3
港町に着いて幌車から降ろされた黒野は、ふと、此処まで牽いてくれた畜獣へ目をやった。隆々とした筋骨が逞しい双頭の、巨大な犬は、冷えかけの熔岩のような煮詰まった褐色としての黒の体毛を艶やかに輝かせつつ、流石に息を荒げている。
車の、返却だか保管だかの手続きを終え、戻ってきた彼女を捕まえて、
「煝煆さん、この動物、というか魔獣というか、って、なんて名前なんですか?」
「ああ。学語で言うなら、〝オクトロス〟だよ。聞いたことないかい?」
彼は、悩ましげに首を傾げてしまいながら、
「あー、希臘神話に居たような居なかったような、」
「多分、それだ。」彼女は手に提げていた合切袋を、大きめの旅嚢の中へ戻しつつ、「不思議なものでな、君の世界の古代神話に想像上のものとして現れるような生物が、この世界には実際に見られたりするんだよ。ただまぁ、固有名詞だったオクトロスが動物名となっているように、神々しい存在が一般物にまで貶められていることも多いがな。」
「さっきの、
「ああ、正しくそうだ。犬や猫とは格が違うが、しかし、消防だけでなく軍事や輸送にも使うくらい一般的だよ。気性が激しいから、結局乗り手の方が貴重になるのだが。」
「ということは、天使もそこら中に居るので?」
煝煆は、いつも通りの愁然とした眉のまま、半端に膨らました頰を悩ましげに搔いてから、
「そういう、啓典に関するものは多分居ないなぁ。……もしもそんなのが見受けられたら、この世界の宗教論争も片づいて、カハシムーヌも成立しなかったかもな。そういう情況は、平和、つまり喜ばしいことなのだろうが、しかし、面白くなさそうと思ってしまう私も居るね。」
そう、屈託なく――つまりやや危殆に――笑む彼女の横で、黒野は一つ納得を深めていた。そうか、こういう神話めいた生き物が半端に見られ、また、魔術というものが当たり前に存在している以上、此処では、「どの神、どの教えが最も確からしいのか?」という問いは、自分の居た世界よりもずっと熱心に紛糾出来るテーマなのだろう。何せ、幾らか神性めいたもの、つまり半ちくな根拠が、種々の方向へ、しかも夥しく転がっているというのだから。基督や伊斯蘭、ヴェーダといった、わざわざ、異世界で興った宗教へ熱を上げているという異様にも、少し納得させられる。
「ところで、」煝煆の声で、黒野は意識を引き戻された。「結局、君の名前を聞いていないよな。」
「あ。ええっと、
「トーヤ、か。……漢字は?」
「ピサの斜塔の『塔』に、」
再び、煝煆の懶気な眉が寄る。
「なんだって? ピサノ・シャトー?」
「あ、」
蟠桃の言う通り、彼女があまりに博識で何でも話が通じていたので、完全に日本人同士と同様に話してしまっていた彼は、本来手心を加えねばならない相手であることを漸く思い出し、その後、「Tower」という言葉も通じるのか怪しいなと躊躇った挙句、
「ええっと、……卒塔婆! 卒塔婆の『塔』ですね。」
煝煆は堪らず、見上げてしまうまでに噴き出してから、
「ああ。さては、『ピサノシャ』という名前の塔が有るのか。これは、寡聞を詫びねばな。」
「ええっと、いえ、『ピサ』って場所に、斜めに傾いた塔、『斜塔』が有って、」
「……傾いた塔? なんだそりゃ、」
「確か、イタリアかどっかの、……えっと、大聖堂か何かの、」
「まぁ、聖堂というなら、後でイロハにでも聞いておくよ。」
そう言ってから、呆れた顔で可笑しみを反芻しつつ、
「しかし、……いや、君と私双方が知っている塔の名前を挙げることの難度は想像出来るが、それにしても、ならば適当に他の言葉を例示すれば良かったろうに、何故、選りにも選って『卒塔婆』だなんて、」
「でも、厳しくないですか? 例えば、『尖塔』の『塔』って説明して、口頭で言って通じます?」
