波止場へ辿り着いた黒野は、またも、彼の常識を揺さぶられた。船、つまり、大小はともかくとしておおまかにはラグビーボールを断ち割った下半分を水面へ泛かべた物体が、犇々としている筈のそこには、その実、様々な形態が居並んでいたのである。彼の知るような「船」も有ったが、寧ろ、特異なものが多くを占めていた。厖然たる、天を劃する黒翼の生えた鉄檻。馬魚ケルピーが繫がれて嘶いている、全き銀の球体。或いは、熱気球のバスケットを巨大化したような形の、荷物の満載された大きな鉄籠が、恰も、小さな黄竜二頭が風船のごとく勝手にふらついていこうとするのを、錘として綱でいましめているかのような光景。

 ついつい見入ってしまう彼を、特に急かさなかった煝煆だったが、二人で遅々と歩き進む内にをぴしりと指し示した。

「あれだ。」

 まるで、ホールケーキを巨大化させたようだ、と、黒野はまず感じた。つまり、皿の如き足場を縁側のように一周させている、太い、立派な円柱が海上に聳え立っていたのだったが、更に良く見ると、何かの魔術的技巧なのか、平らな船底が、静かな海面から幾らか浮き上がっている。彼がケーキを聯想させられたのには、この構造体が美事な、瑕瑾かきんなき白亜一色に塗られており、しかも、蝋燭のようにちょこんと一本、黄色の尖塔が伸びていた事も寄与していたかも知れない。その尖塔は、その実、屋上からではなく皿の高さから亭々と伸びているのだったが、彼から見て奥側の「縁側」から聳えている事で、一種の錯覚を与えるのだった。

 彼の感想を聞いた煝煆は、

「ケーキ、か。……シルクハットのようだなぁと、私は思っていたが、」

と述べつつ、遙かなそれの膝元に佇む係員の下へ向かった。

 

 所謂国際航路である為に、荷物の一々を検められてから、彼らは漸く搭乗に至った。「誰か、もう乗ってるかい?」と煝煆が係員へ問えば、彼は一瞬、そんな役目は仰せつかっていないのだが、と不満げに顔を歪めながらも、結局訥々とした学語で、

「一人、いらしてますよ。シャランシャランとした杖の方が、」

 煝煆は、一旦怪訝そうに首を傾げるのだったが、

「どうも、」

とだけ述べると、縁側部分へ踏み込み、先の視点からは死角となっていた扉を開いて、黒野を中へと誘う。

 彼はそれへ応じる前に、二階建てと思しき真っ白な船体を見上げてから、乾いた足許、つまり、浮游しているが故に縁側、一応の甲板が、波に洗われないで済んでいる優雅さを確認して、まるで船というより移動ホテルのようだなと呆れながら、蹴放しを跨ぐようにして船扉を通った。

 中へ入ると、どういう仕組みかは黒野に分からねど、そこは窓も無いのに十全に明るい空間で、そして目の前に再びの扉を現しつつ、左右へも湾曲した廊下が伸びていた。つまり、外見と合わせて惟るに、どうやら巨大な丸部屋が中央に有って、それを廻廊が囲っているという構造らしい。現れた方の扉は、通ってきた方、風雨に耐えそうな金属製のそれと異なり、美麗なかまち扉である。

 合切袋から手帳のようなものを取り出して、恐らく蟠桃からの指示を確認した煝煆は、意を決したように左回りへ進み始めた。しっかりとした赤い絨毯と、装飾の巧みに彫り込まれた壁が、ホテルのようだという黒野の印象を確乎たるものにしていく。

 彼は、彼女を追いつつ、

「もしかして、貸し切りで?」

「ああ、……あの夫婦も、随分羽振りの良い事だよな。」

「すると、その、『シャランシャランとした杖』の人もカハシムーヌの一員なのでしょうけど、その人はどういう方なんですか?」

「いや、それが、」

 先行する彼女は、回廊を半周したことで遭遇した、登り階段へ一歩目を乗せつつ、

「思い、当たらんのだ。……蟠桃の言っていた、新入りかもな。」

 二階へ入ってみると、そこは、相変わらず丸部屋を廊下が囲っている様式だったが、一階のそれらよりも、中央の部屋と廻廊は共に小規模となっている。そうした小さい相似形によって確保された、外周部の空間へは、廻廊からの扉が夥しく設けられていて、つまり、個室程度の大きさの部屋々々が、ぐるりとこの階を囲っているようであった。

