第3話

『お世話になります。私は某メーカーで営業担当をしている者です。年齢は三十代後半です。正確なところは忘れました。もう十年以上同じ業務に携わっており、気付けば後輩(部下という言葉はあまり好きではないので、敢えて後輩と言います)も増え、いつしか彼等の指導が自身の業務の中心となっていました。それ自体には何のストレスもありません。若い子は皆真面目で、自分としても見習うところがたくさんあります。人間関係も極めて良好です。最近では、休日にみんなで一緒に競馬を観に行くこともあります。晴れた日の競馬場は本当に爽やかで気持ちが良いです。お酒も飲めて、これで予想が当たれば最高です。さて、問題は上司です。後輩という言葉の対義にするならば、先輩ですね。私が先輩と呼べる人達は今やもうほとんどが管理側の人間になっています。この人達が良くない。全然仕事をしません。管理側にいるので実務をやらないことは納得ができます。しかし彼等は管理すらやらない。自分に与えられた業務すらしていないのです。つまりは何もしない。たまにちょっとそれらしいことを言って体裁を保つだけです。これは明らかにおかしい。彼等はそれなりの報酬をもらっている。少なくとも私よりはずっと多いはずです。それなのに何もしないというのはもはや狂気の沙汰です。これは、組織論の破綻だと思います。管理側に行くためには昇格試験に合格する必要があります。これはケーススタディの筆記問題です。解答例は毎年受け継がれているので、正直言って文章力があれば誰でも通ります。ちょっとした進学校レベルであれば、高校生でも通ると思います。そんな試験に受かっただけの人間が組織の管理を任されるというのもおかしな話だと思います。本当に組織のことを考えなければ、管理なんてものはできません。何故、彼等が何もしないのか。それは彼等が自分のポジションに満足をしているからだと私は思います。私の属する組織では、昇格制度はありますが、降格制度は無い。つまり上がったら上がりっぱなしなのです。よっぽど、法に触れるような事件を起こしたりしたら別ですが、普通に生きていれば降格はありません。だから彼等からしたら管理側に行くことがゴールとなってしまっているのです。それでこの先ずっと安定した報酬を得られる、と考えるからです。腐っている。それが人間の本質であることは理解しますが、そんなものは組織の中で出すべきではない。私は上司達の行動を後輩達に説明することができません。説明できないこと、というのは実に気持ちが悪いものです。中身が分からない生ゴミのようだ。私は、昇格試験の撤廃と降格制度の導入を強く求めます。ご意見をいただけますでしょうか』

 私は返信ボタンを押した。しかしすぐに回答の言葉が出てこなかった。そういう場合はリーダーか班長に相談することになっている。田丸さんは応対中だったので、廣瀬に相談した。廣瀬は面倒そうな顔をしてメールの内容を見た後、分かった返しておく、と言ってその相談を預かった。私は自席に戻り、また別のメールを読んだ。



 明美からの返信が急に途絶えた。今までも、一日くらいは空くことはあったが、今回はもう既に四日も返信が無い。こんなことは今までに無かった。

『大丈夫? 何かあった?』

 私はベッドに寝転がり、もう一度明美へメッセージを送った。もし、明美が単純に返信を忘れているだけであれば、このメッセージを見て返信ができていないことに気付くだろうと思った。しかし、このメッセージに対しても明美からの返信はなかった。既読のマークも付かなかった。

 私は部屋を出て船首の方へ目的も無く廊下を歩いた。図書室の前を通ると中はもう真っ暗で、ドアには「閉館中」とプレートが掛かっていた。時計を見ると二十二時半だった。

 明美は友達と食事に行っているのかもしれない。急な事情で親元に帰っているのかもしれない。仕事で問題が起きて手が離せない状態なのかもしれない。もしくはただ単に風呂に入っているだけなのかもしれない。だから私のメッセージに気付いていないのだと、頭の中で様々なストーリーがシャボン玉のように浮かんでは消えた。そのどれもが現実に有り得る話ではあるのだが、いずれも確証には至らなかった。確かなことは今もまだ明美からの返信が無いということだけだった。

 四階の船首近くまで出た。受付部の作業場も図書室と同様に真っ暗だった。プリント部や封入部と違い受付部には夜勤が無い。残業も比較的少なく、こんな時間まで人がいることはほぼ無かった。階段で三階まで降りた。ジムは閉まっていたが、食堂は二十四時間開いているので明るかった。さすがにこの時間になるとコック服を着た男はいない。彼は毎日二十一時頃に業務を終了して帰っていく。夜勤の休憩時間等、深夜に食事を取る必要がある場合は皆予め購買部で弁当を買っておき、食堂でそれを食べていた。

 私は自動販売機でお茶を買って窓際の席に腰掛けた。真っ暗な窓にぼんやりとした私の顔が映っていた。情け無い顔だと思った。地下で女と関係を持って以来、どうも心のバランスが崩れている。それに加えて明美の返信まで途絶え、私の精神状態は最悪だった。

 私が違う女とあのようなことをしたから明美はメッセージを返してくれないのではないか、と私は考えた。しかし、明美があの夜のことを知り得るはずは無い。そんなことはあり得ないのだ。