「……成る程?」傾いだ苦い笑みから、「それなりには学語に習熟したつもりだったが、まだまだ、日常的に用いようとすると難しいなぁ。」
「煝煆さんの日本語、お上手ですけどね。流石に発音は、自分と過ごしている蟠桃さんイロハさんには及ばないですけど、でも、文法とか語彙は完璧ですよ。」
「君に言ってもらえると、光栄だね。ま、私達神官は、学語の習得も仕事の内だからな。」
かつての自分はちゃんと英語を身に付けていただろうかな、と、本分を疎かにしがちな学生だった自分を、反省していた黒野へ、
「で、トーヤの『ヤ』はどう書くんだ?」
「あ、……ええっと、」
そこからまた彼は、煝煆の理解出来そうな日本語だけで「也」を説明する知的課題に苦しんだのだった。
彼ら二人はこんな取り留めの無い話をしながら
その、華やかな目抜き通りには、聞こえ始めていた雑踏の気配によって高まっていた黒野の期待を、なお遙かに上回る大盛況――彼の幼少の頃に親しんだ、
そんな、学生時代にすら懐かしい思い出となっていた、故郷での、一種の宗教体験でもあった情景を、突如思い出させられた黒野は、つい、感極まって足を止めてしまったが、不思議がった煝煆に振り返られて、仕方なく気丈に歩を進めた。
真っすぐな砂地の通りは、彼に縁日の屋台を髣髴とさせたように、四角い天幕で日差しから身や品を守る商人達が何処までも、少なくとも視野の限りでは両端を固めており、そんな彼らは、黒野にはキンキンと不快げに聞こえる現地語を行き交う通行人と交わしながら、精力的に商売をしている。地べたに座ってしまって大儀そうにしている店主も居れば、用途は分からねど水晶玉のようなものを据えた勘定台を用意して慇懃な揉み手で客を遇う老婆、話にならないとばかりに離れた客へ追い縋って何か宥めている若者、禅僧のように瞑目緘口して微動だにせず客を待つ婀娜者など、屋台の様々な景色が、文化や人間というものに餓える黒野の目へ、無秩序な花畑のように煌めいた。
そんな逞しい商人らの一人から何か煽り立てられたらしい煝煆が、噛みつくように一言言い返したところで、彼はぼんやりと、
「栄えて、いますねぇ、」
苛ついた様子だった彼女は、すぐに相好を崩し、
「ああ。何せ、港町だからな。」
それだけ、誇らしげにぽつりと呟いた煝煆を見て、黒野は、先程彼女によって述べられた公僕としてのお行儀の良い自負は、存外本気だったのかもなと思い直すのだった。
彼は通りを進みながら、貪るように風俗を眺めた。人いきれや口の中の砂っぽさすら、解放感の中で快い。また黒野は、そうして浮ついた気分のまま、一種の奇蹟を嚙み締めてもいたのだった。此処は、魔術というものが存在して、彼の学んで来た自然科学が細部まで通用するかも怪しい異世界であるのに、同じく二腕二脚の人類が、同じく音声による記号、すなわち言語を用いつつ、コミュニケーションや社会を成立させている。解放感に酔った頭によって、この世界間の一致に対し、奇蹟を見出したような喜びも覚え始めていた彼であったが、ふとその腹が、ぐうと鳴った。
気恥ずかしげにする彼を、煝煆はすぐに捕まえて、
「まぁ、そろそろ昼時だ。船で早速供されるらしいから店へは入れんが、軽く買い喰いしてみても良いだろう。……何か、食べられない物は、」
とまで親身に述べた彼女だったが、
「ああ、別に大丈夫か。」
と続けて呟いて、周囲の屋台を物色し始めてしまったので、黒野は、
「いや、確かに大抵の物は食べられますけど、……『別に大丈夫だろう』って、どういう意味です?」
「あ、」再び彼へくるりと直り、「いや、済まない。塔也には特に信心が無いと聞いていたから、何を喰っても障らんと思ってしまった。」
黒野は、成る程、此処では「何が喰えるか」というのは、そういう意味の問いになるのか、と感心してから、
「と言うことは、棄教された煝煆さんも何でも食べられると?」
