エピソード1

……別に私は不幸なんかじゃない。

特別な家庭の事情って訳じゃないし……。

ベタなドラマの設定みたいによくある話。

父親がギャンブル好きで仕事もせずに多額の借金を作ってある日突然、行方不明になった。

母親はそんな父親に見切りをつけて毎日遊びまくって日替わりで違う男を家に連れて来る。

父親と母親にとって一人娘の私はただの邪魔な存在。

そんな事自分でも良く分かっている。

どこにでもあるような話。

そんな、境遇の子なんてこの世の中数えきれない位いる。

◆◆◆◆◆

父親がいなくなって二年経った頃、自分はこの家に要らない存在なんだと思い知った。

だから、私は高校入学と同時に家を出ることを決めた。

『アンタ、一人暮らしすれば?』

父親との離婚が正式に認められ、借金取りから追われる事が無くなった母親が言った。

『お金出してくれるの?』

『いいわよ、その代わり私が出せるのは部屋を借りる時に必要なお金だけ。毎月の生活費は自分でどうにかしてね』

『はぁ?』

生活費って……。

毎月の家賃に光熱費に食費……。

それに勉強嫌いの私が頑張って合格した高校の学費。

『それって普通のバイトで生活していけんの?』

『バイトなんてしなくていいわよ』

『じゃあ、どうやって生活するの?』

『男を見つければいいじゃない。アンタ、私に似て顔だけはいいんだから』

母親が高校入学を控えた娘に言う言葉じゃない。

でも、この人はそういう人。

それに“一人暮らし”はこの人にとっても私にとってもおいしい話。

私がここに帰って来なければ、この人は男を連れ込み放題。

私だってこの人が男を連れて来る度に気を使って真夜中に外に出掛ける必要も無い。

『……分かった。私ここを出て行く』

正直、お金の当てはあった。

だから私は頷いた。

『そう、頑張ってね』

母親は私にそっくりな顔でニッコリと微笑んだ。

◆◆◆◆◆

「凛、バイト紹介してくれない?」

一人暮らしをすることが決まった私は、その日の夜、繁華街の溜まり場に姿を見せた遊び友達の凛に声を掛けた。

「なんで?綾、お金に困ってんの?」

「困ってるっていうか……」

「短期?長期?額は?」

まるでどっかの派遣会社の面接官みたいな凛の質問に思わず苦笑した。

「長期で稼げる方がいい」

「長期で稼げるって言ったら秘密のバイトがあるけど……綾、“売り”はイヤでしょ?」

「そうだね、“売り”は勘弁」

「だよね……。そんなバイトを綾に紹介したら私が瑞貴に怒られるもんね」

「はぁ?なんで瑞貴が出てくるの?」

「え?あんた達付き合ってるんじゃないの!?」

付き合ってる?

私と瑞貴が?

「私達は、そんな関係じゃないよ」

凛の大きな勘違いに私は鼻で笑った。

「……でも、寝たんでしょ?」

「うん、寝た。……っていうか、なんで知ってんの?」

「……綾と瑞貴を見てたら分かるよ」

凛が呆れたように笑った。

(p.8)

