いざやってきた出立日、や有力議員として多忙な主夫婦はそれぞれの職場から合流することとなっており、屋敷から直接港へ向かうのは黒野のみだった。

 そこで、黒野と面識の有る、カハシムーヌの副会長にして蟠桃の同僚であるの一人が、屋敷まで彼を迎えに来ることとなっており、当日の朝、書生仲間の一人に言伝された黒野は、荷物を詰めた例のリュックサックを背負いつつ、屋敷の裏庭へと向かったのである。

 イロハの権力や財力を示すような、立派に緑や噴水の整えられた前庭とは異なり、落莫と硬い砂地が広がっているだけのそこでは、黒野を迎えに来た女が、丁度、蟠桃から何か魔術の手解きをされているところだった。

 黒野の故郷世界における陳腐な中世物語で散見された、ステレオタイプな冒険者のような姿で、腰に杖代わりの剣を佩いている蟠桃に、手取り足取りされている彼女は、いつものように、これまたステレオタイプな魔女のような姿、腰許をベルトで締めるだけの、簡素極まりない暗い色のローブを纏っているのだが、そんな彼女も、常々、まるで蟠桃と揃えたかのように腰へ剣を挿しており、姿を見掛ける度に、奇妙なコーディネートだなと黒野は感ずるのだった。どうせ魔女然とした恰好をするなら、馬鹿のように巨大な杖なり箒なりを持った方が、似合いそうなものなのに。

 蟠桃が、よしちょっと実際にやってみろ、という態度で離れると、彼女は目を閉じて集中しつつ、彫像のように静止した。そこから矢庭に、右手で毅然と剣を抜き、それを真っすぐ突き出すと、すう、と一息大きく吸ってから詠唱を始める。

 

  我願わくは、人の勇気と叡智えいちを以て、全ての闇と蒙を焼き払わん!


 そんな文句を、如何にも気恥ずかしげに唱えた彼女だったが、その羞じらいに呼応するかのように、線香花火のごとくケチな焔が、ひょろりと切っ先から溢れたのだった。

 蟠桃は、赧然としてばつの悪そうな彼女を仮借なく笑い飛ばしながら、

「相変わらず全然駄目だなぁ。……前の遣り口の方が、お前には良いんじゃないかね。」

「いや、……しかし、一度決意したのだから、」

 蟠桃に比べるといくらか辿々しい学語を、少し俯きながら吐いた彼女は、寂しげな顔のまま、黒野に気が付いて小さく手を振ってきた。この女神官が蟠桃と同じく30歳前後に見えると、黒野は思っていたが、実際の年齢は知らないし、そもそもこの世界の暦や寿命の長さがどうなっているのかも、彼は未だ把握していないでいる。蟠桃やイロハと比べると、その加齢の具合に何と無く違和感、出会って以来少し若々しさを維持し過ぎているような感じを覚えるのは、この人が魔女だからかな、とも彼は冗談めいて考えるのだった。

 

 彼女へ預けられた黒野は、その後まもなく、幌馬車――或いは幌車と呼んだ方が正確かも知れないが、とにかく逞しい双頭の四足獣に牽かれる車へ乗せられた。

 揺れる車内に落ち着いてから、彼から、

「お久しぶりです、……結局、『煝煆びか』さんとお呼びすれば良いですか?」

「ああ、それで頼むよ。」

 以前黒野は、誇らしげ且つ気恥ずかしげに自身の学語名、『佐藤煝煆』を名乗った彼女に対して、忌憚なく、「『煆』の字の方は一応化学工業でぎりぎり見たこと有りますけど、全然一般的じゃないですし、『煝』については、多分それ日本語じゃないですよ?」と述べていた。言われた煝煆は、一瞬ほんのり悄然としてからも、気丈に、「でも、『びか』という名前の響きは自然だろう?」と返し、「それ、多分『びか』じゃなくて『みか』ですね。『美しい香り』と書く、」と黒野に追撃され、ちょっと落ち込んだ素振りを見せていたのである。