「いや、……うーん、」面映ゆげに目を背けつつ、顴骨の辺りを搔きながら、「理窟の上ではそうなるのだろうが、しかし、……まだ、躊躇われてしまうんだよなぁ、
これを聞いて思い泛かんだ言葉を、まずは、差し出がましいとも思った黒野であったが、しかし彼は続けて、蟠桃に手取り足取りされていた時の彼女を思い出した。確か、回心の踏ん切りが上手く行っていないことを、恥じているような口取りで、
「煝煆さん、」そこで彼は、一歩踏み込んだ。「自分、牛肉が食べたいですね。」
今度は、驚いて足を止めてしまった煝煆を、黒野が振り返る番だった。
後ろからやって来る大荷物の男を気遣って、彼女の身を端の方へ寄せてから、
「自分は、煝煆さんの信奉していた教えについて良く知らないですけど、でも、こうして不信心者に強請られてしまえば、つまり
これを聞いた彼女は、顔の上の駭然を徐々に凋ませながら、その分を密やかな莞然で埋め合わせつつ、元気な足取りで彼を追い抜いた。
「評判の良いその筋の出店を、聞いたことが有るよ。もう少し先だ。」
そうして、日本語で呼べば「塩牛串」となるであろうそれを、二人は齧りながら道を進んだ。人通りも屋台も疎らとなり、潮の香りが感ぜられる様になった頃、
「脂っこい、……という言葉で良いのかな? とにかく、美味い事は美味いが、暫くはもう良いな。」
と述べつつ胃の辺りを擦っていた彼女であったが、黒野も平らげている事に気付くと、その、下げている時には緩然とした袖口から指先だけ覗かせている手を、彼の方へひょいと伸ばして来た。
黒野が反射的に串を渡すと、彼女は、それを自分の物と共に左手で束ね持つ。それから腰の剣を抜き、切っ先を串束へ優しく向けてから、少し顔を引き締めると、
帰依奉る。偉大なる巨人の智慧よ、我らの患いを滅却せよ。
あの裏庭での、一発芸を強いて披露させられる様を思わせる惨めさを伴っていた詠唱が嘘のような、荘厳な口調で彼女がそう唱えると、串束は美しい金炎に包まれた。しかしその、雅な陽炎や目を射る赫きはすぐに消え失せて、そして、そこに何も残さない。つまり、二本の串は、彼女の指の間に残った持ち手部分以外、灰も残さず、一瞬裡に焼失したのだった。
周囲をきょろきょろ憚ってから、一瞬躊躇い、しかし結局その短いゴミをポイと投げ捨てた彼女は、肩を竦めつつ剣を戻して、
「やはりこうすれば、少しは上手くいくよな。」
こともなさげに、というよりは不満げに、凄まじい威力の火焔を放った彼女について、これまですっかり見逸れていたことを知った黒野は、彼女が自分の学語名において火偏の漢字に拘泥した理由を、垣間見た気になりつつ、
「どうしたんですか、今朝の、ヘボい、と言ってはなんですが、ライターのが便利そうだった焔とは全然違うじゃないですか。」
「ライター」と言う語彙に
「ああ。あの時に唱えたのは、純然たる、機械論者というか無神論者としての詠唱だったんだが、しかしその筋での詠唱は、まぁ君も蔑んでくれたように、色々修練を重ねてもロクな威力になってくれていないんだ。そこで仕方なしに、今のような、折衷案の呪文を唱えたりしているんだよ。」
「折衷案、と言いますと、」
金毛の女神官は、恥ずかしげに、
「まず、今の詠唱においては、先人達の教えや発見へ縋る事を婉曲的に宣言したわけで、これは、現在の私の立場、西洋的な自然科学を最も尊ぶ主義に矛盾しないわけだ。」
黒野は、偉大なる云々、という言辞を思い返しつつ、
「ええ、」
「しかし、一応矛盾しないというだけで、呪文の全体の様式は、ほぼ
彼女は、何か意味が有る所作なのかそうでないのか、鞘に収めている剣の柄をとんとんと指で叩きつつ、
「つまり、すっかり棄教した筈の私は、それにも拘らず未だ、昔と同じように呪文を唱えねばまともに威力を得られない――魔術にのめり込む事が出来ない――という桎梏に捕らわれているのだ。……この、『桎梏』という言葉の使用にも、大きな勇気を要するザマだよ。」
