第12話
「ずっとなにか足りないなあと思ってたんですけど」
出来上がった清書の何枚かに目を通して、恭佳はヨサカ語に翻訳する作業を続けているトキに近寄った。彼のかたわらにはレンフナから持ってきた事典のほかに、ここ数日で確認したヨサカで暮らす幻獣の情報を記した紙の束が山となっている。
「足りないって、なにが」
「絵がないんです。姿かたちの説明は書いてありますけど、いまいち想像出来ないような気がして」
レンフナの事典を覗いてみると、そちらにはしっかりと描かれているのだが、トキが翻訳した方にはその部分に「頭は獅子、山羊の胴体、尾は毒蛇」などの説明が記されているのみだ。
「これだと人によって想像する見た目がちょっとずつ変わってきちゃいませんか? 獅子とか山羊なんて見たことのない人も多いと思いますし」
「ケルベロスは分かりやすいだろうが」
「『犬の頭が三つついている』ですよね。でもこれだって、どんな犬を思い浮かべるかはやっぱり人によって違うと思うんです」
実際レンフナの事典を見てみると、恭佳が想像していたよりも体格ががっしりしていて、犬の頭もかなり凶暴そうだった。己の頭の中にいたケルベロスは、もうちょっと愛らしい顔立ちをしている。
「ヨサカ独自の方だって、ぬっぺふほふを『ぶよぶよした芋に手足がついているような見た目』って書いてありましたけど、これはこれでざっくりし過ぎてて想像しにくいと思います。ぶよぶよした芋なんて見たことあります?」
「ない」
「やっぱり」
これまでおよそ二ヵ月半、トキに言われたまま清書を続けていたが、さすがに問題があるのではないかと思い始めた。言ってはなんだが、幻獣について詳しいわりに、彼はそれの姿かたちを言葉で表すのが下手くそらしい。
「少し前に町に現れた熊だって、地域によっては熊なんて見たこともない人がいるんです。そんな人が町で角が生えた熊に出会って、『ああ、これはあの幻獣だな!』ってすぐに気がつくとは思えません」
そもそもトキがヨサカで幻獣事典を創ろうと思ったのは、幻獣を目にすることが今後増えていくであろう人々のために「出会った異形のそれが安全か、はたまた危険な存在か判断」が出来るように、そして「幻獣の弱点や、出会った時の対策」を記しておくためだったはずだ。
もしケルベロスの絵を見ないままどこかで遭遇したとして、恭佳はすぐに「これはケルベロスだな」と判断出来ていただろうか。「似ているけど、これがそうなのかな」とまず悩んだに違いない。
町中に熊が出たあの騒動も、熊がどんな生態でどんな見た目をしているかを知っていれば、すぐに逃げる人も増えていたはずだ。あの日から半月ほど経ち、今のところ本当に幻獣だったのかどうか調査を進めている途中だ。
「とにかく、そのためにも絵があった方がいいと?」
「はい」
「じゃあお前が描いたらいいじゃねえか」
「えー、それはちょっと……」
自分から提案しておいてなんだ、とトキは机に肘をついて恭佳を見上げてくる。決まり悪さを感じながら、恭佳は近くにあった紙に、試しにケルベロスを描いてみた。
結果、出来上がったのは。
「……なんだこれ」
「だから、ケルベロスですよ。あくまで私が思い描いていた、ですけど」
「俺には頭が三つに裂けたナメクジにしか見えないんだが」
「どこが!?」
要するに、恭佳は絵心が皆無なのだ。幼児でももう少しまともな犬を描けるかもしれない。
次はトキに描いてもらったが、恭佳より「ちょっと上手いんじゃないか」程度だった。シルキーを呼んで事情を説明し、描いてもらったが。
「目がくりくりしてて可愛いですけど、あの……ケルベロスの足って何本あるんですか?」
「普通の犬と同じだ。四本」
「これ、どう見ても十本くらいありませんか……?」
「伝えてやろうか?」
「いえっ、大丈夫です!」
トキが通訳しようとするのを必死に止めるのを、シルキーは褒められているとでも感じたようだ。頬をバラ色に染め、満足そうな笑顔で掃除に戻っていく。どうやら下手な自覚はないとみえる。
三人が描いた絵では、幻獣事典に載せるなどとうてい無理な話だ。逆に読者を混乱させてしまう恐れがある。
「しかし、じゃあ誰に描いてもらうんだって話になるぞ」
「大丈夫です! そこは私に案があります」
「なんだ、伝手でもあるのか」
