第2話
七歳年上の姉は、本当なら今年で二四歳になっているはずだった。
『可愛いかんざしでしょう? 恭佳に似合うと思って買ってきたの』
笑った顔のえくぼが特徴的な、穏やかな美人だった。たまに怒ることもあったが、生まれつきのふっくらとした輪郭のせいか、あまり怖くなかったのを覚えている。春の道端に咲くたんぽぽによく似ている、と父は評していたし、恭佳もそう思っていた。一緒にいるだけで不思議と安心できた。
そんな姉から贈られた桜のかんざしを、恭佳は一年経った今でも大事にしているし、これから先も大事にするに違いない。まるで姉の分身のように、自分を見守ってくれていると感じるから。
「…………へぁっ」
冷たいなにかが頬を流れる感覚に飛び起き、慌てて口元を拭う。
よだれを垂らして熟睡していたらしい。普段はこんなことしないのに、と思いつつ、今は何時ごろか辺りを見回してぎょっとした。いつもなら右隣で弟が寝ているはずなのに、今日は全く知らない少女が眠っている。
どういうことだと
――そうだ、面接に来て、一週間泊まれって言われて……。
ここは自宅ではない。雑木林の中にあるのが不釣り合いな大豪邸〈一ノ宮トキ邸〉だ。恭佳を含む七人の助手希望者は、三人と四人に分けられてそれぞれ部屋を与えられ、ひとまず一夜を過ごしたのだった。
窓の外はまだ薄暗い。もう少し時間が経てば、日差しがたっぷり降り注いでくることだろう。
「あれ?」
恭佳は四人部屋に割り当てられたはずだが、畳敷きのそこに用意された布団で眠っているのは、自分を除いて二人だけ。一人いなくなっている。恭佳の左隣を陣取っていたはずの女の姿が見当たらない。
「ひゃああああああああああああっ!」
静かな空気を切り裂くような甲高い悲鳴が木霊し、恭佳は思わず身を縮こまらせた。隣で眠る少女は微動だにしなかったが、その隣で眠っていた少年は華奢な手足を駆使して飛び起きていた。
「な、なに?」
一体なにごとだ。今の声はなんだ。
部屋から出ていいものか悩んでいる間に、ばたばたと廊下を慌ただしく駆ける音がした。次の瞬間、今にも外れそうな勢いで扉が開き、転がり込むように、いなくなっていた女が恭佳の目の前に飛び込んでくる。
「た、助け、助けて!」
「はい? ちょっと、なにがあったんですか? とにかく落ち着いて」
明らかに平静ではない彼女を宥めるべく、繰り返し背中をさすってみるが効果はなかった。女は長い髪をまるで幽鬼のごとく振り乱し、明かりが少ない中でも青ざめているとはっきり分かるほど震えながら恭佳の腕にすがりついた。
「化け物を信じるなんて言ったけど、ほ、本当にいるなんて思わなかったの!」
「えっ」
「わたくしの話を信じて下さらないの? 見たらきっと信じるわ! ああ、なんて恐ろしい!」
「ちょ、えぇっ」
有無を言わさずに立ち上がらされ、靴を履く間もなく連れ出される。襦袢姿なのにと文句を言う暇さえない。恭佳は連行される囚人とはこんな心地だろうかと頓珍漢なことを考えながら、女に導かれるまま廊下を歩いた。爪が腕に食い込んでかなり痛いのだが、何度指摘しても聞く耳を持ってくれなかった。
到着したのは、炊事場と思われる一室だった。土がむき出しの地面に、煌々と火が灯る
「ここに化け物がいたんですか」
「ええ、そうなの。そうなの、だけど……」
おかしい、と彼女はぶつぶつ呟きながら、素足で地面に降りる。
「本当、本当よ! ここにこれくらいの小さな化け物がいたの! 子どもかと思ったけど、顔が子どもじゃなくて……!」
一通り見て回っても、捜していた化け物が見つからなかったらしい。女は細面を今にも泣きそうにくしゃりと歪めて、大きさを伝えようと膝のあたりでひたすら手を左右に動かしている。
「あの……というか、あなたはどうして、こんな時間にここに?」
先ほどからずっと感じていたのだ。
だって。
「『陽が昇り始めるまでは、厠に行く以外は部屋から出るな』って一ノ宮さんが仰っていたはずですけど」
「…………」
女はきゅっと唇を噛み、顔を伏せたまま何も言わない。
昨晩、これから一週間ここで過ごすうえでの注意事項を、トキは例の意地悪そうな顔でつらつらと述べていたのだ。
一つ。トキの寝室と書斎には出入りしない。
一つ。むやみやたらと騒ぎ立てない。
一つ。嘘をつかない。
一つ――陽が昇り始めるまでは、厠に行く以外で部屋から出ない。出たとしても、他の場所には立ち入らない。
