第11話
遠ざかっていくトキの背中を見送りかけて、「そういえばあの人、素手じゃない?」と気付いた。幻獣の調査や討伐に必要な一式は、恭佳が抱えたカバンに入ったままだ。となると、彼にこれらを届けるためにも恭佳もあのおかしな熊に近づかなくてはならない。
初めこそしり込みしたが、彼の助手である肩書を思い出して己を奮い立たせる。雇い主を一人だけ行かせて、トキを補佐する役目である自分だけが安全な場所に留まっているわけにはいかない。
「待ってくださいトキさん!」
恭佳はカバンからぬっぺふほふを討伐した時に使った刃物を取り出し、せめて武器を持ってくださいと訴えるようにぶんぶん振った。呼びかけに反応したトキはすぐに振り返って刃物を認め、滑るように方向転換して恭佳のところまで戻ってくると、感謝もそこそこに武器を引ったくり、代わりに邪魔になる帽子を押しつけていった。
「お前は逃げ遅れた奴らをどうにかしろ!」
「どうにかって!?」
トキは答えることなく、再び熊に向かっていく。熊は腕を振り回しながら低く唸り、駆け寄ってくるトキを血走った眼で睨みつけていた。
彼と違って武器も、身を守るものも持っていないし、近づけば邪魔になることは理解している。ひとまずトキに指示された通り、まだ道のあちこちに残っている人々をどこかへ避難させるしかない。彼らは逃げる最中に転んだりして取り残されたか、あるいは単なる見世物と勘違いしているのか、恐怖と興味が半々といった表情で熊を眺めている若者も複数人いた。
前者はともかく、後者は恭佳が逃げてくれと訴えたところで、果たして素直に聞いてくれるだろうか。
「嬢ちゃん!」
「稲庭さん!」
「トキは……ああ、あそこにいるね」
駆け寄ってきた常吉にトキの見立てを説明すると、彼は「ほんとに幻獣かな、あれ」と訝しむように首をひねる。
「じゃあ俺は嬢ちゃんを手伝うよ。今は熊の相手をトキがしてくれてるけど、あいつが倒されちゃったら標的が他の誰かに変わりそうだもんね」
「助かります」
二人で手分けして残っていた人々を脇道などに遠ざけさせ、怪我をしていた者には肩を貸したりして、とにかく出来るだけ被害が及ばなさそうな位置に誘導する。予想していた通り、興味でその場に留まっていた者たちには「邪魔するなよ!」と抵抗された。だが常吉がやってくると、蜘蛛の子を散らすようにさっさと逃げ出した。相手が恭佳――少女だったから、話を素直に聞かなかったらしい。若者たちは名残惜しそうに熊をちらりと見てから、最後に恭佳を睨みつけて去った。
トキに目を向けてみると、今のところ熊の攻撃をかわしたりいなしたりしながら、ぬっぺふほふの時のように観察を続けていた。
だが人に危害を加えかねないことと、〝十家〟が関わっている痕跡などが見られなかったのだろう。トキは襲いかかってくる熊の懐にもぐりこみ、〈核〉があると思われる胸に刃物を突き立てた。そのまま肉を切り開き、目当てのものを取り出すものと思われた。
しかし。
「なにしてるんでしょう……?」
恭佳は目につく範囲にいた人々を安全そうな場所に誘導し終え、常吉とともに物陰からトキの様子をうかがっていた。恭佳が疑問の声を上げると、常吉も同じように首を傾げる。
「おかしい。さっさと〈核〉を出せばいいのに、なんかもたついてんなぁ」
常吉が指摘した通り、トキは暴れる熊の胸をざくざくと開いていくが、なかなか〈核〉を出そうとしない。そうしている間にも、せっかく開かれた胸は最初に作られた傷から徐々に回復していき、またトキが切り開くという繰り返しに陥っている。
恐らくトキも困惑しているのだろう。ここからは表情を窺えないが、手つきから察するにかなり焦っているのがうかがえた。
「あっ!」
熊がやみくもに振り回した腕が、トキの脇腹を直撃する。かなりの威力だったようで、彼は地面に勢いよく倒れ込んだ。骨が折れていないかと心配になり、思わず駆けだそうとした恭佳の肩が、常吉に力強く掴まれた。幸いトキはすぐに立ち上がったが、手には何も持っていない。刃物は熊の胸に突き刺さったままだ。
「トキさん一人じゃ無理なんじゃないですか!?」
「だけど俺も嬢ちゃんも無防備なんだよ。助太刀しにいっても逆に邪魔になるだけだ」
「でも……!」
「心配なのは分かるけど任せるしかない。だーい丈夫、ああ見えてあいつは経験豊富だから。それに、ほら」
常吉が後ろに目を向ける。そこには蓮希の周囲にいた梔子色の装束の何人かがいて、彼らはトキが持っていたのと似たような刃物を携えていた。
「とりあえずあいつらも、あの熊をそのままにはしておけないって考えたんだと思うよ。トキの足手まといにならなきゃいいけど」
「……なんとなく、トキさんが渋い顔をしてる気がするんですけど」
手を出すんじゃねえとでも言いたげな表情を浮かべていたが、当然お構いなしに集団は走り出し、一斉に熊に斬りかかった。しかし熊は四つん這いになると、恐ろしい速さで突進をはじめ、彼らをなぎ倒していく。寸でのところで避けた者もいたが、数人は鈍い音とともに撥ね飛ばされた。
熊は土ぼこりを上げながら急停止し、再び立ち上がると周囲にいた梔子装束の何人かを殴りつけた。
「ひっ……!」
恭佳の顔がさっと青くなる。腕をまともに食らった一人の首が、あり得ない方向に捻じれるのを目の当たりにしてしまったからだ。仲間の死を前にして、彼らはいっせいに怖気づいたように後ずさりした。
「あっ、おい嬢ちゃん!」
熊が彼らに気を取られている今しかない。恭佳は常吉の手を振り払って走り出した。
常吉は「俺も嬢ちゃんも無防備」だと言ったが、トキだってそうだ。脇腹を押さえている様子からして確実に怪我をしているし、あんな状態で〈核〉を取り出せるとは思えない。
――トキさんは反対するかも知れないけど、絶対に逃げた方がいい!