 階段を登って目の前に現れた扉を、煝煆は指差し、

「ここが、……ええっと、ラウンジというかなんというか――ああ、学語語彙の乏しさが恨めしい――、とにかく、そぞろに居座れる部屋らしいのだが、」

 彼女はそう述べてから、戛々かつかつとノックすると、返事も待たずにがちゃりと扉を開いてしまう。

 

 そこは、四人が何とか囲めるだろうか、程度の小円卓がぼつりと据えられつつ疎らに椅子が散らばっている、船の外見と対蹠的な紫檀基調の、如何にも上等な部屋であったのだが、そんな中で、一人の女が船を漕いでいた。一本の長い錫杖を、支えにしているかのように右腕や胴体で巻き込みつつ、椅子の上でと頷き続けている。

 そんな彼女の、重そうな、菫色の立派に編み上げられた髪を見て、黒野はすぐに気付いた。

 あの、劇場で、光彩陸離を見せつけた演者、

 闖入者の気配で覚醒したのか、彼女は目を開くと、すぐに立ち上がって小さく頭を下げた。

 その勢いで卓上からトランプがばら蒔かれているのを、気にも留めぬ様子で、

「これは、お恥ずかしいところを。……倶楽部の、先輩方でしょうか?」

 その、通りの良い、しかし囀りのような声音は、この世界では強かな女性――イロハや煝煆――にしか出会ってなかった黒野の耳へ、快く響き渡る。

「私はな。こっちは、蟠桃のところの書生だ。」

「……ああ、お聞きしております。そうすると、」表返した掌で、一人ずつ指し示しながら、「貴女が佐藤さん、貴男が黒野さんで?」

 苗字の方を呼ばれ慣れないのか、煝煆は戸惑いつつ肯ってから、

「そういうお宅は、蟠桃に誘われた新入りさんかな。」

「はい、……取り敢えず、皆で座りませんか?」

 何故か、そこはかとない臨戦の雰囲気を見せ始めた煝煆と共に、その言葉へ従った黒野は、この奇術師と目近まぢかに再会した事で改めて驚かされた。あの、あまりに豊麗美事な彩宴を披露した彼女が、観客席からの遠い見間違いなどではなく実際に、こんな、自分よりも年下、二十に達しているようにすら見えないあどけない面立ちをしていることと、そしてその上で、カハシムーヌに並べられる、つまり、蟠桃夫妻や煝煆の博学に匹敵するものを持つのだということが、俄に信じられなかったのである。

 彼女が座り直した弾みの、璆鏘きゅうそうとした錫杖の響きが止んでから、

「お初にお目に掛かります。私は、……そうですね、『永い空が妙にして碩学』、と書いての、『永空ようくう妙碩』という名も頂いておりますが、普段は、『不意安ふいあん』、――その意、安らかならず――とお呼びいただければ幸いです。」

 打たれて響いたように、「永空、」と呟いた煝煆は、続けて、「ひょっとして、禅林寺派か? 浄土宗西山せいざん系の、」

 不意安は、一点の染みも無い顔の、やや細い目を少しだけ円かにしてから、

「これは、……成る程、流石、博覧な方でいらっしゃるようですね。

 はい、師に認めていただきまして、永観ようかんの『永』の字も合わせて、空号を頂きました。」

 その若さでか、と歎息した煝煆は、隣る黒野が付いて来られていない事に気付いたらしく、

「法然、って知っているかい?」

 彼は、足掛かりとしてここ数日で復習した、中学校の日本史を思い出しつつ、

「……名前くらいは、」

「浄土宗の開祖だが、その法然の、五指に入る高弟の一人が証空なんだよ。また、永観は、法然よりもずっと遡る、偉大な浄土思想の先人だ。分裂した浄土宗の諸派の内、証空を起点としたのが西山系で、その中でも永観を特に尊ぶのが禅林寺派で、……まぁ、つまり、開祖に相当する存在や、それを凌いだりする者の名を頂くという栄誉に、この不意安君は浴している訳だな。『空』の字は一般的だが、永観にまで肖るのは尋常でない。……しかも、こんな齢で、

