鬼仏~KIBUTSU

双葉 黄泉

第1話 鬼仏~KIBUTSU

 父も母も、まるで今までの苦しみから、解放されるかのような安堵あんどの表情を浮かべていた。

 

 それは、かつて私を苦しめ続けた「鬼」の形相から「仏」の様な面持ちに変わり、両親の最後を看取みとった私は、永かった愛憎にまみれた日々が、少しずつ浄化されていくような感覚に陥った。



 私自身も、この数年間の「復讐ふくしゅう」が、ようやく終わるのだという感慨に浸りながら、静かに、穏やかに流れるこの最後の時間を「仏」の表情で、過ごしていた。

 私は、自らの身体中に残っているあざを、服を脱いで、姿見の鏡で見ていた。幼少時に父と母から受けた「虐待ぎゃくたい」の記録は、今でも鮮明に、いや、微かにかすれたように残っていた。


 私は、静かに目を閉じて、ここまでの日々を思い返した。

 それは、時に残酷ざんこくで、恐ろしい日々ではあった。

「いつか、殺してやる……」

 私は、子供心にその時を待っていた。

 両親の虐待に耐え続けた私は、その「復讐ふくしゅう」の時が来るまで生き続けた。


 父と母が、要介護の状態になった時、私は、「鬼」になったのか?いや、その想像を絶する「介護」の日々は、弱りきってしまった両親への私の「無償むしょうの愛」だったと今でも思っている。


 そう、私は、最後の最後に両親と共に生まれて初めて「仏」の心を身にまとった。


「ありがとうございました」

 

 私は、静かに眠っている両親にそれぞれ二人が好きだった花を手向たむけた。


 これから私は、両親を殺害さつがいした罪をつぐなうために警察へ出頭しゅっとうします。


 少し落ち着いた私は、ぬるくなったお茶を飲みながら警察へ電話をかけた。

 そして、今までの壮絶な日々を穏やかな心で振り返っていた。





 私は、幼少期を東京都の八王子市はちおうじしで過ごした。

 宿舎しゅくしゃの様な、確か2DKくらいの間取りの団地住まいだった。

喜一きいち」両親は、私に何の意味を込めてその名を名付けたのだろう?今にして思えば、私のその名前は、皮肉めいていて、何一つ喜ばしい事など無かったような気がするのである。


 父も母も、幼い頃の私には、理解できなかったが、何かの新興しんこう宗教しゅうきょう傾倒けいとうしていて、時々、我が家に知らない人達が、出入りして奇妙な音楽を流しながら、何か、お香の様な物をいていた。その為、家中に気持ちの悪い煙や臭いが充満して、当時まだ幼かった私は、その臭気しゅうきに耐え切れず、トイレで嘔吐おうとした事が数え切れないほどあった。


 そして、私が三歳の誕生日を迎えたその日に、あの恐ろしい儀式が行われた。まだ、幼かった私は、されるがままに大勢の知らない赤い服を着た大人達に押さえつけられて、性器の一部を切除された。一緒にその場に居た父と母に、

「喜一、良い子だからもう少し我慢しなさい!」

 そんな言葉を投げかけられたのを覚えている。



 警察署へ向かう車の中で、私は、一生涯いっしょうがいに於いて、数少ない女性達との性交渉で、オルガスムスの快楽を、殆ど感じる事無く、むしろ、苦痛を伴うものだった事を思い出して、その原因が、あの三歳の時の儀式、「割礼かつれい」だったのだと改めて認識しながら、ゆっくりと目を閉じて「あの頃」を回想していた。



律子りつこちゃん!」

「喜一ちゃん、今日もあの赤い服の人達にイジメられたの?」

「ううん、今日は、何もされなかったよ!律子ちゃんは?」

 私と同じ境遇きょうぐうにあった近所に住んでいた律子りつこ。彼女と私は、幼い頃からのたった二人だけの「同志どうし」であった。彼女もまた、三歳の誕生日に、女性器の一部を切り取られる「割礼」なる儀式を受けていた。

「喜一ちゃん、いつかもっと大きくなったら、二人でここから逃げようね!」

「うん。でもね、律子ちゃん……」

「どうしたの?」

「昨日の夜、パパとママが話しているのを聞いちゃったんだ」

「どんな話?」

「僕が六歳の誕生日になったら、あの赤い服の人達が、僕のじ……」

「じ?」

「じんぞうを、僕のお腹を切り裂いて一つ取り出してヤハウェっていう人にほうのう?するって。ほうのうって何かな?」

「ほうのう……ヤハウェ……じんぞう……」

 律子も、まだその時は、私と同じでその言葉の意味を理解していなかった。

「僕、何だか怖くなって。だからね、律子ちゃん」

「うん、なあに?」

「きっと僕と律子ちゃんは、ここから逃げられない。何があっても、あの赤い服の人達の言う通りにしなきゃならないんだ」

「ヤダ!わたしは、そんなのヤダ!だったら、今すぐここから逃げようよ!」



 律子りつこ。律子は、私にとってどういう存在だったのだろう?私と律子は、何度か逃亡を考えて、計画まで立てた事もあったけど、今考えると、あの地区は、「赤い服」の連中の施設が、点在てんざいしていて、まだ幼かった私と律子が、逃げ出す事など不可能だった。

 