 よく分からないが、奇妙な響きや用字にしろ、彼女には彼女なりの思い入れが有るのだろうと黒野は解していたし、それに、旁の「眉」に「み」という読みも有って無理矢理「みか」に通じなくもないことや、煝煆の、愁然とした八字眉に美しさを見出していたことから、彼も今となっては、悪くない名前だと感じていたのだった。この、眉への思い入れについては、彼女の髪や体毛がこの世界には珍しい茶系の、プラチナブロンドであることに、彼が何か親近感を見出していることも寄与していたかも知れない。

 カハシムーヌ論争屋などという物騒な名前の集団の次席の癖に、朴訥とした人物という印象を黒野へ与えている彼女は、薄暗い幌の中で、今日も、その憂いの眉を絞って黙り込みがちだった。蟠桃と同じく神官であり、つまり、神学か仏学、若しくは自然科学の学者である筈の彼女は、何か生産的に思索へ耽っていたのかも知れないが、しかし黒野の方は雰囲気に堪えられず、つい、大した準備もせぬままに口を開いてしまう。

「煝煆さんって、何者なんでしたっけ。」

 驚愕したように、煝煆が両目を一瞬瞠る。

 そこから、元々傾げていた首を、顰みを深めつつ起こした彼女へ、黒野は、何か不味いことでも言ったかなと思いつつ、

「ええっと、つまり、蟠桃さんが『カハシムーヌの面々は何かしらの宗教的確信が有って、』みたいに言っていたんですけど、煝煆さんの場合は?」

 学語、或いは日本やその他の国についての問答をしたことは有れど、それほど彼女自体へ踏み込んだ事の無かった彼は、少々どぎまぎしながらこの問いを発したのだったが、しかし煝煆は、存外柔らかく、ふ、と自嘲すると、

「蟠桃の奴、どうせ、『まぁ全員でもないけどな、』とでも付していなかったかい?」

「あ、」

 そう言えばそんな気もするな、と黒野が顧思する内に、

「その半端者は、私のことだよ。丁度君がこの世界へやってきた頃に棄教してな、今は根無し草さ。蟠桃のような無神論が一番近いのだろうが、……正直、確信へまでは至れていないね。『機械論』、つまり、自然を論ずるのに神を仮定する必要は無い、ということは信念として持っているつもりだが。」

 幽愁から醒めきらぬ様子ながらも、幾らか笑みを泛かべた煝煆に対して、黒野はここぞとばかりに、

「その、『棄教』を為す以前は、どんな信心を抱いていたのかお聞きしていいですか?」

「ああ、」妙な間の後に、「専ら、ヴェーダとか、そこから発展した教典へ帰依していたよ。」

 黒野は、ここ最近に急いで焼き付けた知識を頼りつつ、

「ということは、婆羅門教とか印度ヒンドゥー教ですか?」

「どう、だろうな。……それらの宗教は、社会制度や階級制度が有ってこそと言う気もするから、此方の世界でロクに同志も無い儘、教徒を自称するのは憚られるものだよ。ヴェーダやその発展物を信奉していた、と、単に留める方が正確だろう。」

 学者らしい生真面目さだな、と黒野が思っていると、煝煆は目を伏しがちにしつつ、

「そう、だよな。黒野、君の世界では実際にヴェーダの信奉者や阿羅漢、菩薩が居て、この瞬間も、大なり小なりの集団を形成しているんだよな。……かつての私は、そういった所へ参ずることを、どれほど真剣に冀求したものか、」

 彼女は此処まで茫然と述べると、ふと、気付いたように頭を振ってから、

「失礼、邪念を抱いた。」

「……邪念?」首を傾げながら、「どういう意味ですか?」

 この、素直な黒野の反問に対して、煝煆は訝しげに顰めつつ、

「もしかして、蟠桃からあまりそういう話を聞いていないのかい?」

「箱入り息子みたいな扱いを受けていまして、この世界の常識とかさっぱり分からないんですよね。なんなら、外出すら滅多に、」

 何か甲高い現地語で、明らかに同僚への罵倒を一発呪わしげに吐いてから、煝煆は、

「じゃあ、憶えておくといい。君のような旅人を、……あー、済まない、良い語彙が思いつかないが、とにかく、……というかとして、日本へ、……なんて言うんだろうな、……渡航?、を試みる魔術師連中が居るんだよ。」

