第3話
「…………」
「あ、改めまして今日からお世話になります」
たっぷりと膨らんだ風呂敷を手に頭を下げた恭佳に、玄関先で出迎えてくれたシルキーは無言のまま、こちらの真似をするようにゆっくりお辞儀をする。その表情は、この仕草にどういう意図があるのか不思議がっているようだった。
助手に任命された昨日、恭佳は一度、家族に勤め先が決まったことの報告と、住み込みに必要な衣類などを取りに帰宅した。両親は安堵しながらも寂しそうだったので、週末の休日には定期的に帰るからと言い置いて出てきたのが一時間前のことである。
「――――」
「えっ?」
ころころとに下駄を転がすのに似た音が聞こえ、恭佳は誰か邸の前でも通ったかと視線を巡らせた。しかしそれらしい人影は見当たらない。気のせいかと思ったが、すぐにもう一度聞こえる。
もしかして。顔を正面に向けると、シルキーの唇が小さく動いていた。
「あ……あなたの声だったの? 初めて聞いた。すごくきれいね」
「? ――――」
やはりシルキーにこちらの言葉は通じないらしい。同じように、シルキーの言葉もまた恭佳には伝わらない。彼女は陶器と見まごう傷一つない艶やかな指を伸ばし、恭佳が足元に置いていた風呂敷を軽々と抱えた。
「えっ、大丈夫よ。自分で持てるから!」
「――――」
言葉は分からずとも、恭佳が何を言っていたのか察したらしい。荷物を運ぶのは私の仕事ですと言わんばかりに、シルキーは首を左右に振った。彼女は白い衣の裾をかすかに揺らしながら、屋敷の中に入っていく。その先で「こちらへ」と促すように手招いている。
「今行きます、ちょっと待って!」
慌ててシルキーの後を追い、案内されたのは面接の際に初めに通された部屋ではなく、階段を上った先にある二階の一室だった。シルキーが扉を叩くと、中から「入れ」と応じる声があった。
「おう、来たな」
どうやらここは入るなと厳命されていたトキの書斎らしい。三階を吹き抜けにして作られたと思しき縦に長い部屋には、壁をびっしりと覆うように本棚が設置されている。どの棚を見ても大量の書籍が詰め込まれており、入りきらなかった一部は絨毯を敷いた床に積み上げられていた。
トキは扉の正面、日光を取り入れる細長い窓の横に立っていた。ヨサカではほとんど見かけることのない黒い詰襟のシャツに黒いパンツ、撫でつけた黒髪と黄金色に輝く瞳は、初めこそ違和感があったものの、一週間でずいぶん見慣れた。
「やっぱり面倒くさいとか、嫌気が差したとか適当な理由をつけて逃げ出すかどうか、シルキーたちと賭けてたんだけどな。俺の負けだ」
「どんな賭けをしてるんですか」
というか、そんな賭けをするということは前例でもあったのだろうか。
シルキーは別の仕事があるのか、恭佳を置いて去ってしまう。どうしたものか戸惑っていると、トキが「そこに座れ」と窓の手前にある一人掛けの椅子を指さした。彼は彼で、向かい合うように置かれた椅子に腰を下ろす。二人を隔てるように置かれた重厚感のある木製の机の上には、大量の紙が広げられていた。
そっと座ってみると、柔らかな座面が恭佳の体重を受け止める。雲に座ったらこんな感じだろうかと思えるほどだ。沈みすぎない座り心地がなんとも言えない。自然と肩の力も抜けた。
「改めて、一ノ宮さん。助手として採用してくださり、ありがとうございます」
「トキでいい。自分でつけといて何だが、一ノ宮って呼ばれんのはどうにも慣れん」
「じゃあトキさんで――っていうか、え? 偽名なんですか?」
「筆名だ。まるっきり偽の名前ってわけでもねえ」
じゃあ本名はなんなのかと思ったが、問うていいものか分からない。けれど呼ぶには困らなそうだし、追及するのも面倒くさかったので止めておいた。
「さて、桂樹。昨日『助手とは言うものの結局はなんの仕事か分からん』と言っていたな」
はい、と恭佳は一つ頷いた。昨日も帰宅してから考えてみたが、明確な答えは見つからないままだ。
「本棚に入ってる本、なにか分かるか?」