「……そう」

「好きだから寝たんじゃないの?」

「瑞貴の事は好きだけど……恋愛の対象じゃないから」

「それ瑞貴も知ってるの?」

「うん、話して納得してくれたから寝たの」

「そっかー」

凛も瑞貴も私の遊び友達。

母親が男を家に連れ込む度に繁華街で時間を潰していた。

そこで仲良くなったのが凛だった。

背が低くて、クリクリの大きな瞳に柔らかそうな髪の女の子らしい凛。

その外見とは正反対のサバサバした性格。

その性格が、私にはピッタリだった。どちらかと言えば女の子らしい性格の女は苦手。

すぐに泣いたり、一人で行動できない子と一緒にいるとイライラしてしまう。

初めて凛と会った日、外見を一目見て絶対に友達にはなれない人種だと思った。

でも、一緒に過ごすうちに彼女の性格が好きになった。

今では会わない日が無いくらい毎日一緒にいる。


同じくらいの歳の家に帰りたくない子達。

そんな子達が夜になると集まってきて自然と仲良くなっていく。

別に次の約束をして別れる訳じゃない。

でも翌日には、まるで約束をしていたかのようにみんなが集まってくる。

同じ時間を過ごすうちに仲間意識が強くなっていく。

いつのまにか私達は一つのグループになっていた。

それは、学校の仲良しグループみたいなモノじゃない。

深夜の繁華街に集まってくるような子達ばかりのグループ。

表立って何かの目的があって行動する訳じゃない。

でも、裏でやっている事を外部の人に言う事は出来ない。

……だって、裏でやっている事の殆どが違法な事だから。

バレたら警察だって動くだろうし、この辺のチームだってヤクザだって黙っていないと思う。

まぁ、目を付けられるのは時間の問題だと思うけど……。

警察なら、まだいい……。

捕まっても鑑別か最悪でも年少。

できれば、年少なんて行きたくないけど、いつかはここに帰ってくる事ができる。

人生になんの希望も持っていない私達は、自分の経歴に少々の傷が付いたとしても痛くも痒くもない。

年少に行った事を自慢気に話す奴だっているくらい。

そんな奴を尊敬とか羨望の目で見ている奴もどうかと思うけど。

でも、相手がヤクザだったら完全にアウト。

“反省したフリ”が通用する相手じゃない。

未成年のガキに本職が本気になる訳はないけど。

やっている事がガキの遊びの域を越えていたら。

……だから、私達がもっとも注意しないといけないのはヤクザだ。

危険ならそんな事しなければいいって言われたらそこまでなんだけど。

ガキの私達にだって“金”は必要。

与えてくれる人がいないなら自分でどうにかしないといけない。金がないと生きていけないのは大人もガキも同じ。

合法で稼げないなら、違法で稼ぐしかない。


凛は驚く程の人脈を持っている。

同じくらいの歳の子はもちろん上は30代から40代位まで。

なんでそんなに顔が広いのかは分かんないけど……。

その人脈を駆使してお金が必要な子にバイトの斡旋をしている。

凛が紹介してくれるバイトは、コンビ二の店員から売春まで職種は様々。

そんな凛に私はバイトを紹介して貰おうと思った。

「月、どの位必要なの?」

凛が私の顔を覗きこんだ。

「最低30かな」

「“売り”なしで30ねぇ……』

やっぱり、“売り”無しで月30万は無理か……。

30万あれば、生活費と高校の学費払っても余裕があるんだけどな。

だからって、身体使ってまで稼ぎたくないし……。

「あっ!!」

頭を抱えて悩んでいた凛が大きな声を出したと思ったらスマホを取り出した。

慣れた手つきでスマホのボタンを押して耳に当てた。

「お疲れ様です!!」

いつもより高めの声でスマホの相手に話しかける凛。

「あのー、まだ人って探していますか?」

『……』

「よかった!働きたいって子がいるんですけど……」

『……』

「はい。私とタメなんですけど、身長も高くって顔も綺麗だから歳がバレる事はないと思います」

『……』

「分かりました、明日ですね。連絡してその子に伝えておきます」

凛は『お疲れ様です』と言ってスマホを閉じた。

「綾、明日の夕方面接だって」

「はぁ?明日?」

「うん。私もついていくから!!」

「なんのバイト?」

「キャバ!!」

……。

……キャバ?

……それって、キャバクラの事!?

「……無理!!」

「なんで?」

「私にお水の仕事なんて出来ると思ってんの?」

人見知りで短気の私には絶対に務まるわけがない。

「大丈夫だよ。別にそこで指名取れっていうんじゃないんだから。ヘルプでいいんだし」

「……ヘルプ……」

「先輩にちょうど頼まれてたんだよね。『ヘルプで使える若くて見た目の良い女の子紹介してくれ』って。綾ならAランクだと思うよ」

「Aランク?」

「そうお店の女の子にランクをつけてんの。AからDまでランクがあってAが最高ランクなの」

「なに?それ……」

なんか女をバカにしてんじゃないの!?