 ただ、罪悪感は確かにここに有り、私の心を締め付けていた。私は何故あのようなことをしてしまったのだろうと後悔した。私には明美がいるではないか。どんな理由があろうと女の誘いを断るべきだった。あんなもの、所詮は一時の快楽ではないか。後に何が残るわけでもない。

 そう後悔しつつも、あの時の自分ではそれができなかったということも分かっていた。私はあの時、確かに獣になっていた。自分が自分ではないようだった。その矛盾がまた悔しかった。

 私はあのような世界を見たく無かった。地下になど連れて行ってほしくなかった。

 正しいことを正しくやるだけでいいではないか。捻じ曲げて、ぐちゃぐちゃに丸めて、噛み砕いて、そんなことにいったい何の意味があると言うのだ。バランス、と私はまた呟いた。この言葉が頭から離れなかった。船にいる限り、私はもはや私ではないのかもしれない。田丸さんの言う通り、船という巨大な生命体の一部なのかもしれない。そのことは私を激しく混乱させた。自分の年齢も忘れ、ただ毎日船の規則に従って業務に従事するだけの存在。器官で言ったら毎日毎日生真面目に全身に血を巡らす心臓のようなものだろうか。でもそれは人間の持つ心臓とはまた違っていて、船は私以外にもたくさんの心臓を持っている。私一人が潰れたくらいでは当然死なない。すぐに新しい心臓が補充される。班長がそうだったように、代わりなんていくらでも利く。船はそうやって生きてきた。正しさも汚さも抱えて海を渡ってきた。

 明美に会いたい、と今までに無いくらいに強く思った。しかし明美はどこにもいなかった。今画面にあるメッセージの記録は、あくまで明美との過去でしかなかった。そこに明美はいない。私はアイコンをタップして明美のホーム画面に飛んだ。変わらずショートカットの女性が笑っていた。たまらなく愛おしかった。

 もう一度明美にメッセージを送ろうか迷ったが、それは止めておいた。しつこい人間だと思われたくなかった。心の通じた飼い猫のように、自然と私の元に帰ってきてほしかった。食堂を出て部屋に戻ったが、やはりすぐには眠れなかった。



 廣瀬のマネジメントは相変わらずいまいちではあったが、大きな問題は起こらなかった。それはリーダーである田丸さんが全面的に廣瀬をフォローしていたからだ。基本的には班で起きた問題の責任は班長が負うことになるのだが、場合によってはこの前の私のように、リーダーやオペレーターも責任を負う可能性がある。私達の班は先日の一件で注目をされていたので、今は特に失敗の許されない時期だった。

 しかし、結果として班の運用はちゃんと回っているということを考えると、廣瀬を選んだ選別の判断は正しかったのかもしれないと思った。少し強引なようにも思えるが、ここまで考えての判断だったのかもしれない。

 応対記録をシステムに入力していると、廣瀬班長、先程の相談の件なのですが、と田丸さんが廣瀬に何かを報告する声が聞こえた。廣瀬が班長になってから、田丸さんの廣瀬に対する接し方が明らかに変わった。尊敬というか、敬うような感じで接しているのが見ていて伝わってきた。ついこの前までは同ランクだったとはいえ、現実的に今は班長とリーダーの関係なのだから、それが当たり前だと言われれば当たり前なのだが、私はどこか違和感を覚えていた。

 廣瀬が今回班長に選ばれたことなんて、自分にとってはまったく問題じゃない、と田丸さんは言っていた。田丸さんはおそらく、本心で廣瀬のことを敬っているわけではない。それが私の感じる違和感の原因だった。

 業務修了時間になったら廣瀬は毎日他の誰よりも早く作業場を出て行く。まだ応対記録を入力しきれていないオペレーターがいてもお構いなしだった。一部のオペレーターはそれに対して、自分のことしか考えていない、と不満を言った。不満が出るのも分かる。当然だと思う。むしろ廣瀬は、そんなことをして不満が出ないとでも思っているのだろうか。そのような廣瀬に対する不満はそれ以外にもあった。運用は回っていたが、潜在的な問題があることは誰の目から見ても明らかだった。

 業務終わり、今日は食堂で夕飯を食べるかサロンで食べるかを迷っていたら、ちょっといいか? と田丸さんに声をかけられた。この前のことがあるので少し身構えたが、行き先はサロンだった。外は雨が降っていた。

 サンドイッチでいいか? と言われ、頷く。田丸さんは夕飯を奢ってくれた。そういえばこの前の地下でも私は一度も支払いをしていない。田丸さんがご馳走様をしてくれたのだと今になって気づいた。私はそのことも含めて田丸さんにお礼を言った。田丸さんは、おう、と言うだけだった。

「今日、班のオペレーターから異動をさせてほしいと相談を受けたよ。あくまで個人的にだけど」

「誰ですか?」

 と聞くと、田丸さんはここだけの話だぞ、と言って小声で個人名を言った。私より一回り近く歳上の女性のオペレーターだった。名前を聞いて、原因は廣瀬だろうなと思った。彼女は廣瀬のことをかなり嫌っていた。

