第5話

 春も半ばに入り、夜が冷え込むことも少なくなった。寒がりな恭佳としては大変ありがたいのだが、ひと月もしないうちに今度は梅雨がやってきて、大好きな季節は瞬く間にじめじめした空気に塗り替えられてしまう。

 少しでも春の穏やかさを堪能しようと、恭佳は窓枠に手をついて夜風に当たっていた。開け放ったそこから見えるのはいくつもの火の玉がふよふよ漂う河童の池と、暗闇に沈む雑木林。その先にはちらほらと明かりが灯る町の様子が窺える。

「あの火の玉も幻獣だって言ってたもんなあ」

 眼下を行きかうそれを見るともなしに眺め、次いで振り返ってからぼそりと呟いた。夜でも室内が明るいのは、恭佳の部屋にも火の玉がいるからである。室内のそれは筒状のガラスに入れられ、四隅から照明の役割を果たしてくれている。

 大きさは一つ一つ異なり、火の色もよく見ると微妙に差がある。昼間に見た謎の肉塊と違って、こちらは多少の知能があるとトキは言っていた。シルキーや河童のように連れ帰ってきたのではなく、ヨサカで見つけたものだとも。

 ――昼間のアレも、その類じゃないかって言ってたっけ。

 貧民通りに現れた肉塊を、トキは「〝ぬっぺふほふ〟だな」と断言していた。少し前の時代、ヨサカの庶民の間で空想の化け物をまとめた絵巻が流行したのだが、そこに記載されている一体らしい。

 その絵巻はトキの書斎に転がっていた。

 せっかくなので見せてもらうと、確かに謎の肉塊が名前とともに紹介されていた。ご丁寧に墨で絵まで描かれている。実物と絵では、やはり実物の方が数倍不気味だったが。

『その絵巻もレンフナから持ってきたんですか?』

『そんな逆輸入みたいなことするかよ。これは俺がもともと持ってたもんだ。だからこそ嫌な予感がしてる』

 どういう意味ですかと訊ねた際、トキはどことなく怒っている――というより、不快感に満ちた眼差しで、ぬっぺふほふから取り出した宝石を睨みつけていたように思う。

『十家の魔術師たちが作った〈核〉に比べりゃ質が遥かに劣ってる。それに加えて、ぬっぺふほふなんて外国の魔術師が知ってる確率は低いし、刻印だって無かった』

 ということは、と呟いたきり、トキは思考の沼に入り込んでしまったのか、恭佳の存在を忘れたようにぷつりと喋るのを止めた。しばらく待ってみたものの、邪魔になるかもと判断して書斎を辞したのだが、あれから五時間、食事や入浴のために彼が外に出てきた様子はない。

「様子を見に行った方がいいのかな……シルキーさんならどうすればいいか分かるかも」

 けれど聞いたところで恭佳とシルキーでは使う言語が違い、そもそも会話が成り立たない。だが一ノ宮邸で過ごす幻獣たちの中で、最も意思の疎通が出来そうなのがシルキーしかいないのも事実だ。

 身振り手振りでどうにか伝わらないか思案していると、こつこつと扉を叩く音がした。はい、と応じて間もなく、現れたのはシルキーだった。昼間と変わらない真っ白な衣をまとってところは変わらないのに雰囲気が違うと思ったら、普段は帽子の中に収められている金髪が肩に流れている。

「――――、――――」

「あー、えっと。ごめんなさい、やっぱり何言ってるか全く分かんない……」

 それはシルキーも同じだったようで、彼女は軽く首を傾げていた。

 ひとまず、ずっと廊下に立たせているわけにもいかない。恭佳は部屋に招き入れようと窓辺を離れ、近くに会った椅子を引く。ここへどうぞと視線で促せば、シルキーはぺこりと頭を下げてから入ってきた。

 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。なんのにおいだろうと視線を巡らせていると、シルキーが恭佳の前に銀色の丸い盆を差し出した。

 その上には、丸くふっくらとした伽羅きゃら色のなにかがこんもりと乗っていた。

「……こ、これは、なに?」

「――――――。――――――――?」

 食べ物なのか、それとも別のなにかなのか。恭佳が手を出すのをためらっていると、

「えっ」

 シルキーが一切れ手に取ったかと思うと、恭佳の唇に押し付けてきた。食えという無言の圧力と視線をひしひし感じ、恭佳は抗うことなく、得体の知れない謎の塊にかじりついた。

