかったのかもしれない。
二人の会話が偶然途切れた時に、私と響さんの視線が合った。
高藤と話している時は鋭く威圧的な眼の響さんも私の方を見る時には優しく穏やかな瞳だった。
そんな様子を見ていた高藤が口を開いた。
「綺麗な人ですね。組長の彼女ですか?」
……。
彼女……。
誰の事を言っているんだろう?
視線を上げると高藤は私を見ていた。
どうやら、この話は私の話しみたいだ。
……?
しばらく状況が飲み込めなかった。
……彼女……。
……彼女?
……彼女!?
私が響さんの彼女!?
そんなことがある訳がない!!
私は、慌てて否定しようとした。
『適当に笑って流せ』
ついさっき響さんに言われた言葉。
……だったら、この言葉も笑って聞き流すべきなの?
確かに、『違います!!』って否定すると『じゃあ、どういう関係?』って思うのが普通だ。
そうなった時にわざわざ説明するのもなんだか面倒くさいし。
もし、私が否定しなくても響さんが上手に否定してくれるだろう。
そう思った私は、否定の言葉を発する事無く、お店で習得した“微笑みの技”を使う事にした。
愛想笑いなんて出来なかった私も、この仕事をする事で出来るようになった技。
こんな所で役に立つなんて想像もしてなかったけど……。
「……」
「……?」
無言でニッコリと微笑み掛けると高藤は不思議そうな表情を浮かべた。
そのリアクションが微妙に癪に障るけど……。
ここは、我慢……我慢……。
私が何も言わない事を悟ったらしい高藤……。
彼は視線を私から響さんに移した。
……よし!!
計画通り。
私は心の中でガッツポーズをした。
あとは、響さんが上手くやってくれるはず。
私は期待を込めて響さんに視線を移した。
……。
響さん?
なんで何も言わないの?
……てか、その余裕の笑みは何?
私の心の声が聞こえないのか響さんは全く否定する様子がない。
そんな響さんの態度に驚いているのは私だけじゃなかった。
「……組長?」
さっきまで落ち着き払っていた高藤も心なしか焦りを隠せない様子。
「うん?」
高藤の態度とは正反対で落ち着いた様子の響さん。
「……彼女……なんですか?」
再び高藤が疑問をぶつけた。
さっきは、誰への質問か曖昧だったけど、今度の質問は明らかに響さんへの質問だった。
「そんな風に見えるか?」
高藤の質問に質問で返した響さん。
「えぇ……まぁ……」
予想外の展開に高藤の焦りっぷりは増していく。
響さんの次の言葉は否定する言葉。
そう予想した私。
だけど、響さんが発したのは私の期待を裏切る言葉だった。
「だったら、そうだろうな」
……。
……はい?
響さん!?
今の答えはかなりの勢いで事実じゃないでしょ!?
高藤が小さく咳払いをした。
「そ……そうですか」
必死で平常心を保っているように見せようとしているのが分かる。
……でも……。
全く無意味な行動っぽいけど……。
そんなに、私と響さんって不釣合い!?
確かに、自分でもお似合いだとは思えないけど。
だけど、そんなに驚く事もないんじゃない?
……っていうか、響さん!!
なんで一人だけ涼しい顔してビールなんて飲んでるの!?
早く、否定しなきゃ!!
この人、本当に信じちゃったらどうするの!?
まさか、この人がそんな話を信じる訳なんてないと思うけど……。
……万が一信じてしまったら……。
……。
……っていうか、響さんには奥さんがいるんだけど……。
……ヤバイ……。
これって最悪の修羅場の幕開けじゃない!?
私は、一瞬にして昼ドラなみのドロドロとした修羅場を想像してしまった。
……怖っ!!