幸いトキのところに駆け寄るまで、熊は恭佳に気を向けなかった。彼は恭佳が駆け寄ってきてすぐに「阿呆!」と怒鳴ったが、肩を貸すと大人しく腕を回してきた。
「早く逃げましょう。ここにいたら危ないです」
「かと言ってあいつをあのまま放置も出来ん。今は俺や、蓮希の信者たちが相手になってるからいいが、そのうち他の奴らにまで襲いかかり始める」
「じゃあ倒すんですか? 無茶ですよ、トキさん怪我してるでしょう!」
「こんなもん、あと十秒もあれば治る」
「強がりは結構です。とにかく――――」
一度安全な場所に、と言いかけて、恭佳は目を見開いた。
もう一体、別の熊が現れたのだ。
大きさは最初に現れたそれより一回り大きく、額から伸びる角も倍以上の太さがある。周囲を漂う靄はより濃密で、うねりながら地面を這ってきたと思うと、恭佳たちを絡めとるように足元からゆらゆら上がってくる。
重量感のある足取りで脇道から現れた熊は、恭佳たちを獲物と見定めたようだ。何度か後ろ足で地面を蹴ると、弾かれたように走り出した。
――あ、脚が、すくんで。
早く逃げなければ、先ほど首をへし折られた者と同じ最期を迎えてしまう。そう分かっているのに、恭佳はトキを支えたまま固まってしまった。
チッと耳元で舌打ちが聞こえた直後、恭佳は地面に手をついていた。トキが恭佳ごと倒れ込んだのだ。そのそばを熊が通り過ぎていく。一瞬でも遅れていれば、二人は間違いなく撥ね飛ばされていた。
恐る恐る振り返ると、熊は角を突き出して再び走り始めた。
もう間に合わない。恭佳は頭を抱え、トキはそれを守るように上から被さる。
けれど、どれだけ待っても衝撃がやってこない。痛みや苦しみを感じる間もなく死んだのだろうかと思ったが、地面に倒れたときに擦りむいたと思しき頬がひりひりと痛んだ。
「こいつらは額の角を折るなり斬るなりすれば、ひとまず動きを止める」
聞き覚えのある、抑揚の少ない重く低い声がした。
顔を上げると、二人を今にも踏みつぶさん位置で熊が四つん這いになっていた。どういうわけか助かったらしい。恭佳はトキに引きずられるようにして熊から離れ、その背中に男が乗っていると気がついた。
男の手には銀色に輝く刀が握られている。彼は熊の背中にそれを勢いよく突きたてると、断末魔を聞くより先に引き抜いて飛び降り、風のような速さで駆けるともう一体の熊に迫った。
先ほどと同じように背中に飛び乗ると、男は額の角を根元から斬った。木が折れるような音が響き、角は放物線を描きながら地面に落下する。
恭佳たちが呆気にとられる中、男は刀を突き立てると、熊は聞き苦しい断末魔を上げながら倒れ込んだ。何度かびくびくと痙攣していたが、間もなく静かになった。
刀を鞘に納めると、男は恭佳たちに振り向いて近づいてきた。身にまとう黒衣は闇に似て、襟を彩る紫糸の刺しゅうは花を模っているようにみえる。長方形の眼鏡の奥で存在感を放つ瞳は、ぎらついているのに不思議と恐ろしさはない。
年の頃は三十代だろうか。あごの髭は整えられ、短く刈りこまれた髪は鈍色をしていた。身長はトキよりも少し高く、がっしりした体格にどこか強者の風格がある。
「……〈機関〉だな、お前」目の前で立ち止まった男に、トキは威圧するような声音で問いかける。「貧民街の廃屋にいたのもお前だろ。タチカワとか呼ばれてたよな?」
「まずは助けてもらった礼を言うべきでは?」
「助けてくれと言った覚えは無え」
出会って間もないはずなのに、互いが警戒しているせいで険悪な雰囲気が漂う。
「〈機関〉って、この間教えてくれた集団のことですか?」
トキの言葉を借りるなら「幻獣や魔術師を片っ端からぶっ殺していく集団」だ。恭佳がそのまま呟くと、タチカワは不愉快そうに眉間にしわを寄せる。
「その認識は間違っている。僕たちは神に背くものに罰を与えているだけだ」
「はっ! 神に背く? 当の神が『あいつらは目障りだから代わりに罰を下せ』とでも言ったのを、誰か聞いたのか? 神の名のもとに勝手に行動してるだけだろうが」
「それ以上の侮辱は許さない」
二人の視線の間に、見えない火花が散っているように思える。自分はどうすべきなのだろうと恭佳はあわあわしていたが、周囲から聞こえてきたざわつきに我に返った。