理性によって教えを棄てても、心が追随してくれない。
そうやって苦悩する学者の姿を彼女に見て、さてどう返したものか困った黒野は、取り敢えず、
「なんだか、自分からすると不思議ですね。『呪文』というと、何か、訳の分からない響きをブツブツ唱えるという印象が有りますが、煝煆さんの様に直截、信念や用件を平易に唱えてしまうなんて、」
沈んでいた煝煆は、しかしこれを聞くと、さっと、ものを教える者らしい怡然とした顔つきになって、
「まず、ヴェーダ――よりいえばアタルヴァ・ヴェーダ――に記された、
そして第二に、塔也よ、忘れているのだろうが、我々にとって学語は『平易な』言葉ではないぞ。」
「……あぁ、」
煝煆は、指を一本立てて続ける。
「我々魔術師は魔術を行使する時に、何かしら呪文を唱える訳だが――その理由は今は置いておくが、とにかく――そこでの形式としては、専ら学語を用いるのだよ。別に、学語が特別に神聖だという訳ではないと思う。母語だと確かに差し障るのだが、しかし、ある程度習得に苦労する言語であれば、本来何でも良さそうなものだ。
だが例えば塔也、他の使いでの有りそうな言語を差し置いて君達が専ら英語を習うように、我々も、魔術を志せば――よっぽど臍曲りでなければ――自然と、学語で呪文を唱えるようになるんだ。……さて、これはどうしてだと思う?」
急に問われた黒野は、自分の経験も蹈まえつつ少し考えてから、
「便利だから、ですか? つまり、日本世界から渡来する文献に当たれるようになる言語に慣れておけば、魔術以外の場面でも便利だろう、みたいな、」
「そうかも知れない。でも、私は別の事を思うんだ。
塔也、君の世界の、ザビエルの事は知っているな?」
「そりゃ、まぁ。宣教師ですよね、種子島かどっかに来た、」
「……薩摩か長崎辺りじゃなかったか?」
「あれ、そうでしたっけ、」
「いやまぁどこでも良いんだが、とにかく、彼の宣教が幾らかでも旨く行ったのには――ロレンソ了斎という男との出会いも大きかったと聞くが、彼自身の働きとしては――西洋の科学知識を当時の日本へ伝えたのが大きかったのだ、という説を聞いているよ。丁度君とも話したばかりだが、稲妻の正体だとか、或いは太陽や星の運行という、身近ながらまるで解明出来ていなかった現象について、彼は当時の日本の蒙を啓いたんだ。そういった『叡智』が魅力となって、日本人に幾らかでも話を聞いてもらえるようになったのだ、と。
また、耶蘇ではなく伊斯蘭の例を挙げれば、君達の世界において彼らの教えがあれほど広く根付けたのは、その強さのみでなく、高い教養や文化が有ったからなのだと、例えば、小杉や小室の著作なんかで指摘されているよな。逆に言えば、版図をあれだけ広げたモンゴルは、豊饒な文化や学問体系が無かったからこそ、殆ど何も残せなかったのだと、」
完全に門外のことを話され、はぁ、と、気のない返事をしてしまった彼へ、
「つまり、恐らく人間は、圧倒的な知性で打ちのめしてくる者へ、敬意や愛情を抱いてしまうのだよ。そこで、我々『日本』から多くを学ぶ者は、ついつい、学語にのめり込んでしまうんだ。……きっとな。」
彼女は、何かを誤魔化すように、黒野の方を見るのをやめて前へ向きつつ、
「そもそも、宗教一般における信心というものこそ、そういう仕組みなのかもしれないが。釈迦の智慧、神の全知、……マヌの法典、」
煝煆の持つ複雑な信条と、知識の広漠さを思い知らされた黒野は、すっかり、知恵熱に当てられたかのようにふわふわとした気分にされてしまい、その後は、言葉少なに彼女へ従ったのだった。
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