エピソード5

いつもと変わらない日常。

いつもと変わらない光景。

クラスメート達が席に着いていて、教師が教科書を見つめながら意味の分からない英語を喋っている。

その声を聞きながら、私はウトウト……。

響さんがお店に来てから一週間。

相変わらずお店は大盛況で昨日も出勤した私は一時限目から睡魔に襲われる始末……。

……眠い……。

いつもならこの授業の時は眠れるんだけど……。

どういう訳か、今日は眠れない……。

眠いのに眠れない私は、その授業終了と共に席を立った。

このままだったら、イライラして誰かを殴りそう……。

そう思った私は、大人しく早退することにした。

“早退”って言っても担任の許可を取った訳でも、保健室に行った訳でもないから、ただのサボりなんだけど……。

「綾!!」

廊下を歩いていると誰かに体当たりされた。

後ろから体当たりされた私は危うく廊下のど真ん中で派手にコケそうになった……。

最高にムカついた私は背後にいるであろう相手を振り向きざまに殴ろうとした……。

「きゃっ!!」

その相手は女の子らしい声を出しながらも素早い動きで避けた。

……この学校で私の事を名前で呼ぶ人間は限られている……。

しかも、それが女なら確定。

「凛!!」

「きゃー!!ごめんなさい!!」

……やっぱり……。

大袈裟に謝りながらも楽しそうに笑っている凛。

凛の笑顔を見ていると怒る気もムカついていた気持ちさえも無くなった。

私は大きな溜息を吐いた。

「綾、どこに行くの?」

「帰るの」

「なんで?」

「眠いの」

「はぁ?眠い?具合が悪いんじゃなくて?」

「具合は悪くないわよ。気分は悪いけど」

「気分が悪い!?なんかあったの?誰かに苛められたとか!?」

「苛められてはないけど……」

「……けど?」

「体当たりされた」

「……」

「……」

「……申し訳ありませんでした……」

力なく頭を下げる凛を見て私は吹き出した。

「そんなに眠いなら、空き教室で寝ればいいじゃん」

「あそこ、たくさん人がいるもん」

「綾が行って、瑞貴に眠いって言えばあっという間に誰もいなくなるよ」

「別にいいわよ。最近、寝不足だからゆっくり眠りたいし」

「そっかー」

「そうだ、凛。伝言頼まれてくれる?」

「いいけど?」

「瑞貴に『帰るからお昼は一緒に食べられない』って伝えてくれる?」

「分かった。今日もバイトなの?」

「まだ分からないけど、多分、今日は休みかな」

「じゃあ、たまには溜まり場にも顔出ししなよ!!」

「うん、起きたら連絡する」

「おやすみ!!」

今の時間には合わない凛の挨拶に手を振って私は学校を後にした。

「眩しい……」

校門を出ると目が眩む様な日差しが私を照らした。

この時間に外にいることなんて滅多にないから……。

私はトボトボと家に向かって歩き出した。

学校から繁華街にある家までの距離が長く感じる。

……早くベッドに横になりたい……。

そんな事を考えながら歩いていると一台の車のエンジン音が近付いてきた。

ここは、車一台がやっと通るくらいの細い路地。

……こんな細い道を通るなよ。

私は、そう思いながら道の端に避けた。

避けてあげているのに、車のエンジン音は近付いては来ているもののスピードを落としているような気がする。

追い越したいなら、早く追い越せばいいのに。

ちょっと文句でも言ってやろうかな。

私は、イライラしながら振り返った。

……。

ヤバイ……。

この車には文句なんて言えない。

ノロノロと近付いて来る車は……。

真っ黒い車体が太陽の光を浴びて重い輝きを放っていた。

フルスモークの“プレジデント”。

……振り返らなければ良かった……。

私は数秒前の自分を殴りたい衝動に駆られてしまった。

……目を逸らすべき?

そんな考えが過ぎったけど、性格上そんな事は出来ない。

私はその車を見つめていた。

目の前まで近付いて来た車が私の横で静かに停まった。

……文句を言おうと思ったのに、文句を言われるのはどうやら、私らしい。

私は無意識のうちに右手に持っていたカバンを左手に持ち直し、利き手で拳を作っていた。

こんな時でも、私の防衛反応はちゃんと働くらしい。

相手が誰でも負けるのは絶対にイヤ……。

私は拳に力を入れた。

停まった車の後部座席の窓がゆっくりと下がる。

「綾乃」

穏やかで優しい声。

……この声は……。

「響さん!?」

これって響さんの車なの!?