 当然、……かなりの力を認められた上でしか、有り得ない話なのだろうが、」

 この疑問を、不意安は、「ただ、良き師、良き出会いに恵まれただけです。」と、いとも腰の低い、しかし彼女の身に付けた実力については全く否定しない、傲岸な謙遜で封じたのだった。

 こんな遣り取りから、不意安の携えているのが仏具の錫杖であると漸く気付いた黒野は、会話へ混じれる気がとてもしなかった事も有って、それをむっつりと注視し始めた。その、金輪が複雑に絡んだ先端部分を見て、よくもまぁ細かい部品が折れたりしないなと――奇しくも、そこは「水瓶すいびょう」と呼ばれる鉤状の部品で、割れやすい事で実際悪名高い箇所であった――、詮無い事をのんびり思っていた彼であったが、そこから突然、話題へと引き入らされてしまう。

 煝煆に職業を訊ねられた不意安は、ああ奇術師です、と応えた勢いのまま、

「思い出しましたが、……もしかして黒野さん、先日、私の舞台を御覧になっていませんでしたか?」

 は?、と反射的に漏らす、煝煆の横から、

「あ、実はそうなんですよ。……凄いですね、客の一々の顔を憶えているんですか?」

「いえいえ、まさか、」

 そう返した不意安の苦い笑顔は、黒野に、如何にも禅僧らしい、皮下に豊かな含みを湛えたものと映った。その実、彼女は禅宗徒でも尼僧でもないので、実に的外れな感慨であったのだが。

 とにかく不意安は、その油断ならぬ微笑から続けるに、

「有り難い事に、演目の終わりには大抵、……すたんでぃんぐおべーしょん、でしたか? とにかく、皆様が立ち上がっての拍手喝采を頂けるのですが、あの日は、その中から、『ブラボー!』という叫びが聞こえてきましてね。」

 赤面する黒野へ、尚も容赦なく、

「おや、学語の外来語のように聞こえるが、と、つい、そちらの方を注視してしまったのですよ。そうして印象に残った若者と、今日お会いした貴男とで、お姿や美事な学語が重なりまして、」

 そこまで述べた彼女は、一瞬、笑みを深めてから、

「失礼。黒野さんに『美事な学語』とは、正しく、な評で御座いましたね。」

 不敵。

 そんな、黒野から不意安への評価は、自身の信心すら素材としてしまう親身な諧謔かいぎゃくによっても決して覆らず、寧ろ彼は警戒を強めた訳だったが、しかし、彼女は取り逃してくれなかった。

「ところで、黒野さん。仏門へは然程興味をお持ちでない、とお聞きしておりますが、」

「ええ、

「なんと勿体ない!」

 突然の張り声に、黒野が驚いた隙に、

「なんと、勿体ない事です。聖地と言いますか本場と言いますか、とにかく、総本山たる日本の地で息づく仏教に触れて来られた方が、法門に興味が無いだなんて、」

「馬鹿言え、」煝煆はすぐさま、それが彼女なりの流儀なのかそれとも単に鄭重ていちょうな学語を習得していないのか、無骨な口調で、「仏教の興ったのは印度だろう。お前が、先程『釈迦』と言ったばかりではないか。」

 一瞬、きょとんとした不意安であったが、しかし、すぐにその笑顔は挽回された。

「これは、……これは、」

 これまで品よく背筋を伸ばしていた彼女が、そんな一言を吐いてから、背を椅子へ預けつつ、少々尊大な素振りで両手を組み交わす。袈裟の下から鎧が出た。そんな言い回しを、黒野が思い出している内に、

「これは、佐藤さん、」

「煝煆と呼んでくれないかい、むず痒い、」

「では、煝煆さん。貴女は相当の識をお持ちと蟠桃から聞いておりましたが、にも拘わらず、これはまた、実に胡乱な事を仰言るではないですか。確かに、仏門の萌芽は印度だったかも知れないですが、しかし、黒野さんのいらした時代よりも遙か以前に、そこではすっかり途絶して、印度ヒンドゥーという、屈辱的な用字の勢力に塗り替えられた筈でしょう。」

