第4話

「私は地元の地域会の会長をやっています。もう随分と長いです。十五、もしかすると二十年近いかもしれません。あなたがどこにお住まいなのかは存じ上げませんが、地域会とは、その地域で暮らしていくにあたって非常に重要な組織なのです。それを最近の若い連中はまったく分かっていない。彼等は道で目が合ってもロクに挨拶もしないし、酷い奴は隣に住む人の顔すら知らないなんて言う。これではいけない。暮らしとは、自分一人だけで成り立っているものではない。自分がいて、他人がいて、道端に草木があって、花が咲いていて、歩くためのアスファルトが舗装されていて、ちゃんとゴミを捨てる場所があり、種別によって捨てるべき曜日が定められていて、そういったもの達が揃って初めて成り立つものなのです。当たり前にあるものなんて何も無い。何もかも、誰かしらが定めてそれを維持しているからこそここにあるのです。つまり、何が言いたいかというと、地域にとって地域会が無ければそれらは成り立たない、ということです。しかし、最近の若い連中はそれを理解せず、会費を払うのに何もサービスを受けられていない、などと言って地域会を脱会しようとする。その会費があなた達の暮らしの当たり前を作っているということを分かっていないのです。しかも会費なんて、そんなに大した額ではない。地域で暮らしていくのであれば、それくらいは黙って払えと思います。回覧板を回すのが面倒だと言う奴もいる。では、回覧板以外でどうやって必要な情報を地域内にタイムリーに連携できるというのか。回覧板が回ってきたら確認して速やかに次の家に回す。そんなことは基本中の基本だ。文句を言わずにやれと思う。文句。そうだ、それでいて彼等は文句も多いのです。この前、私に何も言わずにゴミを捨てる場所を勝手に変えた奴がいました。三十歳手前くらいの主婦でした。これはあり得ないことです。まずは会長である私の許可を取ってから行動すべきでしょう。それを隣人同士で勝手に話し合って決めてしまうなど、言語道断です。当然本人達には厳重注意をしましたよ。めちゃくちゃに怒鳴ってやった。そしたらどうしたと思います? その主婦は、休日に旦那を連れて私のところまで文句を言いに来たんですよ。信じられますか? 私は呆れてものも言えなかった。いや、言ったんですけどね、またけっこう怒鳴って、腹が立って旦那の方をちょっと突き飛ばしたんです。そしたら今度は騒いで警察を呼んだんですよ。大袈裟にパトカーまで来て。もはやその思考についていけませんでした。みんながみんな好き勝手なことをし出すと、必ず綻びが出るんです。だから、ちゃんと管理をしなければ全体が崩れてしまう。正直言って、そんなことも分からないのかと思います。いったい学校で何を習ってきたのかと問いたいところです。私はこれからも会長として地域のために戦っていきますよ。代替わりなんて絶対にしない。誰に何を言われようと続けていきますからね。それが一番地域のためなんですから。ねぇ、あなた、ちゃんと聞いてますか?」

 私はすみません、申し訳ないですと謝った。謝っていると楽だった。謝るだけだったら考えずにできた。



 部屋のドアがノックされ、開けると知らない男が二人立っていた。一人は年配で、もう一人は私と同じくらいの年頃に見えた。

 年配の男の方が、我々は監査部の人間であり、自分は班長の井原でもう一人は担当の鈴木だと言った。何故そんな人間が私の部屋を訪ねて来たのかは分からなかったが、私はとりあえず頭を下げた。

 目の下のクマが酷いですね、と井原と名乗った男が私を見て言った。最近あまり眠れない日が続いていて、おそらくその所為だと思う、と私は答えた。もう一人の男はポケットからメモを取り出して何かを書いていた。おそらく私の言葉を記録してやいるのだろうと思った。

 眠れないというのは、寝付きが悪いということですか? それとも一度は眠れるが、変な時間に目が覚めてしまいその後眠れなくなってしまうのですか? と、井原は続けた。私はどちらもあると答えた。もう一人の男はやはり私の言葉を聞いた後にペンを動かしていた。さすがに耐え切れず、これは何のための訪問なのですか? と聞いた。