「おはよう」

優しい笑みを浮かべた響さんを見て私の身体から力が抜けた。

「お……おはようございます」

……っていうか……。

挨拶なんかしている場合じゃない気がするんだけど……。

……まずい……。

私、今、制服を着てるんだけど。

お店のお客さんの響さんにこんな格好見られたら……。

私、お店で働けなくなるじゃん!!

どうしよう……。

でも、誤魔化しようがない。

だけど、今クビになると生活が出来なくなるし!!

……。

……どうしよう……。

「綾乃」

「は……はい」

「飯、食いに行く約束していたよな?」

「は?」

「忘れたのか?」

「……いいえ」

「今から時間あるか?」

学校サボったんだから時間はあるけど……。

眠くて早退したんだけど、この状況にすっかり眠さなんて吹っ飛んだ。

「……はい」

「乗れ」

響さんがそう言うのと同時に運転席から、男が降りてきた。

そして、響さんが乗っている反対側の後部座席のドアを開けた。

本当は走ってこの場から逃げたいんだけど。

どうにかして、誤魔化さないといけない。

私がクビになるのは仕方がない。

どんな理由があろうと嘘を吐いて響さんを騙していたんだから……。

だけど、雪乃ママやお店には迷惑を掛けたくない。

今、逃げる訳にはいかない。

私は、車の反対側にまわり後部座席に乗り込んだ。

タクシー並みに自動的に閉まるドア。

運転席に男が乗り、車は静かに動き出した。

車内に広がる沈黙が息苦しい。

言い訳さえ思いつかない私は響さんの方に視線を向ける事さえ出来ない。

何か話さないと……。

そう思うほど、頭の中は真っ白になっていく。

重苦しい沈黙を破ったのは響さんだった。

「コスプレか?」

「えっ?」

……今なんて言った?

「コスプレが趣味なのか?」

……。

……違うでしょ?

ここは『歳を誤魔化してたのか?』とか『嘘を吐いていたのか?』って言うところでしょ?

……それに私が制服を着ていてコスプレしているように見えるっていうのが納得いかない!!

遠まわしに『制服を着ている歳に見えない』って言われてる気がする……。

って事は、私が老けてるって事でしょ!?

「……私、そんなに老けてますか?」

「……」

なんで何も答えないのよ!?

やっぱりそう思っているのね……。

私はチラっと響さんの方に視線を向けた。

「……!!」

てっきり、驚いていると思った響さんが……。

笑っていた。

しかも、声を押し殺して。

「響さん」

「うん?」

「笑いたいのなら笑ってください」

「あぁ、悪い……ぶっ!!」

我慢の限界に達したらしい響さんが楽しそうに声を上げて笑い出した。

……。

確かに言ったわよ。

『笑いたいのなら笑ってください』って……。

……でも……。

だからって本当に爆笑しなくてもいいんじゃない?

まぁ、私が高校生には見えないって自分でも分かってるから別にいいんだけど。

それにしても、響さんって良く笑う人だな。

私は大きな溜息を吐いた。

その溜息は、響さんにも届いたらしい。

「悪い」

響さんは、咳払いをして笑いを飲み込んだ。

「別に、気にしていませんから」

「気にしてんだな」

「……」

……『気にしてない』って言ってるのに……。

この人は私にケンカを売っているんだろうか?

売られたケンカは買う主義なんだけど……。

軽く殴っちゃう?

……ダメ!!