私の頭の中に浮かんできたのは、よくそっち系の映画に出てくる完璧な和服姿の極妻さん。
響さんの奥さんの顔を知らない私にはそんな安易な想像しか出来なかった。
そんな想像力しかない私がイメージする修羅場のシナリオもありがちなモノ。
ベタな映画にありがちなストーリーでも実際に自分の身にこれから降りかかるかもしれないとなったら話は別。
自分の妄想にどっぷりとハマっていた私は響さんと高藤の会話が全く耳に入っていなかった。
「大切な時間を邪魔してすみませんでした」
「気にするな」
「それでは、今日はこれで失礼します」
「あぁ、またな」
高藤が立ち上がった事で私はやっと現実に引き戻された。
「失礼しました」
高藤が頭を下げ部屋を出て行った。
その背中を私は呆然と見送る事しか出来なかった。
襖が静かに閉まると響さんが私に視線を向けた。
「綾、悪かったな」
だけど、私の耳には響さんの言葉が届いていなかった。
「……なんで……」
「うん?」
私の口から零れ落ちた小さな言葉に響さんが不思議そうな表情を浮かべた。
「なんで否定しなかったんですか!?」
「否定?」
感情をコントロール出来ない私をよそに優しい瞳と穏やかな口調を崩さない響さん。
「……もし、奥さんの耳に入ったらどうするんですか?」
私が響さんと2人で食事をしていた事は紛れもない事実。
だから、それが響さんの奥さんにバレて私が責められるのは仕方がない。
だけど、そうなってしまった時に傷付くのは響さんでも私でもなく、奥さんなんだ。
「迷惑だったか?」
一瞬、響さんの言葉が理解出来なかった。
「迷惑?」
「あぁ」
まっすぐに私を見つめる響さん。
その視線に胸が高鳴り息が詰まりそうになる。
私はその息苦しさを取り除くように深呼吸をして口を開いた。
「響さん、心配する相手を間違っています」
「……?」
「響さんが今心配しないといけないのは私じゃなくて奥様じゃないでしょうか?」
「……」
「私も無神経だったと思います」
「無神経?」
「響さんがご結婚されている事を知っているのにこうして2人でお食事をした事は無神経な行動だったと反省しています」
私の言葉を黙って聞いている響さん。
「さっき響さんが否定しなかった事で、もし奥様の耳に入ったりしたら奥様が嫌な思いをするんじゃないでしょうか?」
「生意気な事を言ってすみません」
私は響さんに頭を下げた。
私は、言いたい事を全て言ってスキッリすると同時に後悔に襲われた。
ホステスという立場の私がお客様である響さんに説教じみた事をしていいはずがない。
間違った事は言っていないと自信を持って言えるけど……感情的に言う事ではなかった。
響さんが気分を害して怒っても仕方が無い事を私はしてしまったんだ……。
頭を下げている私の耳に響さんの優しい声が聞こえた。
「綾、顔をあげろ」
そう言われて顔を上げると私の視界に移ったいつもと変わらない響さんの表情に、私は胸を撫で下ろした。
「お前は間違った事は言っていない。だから謝る必要なんてない」
その言葉に私の口から安堵の溜め息が洩れた。
響さんに私の想いが伝わって良かった……。
「お前の考えは良く分かった。……だけどな……」
響さんがタバコに火を点けた。
「……?」
私に見つめられた響さんがゆっくりと煙を吐き出した。
「否定した方が良かったか?」
……。
どうして、響さんはそっちにこだわるんだろう?
真剣な表情の響さん。
どうやら、私の答えを待っているらしい……。
そう悟った私は仕方なく口を開いた。
「そうですね。冗談で言っていい事ではないと思います」
「冗談?」
響さんが怪訝そうな表情を浮かべた。
……えっ!?
……もしかして、響さんは冗談で言ったんじゃないの!?
……という事は……。
ちょっと待って!!