ステーキ用の肉じゃないんだから……。

「ちょっと失礼な話だけど……。仕方ないのよ。この業界も厳しいし、そのくらいしないと客が集まらないんだって」

しみじみと飲み屋の実情を語る凛。

今の凛がどうしてもタメに見えない……。

「それに綾、お金欲しいんでしょ?」

「……」

「もし、Aランクなら指名取らなくても出勤するだけで保障金が一晩で5万だよ」

「ご……5万!?」

「うん。魅力的でしょ?」

一晩で5万って言ったら、月6日働けば30万……!?

「ねぇ、凛」

「うん?」

「それって本当に怪しい店とかじゃないでしょうね?」

私は凛の肩を掴んだ。

「当たり前じゃん!!さすがに綾を騙そうとは思わないよ!!」

「本当でしょうね?」

「本当だってば!!私、綾に殴られたくないし!!」

凛は両手を自分の顔の前に出して顔を左右に振りながら後退りした。

『綾!!』

後ろから男の声が響いた。

「あっ!!綾、瑞貴が呼んでる!!」

私は小さな溜息を吐いて凛の耳元で囁いた。

「明日、面接の2時間前に連絡ちょうだい」

「うん!分かった」

凛がニッコリと微笑んで頷いた。

声がした方を振り返ると男の子達の集団の中心にいる瑞貴がこっちを見て手招きしている。

「凛、明日ね」

私は凛の傍を離れ瑞貴の元に向かった。

思いっきりダルさを強調しながら、瑞貴の前に立った。

「なに?」

用事があるなら瑞貴がこっちに来ればいいのに……。

「なんで不機嫌な顔してんだよ?」

歩道と車道を仕切るガードレールに腰掛けている瑞貴が下から私を見上げてくる。

「不機嫌じゃなくてダルいのよ」

「ババァみてぇだな」

瑞貴が楽しそうに笑った。

「私、アンタとタメなんだけど」

「知ってる」

いつまでも笑い続ける瑞貴に溜息しか出てこない。

「なんか用事があったんじゃないの?」

私の言葉に笑いを止めた瑞貴。

「凛と何を話してたんだ?」

瑞貴がメッシュの入った茶色い髪を鬱陶しそうにかきあげた。

「髪、切れば?」

凛との会話の内容を話したくない私はそれとなく話題を変えた。

「なんで?」

「鬱陶しくない?」

「別に、お前の方が髪、長いじゃん」

瑞貴が私の胸の下まである髪を指差した。

「私はいいの。似合ってるんだから」

「じゃあ、俺も似合ってるからいいじゃん」

瑞貴は自信たっぷりに言い放った。

「……自分で言うなよ……」

私は小さな声で呟いた。

その声が聞こえていないのか瑞貴はニッコリと微笑んだ。

……確かに……。

瑞貴はカッコイイと思う。

綺麗に整っている眉の下にある切れ長の瞳に、鼻筋の通った鼻、薄くて形のいい唇。

その顔にクセ毛風の髪がよく似合ってる。

169cmある私より頭一つ分高い身長。

まだ成長期の真っ最中だからもっと高くなるはず……。

長い手足。

人を纏めるのが上手でこのグループでもリーダーみたいな存在。

軽そうな外見と正反対の性格。

仲間には限りなく優しくて、なにがあっても絶対に見捨てたりなんかしない。

相手が警察だろうとヤクザだろうと仲間の為なら牙を向ける。

私から見たら完璧な男。

「なんの話をしてたんだ?」

ボンヤリと瑞貴を見ていた私はその声に我に返った。

「え?」

「凛と話してただろ?」

前髪の間から覗く瞳がまっすぐに私を見つめている。

「あぁ、バイトを紹介してもらおうと思って」

「バイト?」

瑞貴の眉間に皺が寄って、声が低くなった。

……だから話したくなかったのに……。

「なに?」

私もまっすぐと瑞貴を見据える。

瑞貴と私は付き合っている訳じゃない。

だから私がバイトをしようとしてても文句言われる筋合いはない。

何も間違った事なんてしてないんだから堂々としていていいはず。

周りにいる仲間達の話し声と笑い声が聞こえる中、私達はお互いに視線を逸らす事はなかった。