響さんはお店のお客さんなんだし。

それに今の私は“綾”じゃなくて“綾乃”だった。

しかも、響さんを殴ったら大変な事になる。

運転席には、明らかにそっちの世界のお兄さんがいるし。

軽く殴っても、数倍になって返ってくるはず。

今の私にはそれに対応する力なんて残ってないし……。

ここは大人しくしていよう。

「学校は早退したのか?」

「はい」

「具合が悪いのか?」

「いえ、眠くて」

「眠い!?」

「……はぁ」

「昨日も店に出たのか?」

「えぇ、まぁ」

「休みの前の日だけって言ってなかったか?」

「一応、そうなんですけど、最近忙しくて……」

響さんが溜息を吐いた。

「今日は?」

「えっ?」

「店に出るのか?」

「まだ分からないけど、多分出ないと思います」

「そうか」

響さんに歳がバレてしまったんだから今日はどっちにしてもお店にはいけない。

もしかしたら、2度とお店に出ることは出来ないかもしれない。

また、バイト探さないと……。

雪乃ママのお店、結構好きだったんだけどな。

でも仕方がない。

雪乃ママもお店も好きだからこそ迷惑を掛ける訳にはいかない。

「眠いか?」

響さんの声で私は我に返った。

「い……いいえ」

考え事に夢中になった私を見て、響さんは私が眠いと思ったようだ。

「今、家に帰って親は何も言わないのか?」

「えっ?大丈夫です。私、親とは一緒に住んでいませんから」

「は?」

響さんの切れ長の漆黒の瞳が丸くなった。

「一緒に住んでいないのか?」

「はい」

何でこの人はこんなにビックリしているんだろう?

「そうか」

響さんは何かを聞きたそうだったけど、言葉を飲み込んだように見えた。

「……?」

私は首を傾げた。

「少しだけ時間はあるか?」

「えぇ」

私が頷くと響さんが運転席の男に向かって言った。

「駅前のホテルに行ってくれ」

『分かりました』

運転席の男が答えると車は急に速度を上げた。

……ホテル……。

ホテル!?

なんで?

なんでホテルに行くのよ!?

ホテルって聞いてそういう想像しか出来ない私もどうかと思うけど……。

だけど!!

男と女が一緒にホテルに行って、それ以外に何をするっていうの!?

ふと隣にいる響さんに視線を向けると、腕を組んで瞳を閉じていた。

……寝てる!?

響さん、寝てるの!?

私がこんなに焦っているのに?

私を焦らせているのは響さんなのに?

なんで自分だけ寝てるのよ!?

信じられない!!

私のイライラが頂点に達した時、車は静かに停まった。

窓から外を見ると、豪華な創りのホテルが見えた。

入り口近くに立っているホテルの従業員らしい男の人が近付いてくる。

その時、響さんが瞳を開けた。

……起きた?

見つめている私と瞳が合った響さんが優しく微笑んだ。

「どうかしたか?」

その笑顔をみると、さっきまでのイライラも焦りもどこかに吹っ飛んだ。

「いいえ」

私がそう答えた時、響さん側のドアが開いた。

『失礼します』

さっき車に近付いてきていた男の人だった。

響さんは車を降りると私に手を差し出してきた。

私はその手に掴まって車を降りた。

車のドアが閉まると、響さんが私の腰に手をまわした。

その動作はとても自然だった。

余りにも、自然すぎてそうされることが普通なのかもしれないと思えるほど……。

表情を変える事もなく、響さんは私の腰を抱いたままホテルの中に足を進めた。

周りの人達から見たら私と響さんはどんな関係にみえるんだろう?

制服姿の私と、黒いスーツ姿の響さん。

その後ろからは強面のお兄さんがピッタリとついて来ている。

援交しているようには……見えないか。

私が制服を着ているとコスプレしているように見えるらしいし……。

……!!

もしかして、周りの人達もそう思っていたりする!?

私は、慌てて辺りを見まわした。

……良かった……。

誰も見てない。

私は、胸を撫で下ろした。

「どうした?」

頭の上から聞こえてきた声。

そっちを見上げると、優しい笑みを浮べて私を見つめる響さんの顔。

今まで気付かなかったけど、響さんって背が高い。

私が立って人と話す時に見上げて話すことなんて滅多にない。

「綾乃?」

「……えっ?」

「大丈夫か?」

「は……はい、大丈夫です」

◆◆◆◆◆

ホテルの最上階にあるラウンジ。

壁が全てガラス張りになっていて、景色が一望できる。

落ち着いた色で統一されたテーブルと椅子のお陰で窓から見える景色が引き立って見える。

「ここでなんか飲んで待っていろ」

後ろから着いて来ていた男の人にそういい残し響さんは奥に足を進めた。

響さんが向かったのはラウンジの奥の席。

仕切りがあるから他の席からは見えにくくなっている。

手前の椅子を響さんが引いてくれた。

「ありがとうございます」

私がその椅子に腰を下ろすと、真向かいの席に響さんが腰を下ろした。

「飲み物、なにがいい?」

「アイスコーヒーで」

「アイスコーヒー?」

「……?はい」

「ジュースじゃなくていいのか?」

「……はい?」

「まだ高校生なんだから、無理しなくていいんだぞ?」

……。

……今更?