 そして、私と律子は、虐待を受け続けながら保育園や幼稚園に通うことなく六歳の誕生日を、それぞれ迎える事になる。

 腎臓じんぞうを一つえぐり取られる。それは、度々両親や赤服の連中から耳にしていた「ヤハウェ」と呼ばれる何者かにささげられたらしい。

 私と律子は、臓器を一つずつ失い、地域に点在していた施設に度々「修行」と呼ばれる合宿の様なものに、強制参加させられた。いつしか、私も律子も、その「ヤハウェ」が、どこに住んでいてどんな顔をして男なのか?女なのか?不思議と興味をそそられるようになる。後に、その正体を知ってしまった時には、私と律子は、「赤い服」を身にまとい、小さな子供たちの「教育係」というくらいに就いていた。


「ヤハウェ!」

 私の両親や、施設の中で共同生活している赤服の連中は、何かにつけてそう叫んでは、何かをしていた。何をしていたか?フリーセックス。当時は、施設内や、自宅で両親が、フリーセックスを私や、律子を始めとした子供たちの前で何の恥じらいも無く行っていたエキセントリックな光景も、気が付けば、私達子供の中でも当たり前のように行われていくようになった。


 複数の男女の子供たちが、入り乱れて裸になったお互いの身体をなぐさめ合った。それは、ほぼ、毎日のように繰り返され、時に最中で幼馴染おさななじみで同志だったはずの律子の身体を、律子は私の身体をでるようにめたり、まさぐったりした。その行為の最中は、ひたすらに楽しくて、夢中で時間を忘れたようにずっと気の向くままに行為は、続けられた。


 今にして思えば、あの「割礼」の儀式は、ミッションの中で当たり前のように繰り返されたフリーセックスで、安易な妊娠を防ぐための単なる去勢だったのかもしれない。


私も、律子も他の子供達も、行為に夢中にはさせられたが所謂いわゆる「エクスタシー」

「オルガスムス」に関しては、その快楽を知ることなく、一部を切り取られた性器を互いに「奇妙な、体の一部」としか認識していなかった、


 後に知る事となる「ヤハウェ」の存在を認識した時、私達は、そのカリスマ性に包まれた人間?いや、悪魔に自らの人生を翻弄ほんろうさせられる事になる。私の両親は、赤服を身に纏い、次第に抵抗ていこうし始めた私を、暴力ぼうりょく制圧せいあつした。

 いつしか、両親は、施設内だけではなく、宿舎の自宅で赤服に身を包んだ連中と、私が見ている目の前で、乱交行為を平然へいぜんと行っていくようになっていた。



 律子と私は、施設内でお互いの身体を、慰め、愛で合った。快楽とはまた違う、不思議な調和のとれた軽い高揚感の様なものを、二人で共有した。律子の陰部は、陰核が切り取られていた。私の、男性器も「割礼」によって、包皮が裂かれていた。二人は、次第に「計画」を立て始めた。


「ヤハウェ」このミッションでの絶対的な存在を殺してしまえば、私たちは、自由になれる。ヤハウェの正体や居場所を始めとした全てを、秘かに二人で探し始めていた。


 両親は、日々狂ったように赤服の連中との乱交を続けていて、時に私もその仲間に加えられた。少しでも、大きな声を出そうものなら容赦なく両親から暴行を受けた。私の眼は、充血したように赤く染まり、この劣悪な環境が、狂った感覚を麻痺させて、時に、近親きんしん相姦そうかんの様な行為が、横行おうこうしていった。


 父や母の身体を、私が。私の身体を両親が。異様な光景だった。親と子の絆が、性行為と、暴力のみで繋がっている様な感覚だった。


 律子もまた、私と同じような劣悪な環境での、性行為に日々、感覚を狂わされていた。

「ヤハウェ!」

 度々、性行為の最中に繰り返されるその言葉に私は、少しうんざりしていた。

 ヤハウェが、何者なのか?

 それを、知りたかった。

 しかし、後にその正体を知った時に、私も律子も世の中には、知らない方が良い事もある。と後悔した。この地域の何処かに必ず身を潜めて、悪の元凶げんきょうとなっているヤハウェが、私たちの肉体だけではなく、精神までも支配している現状が、むしろ知ってしまった後よりも、知る前の方が、かろうじて幸せだったのだと……


 母が、父の男性器を食いちぎったのは、私が、十歳の時だった。父の断末魔だんまつまに近い絶叫が、宿舎内の穏やかな空気を引き裂いて、私は、ただただ、うろたえてその惨劇さんげきの現場を直視ちょくし出来ずにいた。母は、食いちぎった父の男性器をくわえたまま、四つ足のけものの様な姿勢で、眼をぎらつかせて息遣いきづかいも荒く、気味の悪い笑みを浮かべていた。


 こんな、狂った世界での日常が、日々、繰り返された。


 この頃には、律子は、私の前から姿を消して、どこにいるのか?全く分からなくなっていた。私が、律子と再会するのは、この数年後になるが、その時には、私を取り巻く環境は、またしても大きく変わっていた。そして、律子もまた、私が知っている律子では、無くなっていた。


ヤハウェが、ミッションの中等部の幹部に私を選んだという話を、赤服の連中から聞いた時、両親は、感激のあまり、部屋の中で嗚咽おえつの混じったような声で、泣き続けた。

「ヤハウェ!」両親は、またその言葉を繰り返し叫んでいた。

 

その週の日曜日の午後八時。ヤハウェが、うちにやって来る。

 

