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 蟠桃は、ここで、氷織が当然に何か抗ってくるのを、柔術のように返そうと目論んでいたようだったが、しかし此方のが一枚上手か、氷織は、興味無さげに自身の顎を指で挟むように擦るのみで、何ら反応を見せないのだった。目元を隠しているので瞬きすら窺えず、その顔面の不動な様は、彫像が撫でられているようである。

 仕方なく蟠桃は、苛立ちを漏らしながら、

「氷織。元はと言えば、お前が鶏なんざ持ち込んだせいなんだ。ならば、真っ先な矛先を向けられることぐらい、甘諾してもらわねえとな。」

 こくりと、摘まれたままの顎が頷く。

「良いでしょう。……それで?」

 その静けさには、ぐだぐだ言わずにさっさと掛かって来いという、逆説的な挑発の意図が明瞭で、蟠桃も、顳顬に血管を癇走らせつつ氷織を睨め付ける。

 しかし、まさに氷板へ悪意を向けるかのごとく、微塵も揺るがない、身じろぎもしない氷織の様子と、徒労感に、彼は、ついに参って大きな溜め息を吐いてしまった。

 暖簾に腕を押させられるような澹然という、論客としての特殊な強みを発揮し始めた氷織へ、蟠桃は、仕掛けた以上仕方ないと言わんばかりの、意気の無さから、倒した椅子を面倒臭そうに起こしつつ、

「じゃあ、問うがよ。……お前は、俺の手間とイロハさんの金で才覚した冷凍食料がハラールでない可能性が恐ろしくて、鶏なんざ持ち込んだそうだが、あれは、実は、出航前に騒ぎを起こそうとしたのが本当の理由ではなかったのか?」

 小首を傾げるだけの氷織へ、着席し直した蟠桃が更に続ける。

「そうやって出港検査を有耶無耶にすることで、こうして無事に船へ乗り込み果せたのではないか? ……そう、疑われたらどう答える? 氷織、」

 首を、元の角度へ戻しつつ、

「どう、と言われましても、……あまり、美しい質問ではないですね、とでも返せばいいですか?」

「……あ?」

 これだけどうにか漏らした蟠桃へ、氷織は、肩を、一旦ふくらませるように聳やかしてから、すとんと落としつつ、

「『悪魔の証明』、……でしたか? この場では如何にも皮肉な名前ですが、とにかくそれでしょう。私達が篤実に述べた、鶏を持ち込んだ理由を疑うのは貴男の勝手ですが、しかし、それがに正しいことを示せ、など、

 ……貴男が公理系の演繹世界を愛するのは理解していますが、しかし、そんな世迷言を現実へ持ち込まれても困りますね。」

 氷織の、錆びついたような声質は、普段口数少なげな彼女には割れ鍋に綴じ蓋というべきか、長く聞くに堪えない醜いものであるのだが、しかし、こうも仮借なき論撃を為すときには、実に素晴らしい効果をもたらすのだった。

 そこで、攻撃していた筈なのに何故か窮地に追い込まれたような雰囲気すら見せ始めた蟠桃であったが、しかし、苦い顔で首を振ると、どうにか立ち直って、

「おうおう、そいつは少し行き過ぎ、それこそ『藁人形の詭弁』ってものじゃねえのか。俺だって馬鹿じゃねえんだから、なにもそんな下らねえこと言ってねえだろ。

 つまりだ、氷織、……無数の船や各種の教徒共を支えてきた実績を持つ、船食屋を信用しないという、尋常でない疑いを見せつつ、そして何よりも、……この船のことを何も知らねえのにも拘らず、どうして、貴様等は、屠殺や調理が洋上で可能であると期待出来たんだ!?」

 漸く為された、蟠桃からの確からしい攻撃に、氷織は相変わらず微動だにせず静かであったが、しかし夫の白沢の方は、飛び上がりかねない愕然を見せてしまう。

 この醜態に励まされた蟠桃は、久々に笑みつつ、

「前者については、まぁ、確かに水掛け論かも知れんよ。そのような病的な恐れを主張することによって、少なくとも俺、そして恐らくは他の数人も、お前等への疑いを深めるが、まぁそこまでだ。

 しかし氷織、……もう一方については、ただならねえぞ! この船は、最新鋭の船を俺が見繕って――イロハさんの金で――チャーターしたものなんだ。世界にまだ一隻しかなく、当然お前等は、『白亜の円柱』という、俺からの目印情報しか知らなかった筈なのだ。そして俺は、イロハさんにすら委細は伝えていなかった。冷蔵推進機関があることと、船員が同乗しないってことだけさ。

 なのに、……どうしてお前等夫婦は、鶏を裂き殺せる場所、そして、調理出来る場所が有ると期待出来たというんだ!? その上、実際、この船に調理場は無いんだぞ!」

 この、蟠桃の焚いた物凄まじい気炎の前に、しかし氷織は、尚も澄ましたまま、

「屠殺の場所だなんて、別に、甲板の隅で適当に済まさせてもらう予定でしたよ。調理についても、まぁ、どうにかなるだろうと思っていましたが、」

「誤魔化すなよ氷織!」蟠桃は、意気を恢復して来ていた。「調理なんて、屠殺と違ってそう簡単じゃないだろう。火は、刃物は、どうするつもりだったんだ!?」

「何を、仰言るのやら。庖丁ほうちょうたぐいについては、確かに国際航路の乗船検査を憚って持ち込みませんでしたが――斧や貴男の剣は通用したのですから、愚かな忌憚でしたね――、しかし、予め船内に何か手頃な刃物が装備されていると期待しても、そこまでおかしくなかったでしょう。数多の予定内外の作業が発生する筈の航海において、何も断ち切れないだなんて、馬鹿なことが御座いましょうか。

