10

 守谷のまじないによって縛められたペアを離さぬように、多少の席替えを伴って円卓へ着き直した面々の内、まず口を開いたのは、意外にも氷織だった。

「貴男に、もう少し聞きたいのですが、」

 指呼された蟠桃は、嬉しそうに、やれやれと零してから、

「この『悪魔』騒動も、舞台装置としては素晴らしいよな。氷織、あのお前が、そんな積極的に話し出してくるんだものな!」

「半畳は結構です、蟠桃、」声を些か苛立たせた氷織は、しかし、少なくとも隠していない部分の表情は変えずに、淡々と、「貴男は、我々はただ論ずれば良いのだ、と言いますが、しかしその言葉へ委ねる為には、『悪魔』についてもう少し教えてもらわねばなりません。もしかすれば、もっとあっさりと、或いは明瞭に、『悪魔』を突き止められるのかも知れないのですから。先程貴男は、、という鼻につく言葉を使っておりましたが、ならば、貴男の持つ材料を全て、誠実に、俎上へ上げて下さい。……その上で更に、煝煆も内容の信憑性を保証してくれるならば、くはないのですがね。」

 黒野は、ここで少し驚かされた。てっきり『悪魔』というのは、唯物論的な蟠桃や煝煆受け入れなければ程の、確乎たる霊的存在なのだと理解していたのだが、どうやらそうではなく寧ろ、その二人の――科学や技術に明るいものの――知っているべき領域らしいのである。

 『悪魔』については、自分の故郷世界に習えないということで、神なり仏なりの知っている(筈の)真理をなぞろうとする神学者らよりも、日頃、蓬々たる、文字通りのの領域を切り拓かんとする科学屋達の方がそれの扱いに長けるのだろうか、とまで、彼が考え巡っていると、蟠桃は再び嬉しそうに、

「素晴らしいね、氷織。いや勿論、お前個人がそういうことの出来る奴だと知ってはいたが、しかしやはり、宗教家からそうも理路整然とした道筋を求められると、快くてならないよ。どうも普段会う連中には、気分だけで話す馬鹿が多くてなぁ、」

 既婚者でムスリマである、つまり、異性からの好感情を快く思わなそうな氷織が、こうして面と向かって褒められるとどういう反応を示すのか、興味も有った黒野であったが、しかし彼女は、その絹のような顔を、相変わらず、見えている範囲では全く揺るがさないのだった。暗い褐色な航空ゴーグルで隠されている目許は、一体どうなっているのだろうか。案外、ころころ猫の如く変わってはいないだろうか。

 そんな事を思う彼の向こうで、漸く、蟠桃は答え始めた。

「先も延べたが、『悪魔』は、当然人間ではなく、また、生物ですらもないんだ。つまり、我々脊椎動物は五官を介して世界を把握する訳だが、対して、『悪魔』はそんなものを用いない。」

 今日、どちらかといえば専ら怡然とした雰囲気で話していた蟠桃が、突然、真剣そうに目を細める。

 その、触れれば指先の切れそうな眦が、しかし、彼の言葉に迫力ではなく、どこか物悲しさを齎す中、

「五感という、物理的或いは化学的な、つまり電磁波や物体による干渉を受け取らない『悪魔』は、代わりに、精神的な、霊的なものを用いるのだ。……『これ』については呼び方が実に混乱しているし、しかもこんな、異なる宗教的確信を持つ者共が並んでいる中では収拾がつく気がしないから、ひとまず、『』、と、今日は呼んでしまうことにするが。」

 蟠桃は、目の動きだけで全員を見渡し、間を取ってから、

「このような意味での、『魔力』とは、無生物と生物、或いは知的生物とその他を劃然と分かつものだとされているよ。虫けらのような矮小生物について、魔力を持っていないのか、それとも乏し過ぎて我々には分からないのかは、議論の待たれるところだがな。

 とにかく、人の知性や『魂』を駆動させるもの、遺伝子や蛋白質に知的活動や情動を許すもの、それが、『魔力』だ。ただしこの知見は、黒野君達の日本、よりいえば、から学ばれたものではない。そこでは、存在しないのかそれとも知覚出来ないのか、とにかく、『魔力』について全く科学的な活動が無いらしいのだ。……なあ?」

 視線で問われた黒野が、慌てるようにこくりこくりと頷けば、

「そういう、まさに我々が自らの手で解き明かすしかないものを、『悪魔』は大いに活用しているのだよ。そんな奴相手に、今日の俺達は戦いを挑むというのだから、……無為無策も、甚だしいというものだよな。」

 悄然とした蟠桃を見て、少なくとも黒野は理解した。事態が判明してからの彼の元気と鷹揚は、その実、意識的に紡がれた、健気な虚勢であったのだと。或いは、彼の愛する、論議というものへの夢中を演ずることで、必死に苦境を忘れようとしていたのだと。

