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「呆れますよ。……私は呆れますよ本当に!」
悲鳴のように述べた白沢であったが、しかし、そこからは寧ろ悄然と、
「ですがこれは、蟠桃、貴男の人格に対しての呆然でしてね。つまりその、貴男の提案する対処自体には、まぁ、一応賛成出来ますよ。各〻の持つ筈の専門知識について論じさせ続ければ、確かに、『悪魔』も何か
「御理解頂けて、有り難いね。」蟠桃はそう返してから、それ以上の異論の隙を許さぬ勢いで、「ところで守谷。何か、この情況に対して有用な
改めて事態に打ちのめされたのか、まるで今更になって船酔いを起こしたかのように、躰を揺らめかせて怪しい状態となっていた守谷だったが、この蟠桃による、彼の誇りを刺戟する質問によってか、幾分元気を取り戻して、
「ええ、ええ、……幾つか有りますな。例えば、特定の二者に、常に共だって行動することを強制する呪いですが、」
「……共だっての行動?」
「破りますと、大きな音が発生して周囲へ知らせるのです。それと、対象者には痛みが走りまして、」
「効能はともかく、そうやって同行を強いて何になるんだ?」
「いえ。何せ、『悪魔』という人ならざるものが、今や、槍玉に挙げられて処刑されようとしているのです。ならば、その彼なり彼女なりは、どんな行動を取ってもおかしくありますまい。自棄っぱちに船を沈めようとするですとか、或いは、食料を駄目にして皆を窮させるですとか――『悪魔』が生物でないのなら、溺れなかろう餓えなかろうという、勝手な推測ですがな。」
「ふむ、」数秒の間を置いてから、蟠桃は莞爾と、「『悪魔』の性質についてはともかく、成る程、成る程、面白いよ守谷! いや、正直アンタが、そんな柔軟な発想を行える
「単純に、規則や制約の解釈や利用に、猶太のラビは長けるという話ではないですか?」そう皮肉げに切り込んできた不意安は、「しかし私も、単独行動を禁ずるという提案には賛成ですよ、理由まで含めましてね。そうなると、どういう四組を我々八名の中で作るのかという問題が生じますが、……見上げた夫婦愛として、故意にでもそうでなくとも『悪魔』へ協力されては堪りませんから、両夫妻はそれぞれ分断させましょうか。」
「あ、いや、」白沢が慌てるように、「私と氷織は、共にさせていただきたいですね。」
すっかり議長となっている蟠桃が、
「おうおう、なんだ早速? 何か企んでいるのか?」
「いえ、企むというより、皆様の便を考えてなのですが、……例えば、私や氷織がカーバ神殿へ向かって行う朝礼拝が、何時なのか知ってますか?」
うげ、と、諧謔的に呻く蟠桃へ続けるに、
「学語時刻への変換がちょっと今暗算で出来ませんが、とにかく、暁闇ですらない、全くの日の出前なんですよ。そして、礼拝は一日に五回有る訳ですが、私の為に一人、氷織の為に一人、その度に付き合って下さいますか?」
顰めた蟠桃は、しょうがねえな、と呟いてから、「なら、……俺は、不意安との組かな。イロハさんは、守谷とでどうです?」
「私は構いませんが、……どういう決め方ですか?」
「白沢の言ったような問題を回避する為に、宗教的確信が近い者同士を宛てがいました。広義の無神論者に属する不意安は、俺と。そして貴女は、啓典の民ではある守谷と。」
「……成る程。しかし、菩薩である不意安さんへは、貴男よりも煝煆の方が近いのでは?」
「その場合、二つ程問題が出て来ましてね。まず、そうすると、残った俺と黒野君が自動的なペアになってしまうので、まぁ、広義の家族である以上一応避けておこうかな、と。
そしてそもそも、煝煆が不意安と近しいのかは、かなり怪しいです。……寧ろ、半端に近い事で、水と油かも知れません。それこそ、カトリシズムとプロテスタンティズム、或いは、ルーサラニズムとカルヴィニズムのようにね。」
こんな基督教への
「では、……『善は急げ』、でしたか? そういう言葉も有りますし、早く済ませてしまいましょう。それを施したからといって、別に何か困るとも思われませんしね。」
まずは、煝煆と黒野が猶太式魔術に掛けられる事となった。なんでだい?、と煝煆が問えば、一般会員から受けさせるのは申し訳ないが、しかし、会長に万一が有っては、……と、バランスと取るとこうなるだろう?、と蟠桃が返すのである。