 気を悪くされたなら申し訳ない、と言って井原はもう一人の男を見た。確か、鈴木だと言っていた。この歳で監査部の担当ということはそれなりのエリートなのだろうと思った。女からも人気が出そうな、賢そうな顔をした男だった。

「突然の訪問、申し訳ございません。実は少し前から、図書室の持ち出し禁止書物である図鑑シリーズの中から恐竜図鑑だけが失くなっているのです。我々は、他の棚に間違って戻されていたり、机の下に落ちてそのままになっていたりする可能性もあると思い、図書室内をくまなく探したのですが、発見には至りませんでした」

 そうですか、と私は言った。

「図書室の係への聞き取りも行いました。そこであなたがよくこの恐竜図鑑を読みに図書室に来ていたという情報を聞きました。それでお話を伺いたく思いお部屋まで訪問させていただいた次第です。率直にお聞きします。恐竜図鑑について、何か知っていることはありませんか?」

 私は、何も知らない、と答えた。男達二人は示し合わせたかのようにお互いを見た。私の回答と反応から何かを感じ取ったのだろうか。すると今度は井原の方が話し出した。

「失礼なことをお聞きしますが、船を降りたいなどというお考えではありませんでしょうか」

 何故そんなことをお聞きになるのですか、と私は言った。

「最近のあなたの勤務態度について、多少なりとも我々の耳にも入ってきています。問題にならないまでも、あまり良い結果を残せていないということも知っています。過去の傾向からすると、そういった業務に対する不安要素を抱えた船員は、どうしても船を降りることを考えがちになってしまいます。誰しも隣の芝は青く見えるものです。心が弱くなっている時などは特にそうです。それを否定する気はありません。でも、今一度自分の足元を見てみてください。船の待遇は世間の基準から見ても決して悪いものではありません。よく考えて行動してください。失ってしまってからでは遅いのです。一度船を降りた人間は二度と船には戻れません」

 何をおっしゃっているのかよく分からない、と私は言った。苛立ちを含んだ声になっていた。

 何か悩んでいることがあったらここに相談してください、と鈴木は私に名刺大の厚紙を一枚渡した。緑色の文字で「にこにこ悩み相談センター」と書いてあった。船での業務や生活において悩みがある方はこちらまでご連絡ください、とあり、その下に太字で電話番号が書かれていた。電話番号の横に括弧書きで監査部内と書いてあった。私はこんな機関があることすら知らなかった。しかしそもそも監査部が運営をしている時点でどこまで信用していい機関なのか疑問だと思った。少なくとも私は連絡してみようとはまったく思わなかった。平気で竹刀で人を打つような部署に自分の心を預けることなどできるはずがない。

 案内を受け取り礼を言うと、意外にも男達はあっさりと帰っていった。私は部屋の中に戻り、受け取った案内をすぐにゴミ箱に捨てた。本当は燃やしてやりたいくらいの気持ちだったが、火を起こすものなど何も持っていなかった。

 椅子に座り、机の上に置いていた恐竜図鑑を開く。スピノサウルスのページだった。スピノサウルス、後期白亜紀セノマニアン期のアフリカ大陸に生息していたと言われるスピノサウルス科の恐竜。全長は約十二~十八メートル、体重は約七~八トン、歯の形から魚を主食にしていたと考えられている。

 挿絵のスピノサウルスは大口を開けてこちらに向かって吠えていた。邪悪な顔付きだった。身体全体セメントで塗り固められたような灰色で、目元やひれの先などの幾つかの部分だけ肉らしい赤色だった。

 私はスピノサウルスの群れが大地の上を駆けていくところを想像した。確かな地響きが聞こえ、大きな地震のように大地が揺れる。私は立っていることができずに地面に手をつく。スピノサウルスの群れは私のことなど視界にも入っていないかのように、ただただ前だけを見て駆け抜けて行った。想像を超える世界がそこにはあった。