 さく、と軽やかな音を立て、ほろほろ口の中で崩れていく。煎餅のようなしょうゆや塩の味付けとは違う、しっとりした甘さが舌の上にじわじわと広がった。

「……美味しい」

「!」

 言葉は分からなくとも、恭佳の表情から感想を悟ったのだろう。シルキーは嬉しそうに頬を染め、次から次へと恭佳の口に甘い塊を運んできた。気分は餌付けされている小鳥のそれである。

 どうやらこれは、シルキーが手作りした菓子らしい。彼女なりに、新たに一ノ宮邸に加わった恭佳と親しくなりたくて作ってきたのだろう。きっと。

 まさか頬がはち切れそうになるほど、一気にすすめられるとは思わなかったが。

 にこにこ満足そうに微笑みシルキーを前に、こんなに詰め込むなと文句をつけるのは憚られる。夜に甘いものを食べるという罪悪感がないわけでもないものの、美味しいからまあいいか、と恭佳は口いっぱいの菓子を少しずつ咀嚼そしゃくしながら、「普通の人間に見えるのになあ」と内心で呟いた。

 人工生命体である幻獣に心臓はないが、その代わりに〈核〉があるという。ぬっぺふほふから取り出した宝石がそれだ、と屋敷までの帰り道にトキが話してくれた。

『これがある限り、幻獣は半永久的に動き続ける』

『怪我とかしたらどうなるんですか?』

『治る。体の一部を切断されたとしてもな』

 新たに生えてくるか、元通りに接着するか、また速度も個体によって異なるという。

 人なら首をねられれば確実に死ぬだろうが、幻獣は違う。新しい首が生えてくる場面を想像して、止めておけばよかったとすぐに後悔した。

『幻獣は〈核〉を破壊、あるいは摘出されれば死ぬ。お前も見ただろ。体が砂みたいに崩れ落ちるところ』

『あれが幻獣にとっての死なんですか。でもなんで崩れ落ちるんです?』

『さあな。それは俺も知らん。魔術師じゃねえし』

 恭佳が食べている様子を見て、自分も食べたくなったのだろう。シルキーも自らの口に菓子を運び、ほっこりと頬を緩めていた。

 ――シルキーさんも〈核〉を壊されたら……。

 想像しかけて、恭佳は慌てて首を振った。

「?」

「ううん、なんでもない」

 頭の中に浮かんだ光景に上書きするように、微笑んでいるシルキーに笑いかける。

 レンフナ語で「美味しい」や「ありがとう」はなんと言うのだろう。明日にでもトキに聞いてみなければ。



 トキが書斎から出てきたのは、翌朝、太陽がすっかり顔を出したころだった。目の下の隈が濃く、ただでさえ鋭い目つきがさらに凄みを増していたから、今まで一睡もせずにずっと考えごとをしていたのだろう。

 恭佳がほうきを片手に廊下の掃除をしているのを見つけると、彼は「飯」とだけ言い残して書斎に逆戻りしていく。何が食べたいのかと聞く間もなかった。

 朝晩の食事や、間食は基本的にシルキーが作ることになっている。献立は主にトキが半年間過ごしたレンフナやその周辺諸国の家庭料理で構成されることが多いのだが、たまに自国の味が懐かしくなるらしく、定期的に恭佳にも食事を用意させると言っていた。今日が記念すべき初回である。

「……で、張り切り過ぎた、と」

「? なんですか?」

 どんぶりに白米を盛りつけながら聞き返すと、トキは呂律の回らない舌でなにごとか呟きながら机に突っ伏してしまった。

「お待たせしました。お揚げとほうれん草のみそ汁と、あとお魚があったので塩焼きにしてみました。たまご焼きはちょっと焦げちゃったんですけど、味にはあまり問題ないと思います」