何処まで本気か分からないこの言葉を、大きな鼻息を吐いてから、はいはい、と流した煝煆は、促した黒野と共に守谷の両脇に集まった。
佇む二人の間で、椅子に座ったままの守谷は、普段の、ぎょろぎょろと目を動かして好奇心を隠さないカメレオンのような態度ではなく、いとも厳めしく、ぽつりと、
「手を。」
この、端的で毅然とした言葉に、煝煆は、驚愕で顔を澄ませつつ素直に従って、右手を
それらを、両手で一つずつ優しく捕捉し、重ねさせた守谷は、しかしそこからぐっと力を籠めると、物凄まじい力で体ごと二つの手を引き寄せ、乱暴に、判を押すかの如く、卓上へと釘付けにした。
「いつ、」「った、」
それぞれ手が思いきり叩きつけられて、溜らずに顔を歪めつつ、前のめりへ体勢を崩した二人が、何か文句を言う前に、
殺すに時有り毀つに時有り、裂くに時有り戦うに時有り。
空なる日の間共に喜びて
この、一息な詠唱が済むと、重ねられる手の下に回った、つまり直截に円卓へ叩きつけられたことで灼けるような痛みを覚えていた黒野の掌が、それに加えて、同時に、表皮ではなく中に灯るような熱をも感じ始めた。煝煆も同じような感覚を得たらしく、八字の金眉を当惑げに顰めている。
叩きつけられて以来、守谷の手によって蔽われ続けていることも合わせて、二人の手が汗を搔き始め、煝煆のそれによる湿り気を黒野が甲に感じ始めた頃、漸く、ラビは二人を解放した。
こうも手荒なら説明くらいしろよ、と言いたげに一瞬守谷を睨んでから、自分の右手をくるくる回しつつ観察し始めた煝煆に、自然と倣って、黒野も自らの利き手を確認しはじめると、二人の汗が混淆して涼やかに感じる手の甲には、奇妙な紋様が泛んでいるのだった。
まず、人差し指から薬指までの三本の指の付け根を、上方の三頂点とする正六角形が穿たれており、更に、下半分だけの正六角形(或いは二等辺三角形)が、それの下方へ続いていた。また、その半正六角形から見て尾のように真下へ一つ、孤独な点が、手首に一つ穿たれている。そんな、十点による複雑な図形において、何か法則めいた様子で頂点間に線が引かれているのだが、黒野は、その規則が今ひとつ把握出来なかった。
同じく首を傾げている煝煆の手を、蟠桃が勝手に摑んで、
「お、『セフィロスの木』か。」
振り払いつつ、
「なんだいそりゃ、
「平たく言えば、生命の樹、『創世記』に出てくるあれだよ。」
「……ああ、アダムに実を齧られずに済んだ方か。しかし蟠桃、それが何故、」
そう、勝手に論じ始めようとした二人を窘めるような口調で、イロハが、
「食事会の前に二人だけで摘み食いをするかのような真似が、有りましょうか。論は、皆が呪術を受けてからに致しましょう。……しかし、守谷さん、」
はて、とだけ、いつもの緩やかな雰囲気で返す彼へ、
「先程貴男の為した詠唱は、旧約聖書乃至
「ええ、その通りですな。」
「しかし、……その箇所は、愛する夫婦同士で安らかに過ごせ、と述べている節では?」
少しぎょっとした煝煆と黒野が、気不味げに目を合わせる。そして、そういえば、蟠桃の選んだ組み合わせは全て男女ペアであったと、黒野は気がついたのだった。
守谷は、釈明するように、
「些か不遜な真似ですが、適当な言い回しを聖典から借用しているだけですよ。私も、皆さん――ああ蟠桃殿は違う訳ですが――のように、神さびた言葉へそれを載せねば、魔術を行使出来ないのです。」
つまり、別に深い意味は無いのだ、と、こうして述べられて、イロハは一応納得したようだったが、しかし不意安が、
「『空なる日』という、どうやら喜ばしい意味で用いられている言い回しは、私の琴線に触れましたね。それが旧約聖書、正確に言えば五つの
「『空』だと? 馬鹿言え、」そっぽを向いたまま、未だに手の甲を擦っている煝煆が、「平安仏教までの僧ならともかく、念仏屋が、そんな高尚なことを気にするのかい。」
煝煆から挨拶を喰らった不意安であったが、両手を気取りげに合わせると、