 渡航。

 元の世界への、帰還。

 そのチャンスが有り得るのだという情報を、日本語能力に混乱する彼女の語りから見出した黒野は、つい、目を爛々とさせつつ身を乗り出したが、煝煆は慌てて両手を振りながら、

「言っておくが、そんな優雅なものじゃない。日本行きとは言っても、君の生まれ育った日時へ繫がるのかも甚だ怪しいし、それにそもそも、無事でいられず、骨屑になって到達する可能性の方がずっと高いんだ。術者も、君もな。

 つまり、今、私の未熟と、学語自体の未熟――世界間の移動など想像もしてこなかった言語に、それを示す語彙が育まれていないこと――によって、迂闊にも『渡航』などという平和な言葉を用いてしまったが、……そうだな、『昇天』とか、『輪廻』とかのが近いんだ。とても、人間に馭せるものではない。」

 挫かれた黒野は、しかし、少し考えてから、

「でも、それでも、世界間を行き来する方法は、何か有る筈ですよね。だって自分は、事故的にせよ、逆にここへ五体満足で来られた訳ですから。」

 これを聞いた煝煆は、垣間見せ始めていた学者らしい快活を一掃して押し黙った。再び訪れた粘着質の沈黙の下で、車の動揺や牛の様な牽引獣の鳴き声ばかりが座を占めて、黒野を気圧し始めた頃、漸く彼女は口を開き、

「釈迦に説法かも知れないが、黒野、フランクリンの凧実験を知っているかい?」

 少考の後、

「雷が電気現象であると、証明した実験ですよね。」

「ああ。これによって彼は美事、元々高かった名をますます上げたよ。そして、凧によってではないにせよ、仏蘭西のダリバールも同時代に、落雷が電気現象であることを実験的に証明している。

 ところで、そこから随分と後世になって、露西亜にも、同様な試みを為す者が現れたんだ。彼、リヒマンは、フランクリンの方に倣い、雷雲目掛けて凧を揚げた訳だが、……どう、なったと思う?」

 何故科学史講義が始まったのだ?、と怪訝に思った黒野は、緊張から解かれたことを有り難がりつつも首を傾げてしまったが、そんな彼へ、煝煆は、ぽつりと、

「死んだよ。」

 ぎょっとする彼へ、彼女は、前髪へ手をやりつつ厳粛に続けた。

「実験がした結果、脳天から足まで雷に焼かれて即死だったそうだ。

 つまり、だ。黒雲へ向かって凧を捧げるだとかの、古色蒼然とした技術で雷鳴と会話しようとするなど、本来自殺行為だったのだ。フランクリンのは――そもそも真実性に疑問も有るらしいが――成功したことになっており、ダリバールも無事だった。他にもまぁ、失敗はすれど死にはしなかった無名な実験が、きっと、数多く有ったのだろう。……しかし、」

 居住まいを正してから、一言一言、嚙み含めるように、

「しかし、彼らは全て、幸運だっただけだ。」

 そこから煝煆は、いとも申し訳なさそうに、

「どうやら君は利発そうだ。……黒野、そんな君なら、私の言わんとしていることが分かるよな。」

「……ええ、」

 何らかの理由でこの世界へ漂着しおおせた自分も、ただ、幸運なだけであった。きっと、何処へも辿り着けずに終わった漂流者も、無数に居るのだ。

 そう、思い知らされた黒野が、顔を顰めて目を逸らしつつも神妙に頷くと、女神官は露骨に肩の力を抜いてから、

「と言う訳でだ、日本やその世界へ渡る研究や企図は、此処の世界では禁忌とされているんだよ。その危険極まりない行為によって貴重な人材や旅人を失うというだけでなく、そこへ人を惹き付けることが、社会にとって悪影響だと見做されていてな――逆に言えば、そうやって明示的に戒めねばならぬほど、未知の社会、それも、知識の宝庫である世界への憧れは、我々を突き動かして已まないのだが。

