20
「オウ、……!」
半ばからのが、黒野の言葉の意味が分からないという素朴な疑問の視線、もう半ばが、何をも
まるで顔を突然殴られでもしたかのように、表情をぐちゃぐちゃに狂わせつつ上体を揺らめかせた不意安は、ぎこちなく腕を躍らせつつ、乱れに乱れた声音で、
「黒野、さん、……何を、とんでもないことを!」
「仏教に関連した重大な社会現象でしたし、この場に挙げても良い程には、興味深い議題と自分は思います。」
「しかし、そんな、学語世界の、しかも殆ど現代のこと、」
「散々、自分の居た世界の史実について、これまで皆様で話して来たじゃないですか。あの教団による国家転覆企図と夥しき殺人行為は、歴史に残らない筈もなく、事実、自分が居た頃にも宗教団体一般への嫌悪や警戒など、世に
「ですが、仮に、あの集団を仏教系とするならば、明らかにそれは一般の大乗と言うよりも密教的であり、私よりも煝煆さんの方が、ずっと適切な役者の筈でしょう!」
「一騎討ちをしよう、……と言い出したのは、貴女でしたよね?」
多少の泡を喰いながらも、ここまで寸隙も許さず
そこを、逃さずに、
「ならば、貴女の出番となるのも、仕方ないじゃないですか。それに煝煆さんは棄教を、少なくとも試みてはいるのですから、仮に知識が有ろうと、仏教の弁護を担うには如何にも不適切な人物でしょう。
貴女ですよ、不意安さん。……この船においては、貴女が、貴女の言葉で、御仏の教えを護るしか無いんです。」
黒野なりの、乾坤一擲の一撃だった。真っ当な神学的知識、宗教的知識においては、やはり自分は全く敵わない。
しかし、とにかく不意安を破らねば縊り殺さかねぬ以上、どうにかして、自分の方が彼女よりも詳しく、かつ、仏教に関わる
正に切り札、最後の一手を放った彼が、椅子の上で、耳へ聞こえて来そうな自分の鼓動に苦しんでいると、
「曖昧、ですねえ。黒野さん、」
不意安の、不穏な、怨霊のような声。
彼女の、「口伝鈔」の話を持ち出す前に黒野が不思議な感覚を得させられていた、優雅、端正、洗煉は、すっかり影を潜めていた。その口は、言葉を切る度に、笑む為でなく喰い縛る為に横へ広がるのである。
「少々、曖昧が過ぎますよ。もう少し、具体的に訊ねていただいて宜しいでしょうか?」
苦しんでいる。あの、不意安が、
黒野は、そんな観測事実によって大いに励まされた。相手が怖じた分、踏み出るようにして、
「では、」まだ片づけられていなかった、不意安の食糧箱へ露骨な視線を送りつつ、「貴女が、浄土真宗徒とは異なって
ちゃんと詳しく
この、神掛かった智顗の教えの再現については、不意安だけでなく煝煆も当然に気がついていた。そこで彼女は、それまでの、如何にも心配そうな態度、やや前傾して手を揉みつつ眉を顰める姿勢を、すぐに解除したのである。椅子を後方へ下げ、そこへどっかりと身を委ねると、ただ、静かで、そして真剣な顔で、黒野の背中を見守るのだった。
何も、心配は無さそうだ。お前の命運は、お前が、お前自身で、斬り拓くが良い。
この無言の信頼、援護を見咎めて、不意安は露骨に苛立った。しかし、とにかく一騎討ちの相手へ斬り返さねばならない彼女は、口惜しそうにしつつも、
「良いですか黒野さん、そもそも、あの教祖――松本と申しましたか?――が本当に菩薩であったのか、というのはかなりの疑問です。何せ
「まぁ、当人曰く『最終解脱者』だったそうですから、菩薩よりも遙か上の、仏か何かだったのでしょうね。」
黒野の後ろで煝煆が噴き出すが、不意安は点燈したように顔を赤くして、