熊が倒れたことで、ひとまず危険は去ったと判断し始めた人々が、少しずつ戻ってきたのだ。
「トキ、嬢ちゃん! 無事か?」
駆け寄ってきた常吉に、恭佳は頷きで答えた。彼はタチカワを見て目を瞬かせると、トキと同じように「〈機関〉じゃん」と意外そうに言った。見ただけで分かるということは、恐らくタチカワがまとう黒衣が〈機関〉に属している証拠なのだろう。
「最近うろついてるって噂になってたの、あんたか。まあ目立つかっこうだもんなあ」
「ンなこたぁどうでもいい。せっかく〈核〉の位置を調べるいい機会だったのに、熊を二体ともぶっ殺しやがって。見たことない幻獣だったんだぞ!」
「あれが幻獣だと思うのか?」
「あん?」
タチカワは初めに現れた熊に目を向ける。体には梔子装束から受けたであろう刃物があちこちに刺さっており、傷から血と、黒っぽい靄がどろどろ流れ出ていた。もう一体の熊も同様だ。人々は興味津々で熊に近寄っていく。
一方トキは、じっと熊を睨みつけ、やがて違和感を覚えたのか片眉を跳ね上げた。
「……崩れてねえ。なんでだ? 〈核〉を破壊されたら幻獣ってのは崩れ落ちるもんなのに」
まさか、と呟くと、彼は熊に向かって走り出した。初めに現れた方だ。そちらにはトキの刃物が突き刺さったままになっている。トキは群がっていた人々を怒鳴って退かせると、胸に残されていた刃物でざくざくと肉を切り開いていった。
恭佳と常吉もトキの近くに寄り、彼がなにを確認したいのかと首を伸ばした。
「……心臓がある」
トキが呆然としながら指を伸ばした先にあったのは、温かさの残る心臓だった。
「心臓があるとおかしいんですか?」
「人工生命体である幻獣に心臓はないって説明しただろうが! こいつが幻獣だったなら、ここにあるのは〈機関〉の奴にぶっ壊された〈核〉でなきゃおかしいんだよ。なのに、どう見てもこれは元からある心臓だ」
「つまりこいつは幻獣じゃなくて、普通の熊だったってことか? でも熊に角なんてないしなあ。突然変異とか?」
「体から漂ってた――っていうか今もそうですけど、黒い靄も気になりますよね。本物の熊を見たことが無かった私でも、なんかおかしいなって思いましたもん」
念のため残りの一体も探ってみると、やはり心臓があった。
体が崩れていないことと、〈核〉があるであろうと思われた位置には心臓があったこと。トキはしばらく熊の死体を前に悩んでいたが、結局答えは出なかったようだ。
「君、もしくは君たちは幻獣に関わっているのか」
いつの間にかタチカワが三人の後ろに立っていた。近づいてきた音も気配もしなくて、恭佳は少なからず驚いたのだが、トキと常吉は平気な顔をしていた。
「だったらなんだ」
「答えによってはこの場で斬り捨てなければならないから聞いている」
タチカワの手は刀の柄に触れている。
「ンなこと言われて『はい』って素直に答えるとでも思ってんなら、お前はとんでもなく馬鹿だな。関わってると思うんなら、それ相応の証拠を出してこいよ」
「幻獣や〈核〉、それに僕たちのことを知っている時点でじゅうぶんだと思うんだが」
「いまどきその程度知ってる奴、ヨサカはともかくレンフナ辺りにはごろごろいるだろ。そんな奴らまで斬り捨ててたらキリがねえ。違うか?」
トキの言葉はもっともだったのか、タチカワが言い返してくる様子はない。
「えっと……?」
恭佳はぎこちない笑みを浮かべた。タチカワの目がこちらに向けられたからだ。頑固そうなトキや飄々としている常吉からは情報は取れなさそうで、ならば少女からならどうだろう、とか思われていそうだ。
しかし彼は何を言うこともなく、「日を改めさせてもらおう」とだけ言うと身を翻して去っていった。なんだなんだと様子を見ていた人々は、黒衣の男を忌避するようにさっと道を開けるが、それも初めのうちだけだった。やがてタチカワは人ごみに紛れてしまう。
その直後、彼の姿がかげろうのように揺らめき、溶けるようにして消えたのをトキだけが見ていた。
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