それは、遂に私の視界の中に、見えない存在だったじゃが、入ってくるという現実の恐怖と高揚感の入り混じった感覚で有り、最初で最後かもしれないヤハウェを、私自身の手で、殺す事のできるチャンスだった。



 ヤハウェは、本当に我が家に訪れるのか?それは、決して小さくない疑問だった。母に、性器を食いちぎられた父は、そのやり場のないいきどおりの感情を、母ではなく、私に向けた。

 父に、度々何が入っているか分からない注射のような物を私の身体は、刺され続けた。痛みよりも、何を注入されているのか?その不安の方がはるかに、強かった。


 この頃から、母は、半狂乱はんきょうらん状態になっていった。今にして思えば、何かしらの精神せいしん疾患しっかんを発症していたのだろう。我が家での食事は、カップラーメンが一日一食だけ、母によって、与えられた。

 私の身体は、栄養失調か?痩せこけて、餓鬼がきのようになっていった。もはや、この家庭内は、誰一人として人間の心を失くしてしまい、ヤハウェと同じく「邪鬼」と化していた。




 日曜日の夜八時過ぎ、ヤハウェは、大勢の赤い服を着た今まで見た事の無い顔ぶればかりの連中と一緒に現れた。


「キイチ、キイチ……」

 連中は、私の名前を、念仏を唱えるかのように連呼しながら、私の元へ近づいてきた。

「ヤハウェ!」

 父と母は、またその言葉を叫んで、こうべを垂れた。

「キイチ、こっちへおいで……」

 赤服の連中の陰に隠れて、まだ姿の見えないヤハウェが、か細い声で、私の事を、そう呼んだ気がした。

 赤服の連中達が、姿勢を変えて、奥の方に隠れて見えなかった何者かが、現れた。

「ヤハウェ……ですか?」

「キイチ、会いたかったよ。わが友よ……」

 私は、彼の姿を見届けた後、何か得体のしれないものに魂を奪われたような感覚に陥って、意識が遠のいていく中、その場で気を失って赤服の連中の中へ倒れ込んだ。



 目を覚ますと、そこは、とても綺麗な空間で、我が家の宿舎とは、比べ物にならないくらい広くて、正面の大きな窓からは、眩しいくらいの太陽の光が、新しい環境へやって来た私を、祝福するかのように暖かく差し込み、上品なかごに入れられた二羽のセキセイインコが、お互いの身体を愛でるようにづくろいをし合っていた。


「キイチ、喜一ちゃん!」

 どこかで聞いたことのある声だった。

「りつ、律子?」

 私は、その声の主を確かめるべく、眩しく差し込んでくる光を手で遮りながら、振り返った。

「喜一くん、お久しぶりです」

 そこには、もう幼女の頃の面影を感じないくらいに甘美な姿をした少女が、微笑を浮かべながら私の事を、優しい目で見つめながら立っていた。

「律子、ここは?」

「ヤハウェの邸宅よ。キイチ」

「邸宅……ヤハウェ……」

 私は、差し込んでくる光よりも眩しい輝きを放っている美少女を認識するまで、やや時間を必要とした。

「お互い、もう十五歳になったね。キイチ……」

 自分の年齢など、まともに考えた事も無かった私は、律子にそう言われて思わず、はっとさせられた。学校にも通った事の無い私が、自分の年齢を意識する事は、ましてあの家庭環境では、必然性が、無かった。

「いつから、ここに?」

「うん、もう三年くらいだよ」

「そうか……三年も……」

 私は、ゆっくりと立ち上がってもう一度、数年ぶりに会う律子の姿を見つめ直した。

「綺麗に、大人になったね……」

 私が、そう言うと、律子は、手を口にあてて、

「フフッ、喜一ちゃん、面白いっ!」

 と言って、少し表情を崩した。

「ヤハウェは、とても素敵な方よ」

「えっ、だって……二人でアイツを……」

「アイツなんて言っちゃダメ!ヤハウェは、この世界において絶対的な存在なのよ」

 律子は、急ににらみつけるような厳しい表情で、私を軽く叱責した。

「僕は、いったい、これから何を……」

「しばらくは、ここで私と一緒に、色んな事を教わるの。ピアノや、文字の読み書き、運動、そう、学校で習うような事全てを」

 律子は、純白のワンピースを着ていて、肩まで伸びた髪の毛は、きれいな輝きを放っていて、顔や、半袖のワンピースの袖から出ている腕は、少し日焼けしているようにも見えた。

「お菓子を作ったり、動物と遊んだり、読書をしたり。ここには、全てが揃っているわ」

 そう言って、律子は、私の元へ近づいてきた。何か、心が洗われるような清潔感に満ちた、いい匂いがした。

「ヤハウェは、今、どこに?」

「お風呂に入っているわ。そう、後であなたもお風呂に入りなさい。広くて大理石張りの、とっても気持ちのいいお風呂よ」

 律子は、近くに来て初めて分かったが、耳にピアスをしていて、そのピアスが、光り輝いているさまを、私は、見惚みとれるようにぎょうしていた。




「バンッ!」

部屋の奥にある、ドアの向こうから音が鳴った。

「リツコッ!身体を拭いておくれ!」

「はいっ!ヤハウェ!」

 律子は、真っ白なフカフカのバスタオルとバスロープを手にしてからお風呂場が有るであろう奥の空間へ消えていった。

「あぁっ!気持ちが良い。リツコ、キイチは?」

「はい、先程、お目覚めになりました」

「そうか。挨拶をせねば……」

 そんな、やり取りが、かすかに聞こえる中、私は、緊張で硬直した自らの身体を、ほぐすようにストレッチの様な動きを続けていた。


「カチャッ!」

 部屋の奥のドアの開く音がした。

 濡れたバスタオルを、きれいにたたんで、手に持った律子の後ろから、背の高い、バスロープを身に纏った人間が現れた。私は、その顔を見た時にゾッとするような感覚に襲われて、少しだけ後ずさりした。