 その蟠桃は、何とか言葉を続ける様子で、

「そういう訳で、だ。『悪魔』が宇宙を理解する方法は、尋常でない。例えば、声というのは空気を震わせる縦波が耳の中の膜を叩くことで伝わるのだが、しかし、『悪魔』はそんなもの受信しないのだ。同様に、電磁波も、圧力も、口や鼻に纏る化学物質も知覚しない。」

「ならば、」対照的に、すっかりかつて身顫いからは恢復したようで、澹乎たんことした氷織が、「その『悪魔』は、姿は人間にしても、事実上多重の障碍を所持した人間擬きであり、振る舞いの難儀から、いとも容易く特定出来るということになりますが――」

 彼女は、首を動かし、見よがしに面々の顔を眺め回してから、

「そういう話、ではないのですよね? 何せここは、それぞれが、知性のみでなく、ある程度の社会的地位、逞しさ、雅びやかさを持つ、つまり強者の集う、『カハシムーヌ』の会合であり、――多少れていようと――健やかな心身器官を持つ者しか、ここには居ない筈です。」

「そう、そう、そう、そう、」

 繰り返す事に、声を大きくしながら、

「そう、そう、……そう、なんだよ!」

 最後には、殆ど叫ぶようになった蟠桃は、そこから、

「その通りなんだよ氷織! 『悪魔』は不具者なんかではなく、結局、『魔力』によって宇宙を把握出来てしまうのさ! 例えば、俺が、『今朝は何を喰ったのだ?』と問うたとしよう。もしもこれの相手が煝煆なら、音を聞き声を理解して、『いつも通り、焼いた麵麭さ。』とでも答えるのだろうが、『悪魔』が相手の場合はそうならん。

 『悪魔』は、声を、つまり音を聞くのではなく、俺の意志、『別に大した興味も無いが、まぁ話題を埋める為に、貴様の朝食の貧相さを教えてくれよ。』を、直截に感受するのだ! 俺が、蟠桃が、声に託した意志、そして言葉には託さずとも伝えんとした真意、その双方を、『悪魔』は直截受信するのだよ!」

 恐らくは小さな駭然として、僅かにのみ口を開きつつ、ぐいと両肩を押されたかのごとく背筋を伸ばした氷織は、しかしそのまま黙ってしまったので、それを埋め合わせるかのように白沢が、

「馬鹿な。物理世界ではなく意志を読み取るというならば、無生物との干渉はどうするのです。例えば、階段を、どうやって『悪魔』は蹴躓かずに上り下りすると?」

「何も、不思議は無いさ。つまり階段ならば、今現在までに、多くの人間が関わってきた筈だ。それを設計した者、設置した者、そして、それを眺めたり利用したりした数多の者。そいつらの意志が、階段というオブジェクトに纏って残り、『悪魔』に読み取られるんだよ。

 音で地形を知る蝙蝠の如く、『悪魔』は、光ではない彼らならではの方法で、階段の形状を察知するのだ!」

 ここまでの蟠桃の語りの一々に対して、煝煆は、鹿爪らしく頷いている。

 そのことに気付いていたらしい、不意安が、

「蟠桃。確認しますが、受信内容によると、『悪魔』はこの船に一人なのですよね?」

「ああ、」

「ならば、貴男と煝煆さんの両者が是とすることは、やはり真実な訳ですか。なにせ、不誠実な人物はこの船に高々一人しか居ないということでしょうから。」

「馬鹿言え。そもそも俺と煝煆が両方とも『悪魔』なら、こんな大騒ぎなんか演ずるものか。」円卓の中央を指しつつ、「そんな無線、黙殺しちまえば良かっただけだろ。」

「確かに、ですね。失礼を。

 とにかく、蟠桃、ならば我々は貴男の講釈を当てに出来る訳ですね。即ち、我々は別に、今お聞きした習性を用いて、直截『悪魔』を炙り出しても良い訳です。」

「そりゃそうだが、……だがよ、具体的にどうするんだ。例えば、特定条件で読心が出来れば『悪魔』だろうが、しかし、非協力的な奴について、『読心が可能』だと見抜くことは不可能だぜ。何も読み取れないよと、しらばっくればいいだけなんだからな。」