どういう理由かは気になったが、なにかしら意味があるはずだろう。ここで過ごす以上は守っておこうと恭佳は決めたのだが。
「忘れてた、とかですか?」
「…………それは」
「出し抜こうとしたんだろうよ」
不意に背後から不機嫌そうな声が聞こえ、恭佳は猫のように背中を丸めかけた。恐る恐る振り返ると、昨日と変わらない出で立ちのトキが廊下の壁にもたれ、あくびをしながら恭佳と女を睨みつけている。
「他の連中が寝静まってる間に、飯の用意でもして『自分は使えますー』とか主張したかったのか、俺に取り入ろうとしたのか。まあなんでもいい。後ろめたい理由があるから黙ってんだろ。なあ?」
トキの口調は不機嫌そのものなのに、唇は緩やかに弧を描いて微笑んでいるように見える。かすかな光を受け止めて艶やかに輝く瞳は、それだけが浮き上がっているような錯覚を与え、女は恐怖を覚えたらしい。見ているこちらが哀れに感じるほど震えはじめた。
「どういう理由であれ、俺の言いつけを守れねえならここにいる資格はない。幻獣を信じてねえなら余計に邪魔だ。さっさと帰れ」
「お、お待ちください! わたくしは……わたくしは少しでも、お役に立ちたいと、その一心で!」
「俺にとって役に立つ人間は『助手になり得る奴』だけだ。ああ、それと今、嘘をついたな? 下心が丸分かりなんだよ。ますますここにいる資格はなくなった」
トキは背を向けて去りかけ、思い出したように恭佳を見た。
もしかして、自分も帰れと言われるのだろうか。そうなれば、巻き込まれただけだと訴えるほかない。信じてもらえるかは怪しいが。
「さっきの『帰れ』はお前には言ってねえぞ。巻き込まれただけで罪はないってシルキーに聞いた。まだ面接再開まで時間はある。寝てきていい」
「は、はい」
ほっと安堵したのもつかの間、『しるきい』とは誰のことか次の疑問が首をもたげた。そんな名前の人物、いなかったはずだが。
空が白み、全員が起き出して来たころ、抜け駆けを目論んだ女は去っていった。彼女だけではない。三人部屋にいた一人も似たようなことを考えていたらしく、そちらは昨晩のうちに追い出されたと聞いた。
一ノ宮邸での面接は、面接と呼んでもいいものか分からないものばかりだった。例の汚すぎる字を解読し、なんと書いてあるか一言一句間違えずに別の紙に書き写す。それを二時間のうちに一枚でも多く行えとか、順番がめちゃくちゃになっている紙の束を数字の順に正しく並び替えろだとか、そんなことが連日行われた。それと並行して家事全般も問題なくこなせるか確認され、いずれの項目でもトキの基準に満たないと判断された者は問答無用で追い出された。なかにはトキの横柄な態度に嫌気が差して、自分から去る者もいた。
恭佳も何度か彼に対して「なんだこいつ」とは思ったものの、途中で投げ出すのは自分の性分ではない。むしろ「見返してやるから覚えておけよ」と火がつき、最後までくらいつく気になった。
最初の女と同じように、化け物を見たと訴え出る者もいた。また恭佳自身も、膝丈ほどの小さな化け物ではないものの、少しばかり不思議なものを見た。夜中に厠に行こうと思って暗い廊下を進んでいた時に、まるで道案内をするかのような火の玉が現れたのだ。寝ぼけていたせいもあって特に疑問も抱かずついていったのだが、よくよく考えるとおかしい。なんだったのだ、あの火の玉は。ふわふわと浮いていたうえに、数も一つではなかったような気もする。思い出すと少しだけ怖くもなった。
が、むやみやたらと騒ぎ立てるなと言われている。なにより化け物の存在を信じると言った以上、火の玉程度で動揺するのもおかしいか、と結論付けた。見る回数が増えるにつれて、こちらに危害を加えることもないと判断でき、だんだん慣れていったのもある。
「で、残ったのは小娘と小童か」
邸で過ごす最終日、初日に通された部屋に残っていたのは、恭佳と少年だけだ。トキはなにを考えているのか分からない、笑みとも不満とも取れない表情を浮かべて二人を交互に見やってくる。
「助手として採用するのはどちらか片方だけだ。選ばれた方は明日から早速、俺の助手として働いてもらう」
トキは恭佳たちの前に腰かけ、長い脚を持て余すように優雅に組んだ。
「一つ聞いてもいいですか?」
恭佳がさっと手を挙げると、トキが無言で頷く。
「助手とは言いますけど、結局のところ、どういう仕事なのかこの一週間、特に説明されなかった気がします」
「どういうもなにも、一週間でやったことが全てだ」
汚い字をきれいに書き直すのと、紙の並べ替えと、家事全般が?