「グッドモーニング!ミスター・キイチ!」

 あまり、上手とは言えない英語でヤハウェは、再び私の視界の中に降臨した。その顔は、anonymousアノニマスと後に知らされる集団によく似た奇妙な仮面に覆われていて、素顔を垣間見かいまみることは、出来なかった。


「キイチ、ヤハウェの素顔を見たら……」

 律子が、すれ違いざまにそっと小さな声で、私にささやいた。

「リツコ、後で、マッサージをしておくれ」

「ヤハウェ、かしこまりました」

 私は、ローズの香りがするヤハウェの風呂上がりの匂いを、嫌でも感じながら、小さく息を吐いた。

「キイチ、リツコは、マッサージが、とても上手だ。もちろん、それ以外のプレイも今まで私が、使ってきたどの娘よりも上手だ。最高だね!」

 律子は、少し恥じらいだような表情を見せて日焼けした顔が少しだけ紅潮こうちょうしている様子が、よくわかった。




 父と母は、家庭内別居の様な冷めた空気の中で、日々を静かに何かを待っているかのように淡々と過ごしていたようだった。この時、父も母も、何かを隠しながら生きていた事を後々のちのちに私は、知る事になる。ヤハウェの下で新しい暮らしを始めた私の事を、両親は、ほこりにも思いながらも、いずれ、おとずれる地獄のような日々におびえて、相変わらず、カップラーメンを一日一食しか食べない貧相ひんそうな生活を、続けていたようだ。





「キイチ、好きなだけ食べていいのだぞ。痩せ細ってしまって……可哀そうに……」

 ヤハウェは、栄養えいよう失調気味しっちょうきみの私の身体を心配してくれて、和洋わよう折衷せっちゅうのバイキング形式の豪華ごうかな夕食を用意してくれた。律子も、テーブルの向かい合わせの席に座っていて、何か、赤い色の飲み物を、一気に身体の中に流し込むように飲み干していた。


「安心してください。何かの生き血ではありません」

 ヤハウェは、不安そうな表情を浮かべている私に、そう言ってから、メイドに目配めくばせして、さっき律子が、飲んだのと同じものと思われる赤い色の飲み物を、私の元へ運ばせた。

「ザクロスムージーですよ。美容と健康に良いのです」

「ザクロ?ですか?」

「飲んでみてください。美味しいですよ」

 ヤハウェに、そう言われた私は、恐る恐るそのザクロスムージーなるものを、口に含んだ。

「あっ、美味しい」

 私は、無意識にそうつぶやいていた。

「フフッ、そうでしょう。何も変な物は、ありませんよ」

 ヤハウェは、そう言ってからおもむろに立ち上がって、

「では、ごゆっくり。私は、別室で食事をとります」

 とだけ言って、広い部屋から出ていった。



 私は、カップラーメン一食しか与えらえなかった家庭内での貧相な食事とは、かけ離れた豪華な料理を、はじ外聞がいぶんも捨てて無心むしんむさぼるように、食べ続けた。


 


 その美しいピアノの旋律せんりつを、初めて聴いた時、私は、感動というよりは、うすら寒くなるような、恐怖に近いおののきを隠せなかった。

「ショパンよ。ヤハウェは、とてもピアノが、上手なの」

 律子は、私にささやくようにそう説明して、ショパンの美しい旋律に身をゆだねるように恍惚こうこつの表情を浮かべていた。


「しょぱん……何か、食パンみたいだね」

 少し、冗談じょうだんの様な私の言葉に、律子は、敏感びんかんに反応して、

「ここで、そんなつまらない事言ったら殺されるよ……」

 律子は、私の右手のこうを軽くはらうようにして、そう注意した。


 この邸宅での、私への「教育」は、まず、ヤハウェ直伝じきでんの「ピアノ」から始まった。

「最初は、私の演奏を聴いているだけでいいから。リラックスしてください」

 ヤハウェに、そう言われた私だったが、途中から、午後の暖かい日差しのせいもあって、強烈な睡魔すいまに襲われてしまう。

「律子、あと何分くらい続くの?」

 私は、欠伸あくびを堪えながら、小声で律子に質問した。

「その日によるけど……ダメだよ、寝ちゃ!」

 その時の律子の表情は、かなりキツくて、まるで私の事を睨み(にら)つけているようにも見えた。ヤハウェは、自分の演奏に酔いしれるように、心地よさそうにピアノを奏でていた。