 現実に戻り窓の外を見る。水平線は相変わらず霞んで、果てしなく遠かった。船は今日も淡々と進んでいる。そこに昨日との違いは無かった。



 次の選別で田丸さんが私達の班の班長になった。廣瀬は違う部署に異動になり、受付部から姿を消した。

 田丸さんが班長になったことで班が抱えていた潜在的な問題は大方解決した。異動を申し出ていたオペレーターもけっきょくそのまま留まった。廣瀬が酷かった分、田丸さんの班長としての手腕を感動するほど素晴らしく思えた。多分それは私だけではなかったと思う。

「とりあえず、おめでとうございます」

 おう、と田丸さんの返事は相変わらずだった。特別嬉しそうな素振りは見せなかった。それも田丸さんらしいなと思った。

 昼食、田丸さんはAプレートを食べていた。私は未だに食欲が戻らず、かけうどんだけだった。

「思っていたより早く廣瀬さんの時代は終わりましたね」

 廣瀬が班長だった期間は他の班長の在籍期間と比べると格段に短かった。

「あれ以上続いたらちょっとやばかった」

 田丸さんはそう言ってタルタルソースがしっかりとかかった海老フライを齧った。私はかけうどんの出汁を飲んだ。多少味気なくはあるが、嫌いな味ではなかった。

「田丸さんは、こうなることが分かっていたんでしょう?」

 私がそう言うと、面白いこと言うね、と田丸さんは笑った。私はその笑みから確信めいたものを感じた。でもそれ以上は何も聞かなかった。

 食後、煙草付き合えよ、と言われて二人で甲板の喫煙所まで行く。喫煙所には男が三人いたが、私達と入れ違いに出て行った。田丸さんは慣れた手つきで煙草に火をつけた。

「班長が煙草なんて吸っていていいんですか?」

 田丸さんはその質問には答えなかった。煙草の匂いを嗅ぐとあの地下の夜のことを思い出す。もうかなり前のことではあるが、私の心に落ちないシミを残していた。

 次の選別でお前をリーダー候補に推薦してやるよ、と田丸さんは言った。冗談だと思い、何言ってるんですか、と私は笑った。でも田丸さんは笑っていなかった。

「推薦って何ですか?」

「推薦は推薦だよ」

 私の心はぐらついた。

 私は、現状オペレーターの業務すらまともに遂行できていない、確かに一時期に比べたらマシになった、でもまだまだ安定した実力は無い、そんな人間がリーダーにはなるべきではない、リーダーにはリーダーになるべきだと選別で判断された人間がなるべきだ、そしてそれは私ではない、と私は言った。声が詰まって何度も言い直した。田丸さんは少し笑って、最低限があれば何でもいいんだよ、と言った。

「リーダーになったら報酬も上がるぞ」

 田丸さんはそう言って煙を吐いた後、具体的な額を口にした。確かにそれは魅力的な数字だった。

「他人の上に立つのは気持ちの良いことだぞ」

 でも私はリーダーとしてやっていける自信は無い、と言った。今は何に対しても自信を持てなかった。田丸さんは私の言葉を聞いて笑っていた。

「やっぱりお前は真面目過ぎるよ。もっと簡単に考えろよ。お前は何のために業務を遂行しているんだ? そんなの、突き詰めたら報酬のためしかないだろ。綺麗事を並べたってけっきょくはそこなんだよ。どんなに素晴らしくて有益な業務だろうと、報酬が無いのなら誰もやらないよ。いいか? 最終的には報酬なんだ。そしてそれを得るために必要なのは実力なんかじゃない。報酬を受け取る権利なんだ。そりゃ、実力があるに越したことはないよ。でもそれが必須条件ではない。そんなものは最低限あればいい。実力がある人間がイコール高額な報酬を受け取る人間なわけではない。大事なのはどうやってより高額な報酬を受け取る権利を得るかだ。業務の遂行や生活態度なんてものは全てそのために踏むポイントであり、物事の本質ではない。権利だよ、それだけあればとりあえずは幸せに暮らしていける」