あれだけ爆笑したくせに今更そんな気遣い?

しかも、なんで笑いを堪えてんの?

……この人こんな優しい顔して実はドSなんじゃ……。

そんな疑惑が浮上してきた時、ラウンジの店員がやってきた。

『失礼します。ご注文は?』

ついさっきまで私の目の前で笑いを押し殺していた響さんの表情が変わった。

「アイスコーヒーでいいのか?それとも別のモノにするか?」

響さんが私に視線を移した。

「アイスコーヒーで大丈夫です」

私が答えると響さんが頷いた。

「アイスコーヒーとホットコーヒー」

『かしこまりました』

店員が離れていくと響さんがスーツのポケットからタバコの箱を取り出した。

それを見た私は無意識のうちに制服のポケットからライターを取り出した。

タバコを銜えた響さんが切れ長の漆黒の瞳を細めた。

「いい」

「えっ?」

「今、仕事中じゃねぇだろ?」

「……」

……あぁ、そうか。

今は仕事中じゃなかったんだ。

「職業病だな」

銜えたタバコに自分で火を点けた響さんが苦笑している。

職業病?

私ってそんなに仕事熱心だったんだ。

そう思うと自分でも苦笑してしまう。

私は手に握っているライターをテーブルの上に置いた。

ぼんやりとそのライターを見つめていると響さんが手元にある灰皿をテーブルの真中に置いた。

「……?」

「吸うんだろ?」

なんで響さんは私がタバコを吸う事を知っているんだろ?

私が響さんと会ったのはお店と今日だけ。

ウチのお店は女の子がお客さんの前でタバコを吸うのは禁止だからあの日は響さんの前では吸っていないはず……。

もちろん今日だって……。

「なんで知っているんですか?」

「ん?」

「私がタバコを吸うって分かるんですか?」

私が首を傾げると響さんは唇の端を片方だけ上げて笑った。

「それ」

響さんが指差したのはテーブルの上に置いてある私のライター。

「……?」

「お前がタバコを吸わねぇなら、そんな物を制服のポケットから出したりしねぇだろ」

「なるほど……」

響さんが言った通りライターを取り出したポケットにはタバコが入っている。

響さんには敵わない……。

そう思いながらポケットの中に忍ばせているタバコの箱に手を掛けた。

その時ある事に気が付いた私は手を止めた。

私、今制服着ているんだった。

いくら老け顔だと言っても公共の場所で高校の制服を着た私が堂々とタバコを吸う訳にはいかない。

「吸わないのか?」

動きを止めた私に響さんが尋ねた。

「……はい、今は……」

私は必死に適当な理由を探した。

「今は?」

漆黒の瞳が私を見つめている。

“喉の調子が……。”

……今まで普通に話していたのに?

“タバコを持っていない……。”

……なんか響さんのタバコを欲しがってるみたいじゃない?

まっすぐに向けられる響さんの視線に私は冷静さを失っていく気がした。

心の中まで見透かしてしまいそうな漆黒の瞳。

冷静さを失った私の頭が正常に動くはずも無く……。

「……制服なんで……」

必死で考えた挙句に私の口から零れ落ちた言葉はそのままの理由だった……。

「そんな事か。気にする必要はない」

「……はい?」

「俺が一緒なんだ。誰も、何も言わない」

低く優しい声で穏やかな口調の響さん。

それとは対称的に威圧的で鋭さを感じる言葉。

響さんの瞳と言葉には絶対的な自信が満ち溢れていた。

躊躇っていた私の手が自然に動いた。

ポケットからタバコの箱を取り出し一本口に銜える。

高い金属音が微かに耳にひびいた。

目の前に差し出された火にタバコを翳した。

ゆっくりと煙を吐き出した時、トレーを持った店員が近付いてきた。

『お待たせしました』

私の前に置かれるアイスコーヒー。

その時、店員が私の指先にあるタバコに視線を止めた。

何か言われる?