「キイチ、ショパンは、まだ君には、早いようだ。曲を、少し変えるよ!」

 ヤハウェは、私が睡魔と闘っている姿を見て、曲目を変えてくれた。

 小気味よいその旋律は、少しだけ私の眠気を覚醒かくせいさせた。

「ハハッ、キイチ、私のピアノを聴いて、眠そうにしたのは、お前だけだ。面白い!今のこの曲は、トルコ行進曲というものだよ。モーツァルト、知っているか?」

「いえ、知りませんでした。テンポが良くてだいぶ目が覚めてきました!」

 私が、平然とそう答えると、隣に座っていた律子が、思わずクスッと吹きだした。

「すみません。ヤハウェ!」

 律子は、直ぐに背筋を伸ばしてヤハウェに頭を下げた。

「フフッ、リツコ。昨夜のお前もとても心地よかったよ!」

「そんな……ヤハウェ……」

 意味深いみしんな会話と裏腹うらはらに、その後、私は、得も言われぬ感覚の中、深い午睡ごすいに落ちていた。



 この頃、両親は、生活保護受給者となり、ヤハウェの下で何不自由ない生活を送っていた私とは、逆行ぎゃっこうするかのように落ちぶれた生活を続けていたようだった。




 ヤハウェは、最初は、私にとても優しく接してくれていた。何故、律子が、あんなにヤハウェの事を、恐れている?というか、気を使い過ぎているのが、この頃の私には、まだ理解できていなかった。

「キイチ、リツコ!部屋の中で過ごしていてばかりでは、体に良くない。二人で、外の芝の上で、サッカーでもしてきなさい!」

 ヤハウェは、そう言ってタンゴの5号のサッカーボールを、私に手渡して、窓の外を指差しながら、

「この先に、広いグラウンドが有る。芝のグラウンドを使うがいい。行っておいで!」




 律子と私は、ヤハウェの指示通り、約一時間半、サッカーをして遊んだ。とても楽しい時間だったと記憶している。気が付いたら、空模様が、少し影を落としてきていて、切りのいいところで、律子と私は、邸宅に戻った。


「おかえり!さぁ、二人とも汗をかいたろう?シャワーを浴びてきなさい」

 ヤハウェは、私たち二人を、一緒に浴室に連れて行った。慣れているのか?律子は、何のためらいもなく、洋服を脱ぎ始めた。私が躊躇ためらっていると、律子は、下着姿のまま、ヤハウェのアノニマスの仮面を見つめた後、小さく頷いて私の元へ歩み寄り、私の洋服を脱がし始めた。

「リツコ、いろいろキイチに教えてやりなさい……」

「はい、ヤハウェ……」

 律子は、全裸に近くなったパンツ一枚の私の顔を少し見上げて、

「後は、一人で出来るでしょ?さぁ、一緒にシャワーを浴びるのよ」

 そう言って、律子は、少し膨らんだ胸をおおっていたブラジャーを手早く外して、最後の一枚の下着も自然な動作で脱ぎ終わると、一瞬、私の顔を見て、微笑んだ後、先に浴室に入っていった。

「さぁ、キイチ、二人で楽しく。何も恥ずかしがることは、無いよ……」

 ヤハウェは、そう言って私をうながしたので、私も躊躇ためらう事なく、全裸になって律子のいる浴室の中に入っていった。


 先にシャワーを浴びていた律子は、日焼けした身体の下着の部分以外は、白く浮き出ているようになまめかしくて、「割礼」されていた健気けなげな姿の、私の性器をふるい立たせた。

律子は、全身と髪の毛をとてもいい匂いのする石鹸せっけんとシャンプーで丁寧ていねいに洗い終わると、私にシャワーヘッドを手渡して、飛び切りキュートな笑顔で、私に目配せをした。

「喜一、私が洗ってあげる……」

 律子は、そう言って自分の身体よりも丁寧に私の身体を、石鹸で洗ってくれた。

「律子、大丈夫だよ。シャンプーは、自分でするから……」

 律子に、身体を触られた私は、欲情にたかぶり、それと戦っている理性の様なもので、何とか気持ちの自制じせいを取りつくろっていた。

「いいの。私が、してあげるようにヤハウェに、言われているの……」

 律子に、全身ぜんしんくまなくキレイに洗ってもらった私は、運動の後のシャワーとは、こんなに気持ちのいいものなのかと、気が付くと不思議な快楽に似た心地良い感覚に包まれていた。





 父と母から、それぞれわたしあてに、手紙が届いたのは、私がヤハウェの邸宅に、中等部幹部として招かれてからひと月ほど経った頃だった。どちらの手紙も、文章的には、短くて、読解どっかい不能ふのうなような奇妙な手紙だった。元気に暮らしているのだろうか?逆に私が、両親の栄養状態や経済状態も含めて、心配してしまうような手紙だった。


 ヤハウェのミッションの施設は、邸宅から少し離れた場所に在った。そこで、私と律子は、中等部の幹部として、思春期ししゅんき前後ぜんごの男女十数人の管理と教育を任せられた。


 中等部の生徒たちは、私や律子同様、公的こうてきな教育を一切受けていない子供達ばかりだった。学科や、運動、音楽、学校で習うような全ての教育を、私と律子は、ヤハウェに、教わった通りに中等部の生徒たちに指導していた。普通の学校と決定的に違うのは、不定期に行われる「乱交」のような、みだらなフリーセックスだった。



 律子は、ヤハウェに忠実ちゅうじつで、その当時私が何となく感じていた、ヤハウェと律子の肉体関係も日々、邸宅のどこかの部屋の中で、行われていたのだろう。律子は、ヤハウェの素顔を知っているのだろうか?いつしか私は、あのヤハウェのアノニマスの仮面におおわれた素顔を見てみたいと思うようになっていた。