 部署や班について、自分から異動を申し出ることもできる。しかし基本的に異動は選別によって生じるものとされているので、自己都合の場合はそれ相応の理由が必要となる。ネガティブな理由での異動となると、以降の選別にも響く可能性もあった。彼女も若くはない。そういったことも理解した上で田丸さんに相談をしているはずだ。それだけに状況は極めて深刻だった。

「参るよなぁ。俺としてはリーダーとして、彼女の異動は認められないよ」

「かなりベテランですしね。班の戦力的にちょっと厳しいですね」

「それもあるし、精神的なところもあるよ。若い女性陣はあの人を慕ってるし、抜けるってなったらハレーションが起きるぜ」

「確かにそれはありますね」

 私はそう言ってサンドイッチを齧った。サロンのサンドイッチは購買部のサンドイッチよりも中身がしっかりと入っていて美味い。その分値段は高いのだが。

「廣瀬は想像以上だったなぁ」

「田丸さんが班長をやるべきだったんですよ」

「選別の結果だからな」

 と田丸さんは笑った。どうリアクションをしたらいいのか分からなかった。田丸さんの本心が読めなかった。今日の話にしても、どこまでが計算なのだろうかと勘繰ってしまう。田丸さんは私が思っている以上に頭が良い。

 今日は無理だけど、また落ち着いたら酒でも行こうか、と田丸さんは言った。ただの社交辞令かもしれないが私は少し緊張した。そうですね、と返したが、ぎこちない声だった。この前酒を飲んだ日の翌日は、ひどい二日酔いになって吐き気と頭痛がなかなか治らなかった。地下に行く行かない以前に、正直言って今は酒なんて飲みたくなかった。

 だんだんと雨が強まってきて、サロンの窓をバチバチと音を立てて打った。波も立ってきているようで、船の揺れも大きくなっていた。船内放送で、危険なので甲板には出ないようにしてください、各自可能な限り自室に戻るようにしてください、と注意勧告が流れた。

 サロンのマスターが、すみませんが、お聞きになった通りの状況なので、ここも一旦締めさせていただきます、と私達に言いに来た。周りを見回すと、いつの間にか私達以外には誰もいなくなっていた。

 帰ろうか、と田丸さんが言った。普段ならサロンのある甲板棟からエレベーターで下の居住区域まで降りることができるのだが、雨の影響かエレベーターが止まっていた。ボタンを押しても何の反応が無かった。

「仕方がない。倉庫の裏の階段から降りよう」

「そうするしかなさそうですね」

 注意勧告はたまにあるが、エレベーターが止まるほどの雨というのは珍しかった。甲板棟を出ると、滝のような凄まじい雨が私達を襲った。風も強く、目を開けることができなかった。

 姿勢を低くしろ! と田丸さんが声を張った。私は言われた通り姿勢を低くし、目の周りを手で覆ってなんとか足元を見た。田丸さんが私の腕を掴んだ。ゆっくりと一歩ずつ前に進む。間違っても海になど落ちたら命は無い。私は田丸さんを頼りにして歩いた。本当に凄い雨だった。

 時間はかかったが、私達は何とか倉庫の裏の階段まで辿り着き室内へと逃れた。

 運が悪かったな、と田丸さんが笑う。二人ともびしょ濡れだった。

「浴場は、やっぱり空いてないですよね」

「注意勧告が出ているからな。多分どこの施設も閉まってるだろ」

「こういう時、プリント部や封入部の夜勤ってどうしているんでしょうね」

「さぁ、でも危ないから作業は止めてるだろうな。かと言って帰るわけにも行かないから、とりあえず全員作業場で待機してるんじゃないかな」

 それはそれで可哀想な話だと思った。私だったら自室に帰りたい。試しに見に行ってみるか? と聞かれたが、私は断った。濡れた服を早く脱ぎたかったし、そもそも注意勧告が出ているのだからふらふら出歩くべきではない。

 じゃあまた明日な、と言って田丸さんは帰って行く。田丸さんの部屋は一階下の浴場のすぐそばだった。前に一度物を取りに行ったことがある。

 何だかんだで、話は断ち切れになってしまった。けっきょく何も解決していない。しかし、あのまま話していたとしても何か具体的な解決策が生まれたとも思えなかった。私にそんな解決策を見い出せる管理能力は無い。そう考えると、何故田丸さんはわざわざ私にあんな相談をしたのだろうかと思った。もしかしたら、本当は相談をしたかったのではなく、何かあった時に自分の味方になってもらうよう根回しがしたかっただけなのではないか。そんなことを考えた。

 私はびしょ濡れの作業着を脱いで頭を振った。何だか暗い考え方をする人間になってしまったなと思った。濡れた作業着はとりあえず洗濯カゴに入れた。雨の嫌な匂いが部屋の中に広がった。注意勧告が消えたらすぐにランドリーに行こうと思った。濡れた身体のまま、しばらく床に横たわった。私は疲れていた。



 明美からの連絡が途絶えてから三十日が経った。机の上に置いたメモに一から三十の数字が並んでいる。私は正確な日数を忘れないように毎日メモに記していた。三十日と言うと、だいたい一月になる。