「まぁな。一応、正しただけで、

「それは此方の台詞、……でしょうね。」

 強くさしはさまった不意安の言葉に、煝煆が一瞬面喰らった隙に、

「私も、根拠地の論については、別に大した問題ではないと愚考いたしました。寧ろ、ええ、貴女の言における重大な問題は、……恰も、、という点です。」

 若き奇術師は、そこに籠もったのが苛立ちか苦しさなのかは問わずに、とにかく、元錬金術師の秀麗な金眉が寄るのを見て勇んだかの如く、縷々として朗々と、

「そもそも、印度から山を越えての中国への伝播においてすら、仏教の原形、釈尊の教えを留めているとはとても言えなかった訳ですが、さて、そんな中国から日本へ仏教が伝来し、更にその後、鑑真が授戒の作法や機会をも大和の国へ授けた後、何が起こったでしょうか。例えば、名高き最澄は、その、鑑真が命懸けで伝来した具足戒を、殆ど骨抜きにしてしまったではないですか! そして、そうして円頓戒、具体的には梵網経による十重四十八軽戒しじゅうはっきょうかいのみを残した天台宗から分かれた、法然上人の浄土宗においては、一応授戒や戒体の考えが残されはしましたものの、しかし、それは別に往生へは直接寄与しない、ただ、日々の平穏を得るのに役立たんという、補助的な立ち位置に留まった訳です。そして、……まぁ、親鸞においては、そういう立ち位置すら抛ち、全く戒や出家と言った概念を棄ててしまった訳ですが、とにかく、そうです、例えば戒というもの一つを取っても、斯様に、日本国内ですら教えが変遷しているではないですか。

 にも拘らず、煝煆さん、貴女は、日本仏教へ帰依する上で、印度が日本よりもただならぬ何かだと?」

 煝煆は渋面のまま、空気を咀嚼するように口を動かしつつ何と返すか猶予いざよっていたが、しかし、ふと相好を緩めつつ交睫すると、

「オーケイ、……蟠桃の眼鏡に、適っただけの事は有るな。」

 どうやら一つの結着がついたという事らしく、不意安も、元通りの行儀よい居住まいへと戻った。

 そんな彼女が、

「ええ。これから、宜しくお願いいたします。」

と慇懃に述べたところで、黒野は、出入り扉が開く音を聞き咎める。

 彼が煝煆と共に振り返ると、一人の男が部屋へ入って来つつ、その後ろに、同程度の背丈の女が控えている光景だった。男の方は如何にも快活、社交的といった風情で、にこやかに両腕を広げている。此方については全くピンと来なかった黒野であったが、色白な女の方については、その、頭部だけの合羽の様な被り物と、大柄なゴーグルによって、先ほど見上げた翼馬ペガサス乗り、八百やお氷織ひおりであると気が付かされた。氷術師として涼やかな色を選んだとも思われる水色の被り物と、ビール瓶の如く濃い褐色のレンズが、黒野には異様に映ったが、そもそもこの世界でも奇異なものらしく、不意安も一瞬駭然と瞠る。

 男、つまり夫の方は、蟠桃や煝煆と同じく西欧風の、しかし年齢は多少上か、つまりイロハに相当する雰囲気で、そのまま彼らの囲む円卓の方へ踏み込んで来た。

「やぁやぁ、暫くですね煝煆嬢。其方は、噂に聞く黒野君ですかな? それに、もうお一方ひとかたは、」

 そこまで只管に愛想の良かったこの男は、奥でちょこなんとしている小婦が、堂に入った合掌で挨拶してきているのに気付くと、面白いように取り乱し、黒野の解さぬ現地語を一言二言喚きつつ引き下がった挙句、後ろの妻にぶつかった。

 目許が見えないので表情が窺えにくいが、とにかく苦しげに額を押さえている氷織へ、あたふたと詫びている男の背に向けて、

白沢はくたく、馬鹿かお前は。現れて早々、何じたばたしているんだい、」

 この仮借ない煝煆の評は、いつもの御挨拶だったらしく、黒野らの方へ向き直った彼は、ただ驚きだけを籠めて、

「いや、いや、……そこの女性、★▲■でしょう!」

 煝煆は、その八字眉に相応しい気怠さで見してから、

「なんだなんだ、お前といい塔也といい、奇術だなんて俗っぽい事に随分熱心な、」

「貴女の方が、俗世に興味無さ過ぎなんですよ煝煆嬢! そこの方は、言うなれば、今世界的に話題となっている大スターですよ! 古典的な手品から魔術を用いた華麗極まりない絶技まで、練達していることで知られる大奇術師です!」