「はい?」
急になんだと疑問を抱きながら、ぐるりと首を回してみた。
紙をひもで束ねただけのものや、表紙が革製のものもある。明らかに作られてから何十年どころか何百年も経っていそうなもの、反対に制作されてそれほど時が経っていないものもあれば、片手ではとても持てそうにない大きな書物、その何分の一かという薄さのものなど、多種多様な本が収まっている。
床に転がっているものの中には、本当にそんな状態で置きっぱなしにしていいのかと心配になるほど日に焼けた巻物もあった。
「色々ありそうですけど……すみません。いくつか字が読めない本が……」
「普通はそうだろうな。ヨサカ語じゃねえから」
トキは近くにあった本棚に振り向き、適当に引き抜いて机の上に積み上げる。
「今ここに出した本は全部、俺がレンフナから持ち帰ったものだ」
「れんふな? なんですか、それ」
「国だ、国」
そう言われても、どこの国なのか全く分からない。恭佳の表情から察したのか、トキは「遠い異国だと思っとけ」と呟いていた。
「重要なのはそこじゃねえ――この本だけじゃなく、この部屋にある本の大半は、幻獣に関連した書物だ」
「幻獣、ですか。その幻獣って、なんなんですか? 化け物だとも仰ってましたけど」
恭佳にとって化け物とは、昔話や伝承のみに出てくる存在、というだけではない。人の手では到底考えられないような事件や事故を起こすのも、人には決して姿を見せない化け物の仕業だと思っている。
この屋敷で見かけた火の玉も、恭佳にとっては化け物と分類される。
恭佳の言葉に、確かにそう言ったが、とトキは少しだけ唇を曲げた。
「分かりやすく理解させるためにああは言ったが、正確には幻獣は化け物じゃねえ。幻獣ってのは、魔術師たちが作り出した人工生命体のことをいう」
「………はい?」
急に聞きなじみのない単語が出てきて、恭佳の表情に困惑が混じる。
「魔術師? 人工生命体……? えっと……?」
「そのあたりは追々説明してやる。全部話そうと思うと日が暮れるからな」
「いや気になります。簡単にでいいので教えていただけると助かりますけど」
こんな中途半端なところで次に進まれては、頭がそれについていかない。
恭佳の訴えを聞き入れてくれたのか、トキは手元の本をぱらぱらとめくりながら「例えば」とこちらに視線を投げかける。
「桂樹が思いつく化け物はなんだ?」
「うーん……河童とかでしょうか」
名前を聞けば誰もが「ああ、あれか」と頷くような化け物だ。子どもほどの体格で、肌の色は緑または赤。背中に亀のような甲羅があって、口は鳥のような嘴、手足には水かきがついていると語られているが、最も特徴的なのは頭に乗った皿だろう。皿は常に水で濡れ、これが乾く、あるいは割れれば弱体化する、という噂が一般的だが。
「実物を見たことは?」
「あるわけないじゃないですか」大真面目に問いかけてくるトキがおかしくて、恭佳はつい笑いをこぼしながら続けた。「だって、あくまで伝承の存在でしょう? こういう化け物がいたら面白いなっていう、昔の人たちの想像っていうか」
「じゃあそれは?」
「それ?」
トキが恭佳の背後を指さす。促されるままに振り返り、
「ひぁっ」
喉のどこからそんな声が出るのだと思えるほど裏返った声を上げ、恭佳は椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。
一体いつから居たのだろう。恭佳の斜め後ろに、子どもの頃に伝承で聞いた姿そのままの化け物――河童がいたのだ。
大きさは五、六歳ほどの子どもくらいか。ぬらぬらとぬめり気を帯びた肌は緑色で、ところどころに魚に似た鱗がある。蛙に酷似した瞳はぎょろりと突き出ており、甲羅を背負って床に腹ばいになるさまは亀のそれだ。髪の生えた頭は頭頂部だけ禿げており、皿に見えなくもない。顔つきはサルと蛙が混じり合ったような雰囲気で、鳥のような嘴の奥からは、時々唸り声のようなものが発されている。