 だって、そうじゃないか。例えば、君の世界の航海家や冒険家は、遙かに文化水準が下の新世界をわざわざ探したり、或いは実際に見つけたりして、それでも、大喜びしていたんだろう? なら、そんな浪漫に加えて、無量無辺のことが学べる、見られることへの憧れが重なってしまったら、それはもう、……我々にとって、堪らないじゃないか。」

 ここで煝煆は、その美麗な眉を寄せつつ、気恥ずかしげに、

「失礼、話が逸れに逸れた。つまりだ、あの世界へ渡ろうなんて奴が君へ接触してきたら、様々な意味で危ない輩だから気をつけろ。というより、蟠桃なり私なりにすぐ相談してくれ。」

 黒野は、また頷いてから、

「有り難う御座います。ですが、……自分も、帰還を諦めたくないと思ってしまうというのが、偽りのない本音ですね。」

 これを聞いて、再び顰みを深めつつ、脣を嚙んだ煝煆は、そこから、苦労するような動作で口を開いた後に、

「雷の譬え話を続ければ、君の故郷で避雷針が当たり前な存在になったように、技術や魔術の発展により、いつかは、安全に世界間移動を為せるようになる可能性も、確かに有る。そんな融通無碍に〝渡航〟などされては、倫理的や社会的に大問題となろうが、しかし、旅人の帰還くらいなら許されると思うよ。そして、もしも本当にそんな手段が発明されたら、自然系の神官である私や蟠桃は、仕事柄、殆ど真っ先に嗅ぎつけるだろう。その暁には、万障を排してすぐに君へ伝えると、私は諸尊へ誓うよ。」

 そこから、真っすぐに彼の目を見据えて、

「つまり、申し訳ないが、……それまで、どうか、辛抱してもらえないだろうか。」

 そう述べてから、深く頭を下げた煝煆へ、黒野は必死に、そんな真似やめてくれと懇願したのだったが、それを押してなお、

「私は、恥ずかしいよ。……自分の無力が、どこまでも、」

などと、彼女は暫く零し続けたのである。

 

 そうして再び愁然としてしまった煝煆であったが、彼女が自然科学に明るいのだと知った黒野がその手の話題を様々に振ると、先程一瞬仄見えていた、学者らしい、独善的で視野の狭い明朗さを次第に恢復してくれた。

 何言目かには、寧ろ喋々と、

「……私が回心したのは、そう、正しく、君の持ち込んだ書籍に止めを刺されてだったんだよ。それまでも当然、化学に関しての文献は伝来していたが、しかしそれらは、あまり透徹しているように思えなくてな。」

「と言いますと、例えば?」

 煝煆は矢庭に、きつと眼光を迸らせると、一瞬怖じた彼へ、怒れる司教のように拳を振り上げつつ、

「ボーアの原子模型だが、あれはおかしいだろ。電子が墜落しない理由を殆ど棚上げしているところまでは、勇敢な一歩として一旦許すにしても、そもそも、斥力を及ぼしあう筈の電子共が、何故同一平面上で仲良く運動をしなければならないんだ! 恒星系、つまり、互いに引力を働かせる惑星とは違うんだぞ!」

 おいおい、なんか予想よりも洗煉された科学を語るじゃないか、と驚いた黒野は、なんとか、

「ええっと、……多体問題の難しさはおいておいても、なら、同一平面上ではなく、それぞれ円軌道が適当な二面角を為している、ってことにすれば、」

「そこだよ! 黒野、まさにそこさ!」

 ぎょっとする彼へ、続けるに、

「今君も言ったが、複雑極まりない、巨大な一顆の陽と無数の陰による多体運動が、未来永劫保たれ続けるなんて奇蹟が、安定元素においてはなんで起こるというんだ! どうも、俄には信じ難いね! もしも、何か奇蹟が働いて電子のエネルギーが保存されているとしたら、そんな奇蹟など、いつ要素同士が衝突して破綻するか分からん系において如何に保ち続けられるんだ! 世に憚る無量数の原子核が、そんな、多重の奇蹟を平然と為していることを信ぜよと言うのかい!」