どちらかが折れないとこの沈黙が終わる事は無い。

私も瑞貴も似たもの同士。

なかなか、折れようとはしない。

私の口から、溜息が漏れそうになった時、瑞貴の口から舌打ちの音が漏れた。

「……場所変えようぜ」

先に口を開いたのは瑞貴だった。

瑞貴が行こうとしている場所は分かっている。

その場所に行って何をするのかも……。

「私、明日面接があるんだけど」

「あ?明日の話して逃げてんじゃねぇぞ」

「逃げてる?誰に言ってんの?」

「お前以外に誰がいる?」

「ケンカ売ってんの?」

「そう望むんなら、いくらでも売ってやるよ」

「上等じゃん」

私は瑞貴の胸倉を掴んだ。

「ここでいいのか?」

私に掴み掛かられても瑞貴は表情一つ変えようとしない。

いつもと同じ余裕の表情。

それが余計にムカつく……。

瑞貴は私がここで殴れない事を知っている。

知っていて私を挑発しているんだ。

このグループでの決まりがあるから。

居場所がなくてここに集まる私達にとって仲間は家族同然の存在。

だから、裏切りやグループ内部でのケンカや殴り合いは厳禁。

もし、その決まりを破れば二度と繁華街に来る事は出来なくなる。

法律も守れない私達が唯一守る決まり事。

その決まりだけは絶対。

何があっても破る訳にはいかない。

私は瑞貴の服から手を離した。

その手を掴んだ瑞貴が私の耳元で囁いた。

「殴りてぇならいくらでも殴らせてやるよ。でも、場所を変えてからだ」

瑞貴は場所を変えて話が終わるまで私を帰らせるつもりは無いらしい。

なにも答えず瑞貴の顔を見据える私を鼻で笑うと顔だけ後ろを振り返った。

その瞬間、瑞貴の手を振り払おうとしたけど、しっかりと掴まれている手は私の手首から離れる事は無かった。

「ちょっと出てくる。なんかあったら連絡してくれ」

近くにいた男の子に瑞貴が声を掛けると、その子は、頷いて右手を振った。

「行くぞ」

そう言いながら、私の手を引いて歩き出す瑞貴。

私の手を掴む瑞貴の力が強かったから……。

瑞貴の手は私の手を離す事は無いと分かったから……。

私は瑞貴の一歩後ろを歩き出した。

連なる車のテールランプ。

眩しいくらいのネオン。

静まる事を知らない街。

絶える事のない人の波。

楽しそうな笑い声。

そんな街を、私は瑞貴の背中だけを見つめながら歩いた。

◆◆◆◆◆

「綾、ビール取ってくれ」


広い部屋に大きなベッドと大きなテレビ。

そして、ビールとミネラルウォーターしか入っていない小さな冷蔵庫。

テーブルの上にはテレビのリモコンと瑞貴がさっきまで身に着けていた時計と指輪とブレスが置いてある。

何度も来た事のある瑞貴の部屋。

2週間前に私はここで処女を捨てた。

瑞貴にあげたんじゃなくて、私が捨てたくて捨てたんだ。

フローリングの床に直接腰を下ろした瑞貴が、ベッドに腰を下ろそうとした私に声を掛けた。

「自分で取れば?」

私は、アンタの彼女でも嫁でもないんだよ!!

「あ?お前は飲まねぇんだな?」

「飲むに決まってんじゃん」

「じゃあ、自分の分を取ってこいよ」

……自分のならいいか……。

私は立ち上がるとベッドの脇にある冷蔵庫に向かった。

扉を開いて缶ビールを掴んだ瞬間……

『綾、パス!!』

突然、大きな声が響いて、驚いた私は瑞貴目掛けて缶ビールを投げていた……。

勢いよく瑞貴に向かって飛んで行く缶ビール。

それは、見事に瑞貴の手の中に納まった。

「サンキュ!!」

勝ち誇った笑みを浮かべる瑞貴。

……やられた……。

私は、缶ビールを掴むとドアを閉めベッドに腰を下ろした。

美味しそうにビールを喉に流し込む瑞貴を横目に必死で悔しさを噛み殺していた。

負けず嫌いな私。

別に今のは勝ち負けの問題じゃないんだけど……。

瑞貴の作戦に嵌ったことが悔しい!!