「どれもこれも量が多すぎんだよ、量が……俺は食べ盛りのガキじゃねえんだぞ」

「男の人ってこれくらい食べると思ってたんですけど、違うんですか?」

 恭佳が差し出したどんぶりには、明らかに容量を超過した白米が乗っている。

 みそ汁も器一杯になみなみ注がれ、焼き魚は二匹分。ついでに言えば尾頭付きである。たまご焼きは十個ほど、細長い皿から溢れんばかりに盛られていた。

「うちは父も弟もこれくらい平気で食べますよ。我が家の出費の半分は食費でした」

「次からこれの半分くらいの量にしとけよ。食材だってタダじゃねえんだからな」

 トキが食べ終わるのを待つ間、恭佳はレンフナ語の辞書がどこかにないか本棚を覗いて回った。しかしいくら探しても見つからない。トキに助けを求めると、返ってきたのは「そんなもんないぞ」という一言と、みそ汁をすする音。

「あったとしても、ヨサカ語の翻訳なんざついてない」

「じゃあトキさんはどうやってレンフナ語を覚えたんですか」

「現地で直接。言語なんざ、会話を聞いてりゃ勝手に覚えてく」

「普通の人は無理だと思いますけどね……ていうか、レンフナに行った最初の頃は、現地の言葉を分からなかったんですよね? なんでわざわざそんな場所に家出したんですか」

「家っつーか、ヨサカから遠けりゃどこでも良かったんだよ。兄貴に連れ戻されたくもなかったしな」

 帰国したことも兄には未だに教えていないし、教えるつもりもないという。よほど仲が悪いらしい。トキが居もしない外国をさがし回る様子を面白がっているだけにも聞こえたのは、恐らく気のせいだ。

「ま、レンフナを選んだのは適当だったが、結果的には正解だったな。夢中になれるもんと、夢と目標が出来た。で、なんであっちの言葉なんか知りたがったんだ」

「シルキーさんと簡単な挨拶だけでも出来たらなって思ったんです。昨日の夜、美味しいお菓子をくれて」

「ああ、あいつが焼くクッキーは美味いだろ。あの味を知ったら、他の菓子なんか食えなくなる。お前だけ食べたのか」

 湯呑を片手に不貞腐れられて、恭佳はおや、と目を少しだけ丸くする。てっきり恭佳の部屋に来る前に、トキのところにも同じ菓子を差し入れていると思っていたからだ。

「トキさんの邪魔をしちゃいけないと思って、シルキーさんも気を遣ったんじゃないでしょうか。今朝までずっと閉じこもってたんでしょう? なにか分かったんですか」

「微妙なところだ」

 机の上に広げていた食器類を片付けたところで、彼は抽斗ひきだしからなにか取り出す。

 白い手巾に包まれていたのは、例の宝石――〈核〉だ。

「これを見てみろ」

 トキは宝石をこつこつ指先で叩く。楕円形のそれは、一見すればやけに光り輝く石にしか見えない。とても心臓とは思えなかった。

「見てみろって……虹みたいな色できれいだなーと思うだけですけど」

「昨日少しだけ言ったろ。〝十家〟の魔術師が作った〈核〉なら、この数倍は美しい。こいつは色の割合が雑なんだよ。赤みが強すぎるし、〈核〉の元になった石も、その辺の道端に転がってそうな石のはずだ。それに加えて、時々黒っぽい影が〈核〉の中を過ぎる。質が悪い証拠だ」

「そうなんですか」

「ああ。そして〈核〉の質は、そのまま幻獣の質にもつながる。ぬっぺふほふに知能もなにもなかったのは、それも関係してるはずだ。さらに言えば、〈核〉が簡単に摘出できたことを考えると、あれを作った奴はかなり未熟だ。そんな奴の〝作品〟が長期間うろうろできるとも思えねえし、噂が出始めたのも最近ときた」

「……ってことは、昨日の幻獣が作られたのは、最近ってことですか?」

「ほぼ間違いなく、ぬっぺふほふは一週間以内に作られたと考えていい」

 言うやいなや、トキは「出かけるぞ」と立ち上がった。食事もしたことだし、少しは眠った方がいいという恭佳の言葉が聞き入れられた様子はない。

「恐らくぬっぺふほふを作った奴は、貧民街のあたりに隠れてるはずだ。さっさと行って捕まえるぞ」

「つ、捕まえる?」

「言ってなかったか? 今の時代、幻獣作成はどんな理由であれご法度だ」

 現存する魔術師の家系も、幻獣作成の永久禁止を条件に存続を許されているという。

 では、破った場合はどうなるのか。恭佳の問いに、トキは淡々と答える。

「処刑されるんだよ」と。

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