 三十三日目の夜のことだった。アプリを開き今日も返信がないかを見に行くと、明美との過去のメッセージのやり取りは表示されているのだが、アイコンの写真が灰色に塗りつぶされていた。タップしてホーム画面に行くと「ユーザーが見つかりませんでした」と出てきた。あのショートカットの女性はどこにもいなかった。アカウント自体が削除されているようだった。

 私は机の上のメモを丸めてゴミ箱に捨てた。ベッドに倒れ込み、真っ白な天井を眺める。何か飲みたいと思ったが、身体に力が入らなかった。何をする気も起こらなかった。

 私と明美の関係とはいったい何だったのだろう、と思った。会ったことも、顔を見たことすらもない。でもメッセージ上ではたくさんの話をした。そこに肉体が無いというだけで、私は私なりに明美という人間のことをたくさん知っている。それは精神的には大きな繋がりだと思うが、側から見ればゼロと同じなのかもしれない。私が明美の肉体を何も知らないからである。私は、私の知る明美が本物の明美なのかどうかすら分からない。そもそも明美という名前が本当なのか、極論を言えば女性なのかどうかすら確証は無い。そう考えると、この前地下で関係を持った女との方が深い関係のような気もして嫌になった。肉体が絶対的なものだとは思いたくない。目に見えるものが全てだという考え方は間違っている。私は明美を愛していた。例えそれが本当の明美ではなくとも愛していたのだ。

 帰ってきてほしかった。それが叶わないことだということも分かっていた。



 最近のお前の応対は精細さに欠ける、と業務終わりに廣瀬に注意された。廣瀬はひどく苛立っていた。反論の余地は無く、私は素直に謝った。問題になっていないのが不思議なくらいだ、と廣瀬は怒鳴った。残っていたオペレーター達が哀れそうに私を横目で見て作業場から出て行った。私はもう一度廣瀬に謝った。

 この前の選別から、もうそれなりに時間も経っている、お前は今選ばれていない状態にあるのだ、と廣瀬ははっきりと言った。自分でもそれは分かっていた。

 廣瀬が帰った後、私は一人作業場に残ってまだ終わっていない応対記録の続きを入力した。今日の応対は電話が十五件、メールが四件だった。これは今日の班の中では下から二番目の応対数だった。最近はこのような低空飛行の成績が続いていた。また、精細さに欠けると言われるように、初歩的な応対ミスも多かった。入力のためにメモを見返しても、要点が掴めておらずボロボロだった。

 明美がいない今をどう生きればいいのかが分からなかった。それでもやらなければならないから業務を遂行しているだけだった。しかし、何故私はそれをやらなければならないのかは分からなかった。もはや、ただ何となくとしか言えなかった。生きる目的も見えないのに生きているから、ただ何となく業務を遂行した。それだけ、と言ってしまっていいのかは分からないが、それだけだ。「生きている」ということと「生きなければならない」ということはセットなのだろうか。そんなことまで考えた。もちろんそんな考えに答えなどない。そうだとも言えるし、そうでは無いとも言える。感情はメビウスの輪のように同じところをぐるぐると回った。

 休みの日の午後、いつものように図書室で恐竜図鑑を読んだ後、何気なく甲板に出てみるといつかのプリント部の男がいた。彼はベンチに座って、スケッチブックに色鉛筆で何かを描いていた。

 お久しぶりです、と私は男に声を掛けた。業務以外で誰かに声を掛けるなど、私にとってはかなり珍しいことだった。男は一瞬戸惑ったが、すぐに私だと気付いたようだった。

「また、絵を描き始めたんですか?」

「インターネットで買ったんだ」

「良いじゃないですか」

「別に、ただの気休めだよ。生活の根本は変わっていない」

「見せてもらってもいいですか?」

「どうぞ」

 それは、たくさんの建物が建ち並んだ島の絵だった。美しい島だった。私ははっとして前を見たが、そこにあるのはいつもと変わらない水平線だった。島なんて無かった。

「この島は本当にあるんですか?」

「さぁ? 分からないな。まぁ、世界中のどこかにあると信じたいね」

 男はそう言って少し笑った。私は男の横に座って一緒に海を見た。男は真剣な目つきで水平線を見つめ、そこには無い島をスケッチブックに描いていた。その目は、気休めという言葉にはあまりに似つかない目だった。

 船を降りる人を見たことがある? と男は私に聞いた。私は見たことが無いと答えた。そうか、と言いつつ彼は絵を描く手は止めなかった。

「私は二回見たことがある」

 男の言葉に私は頷いた。

「夜中にこっそりと非常用の小舟で海に出て行くんだよ。誰に祝福をされるわけでもなく、見送られもしない。個人的に親しくしていた人にくらいは別れの言葉を伝えているのかもしれないが、基本的に船は出て行く船員には良い顔をしない。だから皆、船を降りるということに対して否定的になる。船を降りる理由は様々だと思う。良い理由もあれば悪い理由もあるのだろうが、そんなことは船にとっては関係ない。船を降りるという行動だけを見ると、良いも悪いも変わらないのだ。馬鹿なことをする、と笑う人もいるだろう。こんな大きな船だとだいたいの人がそうかもしれない。しかし、私は船を降りることを勇敢な行動だとも思う。もちろん理由は大切だ。結果がどうなろうとも、考えの無い行動を肯定することはできない。ただ、船に乗っている限り本当の海を知ることはないというのも事実で、深く暗く、得体の知れない海に一人小舟で漕ぎ出すという行動は、称賛に値するという考え方もあるのではないかと思う。無謀な人もいれば、考え抜いた末の人もいるだろう。共通して言えることは、彼等は皆、私達にはできないことをやってのけたということだ」