「勿論、法然上人或いは善導の教えに従い、正業としては他力へ愚直に縋るのみですが、しかし、私の知的好奇心はどうしても抑えることが出来ませんし、また、『法門無尽誓願学』、即ち、全ての法門を修めるのだと――一応――授戒会の『発心』の次第で誓ってしまった身ですから。
その
「ええっと、……次の者に、さっさと呪いを掛けないので?」
こうして白沢が冷や水を掛けたことで、漸く、彼と氷織、そして続けて蟠桃と不意安が、守谷による轟然たる儀式を体験した。片方は新顔のくせに、既に何かの縁で余程親しい仲だったらしく、不意安と互いの手を仔細に観察していた蟠桃であったが、ふと、顔を上げると、
「そういえばイロハさん、貴女は、こんな猶太な印を手に受けることになっても大丈夫で?」
「……と、言いますと?」
「いえ、福音主義の魁、ルターの、病的な反猶太主義を思い出したまでなのですが。」
「おや、気が利きますね。」イロハは、いつしか
私は、決してそんなことないですよ。貴男の場合と同じく、殆ど異教の、特に興味も敵意も湧かない印を一時的に、はいはいお付き合いしますよと帯びるだけです。」
「ならば良かったですが、……しかし、偏狭の権化といえば、純化にこだわった、ツヴィングリやカルヴァンの方だと思っていましたがね。」
「正しいでしょう。ルターは少々の妥協によって矛盾を孕んだ、半端な偏狭の権化であり、ツヴィングリとカルヴァンは、より全き、純粋な偏狭の権化です。」
一応同志であるだろうに、ヘンリー八世に飽き足らず、宗教改革初期の偉大な戦士達をもわざわざ全員演台へ並べてから足を払って転落させるような、仮借ない評を平然と述べたイロハの信念は、どうやらプロテスタントにしても簡単ではなさそうだぞと(ツヴィングリの名を知らないなりに)黒野が改めて感じていると、守谷が、彼女を呼び寄せた。
「後は我らだけです、済ませてしまいましょう。」
こう言われたイロハは、意外と俗っぽい反応、予防注射の前に怖じ憚る女童のような顔つきを一瞬だけ見せたが、やはり海千山千の強者らしく、すぐに凛然とした微笑を泛べてみせた。
しかし、そんな痛みへの健気な覚悟も、虚しく空振ったのである。守谷は彼女の手を取ると、なにかもごもごと小規模な詠唱を行っては、それだけで、自身とイロハの手に生命の樹を穿ったのだった。
「なんだいなんだい、そんな穏やかに済ませられるならそうしてくれよ!」
水気を払うかの如く大袈裟に右手を振って見せながら、蟠桃がそう文句を言うのだが、
「他者二人の間に契りを結ばせるのと、片割れが自分である場合とでは、何もかも勝手が違いますでな。二つの異なる『魂』へ一挙に働き掛ける場合では、譬えるなら、両手で異なる字を同時に書くような難度が有りますからの。」
「あー、……そうなのか?」
守谷の語った感覚が分からないらしい蟠桃は、そう述べながら周囲の面々を見渡したが、火を放つ煝煆、氷を操る氷織、傷を癒す白沢、光を発す不意安にも、やはり分かりかねる所のようで、豊かな知弁と苛烈さを誇るカハシムーヌにはいかにも似つかわしくない、揃って小首を傾げる緩やかな雰囲気が部屋を満たした。黒野がその
「とにかく、特にイロハ殿を手荒に扱わずに済んだのなら、蟠桃殿、寧ろ貴殿にとっては至上でしょうに。」
「ああ、……そりゃ、そうだな。感謝するよ、守谷。」
こんな蟠桃の態度にも見られたような、専ら夫から妻を敬い続けるという不思議な夫婦関係が、しかも、どちらかというと中世然とした感覚の社会――それもアブラハムの宗教や仏教系という、女性蔑視な宗教の支配するそれ――において成立していることを、以前から不思議に思っている黒野であったが、しかし、カハシムーヌの面々はその理由もきっと既に知っているのだろうと、つまり、この会合で改めて自分が小耳に挟むことは無いのだろうなと、彼は少し残念がるのだった。新顔の不意安も、既に蟠桃と親しいようであるし。
そうやって、黒野がどうでも良いことを思ってしまう程に、守谷の儀式の印象は強烈で、彼は目下の情況を忘れかけていられたのだが、しかし、
「さて、」蟠桃は、寧ろ意気揚々と、「散れ! おのがじし椅子に掛けろ野郎共! 『悪魔』を燻り出す為に、我らの議論の熱でこの船を灼々と焚くのだ!」
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