そう思った私は視線を上げた。

ぶつかる視線。

「おい」

威圧的で低い声。

「なんか用か?」

響さんの冷たい声を私は初めて聞いた。

『い……いえ、失礼しました』

頭を下げた店員が響さんの前にコーヒーを置いた。

その手は微かに震えていた。

『失礼しました』

再び頭を下げた店員が足早に席を離れて行った。

響さんは何事も無かったかのように運ばれてきたばかりのコーヒーに口を付けていた。

『誰も、何も言わない』じゃなくて『誰も、何も言えない』んだ……。

この人は優しくて穏やかだけど本当に組長なんだ。

イキがっているだけの私とは別世界の人。

あまり深く関わらない方がいいのかもしれない……。

……。

深く関わらない?

私と響さんの関係はホステスとお客さん。

ただそれだけの関係で、それ以外の何でもない。

何をそんなに深く考えているんだろ?

私は指に挟んでいるタバコを灰皿で押し消して、目の前にあるアイスコーヒーにストローをさして勢い良く吸い込んだ。

一気にグラスの半分くらいまで飲んだ私に響さんが声を掛けた。

「喉、渇いていたのか?」

「はい」

「お前、面白いな」

そう言って笑った響さんはとても優しくて穏やかで……。

私は胸が痛くなった。

初めて感じた胸の痛み……。

その理由は分からないけど……。

そういえば、響さんは私に話があったんじゃ……。

「響さん」

「うん?」

「私に何かお話があったんじゃないですか?」

「あぁ」

響さんは手に持っていたタバコを灰皿で押し消した。

「……?」

「夜、働いているのは生活の為か?」

「……えっ?」

「雪乃はお前の本当の歳を知っているんだろ?」

……。

これは正直に答えてもいいのだろうか?