「そんなそんな、私なんてまだまだ未熟の身です、」

 飛び出るように発せられた不意安の謙遜は、慌てて小さく振られる両手を伴っており、先の傲慢なものとは違って素直に聞こえるものだった。

 そんな彼女へ、煝煆は怪訝げに、

「なんだ、……不意安、お前、受戒しているのだろうにそんな名声だなんて、邪業覚観戒じゃごうかくかんかいはどうしたんだ?」

 問われた彼女は、目を素朴にぱちくりさせてから、

「はい? ……特に牴触しないと、思っておりますが。邪業覚観戒と言えば、争いや戦乱を傍観せぬこと、音楽や賭博を楽しまぬ事、呪術や占いに手を染めぬ事、という旨の軽戒で御座いましょう?」

「しかし、『菩薩戒義疏』の註釈に鑑みれば、結局あの軽戒きょうかいは、その手の浮ついたもの一般へのめり込むな、と戒めているわけではないか。すると、職業的な奇術も、事実上避けられるべきなのではないかい? それに、やはりどちらも円頓戒に属する二戒――販売戒ぼんまいかい酤酒戒こしゅかい――によって、棺を商う事や酒を鬻ぐ事がそれぞれ禁ぜられているのは、他者の死を望むようになる事や、衆生を迷わせる事を避けねばならぬという心得故なのだろう? ならば、人々に観劇を興ずる事を励ましてしまう職業的なレヴェルの芸も、それらと同様、鳩摩羅什クマーラジーヴァによって伝えられた教えを裏切る事にならないのかい?」

 さっきの仕返し、というよりは、恐らく彼女生来の気質として、そう元気に問うた煝煆であったが、不意安は、少し、言葉を整理するような間を置いてから、

「確かに、邪業覚観戒はそう言った解釈も可能でしょうし、そして、貴女の弁にも筋が通っていると思われますが、しかし、……私は、そうは読み解きません。となれば、戒に背かないとが心から信じる以上、人々に気晴らしを与える事、そして、」

 一瞬言葉を止め、玲瓏と錫杖を揺すってから、

「……そして、曲がりなりにでも幾らか仏の教えに興味を抱かせる事は、、たとえ釈尊に知られても決して恥ずかしい事ではなく、寧ろ善行だとすら思っております。

 更に申し上げれば、仮に私が邪業覚観戒へ背いているとしても、それは、特段大きな罪とはなりません。法然上人も、守れるものを選んで守るのが良かろう、と、円頓戒については仰言っております。私は、不具な父母を養わねばならぬ身ですので、少なくない金銭を、しかも相当年数分稼がねばなりません。そこで私は、仮に多少戒を破る事になろうと、奇術を続けぬ訳にはいかないのです。」

 彼女、蠍の不意安は、ぐるりと頭を振り、そうして体の前へ持って来た、その尾、美事な菫色の綱を撫でながら、

「早く、こんな髪もてて法門へ専心したいものですが、……これが中々、」

 悄然とする不意安へ、成る程な、と、得心した煝煆が溜め息交じりに頷く頃には、もう、白沢と氷織の夫婦は勝手な椅子を占めていた。

 名の如く硬く冷たそうな顔の上で、小振りな口を、蕾の如く硬く閉じている感の有る氷織は、その印象のまま、ただだんまり座し続け、如何にも明朗そうな夫の方が、その大きな口を開く。

「なんと言いますか、……傍聴する限り、我々クルアーンの民からすると、訳の分からぬ話ですね。」

「と言うと?」と、煝煆。

「いえ、……そんな、神なり仏なりの教えに解釈の余地が有り、しかも、不都合なら守らないでも良い、などという無茶苦茶な勝手が許されるだなんて、……私共からすると、全く理解不能な感覚なんですよ。」

 にこやかに、つまり、不敵となった不意安は、そうですね、と間を挟んでから、

「では二つほど、面白い話をお聞かせ致したいと思います。まず、私が授けられた円頓戒に含まれる、四十八軽戒は、名の如く48個の戒が並んでいる訳ですが、その中に一つ、不供養経典戒ふくようきょうてんかいという物騒な項目が御座いますのです。」