 スケッチブックの上、男の描く青が綺麗だった。海は紺に近い濃い青で、空は水色に近い薄い青だった。幾つかの色を重ねてこのような色を出しているのだろうか。

 船を降りる気なんですか? と私は聞いた。男はすぐには答えなかった。集中して絵を描いているようだった。冷たい風が私達の間を抜けて行く。季節がまた変わろうとしているようだった。

「船のことを嫌いなわけじゃないんだ」

 しばらくして男が言った。作業が一区切りしたのだろうか、男はスケッチブックを閉じて色鉛筆のケースと重ねて横に置いた。

「決して上手くいったとは言えないが、私をこの歳まで生かせてくれたのは間違いなくこの船だ。本当に感謝をしてる」

「もう決めたんですか?」

「いや、そんな覚悟はまだ固まってない。あくまでまだ可能性の一つだよ。ただ、そういうことも考えているというだけだ」

「それは、また本気で絵を描くということですか?」

「全てはまだ可能性の話だよ。夢を追う自分も死んではいない。ただ、もはや自分でもよく分からない。さっきも言ったけど、船のことを嫌いなわけではないんだ。そりゃ、納得できないこともたくさんある。それに、いつまで経っても捨てきれない夢も。でも、地に足を付けて自分の周りを見回してみると、実は理想と現実なんてものは微かにしかズレていないような気もするんだ。どうしようもないくらいにズレているように思える時もあった。今でもたまにある。だから実際のところはどうなのか分からない。私の中には、何人もの私がいるのかもしれない。もしくは幾つもの理想が点在しているのかもしれない」

 夢のことはよく分からない、でも今、自分の理想と現実は確実にズレている、と私は言った。君の班もいろいろあったみたいだね、と男は言った。もちろんそのこともある、と私は言葉を濁した。

「悩んでも、正しい答えなんて多分出ない。さっき私は、考えの無い行動を肯定することはできない、と言ったけど、どこまで考えたらその範囲を抜けたと言えるのかなんて、そもそも誰にも分からない。私はさっきから少し、分からない、と言い過ぎているかもしれない。そう思う。いい歳してそんな言葉を何度も口に出すべきではないね」

 そう言って男は笑った。

「絵は、あとどれくらいで完成するのですか?」

「だいぶできたからなぁ。あとは微修正を少し。まぁ、二、三日というところじゃないかな」

「完成したらまた見せてください」

 私は何故かその男の絵に好意を持っていた。男はうん、分かった、と言って少し恥ずかしそうに笑った。

 しかし、けっきょく私が完成したその絵を見ることはなかった。それ以来あの男に会うこともなかった。

 彼は本当に船を降りたのだろうか? いずれにせよ、もうあの男と会うことは無いような気がした。私は彼の名前すら聞いていなかった。ただ、あの日男が書いていたあの絵だけは、ずっと私の脳裏に焼き付いて離れなかった。鮮やかな色鉛筆で彩られた、水平線の上に浮かぶ美しい島。



 その後も私の業務の調子は上がらなかった。応答数も班内で下から三番以内の状況が続き、三日に一回くらいは廣瀬に注意をされた。そんな私を周りは腫物に触るような目で見た。変わらず接してくれるのは田丸さんくらいだった。

 心のバランスが崩れているという自覚はあった。とは言え周りに迷惑は掛けたくなかったので、何とかこの状況を改善しようと私なりに頑張った。しかしどうにも思うようなパフォーマンスができなかった。ついこの前までは普通にやっていたことなのに、何故だか今はできなかった。水の中でもがくように私の手足は物事を捉えることができず、ただただ空回りの毎日だった。

 毎日の業務終了時間も遅くなっていた。応対数は少ないのに、何故だか応対記録の入力が追いつかないのだ。一人だけ作業場に残って入力を行う日々が続いた。

 その日も作業場を出る頃にはもう二十時前になっていた。多少の空腹感はあったが、とりあえず先に浴場でシャワーを浴びた。夕食は購買部でパンか何かを買って食堂で食べようと思った。最近は食欲が無く、プレートを注文しても全部食べ切ることができない。空腹感はあっても、食べ出すとすぐに身体に入らなくなってしまうのだ。鏡に映る私は以前より明らかに痩せていた。見るからに不健康そうだった。