「見たら最後」ヤハウェの素顔を、かつて知ってしまったミッションの中の人間達は、容赦なく「死刑しけい執行しっこう」され、ミッション内の焼却炉しょうきゃくろで骨だけにされた話を律子から、何度か聞かされていた。

 

「ヤハウェは、野菜を食べないのよ。果物やスムージーなら大丈夫みたい」

 律子にそう聞かされて、私は、そんな事どうでもいいとも思ったが、肉、とりわけ鶏肉とりにく、中でも鶏の胸肉むねにくや、ささみが大好物というヤハウェの食の嗜好しこうは、少し意外な感じがした。

 つまるところ、ヤハウェの身体は、相当にきたえ上げられていて、たい脂肪しぼうは、8パーセントくらいをキープしていて、高たんぱく低カロリーの鶏のささみなどや、卵の白身などを、必ず、決まったカロリー計算法で、一日1200キロカロリーの食事を日々続けているようだった。



 一度だけ、ヤハウェの邸宅から、実家に帰る事が許された。と言うよりは、めいじられた。私は、正直、実家よりも、この邸宅の暮らしの方が、楽しかったので、実家に帰るのは、あまり気乗りがしなかった。

「キイチ、ご両親にこのカードを渡してきてくれないか?」

 ヤハウェは、そう言って何やら赤いカラフルな封筒ふうとうの様なものを、私に手渡した。

「キイチ、この中身は、お前は、一切見てはいけないよ!」

 ヤハウェにそう言われて、私は、少し緊張きんちょうしながら、その「カード」を受け取った。


 実家に戻ったのは、私がヤハウェの邸宅へやって来てから、三カ月ほど経った頃だった。

 季節は、秋だったろうか?とても、気持ちのいい天候で、少し渇いた優しい風が吹いていた。



「ただいま……」

 久し振りに帰ってきた実家のある宿舎は、とても空虚くうきょな感じがした。廃墟はいきょに近いような。ヤハウェの邸宅での暮らしに慣れていたせいか、そこの空間は、見ているだけで、気持ちが、暗く閉ざされていくような感覚に包まれた。


 実家の宿舎の一室に、持っていたかぎを使って入った私は、その何とも言えない臭気しゅうきに、一瞬、めまいの様な気持ちの悪い感覚におそわれてしまった。

 

 部屋の中に入るまで少しの時間が必要だった。私は、玄関で立ちすくみ、念のためにと持ってきていた使い捨てのマスクを装着した。


「ただいま!父さん、母さん!」

 私の呼びかけに父も母も応えては、くれなかった。部屋の中は、カップラーメンの食べ残しや容器が、床全体を支配していて、その臭いのキツさと言ったらマスクなど、通り越して私の嗅覚きゅうかくだけでなく、目に染み込んでくる視覚しかくや、瞬間的な強烈なストレスから、まるできゅうせいのメニエール病になったかのような耳鳴りのような聴覚ちょうかくを、完全に機能きのうマヒさせていただいてしまった。

「父さん、母さん……」

「誰もいない……」

 その事実に気付いたのは、約十五分かけて家中を捜索そうさくした私の結論だった。

「これじゃぁ……どうしたら?」

 私は、取り敢えず部屋の中の掃除そうじを始めた。

 ヤハウェの邸宅では、掃除も大事な仕事として、毎日やらされていた。

 部屋の掃除を続けていた私は、何かがうごめく音を感知して、瞬間的に身を固めた。

「ネズミ?」その生き物は、こげ茶色に少し白い毛が混じったような色を身に纏っていて、大きさは、ウサギくらい?いや、ウサギよりも一回り大きかったろう。

「気持ち悪い……こっち来るなよ……」

 私は、その生き物を刺激しない様に、ゆっくりと抜き足差し足で歩いて玄関に戻った。

「どうしようか?とても居られやしない空間だ……」

 一旦、外に出た私は、新鮮な秋の空気を肺いっぱいに吸い込んで、気分を落ち着かせた。

「あんな、デカいネズミ見たことが無い……」

「父さんも母さんも、どこに居るんだろう?」

 私は、宿舎の物置の中から、長い事使っていなかった草刈り用のかまをひとつ取り出して、さびを落とすように、コンクリートの角で、鎌をみがいた。

「大丈夫かな?」

 私は、意を決して再び部屋に入った。


 そいつは、私に眠りから起こされて、朝食なのか?カップラーメンの残りをむさぼるように食っていた。荒い鼻息と、クチャクチャと音を立てながら食べているそいつを、私は、右手に鎌を持って近づいた。

「悪く思うなよ……」

 振り下ろした鎌は、そいつの背中を突き刺して、その瞬間、けものの叫び声と同時に血しぶきが、飛び散って、私は、鮮血せんけつにまみれた。巨大ネズミは、その鋭い歯をむき出しにして私に襲い掛かってきたので、右足で思いっきりそいつの腹を蹴り上げた。一度、倒れて起き上がったそいつに私は、もう一度鎌を、今度は、脳天のうてんめがけて振り下ろした。

「ギーッ!」

 そんなような声を発して、そいつは、鎌が頭に突き刺さったままの状態で、しばらくフラフラしていたが、私が、最後に今度は左足で顔面を蹴り上げた事で、そのまま倒れて動かなくなった。