「……響さん」
「ん?」
「さっきのは冗談じゃなかったんですか?」
「あぁ」
「それは一体どういう意味でしょうか?」
「俺は好きでもない女を食事に誘ったりしない」
……。
……今のって……。
響さん言葉に自分の顔が熱くなるのが分かった。
私の思考回路は完全に停止した。
頭の中で何度も繰り返される言葉。
「綾?」
固まったまま身動き一つしない私の顔を心配そうに響さんが覗き込んだ。
思考も動きも完全にストップしているのに至近距離にある響さんの顔に私の心臓だけが激しい鼓動を打っていた。
とりあえず、この空気を変えなきゃ!!
なんとかそう考え付いた私は目の前にある響さんの顔からテーブルの上にあるグラスに視線を移した。
グラスに入っているビール。
私は、そのビールを飲み干したい衝動に駆られた。
……だけど、今はお酒で現実逃避している場合じゃない。
そう思った私が手を伸ばしたのは、この部屋に入ってすぐに和服の女の人が淹れてくれたお茶だった。
冷めてはいるけどパニックで喉が渇いている私にはちょうどいい温度だった。
そのお茶を飲み干した私は少しだけ冷静さを取り戻す事が出来た。
冷静に考えてみても、響さんの言葉の意味が理解出来ない。
だからって軽くスルー出来る雰囲気でもない。
告白とも取れる響さんの言葉。
……告白……。
……告白?
……告白!?
響さん、奥さんいるじゃん……。
……それなのに、私にそんな事を言うなんて、一体何を望んでいるんだろう?
考えれば考えるほど深まっていく疑問。
……もしかして……。
愛人!?
「無理です!!」
私は首を大きく横に振った。
「綾?」
今日、何度目かに見る響さんの驚いた表情。
だけど今はそんな事に構ってられない!!
「愛人になんてなれません!!」
「……」
「絶対に無理です!!」
こういう事は最初にきちんと断っておかないと、気付いた時には……って事になりかねない。
「愛人?確かにそれはイヤだろうな」
響さんが他人事の様に頷いた。
「えっ?」
「あ?」
私達、なんか会話がズレてない?
「……綾、今、誰の話をしているんだ?」
「えっと……私と響さんの話じゃないんですか?」
「……」
「……」
流れる沈黙。
私が響さんといて初めて気まずさを感じた瞬間だった。
宙を見つめて何かを考えている響さんとそんな響さんをみつめる私。
先に口を開いたのは響さんだった。
「なんで愛人なんだ?」
「……響さん、結婚してらっしゃいますよね?」
「……やっぱり」
響さんが納得したように頷いた。
「……?」
「やっとお前の言葉の意味が分かった」
スッキリした表情で笑みを零す響さんに首を傾げる事しか出来ない。
「俺が結婚していたのは過去の話だ」
「……はい?」
結婚していたのは過去の話……。
過去の話?
……!?
どういう事!?
待って!!
頭が全然付いていかない。
言葉を発する事すら出来ず魚みたいに口をパクパク動かす事しか出来ない私。
「綾、大丈夫か?」
大丈夫な訳ないでしょ?
自分でもなんでこんなに驚いているのか分からないけど……。
でも、そうならそうって早く教えてくれてもいいんじゃない?
響さんがもっと早く教えてくれたら恐怖の修羅場に怯える事も、顔も知らない奥さんの心配をする必要もなかったのに!!
……瑞貴や凛も教えてくれたら良かったのに……。
私は必死で2人との会話を思い出した。
……まぁ、凛は途中で邪魔が入ったから仕方がない。
瑞貴は……。
『直接聞けよ』
瑞貴が私に言った言葉。
その言葉は少しも間違ってない。
瑞貴は性格上、人の事をペラペラと話すような奴じゃないって私も知っていたはず……。
ましてや、こんな話なら瑞貴が私に話さなかったのも納得出来る。
瑞貴はわざわざ言ってくれたのに響さんにきちんと聞かなかったのは私だ。
今日だって聞こうと思えばいくらでも機会はあったのに……。
悪いのは他でもない私だ。
それなのに、私ったら人の所為にばかりして……。
……最悪……。
……響さんが悪いんじゃない。
すっかり酔いが醒めた私は大きな溜息を吐く事しか出来なかった。
今はテンションを落としている場合じゃない……。
「綾?」
「すみません!!」
響さんが心配そうに私の顔を覗き込んだのと、私が勢いよく頭を下げたのは同時だった。
鈍い音が響き額に痛みが走った。
「……痛っ……」
額を押さえる指の隙間から見えた響さんも無言で額を押さえている。
しまった!!