 購買部に入る時、女とすれ違った。最初は何とも思わなかった。でも心の中で何かが引っかかった。顔に見覚えがあると思ったのだ。そして思い出した。

 私は打たれたように購買部を飛び出して女を追った。女は作業着のポケットに手を突っ込んで浴場の前の廊下を歩いていた。私は彼女を呼び止めた。

 振り向いた女は私が誰だか分からない様子だった。でも私は覚えていた。身なりも化粧もまったく違うが、間違いなくあの日地下で関係を持った女だった。

 この前地下で、と私が言うと女は目に見えて身構えた。あれはどう考えても船の規定外のサービスだ。後日船の中で顔を合わせても声を掛けないのが暗黙のルールなのかもしれない。それでも私は彼女と話したかった。女は最初は不審そうな目で私をみていたが、だんだんと私のことを思い出して来たようだった。もしかして、あの酔い潰れてた人? と言われ、私は頷いた。

「よく私のことが分かったわね」

 と女は驚いていた。自分でもそう思う。今の彼女は化粧もしておらず、髪も黒髪のショートで、おまけに銀縁の眼鏡をかけていた。服も作業着で、地下にいた彼女とはどう見ても別人だった。それでも私には分かった。

「君は選別で違う部署に異動になったのか?」

「違うわよ。あれはただのバイトで、別にちゃんと正規の所属があるの。この前も言わなかったっけ?」

 そう言われると言っていたような気もする。

「あなた、あの時のこと覚えてるの? 本当に酷く酔っ払ってたのよ」

 断片的ではあるが覚えている、だから君の顔も分かった、と私は言った。彼女は、まぁ、それもそうね、と肩をすくめた。今日の彼女は地下で会った時よりもさらに若く見えた。もしかするとまだ十代かもしれない。

 私の部屋に来ないか? それは自分でも信じられない一言だった。はぁ? と女は訝しげな顔をした。それはそうだと思う。ほとんど面識の無い男に部屋に誘われているのだ。

「あなたの部屋に何があるの?」

 別に、何か特別なものがあるわけではない、と私は言った。本当に取り立てて話に出すようなものなど何も無い。何も無いのに何故誘うの? と女は小馬鹿にするような笑みを浮かべた。そう言われると、私は何も言えなかった。でも女に部屋に来てほしかった。

 別にいいよ、特に予定も無いし、暇と言えば暇だし、と女は言った。私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。取り返しのつかないことをしたような気になった。

 私は女を連れて自分の部屋に戻った。通り過ぎる何人かが私達のことを見ているような気がした。気がしただけで本当のところはどうなのか分からない。神経が異常なくらい過敏になっていた。幸運なことに、知り合いには会わなかった。ドアを開けて中に入るまで、私はずっと周囲を気にしていた。

 本当に何も無いじゃない、と女は私の部屋を見て笑った。恥ずかしい気持ちもあったが、笑ってくれたことで張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。私はクッションを女に渡した。何か飲み物を出さなければと思いコーヒーを淹れた。

「でも場所は良いじゃない。ここなら静かでしょう」

「ごくたまに甲板で電圧関係の工事がある時以外は静かだね。食堂や作業場からはちょっと遠いけど」

「私の部屋は二階の会議室Cの横なのよ。真上がジムだから毎日ドスドスうるさいわ。おまけに奥には演習室もあるから人通りも多くて最悪よ」

 確かにそれは良くない場所だと思った。部屋移動を希望した方がいいのではないか? と私は言ったが、それもそれで面倒なのよ、と彼女は溜息をついた。

「何年くらいこの部屋に住んでるの?」

 もう十年弱になる、と私は答えた。すると、思ってたより歳上なんだ、と彼女は驚いた。幾つくらいに見えていたのか、と聞くと、彼女は二十四歳くらいだと言った。はっきりとした年齢は分からないながらも、さすがに二十四歳ではないことは分かった。あなた、ちょっと童顔なのよね、と彼女はコーヒーを一口飲んだ後に言った。そんなことを言われたのは初めてだった。

 これは何なの? と彼女は机の上に置いていたしわくちゃになったメモを見て言った。メモには一から七十五までの数字が書かれていた。けっきょく私は明美がアカウントを削除してからも日数のメモを続けていたのだ。

 私は女に明美とのことを話した。こんなことを誰かに話すのはこれが初めてだった。しかし不思議と抵抗感は無かった。

「まぁ、多分男でもできたんでしょうね。そうとしか思えないもん」

 私の話を聞いた後、女はあっさりとそう言った。私だってそれは薄々気付いていた。明美はおそらく何かしらの肉を手に入れたのだ。だから私との繋がりが不要になった。

 君には恋人はいないのか? 私は女に聞いた。自分でも話の流れに疑問を感じた。私は女にいったい何を求めているのだろうか。

「恋人がいるならあんなバイトやらないよ」と女は笑った。

「今でもまだバイトを続けているのか?」

「たまにだけどね」

「何故身体を売るような真似をする?」

「そんなの、報酬が欲しいからに決まってるじゃない」

「報酬を得て何がしたいんだ?」

「何でそんなことをあなたに言わなければならないのよ」

 それは確かにその通りだと思った。行き過ぎた質問だったと反省して、私は女に非礼を詫びた。機嫌を損なわせてしまったのではないかと思ったが、彼女は別に怒ったわけではないようだった。