 私は何も言えなかった。何も言わなかった。



 夕食時、食堂のピーク時間の混雑の中、あの地下で関係を持った女に会った。確かに目が合ったが今度は話しかけなかった。お互い気付かないふりをして通り過ぎた。



「では、これより選別を始めます。あなた達は船の規定に基づいて監査を行った中で、それぞれ一定の要件を満たしていると判断されたため、今回選別対象者となりました。これから私達からいくつかの質問を投げかけます。それに対して各々の考え、意見、思想を回答してください」

 本当に久しぶりの選別だった。試験官は前回左端に座っていた白髪混じりの男だけが違う人に変わっていて、あとの二人はあの女と若い男で、前回と同じだった。

 私の業務遂行レベルは相変わらず安定していない。明美のことや船に対する疑問を抱えたまま日々を何となくやり過ごしていただけだった。本来、そんな中途半端な人間が選別対象者になれるはずがない。しかし、一方で本人のモチベーションを維持、または上げるためにとりあえずのステップとして選別を受けさせることがある、という説もあった。今回の私はそれに該当するのではないかと思った。

 今回も選別対象者は四人で、私は一番入り口に近い椅子に座っていた。前回同様に奥から座っている順に回答をするのであれば、私が最後に回答することになる。今回の選別対象者は全員男だった。分かってはいたが、もちろんあのプリント部の男はいなかった。前回の選別からどのくらいの時間が流れたのだろう。やはりはっきりとしたことは分からなかったが、相当長い時間が経ったような気がした。

「あなた達はバナナは好きですか? 好きか、嫌いか、またその理由を教えてください」

 前回同様、女からの質問だった。いきなり変化球から来るとは思っていなかったのか、他の選別対象者達が動揺しているのが分かった。無理も無いと思った。皆、張り詰めているのだ。しかし私はまったく動揺しなかった。こんな質問にまともに答える必要は無いのだ。

 権利を得ることこそが最も重要なことだと田丸さんは言っていた。しかし私はそうは思わなかった。何故なら、その権利はあくまで船の上だけでの話だからだ。海の向こうにはたくさんの世界が広がっている。鳥は遠くの空を飛んでいるし、インターネット上には様々な情報が溢れている。あの、プリント部の男が書いた島だってどこかに本当に存在するかもしれない。大事なことは権利なんかではない。そんなものは外の世界では何の役にも立たない。大事なことは、自分は今どのような人間で、何をしてこれからどのような人間になりたいかだと思う。私はあの、恐竜の世界へ行きたい。わけの分からない化け物に囲まれて、自分の小ささと一から向き合いたい。私はそれを試験官達に伝えるべきだと思った。

 奥から二番目の男は、多くの食物繊維を摂れるので好きです、と答えていた。考えた末のありきたりな回答だと思った。今回も奥から順に回答を求められた。隣に座る男は、ビタミンB6を上手に取り入れられ、効率よくアンチエイジングができるので好きです、私は夜に食べることが多いです、と言った。よく見ると、この男は前回の選別でも私の隣にいた男だった。

 やがて私の番が来た。恐竜の、と言葉を出そうとした時に、真ん中に座る試験官の女と目があった。再教育で私を打った時の、あの目だった。

 その瞬間、船を降りてあなたに何ができるの? と、誰かが私の耳元で囁きかけた。私は驚いた。しかし周りにいる誰かが私にその言葉を囁きかけた様子はなかった。これはあの時、地下で関係を持った女が私に言った言葉だ。もちろん、あの女は今ここにはいない。それに今囁いた声はあの女の声ではなかった。しかし私にははっきりとその言葉が聞こえたのだ。

 船の声だ、と私は思った。私は今、船に問われたのだ。

 若い試験官の男が何も答えない私の顔を覗き込んだ。男はまた私のことを忘れているのだろうか。前回の選別のことも、あの地下の夜のことも。そんなことはどうでもいい。だが、権利のことを考えると覚えていてほしくもある。彼に顔を覚えてもらうことは必ず私にとってプラスになると思う。いや違う、そうじゃない。私とは、そうじゃない。争うように、恐竜の世界へ行きたい、と心の中で言った。しかし心の中はあくまで心の中に過ぎなかった。私は、生きたいと思った。

 果肉がやわらかく食べやすいので好きです、と私は言った。

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