やってしまった……。
これってヤバすぎない!?
響さんって、すごく優しくて穏やかだけど組長さんだし……。
もし、響さんの綺麗な顔に傷をつけたら……。
明日から私この辺を歩けなくなるんじゃ……。
厳ついお兄さん達に命を狙われるかも!!
……違う……。
厳ついお兄さん達だけじゃない……。
響さんのファンの女の子達も敵にまわしちゃう!?
「大丈夫ですか?」
私は慌てて響さんの顔を覗き込んだ。
……!?
響さん!?
なんで笑ってんの!?
……てか、なにがそんなにツボに嵌ったの?
……もしかして……。
打ち所が悪かったんじゃ……。
「ひ……響さん?」
呆然と見つめる事しか出来ない私に響さんが笑いを飲み込んで視線を向けた。
「俺は大丈夫だ。それより、お前の方が痛かっただろ?」
「い……いえ……私は、全然平気です……」
響さんの指が私の額に伸びてくる。
「赤くなってる」
そう言って撫でるように動く響さんの指。
その部分が熱く感じる。
それが、打った所為なのか、響さんの指の所為なのかは分からなかった。
「綺麗な顔に傷をつけたら殺されるかもな」
その言葉に私の鼓動が速くなった。
落ち着け!綾!!
これは、きっと……。
社交辞令?
そう、響さんは大人だから社交辞令に違いない!!
額だけじゃなくて全身が熱くなった私は、話題を変えるようと口を開いた。
「だ……誰に殺されるんですか?」
完全に動揺している私にはそんな質問をするのが精一杯だった。
「ん?彼氏とか……」
「彼氏!?響さん彼氏がいらっしゃるんですか!?」
「……」
「……えっ?」
「俺じゃねぇよ」
「……」
「……」
「……そうですよね」
「あぁ、俺はそっちの趣味はない」
「……ってことは……」
「お前の彼氏だよ」
「……なるほど、良かった」
私は胸を撫で下ろした。
ん?彼氏?
私の彼氏!?
「彼氏なんていません!!」
「そ……そうなのか?」
「はい!!」
……しまった……。
思わず自信満々で言っちゃったけど……。
力が入りすぎたかも……。
響さん、びっくり顔してるし……。
もしかして、ドン引きされてる?
響さんに恐る恐る視線を向けてみると……。
笑みを浮かべている響さん。
その笑みはどことなく嬉しそうに見えた。
「良かった」
そう呟いた響さんの声はとても小さくて……。
私は聞き取る事が出来なかった。
「え?響さん?」
「いや、なんでもない」
「……?そうですか?」
「あぁ」
まぁ、響さんがそう言うんなら独り言かなんかなんだろう。
私はそう納得した。
「なぁ、綾」
「はい?」
「お前は、俺のどんな噂を聞いている?」
「噂ですか?」
「あぁ、人伝に俺の事を聞いているんだろ?」
「えぇ、まあ……」
これは正直に答えるべきなんだろうか?
誰だって自分の噂を聞いていい気がする人なんて滅多にいないと思う。
噂ってそういうモノ。
事実と異なることが事実のように話されるモノ。
……多分、私が聞いている噂も……。
今、私が知っている響さんの情報の中に真実はどのくらいあるんだろう?