「飲めよ」

機嫌のいい表情を浮かべる瑞貴。

それが一層私のイライラを増幅させる。

「言われなくても飲むわよ」

私は、缶に口を付けると勢いよく喉に流し込んだ。

中身を飲み干した私は缶をテーブルに置いた。

「イッキかよ……」

瑞貴が呆れた声を出す。

その声を聞いて私は『勝った!!』っと思った。

ようやく悔しさから解放された私は瑞貴に言った。

「瑞貴、ビール取って」

「はぁ?」

「早く!!」

舌打ちをした瑞貴は渋々立ち上がり冷蔵庫から缶ビールを取り出し私に差し出した。

それを受け取った私は気分良くタバコを銜え火を点けた。

煙を吐き出した時、瑞貴が口を開いた。

「なんのバイトをするんだ?」

「は?」

「バイトするんだろ?」

「うん」

「なんの?」

「お水」

「……お水?」

またしても低くなった声。

私は、それに気付かない振りをして言葉を続けた。

「そう。キャバクラ」

「……」

なにも言葉を発さなくなった瑞貴。

私もタバコの煙を吸い込み、瑞貴の顔から視線を逸らした。

しばらく続いた沈黙を破ったのは、またしても瑞貴だった。

「いくら、必要なんだ?」

その言葉の意味が理解できなかった。

「……なにが?」

「金だよ。いくら必要なんだ?」

「なんで、そんな事聞くのよ?」

「俺が出してやるよ」

……こいつ、なに言ってんの?