「俺は、一体何をしに、ここに来たんだ?」

 戦いを制した私は、もうここに居る意味を感じなくなって、部屋を出ようとした。

「き、喜一……」

 風呂場の中から、そんな声が聞こえた気がした。

 私は、直ぐに風呂場のドアを開けた。

「父さん、母さん!」

 そこには、確かに父と母が居た。せこけて、よく見てみると二人とも身体が、傷だらけで手や足が、れたように異様いようふくれ上がっていた。

「あの、あの化け物は?」

 父は、今にも死にそうな声で、そう呟いた。

「今、鎌で殺したから、もう大丈夫だよ!」

「おぉ、喜一……ありがとう……」

「今、救急車呼ぶからね!」

 私は、ヤハウェから支給されていた携帯電話を取り出して、119番通報した。念の為、110番にも、電話をかけて警察を呼んだ。




 父と母が、退廃たいはいてきな暮らしをしている中で、あの化け物が、いつの間にか住み着いていたらしい。母が、大量に買いためておいたカップラーメンや、インスタント食品を夜中に食いつくしては、次第に肥大ひだいしていったようだ。食料を食べつくしたアイツは、栄養状態の悪い弱り切った父と母を次のターゲットにした。鋭い歯で、何度も噛みつかれ、襲われてしまい、感染症かんせんしょうか?父と母の患部は、壊疽えその様な不気味な様相に、腫れあがってしまったらしい。父と母は、シェルター室となった浴室で、水だけを飲む日々を続けていたようだ。


 父と母は、近所の総合病院に入院した。あの状態では、仕方のない選択だった。私は、ヤハウェから預かっていたカードを、父に渡した。父の手は、小刻みに震えているのが、見ていてよく分かった。


「ネズミがねぇ~、あそこまでいくとホントに化け物だねぇ~!」

 警察署に、話を聞きたいからと言って連れて行かれた私は、個室の中に案内された。その前に病院で、ワクチンの様なものを注射して、全身を消毒までされて、

「返り血を浴びていたからね。念のために、それにしても……」

「よく、やっつけたね。君一人で」

 私は、病院の院長らしき白衣を着た初老しょろうの男性から、そんな事を言われた。



「ここ数ヶ月、君、喜一君は、どこにいたの?」

 警察署での、私への事情聴取が、始まった。私は、ヤハウェの邸宅の事は、話さずに、

「友人宅や親戚の家を、渡り歩いていました……」

 とだけ、答えて、なるべく多くを語るまいと決めていた。


 約一時間後、なんとかごまかして、警察から解放された私は、事の次第をヤハウェに、携帯電話を使って報告した。そうしなければ、いけないような感覚がしたのだ。

「キイチ、大変だったね。直ぐに私の家に戻ってきなさい」

 ヤハウェに、優しくそう言われて、何故か私は、大粒の涙を流しながら号泣していた。

「ヤハウェ!」

 父や母が、何度も叫んでいたその名を、聞くのも嫌がっていた私自身が、人目もはばからず八王子市の街中で、叫び続けた。




「人間の心を支配しているのは、おにか?ほとけか?」

 ヤハウェの邸宅での、「教育」の時間に、私と律子は、「道徳どうとく」のような、授業をヤハウェ本人から、受けていた。

「その時によって、人は、鬼にもなり、仏にもなる」

 私は、手を挙げて、ヤハウェに質問した。

「ヤハウェ、神とか悪魔とかとは、違うのですか?」

 ヤハウェは、一瞬私の方を見てから、

「神なのか仏なのか、或いは、悪魔なのか鬼なのか……」

大別たいべつして、同じようなものだよ、キイチ」

「世界中の、住む地域、或いは、人によって信仰する宗派しゅうはが違うからだよ。宗教とは、その人の価値観、人生観を根底こんていから変えてしまいかねない。キイチ、リツコ。これだけは、この場でハッキリと言っておく。自らの人生に於いて信じる者は……」