「な、なななな、なん、なんですか、これ!」
「なにって、河童だ」
「いやっ、でも、えっ? 河童って実在、えっ? えっ?」
動転しすぎて呂律が回らず、言葉が上手く出てこない。河童は特に動じた様子もなく、むしろ眠たそうにうとうと船を漕ぎ始めた。一方、トキは慌てふためく恭佳の姿がおかしかったのか、口元を手で隠しているものの、肩がふるふる揺れているし、なにより目が完全に笑っていた。
「お前がさっき言った通り、河童ってのは伝承だとか、信仰の中で作り出された架空の存在だ。じゃあそこにいる河童はなにか? ――それこそ幻獣だ」
「こ、これが?」
「ああ。シルキー!」
トキが呼びかけてすぐに、開け放たれていた扉からシルキーが顔を覗かせた。彼女は河童の腹の下に手をくぐらせて抱き上げると、音もなく去っていく。
なんとなく河童を恭佳の後ろに配置したのも彼女なのかと予想したところで、恭佳は大きく深呼吸をした。家族の前でもあんなに慌てたことはない。多少気恥ずかしい思いのまま、落ち着いてところで椅子に座り直した。
「今の河童が幻獣って、どういうことですか」
「言ったろ。幻獣ってのは人工生命体。魔術師たちが伝承や伝説の生物を基に作り出した存在なんだよ。さっきの河童は大昔の魔術師が作ったやつじゃないかって話だ。俺がヨサカに戻る時、愛玩動物代わりに連れ帰って来た」
普段は敷地内の池で過ごしているという。そういえば面接希望者の中で「池で変なものを見た」と訴える者がいたが、その正体はほぼ間違いなく、あの河童だろう。
「話がそれた。とにかく、俺がさっき出したこの本。これは幻獣に関連した本……つまり幻獣事典だ」
「事典、ですか」
「そう。だが当然、これは全部異国の言葉で書かれている。ヨサカ語じゃない。そこで俺は考えたわけだ。『幻獣事典をヨサカ語に翻訳したい』」
近寄ってもいいか訊ねると許可されたので、恭佳は机に近づいて、トキが開いていた幻獣事典に目を落とす。白いページが黒い線で埋め尽くされているが、これは字なのか、それとも模様なのか、恭佳には判断がつかない。トキによると、ここに書かれているのはレンフナ語という異国の文字だそうだ。
「魔術師たちが活躍した時代から二百年以上が過ぎた。それだけの時間が過ぎりゃあ、このヨサカにも幻獣は少なからず入ってくる。だがヨサカには魔術師と呼ばれる奴らはいなかったし、必然的に幻獣についての知識もない」
「へえ……」
「これから先、ヨサカの国民が幻獣を見る機会は増えるだろう。その時、この幻獣事典があればどうだ? 出会った異形のそれが安全か、はたまた危険な存在か判断がつきやすくなる」
先ほどの河童に、もし町中で遭遇していたとしたら。トキの言う通り、ヨサカ人の九割以上は幻獣なんて知らないし、逃げ惑うか、訳も分からずに攻撃するだろう。中には珍しい動物だとして掴まえて、見世物にする輩だっているはずだ。
それに、と言葉を紡いだトキの指が、さらりとかすかな音を立ててページをめくる。
「あの河童は攻撃してこなかったが、中には人間を襲う種類もいる。今のままじゃあなすすべもなく襲われて終わりだろうが、事典に幻獣の弱点や、出会った時の対策を書いておけば、どうだ?」
「さっきの私みたいに、慌てはするかもしれないけど、そのあとどうすればいいのか分かるようになる……?」
「そういうことだ」
トキにとって百点満点に近い返答だったらしい。ニッと口角が上がっていた。
「つまり、こういうことですか? 私は幻獣事典翻訳の助手ってことですか?」
「ああ。だが、俺の目的はただの幻獣事典翻訳だけじゃない」
彼は机に肘をつき、組んだ指の上にあごを乗せる。
「俺は、俺の手で、ヨサカ独自の幻獣事典を作りたいんだよ」
そう語る彼の瞳はどこまでも真っ直ぐに輝き、純粋な決意と情熱に満ち溢れていた。
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