「なんで、私がアンタに金を貰わないといけないのよ?私の事ナメてんの?」

「……」

「……一回寝たくらいで調子にのらないで」

瑞貴は何も言おうとしない。

ただ黙って私の顔を見つめていた。

まっすぐな視線。

一度爆発した感情は止める事が出来ない。

他人はもちろん、自分でさえも……。

「私は言ったわよね?彼氏なんて要らないって!!そんな存在必要ないって!!それでもいいってアンタが言ったんでしょ!?だったら彼氏みたいな事言わないでっ!!」

感情が溢れ出して呼吸が乱れる。

このまま、ここにいたらもっと感情が溢れ出してしまう。

そう、思った私は立ち上がって玄関に向かおうとした。

「綾!!」

瑞貴の低く良く通る声が響いた。

その声が余りにも切なそうで……。

悲しそうで……。

私は、思わず足を止めてしまった。

その瞬間、手首を掴まれた。

「どこに行くんだ?」

「……帰る」

「帰さねぇよ」

瑞貴が掴んだ私の手を引いた。

私がどんなに頑張っても男の力に敵う筈が無い。

全身に温もりを感じた時、私は瑞貴に包み込まれていた。

私の溢れ出した感情を鎮めるように背中を撫でる瑞貴の手。

……私とタメのくせに……。

まるで大人が子供をあやすような手つき。

「悪かった」

いつもは、絶対に人に謝ったりしないくせに……。

こんな時にだけ謝る。

瑞貴だけが悪い訳じゃないのに……。

「……もう、いい」

小さな声で呟いた私。

……瑞貴は分かっている。

私の扱い方を私以上に分かっている。

……時間は流れているのに……

私はそれを感じない……。

私から離れようとしない瑞貴。

「高校はどうするんだ?」

耳元に瑞貴の熱い息が掛かる。

「行くわよ」

「本当か?」

「その為にバイトするんだから」

「……どういう意味だ?」

やっと私の身体から離れた瑞貴の瞳が顔を覗き込んでくる。

「私、家を出る事にしたの」

「は?なんで?」

「そうする事を親も私も望んでいるから」

私の言葉を聞いて瑞貴は何かを考えるように宙を見ていた。

「親はどこまで出してくれるんだ?」

「部屋を借りる時に必要な分だけ」

「生活費は?」

「だから、バイトするって言ってるんでしょ?」「……なるほどな」

瑞貴が納得したように頷いて、小さな溜息を吐いた。

「ここに住めばいいじゃん」

瑞貴の言葉に私の口から溜息が漏れた。

……こいつ……。

全然分かってない。

もしかしたら、さっき『悪かった』って謝ったけど、なんで私がキレたのかさえ分かってないのかもしれない……。

「なんでよ?」

「なにが?」

「なんで私がここに住まないといけないのよ?」

すごくムカつくけど、怒るのがダルい……。

「お前がキャバクラなんかで働くのが嫌だからに決まってんだろ」

「ねぇ、瑞貴」

「あ?」

「あんたが私の事を好きなのは勝手だけど、私の生活の事にまで口を出さないでくれる?」

私の言葉に瑞貴の表情が険しくなった。

瑞貴の気持ちを分かっていてこんな事を言う私は最低だ……。

……でも……。

私は瑞貴の気持ちに答える事はできない……。

「……そうだな……」

弱々しい瑞貴の声。

その声に私の胸は締め付けられる。


瑞貴だけが悪い訳じゃない。

……もし、私が瑞貴の事を好きになれたら……。

瑞貴の気持ちを受け止める事が出来たら……。

瑞貴にこんな顔させなくていいのに……。

一人で繁華街にいた私を仲間として迎えてくれた瑞貴。

気が付くと瑞貴はいつも私の傍にいた。

まるで私を見守るように……。

口が悪い私達はいつも口喧嘩ばかりでじゃれ合っているみたいな関係だったけど……。

その関係が私にとってはとても心地が良かった。

いつまでも、そんな関係が続くと思っていた。

2週間前瑞貴の気持ちを聞くまでは……。

◆◆◆◆◆

『綾、好きだ』

真剣な瑞貴の表情にそれが冗談なんかじゃないってすぐに分かった。

瑞貴に誘われて来たこの部屋で、他愛もない話をしていた時、なんの前触れもなくそう言われた。

私も瑞貴の事が好き。

好き嫌いがはっきりしている私が、人に対して持つ感情は“好き”か“嫌い”か“興味がない”だけ。

瑞貴の事が好きって言っても、それは恋や愛とは全く違う感情。

凛の事が好きっていう感情と同じ。

瑞貴も凛も友達として好きなだけ。

私には“あるもの”が欠落している。

それは、異性に対しての愛情。

私は男の子を好きになった事がない。

今までも……多分……これから先も……。

別に男嫌いって訳じゃない。

友達としてなら、上手く付き合っていく事が出来る。

過去になにかあった訳じゃない。

男友達ならたくさんいるし。

女友達よりも男友達の方が多いし。

面倒くさい女の子といるよりサバサバした男の子といた方が私の性格に合っていて楽しい。

……だけど……。

男の子に恋愛感情を持つ事は出来ない。

それは、瑞貴も例外じゃなかった。

『私は人を好きになる事はないの』

『……どういう意味だ?』

『瑞貴の事は好き。でも、それは友達として好きなの』

『……他に好きな奴がいるのか?』