「お戯れを! ……とにかく、その男を仏門の者として呼んで良いのかは、甚だ疑問なのですよ! 良いですか。あの男が、悪名高き軽率至極な殺生にも関連して放言した思想は、魂――蟠桃らの使うような『魂』とは違いますよ――とやらを清らかな状態で確保しておけば、いつか肉体を蘇らせられるという謳い文句を含んでいたのです。……これは釈尊の語った、この世に『アートマン』、つまり『実体』はなく、全ては現象の重なりであるという教え、それと明らかに矛盾しているものであり、寧ろ啓典宗教における、最後の審判やナザレのイエスの復活を意識しているものでしょう! そのような男がこの上ない愚行を働いたからと言って、御仏の教えが貶められる言われは御座いませんね!」
「そこです。」
ぎょっと口を閉ざす彼女へ、黒野は静かに、しかし力強く、
「そこです。例えば、そこなんですよ。不意安さん、」
不意安は、ただ怪訝そうに、
「何が、です?」
「貴女方が復活や魂と言うものを想定出来ないのならば、つまり、生命の実体、これこそが黒野塔也だ、これこそが永空妙碩だと取り出せる『もの』が、我々の中に無いと言うのならば、……一体、何が、往生するのですか?」
若き秀麗な大奇術師は、この問いによって凍りついた。目口を張り裂けんばかりに開いて、絶句する。これはまたおかしなことを言い出したな、などという暢気な絶句ではなく、己が信仰の大樹の根柢を
黒野が、仮借なく続ける。
「先程の『口伝鈔』の話において、往生に際して体を伴うだの伴わないだのという話が有りましたが、ならばやはり、体ではない、何かが、往生を為すのですよね? 魂魄や『我』というものが無いのならば、それは、一体何なのでしょうか?
より言うなれば、もしも輪廻が有ると言うならば、その流れに乗る、しかし魂でも『実体』でもない何か、……それは、何ですか?」
どうにかして呼吸だけは繰り返していると言う風情の不意安は、やはり、何も言い返せない。豊かな紫苑色の生え際に、暑くもないのに脂汗が結ばれて、それが茫然たる顔を縦断して滴っては、彼女の服に染みを作る。
悚然と黙り込んでしまう不意安を黒野が睨み続けるという、ありえまじき、奇妙で居心地の悪い静寂。これを破ったのは、カハシムーヌの首魁による大笑だった。
「面白い、面白いね黒野君!」
「成る程!
良く説かれた言葉は釈尊の言葉である、などという訳の分からぬ文句に象徴されるように、教えの変幻自在性を主張する仏教へまともに宗論を挑んでも、適当に流されて終わってしまいかねぬ訳だが、……おい、不意安! 今回ばかりはそうはいかんぞ! お前自身がたった今、衆生に実体は無いと述べたのだし、だからといって、往生や輪廻を否定するようでは、最早浄土門の菩薩ではあるまい!」
黙り込んでいた不意安は――恰も逃げ道を見つけたかのように――屹と彼を睨むと、
「何ですか蟠桃、……貴男は、誰の味方なのです!」
蟠桃は、ぎょっとしたような顔を作ってから、
「誰の、って、……少なくとも、お前のではないだろうよ。」
至極当然なことを言う彼であったが、しかし、不意安は抱えた渋面を振りつつ、
「そうではない、そうではないのです!」
彼女の隣に座らされている蟠桃は、まるで泥酔者を世話するかのような態度で、
「おいおい、……訳の分からないことを喚いてないで、いい加減黒野君へ抗弁したらどうだ? 実際、俺としても興味深いのだがね。往生や成仏という概念と諸法無我との撞着、仏教においてはあまねき物だと聞いたことが有る気もするが、例えばお前は、この問題をどう整理するのだ?」
「そんなこと、……もう、どうでも良いのですよ!」
苦く崩れていた蟠桃の相好が、一瞬裡に研ぎ澄まされる。
「おい、」親の敵を糺弾するかのような、毅然とした声。「お前、滅多なことは言うなよ。今この場で、議論が『どうでもいい』などと宣言するということは、……縊られる運命を、素直に受け入れると言う意味だぜ?」