「……物騒?」

「仏教徒たる者、自らの皮膚を剥いで紙となし、自らの血をもって墨となし、自らの髄をもって水となし、自らの骨を割いて筆をなし、それらを以て経典を書き写せ、……という戒です。」

 ぎょっとした黒野と同様、眉を顰めた白沢は、

「そんな、猟奇的な、というより馬鹿げた教え、……実践する者は、どれ程居るのですか?」

「一人も居ませんよ。……多分。」

 この気の抜ける一言に体勢を崩した白沢へ、不意安は、

「ものの譬えなんだろうなぁ、とか、これくらいの気合で経典には向き合えと言う意味だろうなぁ、などと、する事は出来ますが、とにかく、書いてある通りに実践する者なんて居りません。……つまり、仏教におけるとはそういう性質のもので、書かれたまま全てをそのまま受け入れるべし、という金科玉条では決してないのです。より言えば、そもそも円頓戒の根拠となっている『梵網経』は、まず間違いなく、釈尊の語った内容ではありません。由来的にも、また内容に儒教の影響がきついことからも、恐らくは中国で誰かしらによって記されたものでしょう。」

 白沢は、呆れたように頭を振りつつ、

「全くの、言語道断ですね。他を差し置いて明確な偽典をわざわざ有り難がり、しかも、そんな各自が勝手な解釈を加えてしまうだなんて、なんの為のなのか、」

「長くなるので詳しくは伏せますが、数多の経典の中で『梵網経』の戒を最善としたのは、最澄や法然上人の苦心の末であり、別に誰かが何か怠けた訳ではない、とだけ理解していただければ幸甚です。

 そして、もう一つのが、貴男――白沢さんと仰有いましたか?――の疑問への、良い応答となるでしょう。」

「……何です?」

「上座部仏教の経典、『増支部』には、こんな言葉が御座います。」

 そこから一旦黙った不意安は、その職業的な伎倆を用いたのか、絶妙な間とさりげない素振りで聞き手らの注意を最大に引いてから、絞り出すようにゆっくりと、

「『』。」

 これを聞いた白沢は、一瞬天井を仰いでから、渋面を揺すりつつ両手を顔の高さに挙げ、そのまま呻き声を漏らしながら暫く身悶えた後に、漸く、

「心地よければ、誰が何を言おうと、それは仏陀の語る真実だと?! そんな、胡乱極まりない、」

「仏教とは、そういうものです。……仏門における変容、そして自由や融通は、瓦解や世俗化などではなく、そもそも本質なのですよ。」

 なおも顰め面で首を振る白沢を差し置いて、煝煆は、「上座部なんか引き合いに出したら、今度は暫念小乗戒ざんねんしょうじょうかいに牴触せんのかい?」と彼女へ問うては、「それこそ、便で御座いましょう?」と、愉しげに返されていた。

 この部屋に来た当初は、仏教徒でもないらしいのに平然と不意安と意味不明なことを論じ続ける煝煆の様子に、兢々としていた黒野であったが、やってきた白沢がすっかり弄ばれている様子を見て、カハシムーヌの皆がこれほどではないのだと安堵もしていた。もしも全員が全分野へ対してこの知識量を持って話し合うならば、同席しても、何一つ理解出来なかっただろう。