 父親が病気で治療費が必要なの、と女がぽつりとこぼした。悪いのか? と私が聞くと、かなりね、と女は肩をすくめた。

「元々うちは父親と私と妹の三人家族だった。まぁ、もっと元を辿ればもちろん母親もいたはずなんだけどね。私は顔も知らない。物心がついた頃にはもういなかった。死んだとか離婚したとか、父親は聞く度に適当なことを言って誤魔化した。そもそも父親は家にいる時はいつもお酒を飲んでいるような人だったから、話していることの何が本当で何が嘘なのか、まったく判断がつかなかった。だからもう、私の中では勝手に母親は死んでしまったことにしたの。だって、その方が楽なんだもん。もうこの世にいないのであれば余計なことを考えずに済むから。父親が完全に仕事をしなくなったのは、私が十四で、妹が十二の時だった。何か考えるところがあってこのタイミングだったのかは分からない。偶然なのか、狙ってなのか、私はぎりぎり何とか働くことのできる年齢だった。仕方がないから、私が様々なバイトを掛け持ちして家計を支えた。部活も進学も恋も、全部諦めた。だって仕方ないじゃない? その時、三人揃って野垂れ死ぬ以外にはそれしか選択肢は無かったんだから。特に、妹のことだけは何とか守ってやりたいと思った。仕事をしなくなった父親は一日中家にいて朝から晩までお酒を飲んでいた。妹は幼いながらもそれが間違ったことだと理解していた。だから次第に父親に対して怒りをぶつけるようになって、家の中ではしょっちゅう怒鳴り合いの喧嘩が起こった。状況は悪くなるばかりで、やがて父親はそんな妹に手を上げるようになった。妹は同年代の中では大柄な方ではあったけど、それでも十代前半の女の子が中年男性に力で勝てるわけがない。妹はいつもぼこぼこに殴られて、私はそれを庇った。父親は私のことは殴らなかった。理由は分かってた。万が一怪我をさせて私が働けなくなってしまったら自分が困るから。妹が父親に殴られた日は、必ず一緒の布団で眠るようにしていた。妹は父親にどんなに殴られても決して泣かずに向かって行くのに、私の腕の中では声を上げて泣いた。この暮らしを何とかしなければならないと思った。でもその時の私には最低限の生活を維持すること以上を考える余裕はなかった。そんな生活が数年続き、やがて妹も働くことができる歳になった。その頃、私は学校を辞めて水商売をしていた。妹を学校へ行かせるためにはそれなりの報酬が必要だったから。妹も学校へ通いながらバイトを始めた。私としては、学校に集中して普通に生きて欲しいという思いはあったのだけど、収入源が増えることは正直言ってありがたかった。父親は相変わらず働きもせず毎日お酒を飲んでいた。その頃にはほとんどアルコール中毒と言ってしまっていいくらいの状態だった。どれだけ私達姉妹が報酬をもらっても、暮らしぶりは良くならなかった」

 私は時折相槌を打ちながら女の話を真剣に聞いた。女は残ったコーヒーを一気に飲み干した。もう一杯淹れようか? と聞いたが、彼女はそれを断った。

「ある日、私が働いていた歓楽街で偶然妹に会ったの。驚いた。こんなところで何をしてるの? と声をかけると、私も明日からここで働くと言うから、さらに驚いた。もちろん私は反対した。妹にはちゃんと学校を出てちゃんと働いてほしかった。別に水商売をしている人を否定する気はないけど、その時私は強くそう思ったの。今にして思えば、それは多分、妹に私のようになってほしくなかったからだと思う。生活の犠牲になるのは私だけで十分だと思っていた。でも妹の決意は固かった。私の反対に対して断固として引かなかった。妹は父親にも決して引かなかったり、昔からそういう頑固なところがあった。妹は、もう全ての話はまとまっていると言った。話を聞くと、私との共通の知人、彼はうだつが上がらないスカウトマンだったのだけど、その男が彼女に歓楽街のお店を紹介したようだった。それは、私も名前を知っているお店だった。そのお店は、ただお酒を提供するだけではなく、性的なサービスも行っているところだった。私は街の真ん中で妹の頬を思いっきり打った。でも妹は折れなかった。私は、本当はまた、妹に昔みたいに私の胸の中で泣いて欲しかった。でも彼女は強い目で私のことを見返すだけだった。逆にこちらの方が泣きそうになってしまったくらいだった。それから妹とは何となく疎遠になってしまった。同じ家に住んではいたけど、ほとんど話すこともなかった。徐々に変わっていく容姿や生活習慣から、歓楽街での仕事が続いていることは分かった。半年くらい経った頃、ポストに入っていた通知物を見て、随分前に学校を辞めていたことを知った。ショックだった。私は何のために今まで頑張って来たんだろうと思ったし、今まで感じたことの無いくらいの怒りを覚えた。その怒りは妹ではなく父親に向いた。全ての元凶はこの男だと思った。実際、怒りのあまり包丁に手を掛けたことも何度もあった。それから一年ほど経った頃、妹が唐突に家に帰らなくなった。最初のうちは誰かの家に寝泊まりをしているのだろうと思った。妹は何だかんだまだ子供だったし、こんな家に帰りたくないだろうなという気持ちは私にだって分かった。でもあまりにも帰らない日が続くから、不安になり妹が勤めていたお店に問い合わせてみた。すると、そのお店の支配人なのか、やたらと高圧的な男が電話に出てきて、少し前に妹は辞めたと言った。苛立ちを含んだ声だった。学校を辞めた時と同じ展開に呆れはしたものの、まぁ、何処かで幸せに暮らしているのであればもうそれでいいと思った。私は私で自分の生活が忙しかったからね。でも妹は幸せになれてはいなかった。それから半年が経った頃、警察が家に訪ねて来て、妹の水死体が聞いたこともない街にある貯水湖から見つかったと私に告げた。腐敗が激しい状態ではあったが、縄のような物で首を強く締められた痕が見つかり、殺人事件と断定されたと警察は言った。目の前が真っ暗になった。殺人だろうと自殺だろうと、妹がこの世にもういないという事実が私には重かった。犯人はやがて捕まった。共通の知人だったあのスカウトマンの男だった。ニュースで見た男の顔は私が知っていた男の顔とだいぶ違った。でも間違いなくあの男だった。母親も妹も死んでしまい、ついに私は父親と二人きりになってしまった。父親は相変わらずお酒を飲み続けた。妹のお葬式にも出なかった。私はそんな父親を心から軽蔑した。でもとりあえず働いて生かした。ある日、仕事から帰るとキッチンで父が血を吐いて倒れていた。コップに酒を注ごうとしていたところだったのか、床に酒瓶が転がっていて、部屋中にアルコールの匂いが漂っていた。私はすぐに救急車を呼んだ。上手く受け入れ先が見つかり、とりあえず大事には至らなかったけど、発見が遅れたら命も危なかったと医者に言われた。私は、良かったと思った。不思議だった。殺したいと思うほど憎んでいた男の命を救えて安心している自分がいる。矛盾していると思った。情けなくて泣けてきた。私は一人になるのが怖かった。どんなに最低な人間でも、家族として私の側に残っていてほしかった。その後の検査で父の身体に悪性の腫瘍が見つかった。状況はかなり悪い、でも治療する方法が無いわけではないと言われた。それには莫大な治療費がかかることも、医者は淡々と説明した。私が何とかするしかないと思った。父親が仕事をしなくなった時と同じだった。それで水商売時代のお客さんの伝手で今はこの船に乗ってる。でも船の報酬だけでは足りないからバイトもしてる。どう? 分かった? これで理解してもらえた?」