「そういうことです。というわけで、週末まであと二日ありますけど、明日急きょお休みをいただいてもいいですか? あと事典をお借りしたいです」
トキは不思議そうにしながらも、週末の休みを一日削るという条件付きで了承してくれた。事典がない間、彼はヨサカの幻獣事典の編纂作業を進めるという。
翌日、恭佳が向かったのは自宅だった。
動きの悪い引き戸を開け、玄関先から「ただいまー」と声をかけると、恭佳の帰りをいち早く察知した弟が転びそうになりながら走ってきた。まだ四歳の弟は、仕事で家にいないことが多い母の代わりに、恭佳に甘えてくる。
「お姉ちゃん、今週はおやすみはやいんだね!」
「うん。でも明日の朝には帰っちゃうよー」と抱きついてきた弟の頭を撫で、シルキーが手土産に持たせてくれたクッキーを預けてから、恭佳は真っ直ぐに父がいるであろう居間に足を向けた。
思っていた通り、父は居間の中央で机にかじりついていた。よほど集中しているのか、恭佳が何度か声をかけても顔すら上げず、黙々と右手に持った筆を動かしていた。無精ひげがはえた父の横顔は熱意と愉楽に満ちている。満足に休憩もとっていないらしく、頭頂部が少し薄くなった髪は手入れされた様子がない。格子模様の青い着流しも、何日も着っぱなしなことがうかがえた。
居間に足を踏み入れようとしたが、畳のそこかしこに紙が散らばっていて、迂闊に歩こうものなら滑って転びそうだ。恭佳は辛うじて見えている隙間へ慎重に爪先を落とし、正面に回り込むと、驚いて筆先を狂わせないように抑えた声で「お父さん」と呼びかけた。
「ん? 恭佳?」五回ほど呼びかけたところで、ようやく父が顔を上げた。恭佳と同じ茶色がかった瞳がこちらを見る。「あれ、今日って週末だったか?」
「ただいま、お父さん。ううん、ちょっと頼みたいことがあったから、少しお休みをずらしてもらったの。ついでに今月の食費」
トキから受け取った先月分の給金のうち、およそ半分が入った小袋を父に手渡す。
求人広告に記してあった「一〇〇〇」という数字は、ひと月分の給金だった。単位は読み通り一〇〇〇シュ――トキが常吉に軽々と渡していた金貨一枚よりやや少ないくらいの値段である。
「頼みごとって、母さんにか? 夕方頃には帰ってくると思うが」
「違うよ。お父さんに頼みごと。これを見てほしいんだけど」
恭佳は小脇に抱えていた紙の束を父に差し出し、トキとのやり取りを簡単に説明した。
「で、お父さんに絵を描いてもらえないかなと思ったの」
父は画家を生業にしている。ただし、「売れない」の四文字がつくのだが。
決して下手ではないけれど、それだけでやっていける世界ではないと父はたびたび語っている。作品が売れたことは何度かあるが、高値ではなかったし、そう頻繁でもない。当然それだけで家族が暮らしていけるはずもなく、賄えないぶんは母と恭佳が稼いでいる。
「事典の絵を、俺が?」
「そうそう。あ、こっちの『レンフナ事典』の方は見本の絵をそのまま描いてほしいって言ってたんだけど、『ヨサカ事典』の方は説明文をもとに描いてくれって、トキさんが」
「ふむ……なあ、この『ぶよぶよした芋』ってどんなだ?」
恭佳は筆を借りてぬっぺふほふを描いてみた。自分としてはかなり上手く出来たと思うのだが、父の反応を見るにいまいちなようだ。それでも父は恭佳の絵とトキの文を参考に、ものの十分ほどで、墨だけでぬっぺふほふを描いてみせた。
「実物を見たことないから、いまいち分からんが。こういう生物がいるのか」
「うん。私はそれを記録するお仕事のお手伝いをしてるって、前も言ったでしょ」
父は他にもレンフナ事典に描かれた幻獣を模写したり、河童や火の玉のほか、尾が九つもある狐、頭は美しい女だが首から下は巨大な蜘蛛という、最近見つけた幻獣をいくつか描いてくれた。どれも出来は悪くない。
「こんな感じで大丈夫だと思う!」
「けど俺だって他にも描きたい絵はあるんだぞ。絵を描くのだってタダじゃないんだ」
「そりゃもちろん、お金は払うってトキさんが言ってたよ」
「いくら?」
「描いてもらう枚数によって変動はするだろうけど、最低でも金貨二枚は確実って言ってた」
「きんっ……!?」
まさか普段描いている絵よりも高値を支払われるとは思っていなかったのだろう。