「成る程。……では逆は、いかがです?」

「逆?」

「『悪魔』だからこそ可能なことを暴くのではなく、『悪魔』だからこそ不可能なことを、露顕させるのです。」

「そりゃ、……可能なら、可能だろうがな。」

「トートロジーですか? わたくし、禅には然程明るくないのですが、」

「違う、真面目な話だ。」そうやって、二人して禅宗を軽く蔑みつつ、「例えば不意安、階段に似た話をすれば、文字通りの地で洞窟を八個見つけて、一人一人その中へ降りて行かせれば、まぁ、一番転ぶ奴が『悪魔』なんだろうよ。……『悪魔』に見えぬもの、感ぜられぬものとは、そういう意味なんだぜ?」

 不意安は、些かばかり困ったように顰めつつ、菫色の前髪を指で繰りながら、

「つまり、歴史上一人でもそれに関わったことがあるものについて、結局『悪魔』は尋常に知覚出来てしまうのですか。

 そんな、執念のようなものが永劫に残るとは、私の菩提心を以てしても、また少々齧りました西洋科学的な感覚からしても、まるで信じ難いですが、……しかし、貴男と煝煆さんが仰言るなら、信ずるしかないのでしょうね。」

 そうやって彼女が首を振ると、守谷に隣っているイロハから、

「つまり蟠桃。残念ながら『悪魔』の習性は、今あまり役立たなそうということですね。」

「ええ、然りですとも。……氷織が言い出したので叮嚀に付き合いましたが、しかし、俺個人としては別に、ですね。やはり、この船で一番の馬鹿、或いは一番胡乱な者を、叩き出すしかないと思いますよ。『悪魔』が、どこでどう本人とすげ変わったのかは知りませんが、とにかく、この場に列席すべきほどの教養と機知は、そう簡単にでっち上げられないでしょうから。」

 黒野は、この、蟠桃によるやや傲岸な発言によって、この場に列席すべきほどの教養と機知とやらを、明らかに自分は持ち合わせていないよなと思い当たり、その後、改めての恐怖を覚えた。

 つまり、カハシムーヌの面々のいずれもが、立派に論じ果せるのならば、

 ……消去法的に、自分の首が、

 彼は、縋るように隣の煝煆の方を見やってしまうが、しかし彼女は彼女で、苦しそうに思弁へ沈んでおり、黒野の請願には気がつかない。

 そんな中、白沢が手を挙げつつ、

「蟠桃。その、『悪魔』がいつ本物と入れ替わったのか、という話ですが、私と妻は昨日の夕刻からずっと一緒におりましたし、今朝も、氷織が美事に繰る翼馬ペガサスによって、共に港へ参ったのですがね?」

「昨夜は同衾したか?」

 白沢は、この蟠桃の問いに一瞬ぎょっとしてから、他意はなさそうだと理解したらしく、

「ええ。寝所を共にし、離れたりしませんでしたとも。」

「しかし、……まさか、まんじりともせずに朝を迎えた訳ではあるまい? そして起きている間も、目を離さなかった、と言うことも無い筈だ。」

 白沢は、少しむっとした様子から、

「成る程、蟠桃、貴男はこう言いたい訳ですね。付かず離れずに居たんだよ、という位では、『悪魔』でないことの証跡にはならない、と。」

「然り、だ。そして今お前は、氷織の伎倆を当人性の根拠の一つとして挙げたが、それもどうだろうな。確かにアンタの奥方の腕前は、魔術にせよ馬術にせよ一端のものだろうが、だからって、流石に国士無双の達人って訳でもないだろ?」

 押し黙ってしまう白沢へ、

「やはりそんなものよりも、だよ、だよ。今、俺達が論拠とすべきなのは!

 俺達は、人間を人間たらしめている、個人を個人たらしめている、心奥を割ることでこそ、真剣な選択の根拠とすべきなのさ!」

 こう述べられた白沢が、助力を求むように煝煆を睨んでも、彼女は、力なく首を振ることで、婉曲的に蟠桃へ肯うのだった。

「ふむ、」この無言な遣り取りの隙を衝くように、守谷から、「では、どうしましょうな。蟠桃殿によれば、普段通り我々で何か論ぜよということですが、一体、まずは、何を議題としましょうかの。」

「では、」蟠桃は、少し元気になった様子で手を挙げつつ、「会長権限を振るわせてもらうという体で、俺から訊ねようか。」

「誰へ?」イロハが問う。「ここで指名されるということは、襤褸を出す危険が最も早く訪れるということで、若干不利となるのでしょうが。」

「ええ。そこで、性の為に、客観的に見て最も疑わしい奴を指名せねばならないでしょう。」

 蟠桃が、矢庭にがたりと立ち上がった。その勢いでかしいだ椅子が、後方へ打ち据えられて落雷のごとく高い音を鳴らすのを、恰も背景曲として、彼が、振り下ろすように一人を指弾する。

「氷織! テメエだ!」

 嫌が応にも視線がそこへ束ねられる中、指された氷織は、氷の相好を乱さぬままじっとしている。

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