『……違う。そうじゃないの。私は今までもこれから先も人を愛する事はないと思う』

私の言葉を聞いた瑞貴の眉間に皺が寄った。

……でも、それは怒っているとか不機嫌になったとか……そういうんじゃなくて……。

どちらかと言えば何かを考えているような……。

『「これから先も」ってのは絶対なのか?』

……絶対……。

『絶対とは言い切れないけど……』

この世に絶対なんてない。

それは、私にも分かる。

私の父親と母親も結婚する時に誓ったはず。

“絶対に一生お互いを愛し続ける”と……。

だけど、それは絶対なんかじゃなかった。

『けど?』

『ほぼ確定だと思う』

張り詰めていた空気が和らいだ気がした。

それは、瑞貴の表情が和らいだから。

『“ほぼ”なんだな?』

『うん?』

『“ほぼ”ってことは100%じゃねぇよな?』

『……うん。でも、100%に限りなく近いよ』

『少しでも確率があるならそれでいい』

『……瑞貴……』

『ん?』

『……止めときなよ。女なんていっぱいいるじゃん。アンタ、モテるんだし……。可愛い彼女を作ればいいじゃん』

瑞貴の事を信じていない訳じゃない。

でも、瑞貴もいつかは変わってしまう。

今は私の事を『好きだ』と言っていてもその気持ちがいつかは変わってしまうはず。

この世に絶対なんかないんだから。

それで私たちの関係が崩れてしまうくらいなら、今のままの関係でいる方がいい。

『俺が勝手に好きなだけだ。お前が気にすることじゃねぇよ』

そう言った瑞貴の表情が余りにも切なそうだったから、私はそれ以上何も言えなくなった。


私は目の前にいる瑞貴の手を握った。

初めて見る瑞貴の表情……。

その表情の所為かは分からないけど……。

頭で考えるより先に手が動いた。

私の手が瑞貴の手に触れた瞬間、瑞貴の身体が動いた。

次の瞬間、私は瑞貴の胸の中にいた。

その胸の中で私は呟いた。

『……瑞貴……ごめん……』

『謝ってんじゃねぇよ』

『……でも……』

『絶対なんてねぇんだろ?』

『……うん』

『だったらそれでいいじゃん。お前が俺に惚れるかもしれねぇし』

『……そうだね』

未来の事なんて分かんないし、考えたくもない。

今だけで精一杯。

今が楽しかったら……。

それだけで充分だと思う……。

ふと顔を上げると瑞貴の瞳が私を見つめていた。

その瞳から視線を逸らす事が出来なかった。

窓の外からは雨が地面を濡らす音が聞こえていた。

瑞貴の顔が私に近付いてきても私は拒むことをしなかった。

キスを許したらその先がある事も分かっていた。

私にとってファーストキスも処女も大事なモノなんかじゃない。

クラスメートの女の子達が、彼氏とのH体験を自慢気に話しているのを聞いていつもウンザリしていた。

『初めては大好きな人と!!』と騒いでいたけど、その気持ちが理解出来なかった。

ファーストキスも処女も私にとっては邪魔でしかない。

……だからって見ず知らずの親父に“売る”のもイヤだけど……。

処女を捨てたら大人になれるような気がしていた。

早く大人になりたい。

他人に頼らず自分ひとりで生きていけるようになりたい。

だから私は瑞貴を拒まなかった。

窓の外から聞こえてくる激しい雨音と瑞貴の乱れた吐息を聞きながら、全身から伝わってくる瑞貴の温もりに身を委ねた。

……少しの痛みを伴って私は処女を捨てた。

大人になるはずだと思っていたのに……。

今までと大して変わりのない私。

裸のまま私を抱きしめて眠る瑞貴の腕の中で私は小さな溜息を吐いた。

……でも……。

これで良かったのかもしれない。

穏やかな表情で眠る瑞貴を眺めながらそう思った。

◆◆◆◆◆

「……なぁ、綾」

「なに?」

「もう、お前の生活の事に口出しはしねぇから……」

「……うん?」

「一つだけ約束してくれ」

「……うん、なに?」

「高校には毎日来いよ」

「……分かってる……」

「それから、困った事があったら一番に俺に話せ」

「……うん」

「あと……」

「……瑞貴……」

「うん?」

「一つじゃないじゃん」

「そうだな」

瑞貴が穏やかな笑みを浮かべた。

だから、私もつられて笑顔になった。

この日、私はまた瑞貴に抱かれた。

優しく私に触れる瑞貴。

瑞貴の溢れ出す私への想いが全身から伝わってきて胸が締め付けられる。

瑞貴の想いに答える事が出来ない私。

そんな私が瑞貴に抱かれるのは間違っている。

そんなこと嫌ってくらい分かっている。

でも、瑞貴を拒む事の方が残酷な気がする私はまだまだガキだったんだね。

その頃の私がそんな事に気付けるはずもなくて。

自分の事に必死で……。

瑞貴の想いにこんな答え方しか出来なかった。


私は不幸なんかじゃない。

私みたいな境遇の子なんてたくさんいる。

私に親なんて必要ない。

私は自分で生きていけるんだから。

人を愛することは出来ないけど。

それでも、私は生きている。

だから、愛情なんて生きていくのに必要ではないのかもしれない。

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