「まあいい。お前らに聞きたいのは一つだけ。それ次第でどちらを採るか決める」
ごく、と喉を鳴らしたのは恭佳か、それとも隣に座る少年か。
「〝
「はい?」
レンキ――人の名前だろうか。どこかで聞いたような気がするが、具体的にどこで耳にしたのか分からない。いや、そもそも人なのか。地名という可能性もある。悲しいことに恭佳は地理に明るくない。絶望的といってもいい。
人名や地名でもないとしたら、なにかしら物の名前とか、それとも別の、恭佳が思いつきもしない何かなのか。そしてトキの問いに「分かる」と答えるべきなのか。分からないのに分かると言っては嘘つきになるし、彼の注意事項に反してしまう。
先に口を開いたのは少年だった。
「はい。存じ上げております。偉大なる〝
「よし、帰れ」
ぱんっと軽く手を叩き、トキはぞっとするほどの清々しい笑顔で少年を追い払うような仕草をした。
「な、なぜですか!?」
「蓮希を知ってんだろ? だからだよ。俺はあいつが嫌いなんだ」
「そんな理由で僕を不採用にするのですか!?」
「ほかにも理由が必要なら言ってやろうか。代王のことを『偉大』だと言ったな。残念ながら俺はそう思わん。ヨサカにおいて偉大なのは奴じゃない」
シルキー、とトキが廊下に呼びかけると、初日以来ほとんど姿を見せなかった色白で青い瞳の女が音もなく現れ、その腕には少年の荷物を抱えていた。彼女はなにも言わずに少年にそれを押し付け、本当に歩いているのかと疑いたくなるほど無音でトキの隣に移動する。
「残念だな。シルキーからも『帰れ』だとよ。ほら、いつまで居座ってる」
少年は納得がいかないとしばらく抗議していたが、三十分ほど粘った末に肩を落として出ていった。
「それで、小娘。お前は?」トキの目が恭佳に向けられる。「お前は蓮希を知ってるのか?」
「いえ、なんとなく聞き覚えがありますけど……さっきの男の子の話を信じるなら、人の名前、ですよね? でも会ったことあるかな」
「普通はない。そして安心しろ。合格だ」
「へっ」
急に合格だと言われて、にわかには信じられず恭佳は目を瞬いた。
「ここ数日で言いつけを破った気配はないし、今の言葉に嘘も無かった。字もきれいだったし飯もまあまあ食える味だった。喜べ小娘。明日から正式に俺の助手だ」
「あ、はい。それはえっと、嬉しいんですけど」
普通ならばんざいでもして喜ぶ場面なのだろうが、どうしても正さなければならない一言があって、恭佳はすうっと息を吸い込んだ。
「ずっと私のことを小娘、小娘と仰いますけど、初日に名乗りましたよね、『桂樹恭佳』って! 聞いておいて呼ばないって、どういう了見ですか!」
「雇い主の俺がどう呼ぼうが勝手だろうが」
「それはそうですけど、だからといってずっと小娘呼ばわりされるのは腹が立ちます! 我慢してましたけどもう限界。覚えていただけないなら何回でも言いますよ、私の名前は桂樹恭佳です!」
「あーあー分かった。うるせえな」
煩わしげにトキは耳をふさぎ、シルキーと呼ばれていた女は恭佳が怒りだしたことに驚いたようで、青い瞳を丸くして呆然としている。
結局、トキが恭佳のことを「小娘」から「桂樹」と呼び変えるのに、二時間を要した。
とにもかくにも、恭佳は無事に助手として採用されることとなった。
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