私が正直に答えたら雪乃ママにも迷惑が掛かってしまう……。

本当の事は雪乃ママに相談してから話した方がいいのかもしれない。

私は小さく息を吐いてから口を開いた。

「雪乃ママは私の本当の歳を知りません」

「知らない?」

「はい、面接の時に“20歳”だと言っています」

私の瞳を響さんはまっすぐに見つめている。

その漆黒の瞳に私の嘘は見抜かれてしまいそうな気がする。

……出来れば瞳を逸らしたい。

だけど、今逸らすと嘘がバレてしまう。

背中に変な汗が流れた。

「そうか」

響さんが頷くと同時に私の身体から力が抜けた。

……よかった……。

「それから、私が歳を誤魔化して働いているのは、自分の生活の為です」

「親は?」

「います」

「なんで、親に頼ろうとしないんだ?」

「私は親に頼らなくても生きていけます」

「……」

「私が親を必要としないように親も私を必要としていません」

「……」

「お互いに必要ないから一緒に住む必要なんてないんです」

響さんは私の顔を見つめて黙って話を聞いていた。

「本当の歳はいくつだ?」

「……16です」

「……」

「……?」

「16……って16歳か!?」

「は……はい」

「綾乃」

「はい?」

「悪いけど16歳には見えない」

「……やっぱり?」

「あぁ」

響さんは大きな溜息を吐いた。

……ちょっと待ってよ……。

溜息を吐きたいのはこっちだし……。

その時、私のカバンの中からスマホの着信音が聞こえてきた。

……この着信音は瑞貴だ……。

……面倒くさいなぁ。

瑞貴の言いたいことは分かっている。

私はそのまま着信音が止まるのを待つ事にした。

「取れよ」

響さんが椅子の上のカバンを顎で指した。

「……いいんです」

「遠慮するな」

……別に遠慮なんてしてないんだけど……。

そう思いながら私は渋々カバンに手を伸ばした。

私が通話ボタンを押す前に切れればいいのに……。

そんな私の願いも虚しく鳴り続ける着信音。

目の前の響さんは再びタバコを取り出して火を点けている。

瑞貴は私が取るまで鳴らし続けるに違いない。

そう悟った私は小さな溜息を吐いてボタンを押してスマホを耳に当てた。

「……もしも……」

『綾!!てめぇは学校をサボってなにしてんだ!?』

私の言葉を遮った瑞貴の声が鼓膜にひびいた。

思わず私はスマホを耳から離してしまった。

……耳が痛い……。

「……瑞貴……」

『あ?』

「……あんた、マジでうるさい」

『はぁ?』

「あんたの声がうるさいって言ってんのよ!!」

『……』

「いくら私が老け顔でも耳はちゃんと聞こえてんのよ!!」

『は?老け顔?なんの話だ?』

……しまった。

瑞貴に八つ当たりして自爆しちゃった……。

しかも、目の前では響さんが笑いを押し殺しているし……。

最悪。

『おい、綾?』

「なんでもないわよ。……でなんか用事?」

『あぁ、お前眠いなら空き教室で寝ればいいだろーが』

「凛から聞いたでしょ?疲れてるからゆっくり眠りたいのよ」

『空き教室でもお前なら爆睡できるだろ?』

「あんた、ケンカ売るために電話掛けてきたの?」

『……』

……もしかして、図星!?

「用事がないなら切るわよ?」

『……今日』

「……?」

『溜まり場来るんだろ?』

「うん。多分ね」

『分かった。じゃあな』

瑞貴はそう言うとさっさと電話を切った。

……。

一体なんの電話だったんだろう?

私は切れたスマホを呆然と眺めた。

響さんはまだ笑いを堪えている。

「彼氏か?」

「……違います!!」

「そうか」

「はい!!」

「別にそんなに力強く否定しなくても……」

とうとう響さんは声を出して笑い出した。

また始まった。

響さんが一度笑い出したたらしばらくは治まらない事は今日学んだし……。

私は響さんの笑いが治まるまでタバコでも吸って待ってようと再び箱に手を伸ばした。

タバコに火を点けようとした時、響さんが口を開いた。

「綾」

響さんの声に私の身体は固まった。

……。

……今、私の事を『綾』って呼んだ?

……偶然?

私は視線をタバコから響さんに向けた。

響さんはもう笑っていなかった。

優しく穏やかな表情。

まっすぐに私を見つめる漆黒の瞳。

その瞳には余裕すら感じる。

「名前、“綾”っていうのか?」

「……どうして知ってるんですか?」

私の問い掛けに響さんはニッコリと笑みを浮かべ指差した。

「……?」

響さんが指を差した先にあるのは、私のスマホ。

「聞こえた」

……瑞貴……。

……だから、声がでかいって言ったのよ……。

もう響さんは知っているんだから隠しても仕方がない。

「……“綾”は私の本名です」

「そうか」

「はい」

「店での名前は誰が付けたんだ?」

「……?雪乃ママですけど……」

「そうだよな」

響さんは納得したように頷いた。

……?

なんだろう?

響さんはなにが言いたいんだろう?

「綾」

心地よく耳に届く響さんの低く落ち着いた声。

その声で名前を呼ばれると胸が苦しくなる。

……この苦しさはなんだろう?

「……はい?」

「嘘だろ?」

「えっ!?」

「面接の時に雪乃に嘘を吐いたって言うのも、雪乃がお前の本当の歳を知らないっていうのも嘘だよな?」

「……」

どうして!?

私は背中に冷たい汗が流れるのが分かった。

自分でも顔が引き攣っているのが分かる。

そんな私とは対照的に響さんは表情ひとつ変えない。

「雪乃は10年近く夜の世界にいるんだ。人の嘘なんて簡単に見抜く。もし、お前が本当に雪乃に嘘を吐いているならあの店で雇ったりしないだろーし、“綾乃”なんて名前を付けたりしないだろうな」

「……」

響さんの言う通りだった。

雪乃ママと響さんの付き合いは長いって話を聞いた事がある。

そんな響さんは私なんかより雪乃ママの事を知っているはず……。

この人には私の嘘なんて通じない。

私がどんなに頭を使って嘘をついたとしても、全て見抜いてしまうはず……・。

この漆黒の瞳で……。

私は大きな溜息を吐いた。

それと同時に決心した。

響さんは私の嘘に気付いている。

それが雪乃ママやお店に迷惑を掛けない為に私が唯一出来る事。

私が嘘を吐いて響さんを騙そうとしている事には変わりない。

それなのに怒ったりする事もなく優しく穏やかな表情でいるのは私の口から直接話を聞きたいから……。

……話そう……。

私は口を開いた。

「……すみませんでした」

「うん?」

「私は響さんに嘘を吐いていました」

「そうか」

「はい」

なんでこの人はこんなに穏やかな表情でいれるんだろう?