「ええ!」
不意安が、今度は璆鏘と立ち上がる。つまり、その右手には彼女の信仰の象徴にして、そして得物である、錫杖がしっかと握られているのだった。
「貴様、」
煝煆も、黒野の後ろで立ち上がる。
彼が振り向けば、彼女も得物の剣――黒野はパラケルススのアゾット剣の
その剣を、胸の高さでほぼ水平に構えつつ、
「敵わぬと思えば、実力行使か? 不意安、
論者として、いくらなんでも下種が過ぎるぞ。」
黒野は椅子から抜け出るようにして、彼女の背へ回った。残んの者も、蟠桃を除いて臨戦、或いは、防禦体勢を取り始める。
俄に不穏な、血
「副会長様としての御忠告、ですかねそれは。新入りとして、御迷惑をお掛け致します。」
「杖を下ろせ。」
「しかし、この情況はカハシムーヌがどうこうというより
「杖を下ろせと言っているのだ!」
落雷の如き、煝煆の
その余りの圧によって、殆どの者は風に煽られたかのように上体を反らしたが、しかし肝腎の不意安のみは、聾者であるかのように平然としている。
寧ろ彼女は、勢いで手首を内側へ巻き込むようにしつつ、錫杖を確乎と握り込むのだったが、……その顔は、綻んでいた。
笑み。蠍の不意安が、その毒針を構えたことを示す莞然。
戸惑いを覚えて煝煆が顔を顰める中、不意安は相変わらず、この女神官の怒声など意に介さぬ様子で、
「まぁ皆様、どうか大袈裟に構えないで下さいませ。私が杖を抜いたのは、別に、野蛮を働く為では御座いませんので。」
そこまで述べてから、暢気に首を傾げつつ、
「ああ、いえ。……お一人だけは、気の毒なことになるかも知れませんが。」
杖を没収されて殆ど無力となっている妻の前へ、立ち
「何を、先程から訳の分からないことを、……と言いますか、蟠桃! 貴男は何を暢気にしているのです!」
そう。彼が憤った通りに、カハシムーヌの長にして随一の実力者である筈の蟠桃は、一人、不意安の隣の席で座り込んだままなのである。
彼は、頭を搔きつつ、
「あー、……やっぱそうだよな、おかしいよな。
いや、何、……不意安が段取りも何も無視して突然ぶち切れやがるものだから、うっかり、身構える機を逸したと言うか、」
この、真に謎めいた言い分に、白沢は、はあ?、と呻いてしまうのみだったが、決死の覚悟によって理智を研ぎ澄まされていた黒野は、まもなく一つ気付いた。
「何ですか蟠桃さん。もしかして、……貴男は、不意安さんと何かを共謀していたと?」
「ああ、まあ、」気怠げに、「いや、もっと賢明にことを運ぶつもりだったんだがなぁ。『悪魔』騒ぎのせいで、すっかり訳が分からなくなっちまった。
それでも、昨日不意安と話して、逆手に取った打開策を思いついてはいたんだぜ? つまりよ、不意安とお前を、『悪魔』としての被疑者の筆頭にしちまえば、実に自然な運びとなる筈だったんだが、」
大きな溜め息の後に、
「畜生。黒野君、お前は存外大した論者だったんだな。完全に、見逸れていたよ。まさか、不意安を此処まで美事に追いつめてくれるとはなぁ。」
夫がこんなことを胡乱に宣う中で、イロハは、臨戦態勢ではありつつも、不意安が何をしようと捩じ伏せられると言う自負が有るのか
「蟠桃、殿。……どういうこと、ですかの。不意安殿と、黒野殿が、……なんですと?」
「ですから!」
うら若き優婆夷が、解答権を朗然と奪う。
「そもそも私にとって、この船は、ええ、始めから不帰の旅路だった訳ですよ!」
彼女は、その耀く錫杖を
「黒野さん! 貴男を、伴だってのね!」
少し茫然としてから、は?、と漏らしてしまう彼を、煝煆は、手で押し戻すようにして庇うのだった。
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