 此処まで述べた煝煆は、漸くはっとして、気恥ずかしげに、

「失礼、昂奮した。つまり、かつての私はそう思っていたんだよ。しかし、……君の将来してくれた書籍の、量子化学に関する記述、原子核のより確からしい姿を教わった私は、……とうとう完全に『化学』へ平伏して、それまでの、錬金術への帰依を棄てたのさ。」

「錬金術?」

 この言葉を聞いた黒野は、煝煆の佩いている剣へ改めて目をやった。魔女の恰好に剣とはおかしな取り合わせだとは思っていたが、しかし、錬金術師であったと聞くと、途端に自然な話となる。名高き錬金術師パラケルススは、成る程一説には、悪魔だか賢者の石だかを封じた剣、「アゾット剣」を携えていたという、

 彼は、漫ろに自分の腰の位置を直しつつ、

「『錬金術』と聞くと、なんだか、煝煆さんのバックボーンが一気に西洋臭く聞こえてきましたが、」

「いや、そんなことはない筈だ。だって黒野、君の世界の錬金術は、別に欧州専売なんかじゃなかったぞ。中東や印度、中国でも発展していたのだし、なんなら亜剌比亜が牽引していた筈だよ。」

「ああ、……そっか、それで煝煆さんは、それらの中でも特に印度の教典、つまり、ヴェーダに当たったと、」

 煝煆は、言葉に迷うように目を逸らしつつ、

「まぁ、……遠からず、かな。」

「成る程、……貴女が何者か、少し分かった気がします。」

「ああ、」女神官の相好が、一挙に崩れた。「そういえば、そもそもそんな話題だったか。すっかり脱線してしまって済まなかったね。」

 怡然とした煝煆を見て、何となく嬉しくなってしまった黒野であったが、しかし視界の中の彼女は、ふと、表情をきょとんとさせてから、

「そういえば、今更なのだが、……『黒野』って、名前かい?」

「……はい? そりゃ、そうですけど、」

「ああ、訊き方が悪かった。つまり、名前なのか、苗字なのか、」

「あ、それなら、苗字ですね。」

 煝煆は肩を竦めてから、

「そうなると、済まない、確か、学語では無愛想な呼び方だったな。良かったら、君の『名前』を、改めて教えてもらえないかい?」

「ええっと、」

 黒野が答えようとするや否や、彼らの耳朶を叩く琳琅とした音色が、矢庭に車外から響いて来た。聞こえた方、幌の前後に通っている洞の、後方のそれを二人で覗き込むと、そこから展ける明るい視界は、恰も、蜃気楼が降り注ぐかのように断続的に乱れているのである。

 覗ける馬蹄型の空間を、陽炎の帷幕が繰り返し通り過ぎては、砕ける硝子のような音が涼やかに地を叩く。

 この怪現象の正体を、黒野は、目を搾ることで漸く見抜いた。

 氷滴。

 広漠な草地が通行に踏み躙られただけの、舗装も何も無い荒涼とした道へ、大量の霰が降り注いでいる。間欠的なそれが、絶妙に狙い澄ましたかのごとく、驀進する幌車の直後のみを叩き続けているらしいのだった。

 彼は、ぽかんとしてしまう。雲一つ無い青空から燦々と陽光が降り注いで地を灼いているのに、同時に氷雨が休み休み、この車の辺りへだけ降り注いでいるというのだ。

 一方煝煆の方は、ただ快濶に、くく、と笑うと、

「さては、彼奴の仕業だな。」両手を支えに腰を浮かして、「こんな趣味も伎倆も、他に考えられん。」

 彼女が手で黒野を誘いつつ、上体を幌の外へ伸ばしたので、彼も、残った隙間から何とか首を覗かせて空を見やる。

「……わぁ、」

 彼が、つい間抜けた声を漏らしつつ見上げた空には、一頭の翼馬ペガサスが翔っていたのである。劇場で観た龍などとは異なり、本物の肉と命を持った、煌々たる翼を広げた巨大な白駒はっくが、尾を優雅に撓ませつつ、二人の人間を乗せて翔り巡っていた訳だが、その威容は、それが太陽を背負って影絵のようになる瞬間には、印章のようなか黒き姿が、なんら信心を持たぬ黒野にすら神々しさを見出させる程であった。