 そんな彼を、しかし、続いてムハンマドの預言が取り巻くのである。

「不意安、」

 その、鉄錆びたようなガラガラ声に、黒野は少々ぎょっとして振り向いた。見れば、氷織が不意安へ、重たげなゴーグルを載せた鼻先を向けている。

「話を聞く限り、貴女は法然の浄土宗に帰依していると見えますが、」

 彼女の、目許を無骨な褐色に隠している様や、声と同じく錆びついたようにぎくしゃくした顎の動きに、不気味さを覚えてしまったらしい不意安は、少し手間取りながら、

「はい。西山禅林寺派の、優婆夷で御座います。」

「すると、……訊ねたい事が有るのですが、」

 傾けた頭を、ゴーグルの革ベルト越しに指で支えつつ、

「貴方方は、口称念仏、つまり口に出して仏の名を称えることを最も尊ぶ、……というより、正業はそれしか存在しないと考えるらしいですが、」

「はい。それは正しく、法然上人の教えですね。」

「つまり、戒の遵守は別段往生や成仏に役立たない、と、」

「断言には勇気が要りますが、大きくは外れていないでしょう。」

「そうなると、……私には、不思議に思われるのです。宗教というものは、少なくとも人口に膾炙する程のものは、一般に、倫理観や道徳を信仰者の中に育ませんとしているものです。しかるに、そんな、他に何を犯していようと念仏さえ称えれば万事解決という思想は、何か人々を教育するとは思えませんし、ならば、そう感じた時代の権力者や世論によって疎んじられた挙句、叩き潰されてしまいそうなものですが、」

 こう問われた不意安は、娯しそうに笑むと、

「ええっと、……お名前は、」

「氷織、と呼んで下さい。――氷の織女おりめ、」

「では、氷織さん、素晴らしい御質問を有り難う御座います。

 まず、実際、法然上人の浄土教は非常な迫害に遭いました。他宗派の高僧やShogunate、――ええっと――幕府、から指弾を受け続け、ついには御当人の流刑や弟子の処刑も有ったほどで、――いやはや、それでも上人の教えが折れず絶えずに今日へ継承されている事には、全く舌を巻きます。……まぁ、欧州での宗教改革における惨劇を思い出せば、信心というものは、抑圧されるほど燃え上がるものなのかも知れませんが。」

 傾いだままの氷織の首が、こくこくと頷くのを見届けてから、

「そして、啓蒙という観点においてですが、……そうですね、実際、法然上人の教えは、それまでの浄土教高祖のものに比べるとやや異質です。彼らの多くは、阿弥陀仏を心から信頼する事、阿弥陀仏へ心から帰依する事、そして、そのお姿を精密に心で思い描くことなどを達成し、また仏門徒としての一般的な修行修学も当然致した上で、漸く、さぁ阿弥陀仏の御名を称えましょう、と教徒に求めております。それらに比べると、突然お念仏を上げるだけで良いとする法然上人の教えは、確かに奇妙とも言われましょう。

 二点、これについて説明を加えたいと思います。まず、法然上人も厳密には、口を動かして阿弥陀の名を称えれば全て良し、とされていた訳ではありません。と言いますのも、念仏を真摯に唱え続ける事によって、仏門徒として然るべきもの、信心や功徳、善心は後から追いかけるように具わるのだと、明確に申されております。つまり、往生に必要な気質は、結局、念仏を唱えることによって具わってしまうのです。

 上人は、このような具足も阿弥陀の働きによるのだと申されておりますが、……どうでしょう。この点については、幼少期から教えを受けるのであろう貴方方ムスリムにも、通じやすいのではないですか? 意味も分からずに亜剌比亜語で聖典を読誦させられる内に、某かが、心奥に芽生えるものではないでしょうか。まずは、厭が応にも興味が芽生え、そしてその興味が知識となり、ついには、知識が信仰となるのです。」

 氷織は、また頷いてから、相変わらずの濁声で、

「別に私は親の影響で入信した訳ではないですが、確かに、想像はしやすいですね。」

「御理解頂けて、重畳です。

 そして、法然上人だけでなく親鸞や一遍にも通ずる事ですが、阿弥陀の救いへ縋る際には――元来の意味での――『他力本願』を標するものなのです。とにかく阿弥陀仏の無量無辺の大悲を頼り、自分では何も努めようとするな、と。そうすれば、自身の資質は殆ど問われず、純に阿弥陀仏のお力による、自動的な往生が叶うのだ、と。

 つまり、恐らく浄土教は、『救い』の宗教なのですよ。この点が、『規律』の教えである、猶太や伊斯蘭とは異なってくるところです。氷織さんの指摘するような、教育的見地は、どうでも良いとは言いませんが、しかし、然程重んぜられないのでしょう。」

 心から納得しているかは怪しげながら、とにかく、「成る程、」と呟いた氷織へ、答え終えたばかりの不意安は、

「逆に此方からも興味が出て来たのですが、少し、質問させて頂いても宜しいでしょうか。

 そう言った、十重二十重の規律を伴う宗教生活は、一体、どのような豊かさを信者や文化に与えるのでしょう?」

 こう問われたムスリム夫婦は、卒なく横目で視線を合わせた。

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