 私は頷いた。大変だったんだな、と言った。本当はもっと気の利いたことが言いたかったのだが、これしか言えなかった。ずっと人とのコミュニケーションをサボり続けてきた所為だと思った。業務ではマニュアル通りの上辺の言葉でコミュニケーションを取ることができる。でも、それ以外の人と人との純粋な繋がりは、もっと重いものでできているのだ。

 身体を壊さないように気をつけて、それにああいうバイトは病気にも注意した方がいい、と私は言った。我ながら何を言っているのだと思った。女はしばらく黙って私のことを見つめていた。やはり、まずいことを言ってしまったのかと思い、謝ろうとしたその時に女は急に笑い出した。堪え切れなくて笑う、という感じの笑い方だった。私は何故彼女が笑うのかが分からなかった。何が可笑しい? と聞くと女は、今の話を本気で信じたの? と笑いながら言った。

「嘘なのか?」

「嘘よ、嘘。そもそも私に妹なんていないし。とっさに考えた話にしては上出来よね。でもまさか本気で信じるとは思わなかったわ」

「何でそんな嘘をついた?」

「だって、そういう話が欲しかったんでしょう? そう顔に書いてあったもの」

 そう言われて、ぐっと息が詰まった。部屋の空気が薄くなる感覚を覚えた。だとしても、と私の言葉は歯切れが悪かった。女の言う通りだった。私は無意識のうちにそこに美談を求めていた。女の行動を正当化したかったのだ。何故か? それは私が女に救いを求めていたからだ。明美のように正しく私のことを包んでほしいと思ったからだ。

 しばらく二人とも黙っていた。部屋の中は無音だった。不自然なくらい何の音も聞こえなかった。まるで、何もかもがそこに無いようだった。例え目に見えていても物体はそこには無いようだった。私の額を生温い汗が伝っていく。実に気持ちの悪い感触だった。やがて、そろそろ帰る、と言って女は立ち上がった。引き止める言葉は出なかった。

「あのね、そんなに落ち込まないでよ」

 女は呆れたように言った。

「世の中そんなに美しいことばかりじゃないんだよ? 報酬は、美しいことのためだけにあるものじゃない。私はただ自分のために報酬をたくさんもらいたいだけ。それだけよ」

 嘘だ、と私は言った。かすれていて、情け無い声だった。女は私を見て、蔑むようにまた笑った。そしてそのまま部屋を出て行った。女がいなくなってからもその笑みはしばらく私の心に中に残った。

 何故、嘘だなんて言ったのだろう? 考えてみれば私はあの女のことを何も知らないのだ。勝手に女に幻想を見て、そして勝手に失望した。明美のことだってそうだ。幻想。世界の九十九パーセントは幻想でできている。真実なんてものは幻想に比べたらほんの一握りのものなのだ。私は机の上のメモを今度こそ捨てた。二度と修復できないようにびりびりに破いて捨てた。

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