 そして、火については、まぁ煝煆が助けてくれるだろうと、」

 討議の始まって以来煝煆はずっと沈んでいたのだが、突然名の呼ばれたことで、ぎょっと背を伸ばししつつ、

「馬鹿言え! 私に掛かれば、鶏なんざ白骨にしてしまうよ。或いは逆にしょぼ過ぎて皮も焼けないかも知れんが、とにかく、私に器用な火力調整なんざ期待するな!」

「おや、」氷織は、右肩のみを上げつつ、「それは意外ですね、貴女ほどの伎倆を持つ魔術師なら、てっきり、如意に可能なのかと、」

「お褒めに預かるのは光栄だがね、しかし、私に魔術師としての自慢があるならば、それは器用さじゃない、威力だよ。ゴミ焼却以外に、日常的な用事を頼らないでくれないかい。」

 この遣り取りによって緩い雰囲気が場に滲み始め、蟠桃すらもが、矛を収めかける始末であったのだが、

 しかし、

「おかしいですね、」

 不意安の、氷織のそれとは対蹠的な、さえずりのごとく澄んだ声が逃さない。

「おかしいですよ、氷織さん。もしもそうして、貴方方の真剣な神への帰依の為に、火力が必要であったのならば、……のですか?」

 話すとき以外固く閉じていた氷織の口が、僅かに緩んだ。まるで、雨の降って来たことに気付いた時のような、さりげない所作ではあるが、しかし黒野は、凍てついた分厚い岩盤に、罅の入ったような感覚をそこから覚える。

 かそけくとはいえ、とうとう氷織が揺らいだ。その隙へ楔を叩き込むように、不意安からの追撃。

「蟠桃へ、船食屋の信頼性を訊ねれば良かった。或いは、鶏を持ち込んで良いのか、持ち込んだところで屠畜や調理が可能かどうか、訊ねておけば良かった。にも拘らず貴方方夫婦は、それらを怠り、挙句、煝煆さんへすらもなんら事前の確認を為さなかったのです。

 これがもしも、可能ならばいいな、くらいの些事であればそんな怠惰にも筋が通りましょう。……しかし実際には、貴方方ムスリムの戒律に関わる、つまり、貴方方にとっては大袈裟でなく、literally文字通りに、生涯で最も大事な、命よりも大切な、信念に関わることの筈なのに、どうしてそんな怠惰を、貴方方は平然と犯せたのでしょうか。

 ……先んじて述べますが、今朝急遽食事の心配を思いついたのだ、という反論へは、全く同じ論理を蹈まえつつ、どうしてそんな宗教的迂闊を貴方方は平然と為せたのでしょうか、と私から問わせていただきます。」

 一挙に述べられた氷織は、一言二言、言葉にならない何かを漏らしてから、漸く、

「私と白沢が、……貴女の期待よりも、愚かであった。……それだけのことでしょう。」

「蟠桃に、論客として信頼されるほどの方が?」

 そう、端的な一文を、蹌踉よろめいた氷織へナイフの如く突き刺した不意安であったが、しかし、隣の白沢が慄然とするのを認めると、そこから突然莞爾と、

「まぁ、私からはこれくらいにしておきましょう。蟠桃も言っておりましたが、水掛け論、というものでしょうから。」

 

 蟠桃も言っておりましたが、

 

 このさりげない一節によって、不意安は尚も、仮借ない刃をムスリムの夫婦へ差し向けたのだった。ように、確定的な証拠はなくとも、しかしやはり、お前達夫婦は疑わしく思われても仕方がないのだ、と。

 そこから突然不意安は普段通りの、若々しい少女然とした雰囲気を取り戻して、

「さて、蟠桃。この件については、貴男も一旦満足でしょうか?」

「……まぁ、うん、」

 これを聞いた奇術師は欣然と笑みを深めると、首を勢い良く回して、椅子の後ろへ垂らしていた髪先の飾り、黒き大鏃を、自分の腹の前へ持ってきた。菫色の艶やかな大綱がそうして振るわれるさまは、一種の勝鬨にも見える。

 その緑なす髪を、指先で飼い猫か何かのように撫でつつ、

「では、次の話題はどうしましょう。……折角ですから、私からで構いませんか? 排球での、得点を決めたからサーヴ権を寄越せ、に相当する要求な訳ですが、」

「……なんだよ、ハイキュウって、」と蟠桃。

「日本に於いて女子に人気な運動競技、……でしたか? 黒野さん、」問い掛けてきた癖に、彼の反応も確認しないまま、「まぁとにかく、次は、私から問わせていただきたいのですよ。」

「おう、好きにしな。」と蟠桃が肩を竦めれば、

「では、」不意安は、綺麗な鞍点あんてんを、真珠のように白い手の食指の付け根に作りつつ、その人物を指し示した。

 指された当人自体は、氷織と迄は言わずとも比較的澹然としていたのだったが、しかし、遠くから蟠桃が嚙みついてくる。

「おいおい、」露骨な苛立ち。「不意安、……、イロハさんに何の用だ?」

 指弾されるイロハを差し置いて、二人がいきり立つ。

「何の用、も何も、…… so-calledその、 God 神とやら について、専門家からお話を賜りたいのですよ。」

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