金貨に触れたことがないであろう父は、衝撃に目を見開いたまま後ろに倒れ込み、そのまま気絶してしまった。
翌朝、恭佳は両親と祖父母、弟とともに朝食を摂った。例の熊の騒動の時は、幸い家族の誰も現場に足を運んでいなかったようで、むしろあの場にいたと話した恭佳の身を心配された。
「私はちょっと頬をすりむいたくらいで、大きな怪我はしてないよ。家は? なにか変わったこととかあった?」
「変わったことっていうか、おかしな勧誘は来たわよ」
母は魚の干物を頭から頬張り、ねえ、と祖母と顔を合わせていた。
「人智を超えた力を手にしてみたくはありませんか、だったかしら。なんだか気持ち悪くてね、追い返しちゃった」
「なにそれ」一ノ宮邸には来ていないはずだ。「新手の宗教とか?」
「多分そうじゃない? 三人くらいで来たわね。一人は大事そうに像を持ってたのが記憶に残ってる」
「像?」
「ああ、それなら俺も見たよ」と父が口をはさむ。ついでに「ぼくもー!」と弟が元気良く手を挙げた。寡黙な祖父は黙々と食事を続けているが、かすかに頷いているということは祖父も目撃者なのだろう。
なんで家族全員が見ているんだと思ったが、恐らく総出で追い返しでもしたのだろう。
「あれは女の像かな。この辺じゃ見たことのない像だった。ああ、あと『レチアさま』って言ってた気が」
「レチアさま!?」
急に恭佳が大声を上げたものだから、隣に座っていた弟と正面にいた祖母がびくっと肩を震わせた。
「とつぜんなによ、そんなに大きな声出して」
「ご、ごめん。聞いたことのある名前だったから、つい」
恭佳はトキの書斎に置かれている謎の木像のことを思い出した。レチアさま、という名の像なのだろうか。貧民街の廃屋にいた男たちも、〈核〉にはレチアさまのご加護がと口走っていたはずだ。
祭壇や未完成の女の幻獣などに関しては常吉が調べを進めてくれているが、たいした進展は無さそうだった。今仕入れた情報を彼に渡せば、少しは調べも進めやすくなるかもしれない。
もしかしたらまた勧誘が来るかもしれないから、その時には可能な限りでどんな宗教なのか聞きだしてほしいと頼んだところで、恭佳は自宅を出た。また明後日に帰ってくる時までに、父は事典の絵を描き進めておくと話してくれた。
道すがら、恭佳はまたあのおかしな熊や、それに似た幻獣が現れやしないかと警戒していた。幻獣を調査していた時、熊ではなかったが、似たような状態になっている動物を何度か見かけたのだ。
犬や猫、ウサギといった小型の動物が主だったが、一、二体ほど鹿も見かけた。どれも普通はついていないはずの角が額から伸び、黒っぽい靄をまとって暴れ回っていた。
ああいった動物も幻獣なのか、いまだに判明していない。
――こいつらは額の角を折るなり斬るなりすれば、ひとまず動きを止める。
「〈機関〉のタチカワって人は、なにか知ってそうだったんだけどな……」
彼の言葉に従うのは癪だと言いながら、かといって他に手段もなく、トキは靄をまとった動物と遭遇するたびに、まず真っ先に角を折った。すると動物はたちまち大人しくなり、一時間も待てば残っていた角もぽろりと落下し、何ごともなかったかのようにどこかへ走り去ってしまう。
「幻獣とは違う種類な気がするんだけど、実際のところどうなのかなあ……」
呟いたところで答えは出ず、恭佳はうんうんと唸りながら一ノ宮邸に続く道を歩いた。
その途中、道ばたの草むらががさりと揺れた。ぎょっとして立ち止まると、もわっと見覚えのある黒い靄が地面を這う。頭の中で思い浮かべていたからなのか、恭佳の前に飛び出してきたのは、角が生えた三毛猫だった。ひどく暴れ回ったのか、荒い息を繰り返す口から、血の滴る牙が見える。
どうしよう、と恭佳はわずかに後ずさった。一人で遭遇するのは初めてだ。いつもトキが対処してくれていたから、自分の手で角を折ったことはまだない。
――で、でも、猫だからなんとかなる、かな。
このまま放置しておけば、いずれ町で暴れ回って怪我人が出るかもしれない。ここで角を折っておけば、猫も元通りになって楽になれるはずだ。
意を決し、恭佳は勢いよく猫に飛びかかった。
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