普通こんな事言われたらキレるんじゃないの!?

もし、私だったら間違いなく暴れちゃう。

しかも、響さんは組長なのに……。

「理由があるんだろ?」

「……」

「歳や名前を偽る事は、夜の世界ではよくあることだ。誰でもいろんな事情を抱えているんだ。別に俺はそんな事は気にしていない。だが、お前が吐いた嘘は、吐かなくてもいい嘘じゃないのか?」

「……私は……」

「なんだ?」

「私は雪乃ママやあのお店が好きなんです」

「……」

「私が歳を誤魔化して働いていたんだから自分が困るのは仕方がない。でも、雪乃ママやお店に迷惑が掛かるのはイヤなんです」

「……なるほどな」

「……」

響さんはタバコを一本取り出すとそのタバコを見つめた。

見つめながら何かを考えているようだった。

流れる沈黙。

時が流れるのも忘れそうな静けさ。

だけど、その空気はイヤなものではない。

むしろ、心地良ささえ感じる。

いつもだったら誰かといて沈黙になったら気まずくなってしまう。

無理をしてでも会話をしようとしてしまう。

それが面倒くさいっていうのも私が特定の人としか話さない理由の一つ。

でも、響さんとだったらその気まずさを感じない。

それどころか、心地良く感じるなんて……。

「綾」

手元のタバコを見つめていた響さんが視線を動かす事無く私の名前を呼んだ。

「……はい」

「お前が心配してんのは歳がバレる事だけか?」

「はい」

「他には無いんだな?」

「……?」

「例えば、夜、働いているのが親にバレたくないとか」

……あぁ、そういう事か……。

「ウチは完全な放任主義ですから……」

「放任主義?」

「はい、親にとって私は存在していないようなものですから」

……親の話はあまりしたくない……。

家を出てから母親とは一度も連絡をとっていない。

お互いの連絡先は知っている。

それでも、一度も連絡はない。

私も母親と話す事なんかないし、母親も私がいなくなってせいせいしているんだろう……。

家を出る時、生活費を出してくれる男を探せって言うくらいの親なんだから、私が歳を誤魔化して夜働いているって分かっても何も言うはずがない……。

「分かった。お前が心配なのは歳の事だけだな」

「そうです」

「雪乃も知っているんだ。別に不安になる必要なんてねぇよ」

「はい」

「もし、なんかあったら……」

「……?」

響さんが私の前に置いたのは……。

名刺だった。

……!?