だけど、知るんだったら、噂じゃなくて真実を知りたい。
聞くなら今しかないかもしれない。
そう思った私は、今まで聞いた響さんの噂を口にした。
私が知っている噂を全て……。
その間、響さんは瞳を閉じて私の話を聞いていた。
「私が知っている噂はこれだけです」
響さんの瞳が静かに開いた。
「そうか」
「……やっぱり事実とは違いますか?」
「うん?……そうだな、まぁ、あながち間違いじゃない所もあるが……」
そう言って言い難そうに頭を掻いた響さんを見て思わず私は笑みを零した。
なんか、この人……可愛い。
「確かに俺には小学生の息子がいる。過去には嫁さんもいた」
「そうですか」
「4年前に亡くなったんだ」
「……!?」
「持病があったから長く生きられない事は分かっていた」
「……」
「それでもいいからって籍をいれて一緒に暮らした」
響さんが苦しそうに笑って視線を宙に向けた。
「子供を産んだ事で寿命を縮めてしまったのかもしれない」
響さんに私はなんて言葉を掛けていいのか分からなかった。
「……結婚されている事は初めてお店でお会いした時から気付いていました」
響さんの視線が宙から私に移った。
その瞳は不思議そうに揺れていた。
まるで「どうして?」と私に問い掛けるように……。
私はその疑問に答えるに響さんの左手を指差した。
私の指の先を辿るように動く視線。
「指輪をはめていらっしゃったので……」
「なるほどな」
疑問が解けてすっきりした表情に変わった。
響さんの視線が自分の左手の薬指に移った。
しばらく指輪を見つめていた響さんが口を開いた。
「……遺言なんだ」
それは小さな声だった。
もしかしたら独り言だったのかもしれない。
だけど、私の耳に届いた言葉を聞き流す事が出来なかった。
「結婚指輪をつけておくことですか?」
「結婚指輪?」
……なに?
そのリアクション……。
私、間違った事言ってないよね?
私の顔と指輪を交互に見比べた響さん。
「俺が付けていた結婚指輪は墓の中にある」
響さんの言葉を聞いた私は一気に全身の血の気が引くのが分かった。
それと同時に襲ってきた大きな後悔。
興味本位の軽い気持ちで聞いていいことじゃなかった……。
そう分かっているのに、私は言葉を発する事が出来ない。
ただ黙って俯いている私の耳に心地いい声が届いてきた。
「遺言は……アイツの最初で最後の頼み事だった」
「響さん!!」
私はとっさに言葉を遮る様に響さんの腕を掴んでいた。
「……私に……」
「うん?」
「……私にそのお話を聞く権利はあるんでしょうか?」
響さんが今から話す事を聞いて私はなんて言葉を掛ければいいのか分からない。
興味本位で軽はずみに聞いてしまった事への後悔が大きすぎて、私はそれ以上聞く事が怖くなっていた。
問い掛けた私の顔を見つめる響さん。
「俺の独り言だと思ってくれ」
「独り言?」
「あぁ、綾に話しているんじゃない。俺が一人で話しているだけだ。だから、返事をする必要はない。ただ、お前はそこにいてくれればいい」
穏やかな口調。
優しい笑み。
まっすぐに私を見つめる瞳。
その瞳は心の中まで見透かしてしまいそう……。
私の後悔にも、響さんは気付いているのかもしれない。
……怖いけど知りたい。
本当の響さんを知りたい。
噂じゃなくて真実を……。
だから、私は響さんの顔を見て頷いた。
「アイツが最後に望んだのは俺との離婚だった」
……えっ?
響さんは手元のタバコの箱を見つめながらゆっくりと話し始めた。
「俺はアイツが病気だって事も長くは生きられない事も納得して結婚した」
「だから、アイツが亡くなってからも俺達は夫婦であり続けると信じていた」
「……でもな……」
響さんの表情が悲しそうに揺れた。
「亡くなる前の晩にアイツは病院のベッドの上で正座をして頭を下げたんだ」
「『私をあなたの籍から抜いて下さい』ってな」
……どうして?
奥さんはどうして響さんにそんな事を望んだんだろう……。
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