 背に乗っている二人組の後方の、恐らく男が、地上の煝煆へ手を振り返している少し前で、もう一人の、恐らく女は、幾らか真剣な雰囲気を纏っていた。魔術を行使する為にか、遠目には正体が見極められないがとにかく棒状の、彼女の「杖」らしきものを右手で差し伸べつつ、左手では手綱をしっかり握って、どうやら馬の制禦を受け持っているのである。

 そんな彼女は、地上からの黒野には詳細が分からなかったが、どうも、頭部を、フードだけのパーカーと言うべきか、とにかく何か珍奇なもので蔽いつつ、目許も、マッカーサーのティアドロップのような形をした何かで隠しているのだった。

 第二次大戦の戦闘機乗りのようだな、と彼が思っていると、その一頭と二人は、挨拶するようにくるりと旋回してから、高度を上げて何処かへ去って行った。

 車内へ戻りつつ、

「誰です? 今の、」

「ああ、彼奴等も、倶楽部の一員だよ。女房の方だけ、頭髪や目を隠していただろ?」

 夫婦だったんですか、という、無駄になりそうな質問を取りやめてから、

「すると、あのお二人はムスリムで?」

「そうだ。」

「てっきり、風圧から頭や目を守る為だと思いましたけど、」

 煝煆は、腰を下ろしてから、

「まぁ飛行時にはそういう効果も有るだろうが、何せ氷織ひおりの奴、いつもあんな恰好だからなぁ。」

「それはまた、職務熱心というかなんというか、……まぁ、御職業が翼馬ペガサスと関係しているのかも知りませんけど、」

 これを聞いた煝煆は、ふと目を瞠ると、ぽんと手を叩き、

「ああ、そうか。……成る程な、感心したよ。」

「……はい?」

「いや。恐らくは、正しく君の言う通り、氷織は常に備えているのだろうと気付いてな。……折角だから、一つクイズを出してみようか。」

 話の見えない彼へ、恰も教授のような口調で、

「先の降霰は、上空に居た女、氷織の仕業であり、彼女は練達の氷術師だ。そして同時に、一流の翼馬ペガサス使いでもある。更には、女身とは思えんくらいに膂力も立派だ。

 ……さてこの、八百やお氷織と名乗る女の、職業はなんだと思う?」

「はて、」目を無意味に細めてしまいながら、「そう仰言るからには、神官じゃないんでしょうけど、」

 殆どこの世界の人間社会や文化に触れられていない黒野は、当然こんな場合の手掛かりに乏しい訳で、一応少しは彼なりに考えてみたのだが、結局すぐに降参して見よがしに肩を竦めた。

 煝煆は、君なら答えられるかもと思ったんだが、とでも言いたげな、少し残念そうな顔で、

「彼奴は、消防士なんだよ。現場へ急行して、上空から思いきりの雨霰だ。」

「ああ、」彼は、心から感服しつつ、「成る程、それは確かに、天職と言うかなんというか。……実際、凄いですね。それがこの世界の火消しとして尋常な姿というなら、自分の居た世界の消防よりも、ずっと仕事が確実そうですよ。」

「そうだろう? こういう洗煉は、私も、一人の公僕として誇らしいよ。何せ、人命に関わることだからな。」

 書類上は公僕だろうと、学者肌の人間がそんな高尚なこと思うものかね、と、訝った彼であったが、流石に口には出さず、

「ところで、その、ヤオさんって、どういう字書きます?」

「八百屋の『八百』、ということにしたらしいが、」

「……ああ、やっぱり、」

 何がやっぱりなのだ、と煝煆に糺された彼は、日本で一番高名な放火犯、「八百屋お七」の話をした挙句、氷織の皮肉趣味に気付いた彼女の大笑を聞かされたのだった。

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