この名刺って……。

縦書きの名刺。

その中央には筆で書いたような達筆の文字で“神宮 響”と書いてある。

名刺の右端には見た事があるような気がするマークとまじまじと見るのが恐いような漢字の羅列。

名前のすぐ右隣には雪乃ママから聞いた響さんの肩書き。

「裏に俺の連絡先が書いてある」

名刺の裏には確かに連絡先が書いてある。

いくつもの電話番号。

事務所、自宅、スマホ……。

ご丁寧に住所まで書いてある。

「なんか困った事があったらいつでも連絡して来い」

「はい、ありがとうございます」

響さんに頼らないといけないような事なんてそうそう起きないと思う。

その時、名刺入れを持っていなかった私はその名刺をお財布のカード入れに入れた。

響さんが目の前のコーヒーを口に運んだ。

コーヒーカップを持つ左手の薬指。

そこで光を放つゴールドの指輪。

シンプルでなんの飾りも付いていないリング。

でも、そのリングはどんな豪華な指輪よりも存在感があった。

同じ形の指輪でも付けている指が違ったらこんなに存在感なんて感じなかったかもしれない。

仕事柄、男の人の手を見る機会が多い。

左手の薬指に指輪を付けている男の人は愛する大切な守るべき人がいる証拠。

私は響さんの手から視線を逸らした。

理由は別にない。

ただ見たくないと思った。

その理由を尋ねられたら答える事は出来ないけど……。

その指輪の付いている響さんの手を見たくなかった。

コーヒーカップを置いた響さんが口を開いた。

「今日は店に出ないんだろ?」

「はい」

昨日も出勤したし、今日の夜は久々に溜まり場に顔をだしてみよう。

瑞貴がチームを作ってから一回も顔出してないし……。

「次、出勤する時はその日の夕方に連絡をくれ」

「えっ?」

「食事はその日の出勤前にしよう」

「……あの、それって……同伴してくれるんですか?」

「嫌か?」

「……いいえ、ありがとうございます」

「あぁ。今日は帰って寝ろ」

「……?」

「寝不足なんだろ?」

響さんが優しく微笑んだ。

「……はい」

「送っていく」

そう言って立ち上がった響さん。

私は、テーブルの上に置いていたタバコやスマホをカバンの中に入れて立ち上がった。

立ち上がった私を確認して響さんは歩き始めた。

その歩調は、私が急がなくてもいいようなゆっくりとした歩調だった。

入り口近くの席には響さんの車を運転していた男の人が座っている。

響さんの姿を見つけたその人は、素早く立ち上がった。

私達が近付くとその人は視線を自分の足元に落とした。

その視線は、私達が男の人の前を通り過ぎるまで上げられる事は無かった。

エレベーターの前で足を止めた響さん。

すかさず後ろから付いて来ていた男の人がボタンを押した。

ラウンジを出てから車に乗るまで、響さんが自分で何かをする事は一度も無かった。

エレベーターのボタンを押す事も、車のドアを開ける事も……。

ボタンを押すのも、エレベーターの扉を支えるのも、ドアを開けるのも全て一緒にいる男の人がやってくれた。

それを見て私は思った。

……この人とは生きている世界が違う。

そう思うとほんの少しだけ寂しくなった。

一緒にいても、会話をしていてもどこかに高く大きな壁を感じてしまう。

走る車の窓から外の景色を眺めながらそんな事を考えていた。

響さんは私の隣で来た時と同じように腕を組んで瞳を閉じていた。

考え事をしているのか寝ているのかは分からない。

だけど、私は気を使って話のネタを探さなくてもいい。

響さんといる時の沈黙は苦にならない。

響さんがどう思っているのかは分からないけど……。

車に乗ってすぐに告げた私の住むマンション。

車はそこに向かって走っている。

見慣れた景色が視界に飛び込んでくる。

マンションの前で車は静かに停まった。

静かに停車したにも関わらず、車が停まると同時に閉じていた瞳を開けた響さん。

一瞬、車窓から見える私が住むマンションに響さんが視線を向けた。

その視線がゆっくりと私の顔に移される。

……どうしよう。

わざわざ送ってくれたんだから、『お茶でもどうぞ』って言うべき!?

……でも、さっきコーヒーを飲んだばかりだし……。

……。

……っていうか、ウチの冷蔵庫に飲み物ってミネラルウォーターしか入っていなかったような気がする……。

……困った……。

「どうした?」

響さんがパニック状態の私を不思議そうに眺めている。

「……えっと……」

「うん?」

優しい表情で私の顔を見つめる響さん。

……仕方がない!!

いざとなったら、響さんに部屋で待っていて貰ってコンビニまでダッシュしよう!!

私はそう覚悟を決め、口を開いた。

「……あの……お茶でも……」

私の言葉に響さんはニッコリと微笑んだ。

「綾」

「……はい?」

「気を使うな」

「えっ!?」

「お前はまだガキなんだから」

響さんが私の頭に手を伸ばした。

頭の上に感じる温もり。

『お前はまだガキなんだから』

いつもならそんな事を他人に言われたらムカつくのに……。

ムカついて文句を言ったり手が出たりするのに……。

なんでだろう……。

響さんに言われても、全然嫌な気分なんかしない。

むしろ、こんな風に優しく頭を撫でて貰えるなら、“ガキ”のままでいいかもしれない……。

そんな事を考えてしまう私は相当疲れていたのかもしれない。


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