 律子と私は、緊張からか?背筋をピンと伸ばしてヤハウェの次の言葉を待った。

「自分自身。そう、己を信じるのだ。キイチ、お前が、両親を助けた勇敢ゆうかんな行動は、賞賛しょうさんに値するものだった。これからも、自分を信じて生きていくのだ」

 ヤハウェの言葉を聞いた律子は、少し微笑みながら私の方を向いて小さくうなずいた。



 ヤハウェの邸宅の敷地内の芝のグラウンドで、私と律子は、サッカーボールを蹴りながら談笑していた。私は、律子と二人でリフティングの練習を始めた。

「ねぇ、喜一……」

 リフティングに苦労していた律子が、私の方を向いて何か話しかけてきた。

「うん?どうした?」

 やっと、十回程度リフティングを続けられるようになった私は、サッカーボールに自分の尻を落ち着かせて、律子の話を待った。

「実は、昨日の夜ね……私、ヤハウェのアノニマスの仮面を外した素顔を危うく見てしまいそうになったの」

「えっ!それは……」

 私は、少し驚いて律子の顔を、見上げた。

「ヤハウェは、赤い色の飲み物を、飲むために仮面を外していたの。私は、気付かれない様に静かにその様子を眺めていたわ」

「あの、ザクロスムージー?」

「ううん、違ったわ。多分お酒だと思う……赤ワインかしら?」

「それで、結局どうなったの?」

「後姿だけだったの。見たのは。ただ……」

「ただ?」

「ヤハウェの髪の毛がね。無かったの。全く」

「だって、いつもあの仮面の時は、黒髪がしっかりと生えていたじゃないか!」

「ヤハウェの仮面の横にね、カツラの様なものが置いてあったわ」

「カツラ?」

「私、怖くなってヤハウェにバレない様に、その場を離れたの……」

「何だって、カツラなんて被っているんだろう?ヤハウェは、ハゲだったの?」

「し~!カツラとか、特にハゲなんて言ったら殺されるわ!」

 律子は、人差し指をくちびるにあてて私に注意を促した。

「顔は、見れなかったの?」

「当り前よ、見たら……殺されるわ!」

「ふーん、そっかぁ……」

 その日は、ヤハウェの話をそこまでにして、律子と私は、サッカーを早めに切り上げて、邸宅の中に戻った。



「キイチ、リツコ、リフティングは、うまくなったかい?」

 邸宅に戻った私と律子に、ヤハウェは、開口一番そう言ってきた。

「いえ、まだまだです。難しいですよ」

 律子に変わって、私が、答えた。

「そうか。そのうち上手になるといいね!さぁ、二人でシャワーを浴びてきなさい」

「はい、ヤハウェ。ありがとうございます」

 私は、律子から聞いた話を、思い出してしまって何度かヤハウェの髪の毛をチラチラと見てしまった。

「ん?どうした?キイチ、私の顔ばかり見て……」

 律子が、そっと私のお尻をつねった。

「いえ、仮面をしていて蒸し暑くないのかな?と思っただけです」

 何気に、私は、話をそらそうとした。

「ハハッ!心配いらないよ。キイチ、お前は、変わっているな!」

「すみません。ヤハウェ……」

 私は、何か踏み込んではいけない領域に入りそうになった自分を悔いた。

「謝ることは無いよ。キイチ。さぁ、シャワーを浴びてきなさい」

「はい、ヤハウェ!」

 もう、何回も一緒に浴室でシャワーを浴びていた私と律子は、その日は、一言も会話することなく、ただ、淡々とシャワーを浴びていた。


 ヤハウェの素顔を見たものは、焼却炉で焼かれて殺される。

 それは、本当だったのだろうか?

 後に、律子の言っていたことが、うそではなかったと知るまでに、かなりの時間を要したが、その現実は、あまりにも恐ろしく、耐え難い記憶として、私や律子にとっての大きなトラウマとなってしまう。しかし、この時、この日、律子は、私に全てを話してはいなかった。律子だけが、その現実を知っていたことは、後に律子自身から私に「告白」というような形で、告げられた。



 ヤハウェは、ピアノだけでなく、サッカーも上手だったと知ったのは、私が、この邸宅に来てから、半年ほど経った頃だった。

「キイチ、もっとよくボールを見て!」

 相変わらず、リフティングの下手な私に、ヤハウェは、ほぼマンツーマンでサッカーの指導をしてくれた。はたから見ると、アノニマスの仮面を被った背の高いヤハウェが、サッカーの指導をしている姿は、ある意味、滑稽こっけいだったかも知れない。私は、ヤハウェの顔をおおっている仮面が、サッカーをしている何かの拍子ひょうしに、地面に落ちてくれないか、と心のどこかで期待していたのかも知れない。

「キイチ、フリーキックの練習をしてみなさい」

 ヤハウェは、芝のグラウンドの両サイドに置かれていたゴールマウスを指差して、大体ペナルティーエリアの外のゴールまで二〇~二五メートルくらいの位置にランダムにボールを置いて、まずは、見本とばかりにヤハウェ自身が、フリーキックを見せてくれた。


 ヤハウェの蹴ったボールは、まるでプロのサッカー選手の様な美しい軌道きどうを描いて、次々とゴールマウスの両隅にキレイに吸い込まれていった。

「すご~い!」

 ヤハウェのフリーキックを見ていた律子が、大きな声で叫んだ。

「さあ、キイチ、蹴ってみなさい」

 ヤハウェにそう言われて、私は、見よう見まねで何度かボールを蹴ったが、一度たりともヤハウェの様に美しい軌道をボールが描くことは、無かった。

「くそっ!ボールが、上に上がらないっ!」

 ヤハウェは、悪戦あくせん苦闘くとうしていた私の様子を、黙って眺めていた。

 

「キイチ、サッカーボール以外の物を、蹴った事が有るか?」

 ヤハウェは、突然私にそんな事を聞いてきたので、

「有りません。あっ!この前の巨大ネズミなら蹴りました!」

「ハッハッハッ!キイチは、楽しい奴だな。本当に……」

 私が、ヤハウェの笑い声を聞いたのは、あまり数多くなかったので、少しだけ嬉しいような感覚になった。

 結局、私のサッカーセンスは、一向に向上しないまま、その日の運動は、終了となった。




 ものすごく、嫌な夢を見た。不愉快な眠りから覚めた私は、髪の毛をかきむしり、大きな溜息ためいきを吐いた。

「なんなんだよ、いったい……」

 

 その日は、台風の様な荒れ模様の天候だった。

「喜一、わたし……」

「え?どうした?律子」

 朝から、この邸宅での日課のようになっていた律子と私だけの入浴の時間。律子は、私と一緒に赤ワインがたっぷりと注がれたお湯に浸かりながら、何かを言おうとしていた。

「わたし、多分、じきに殺される……」

「えっ!どうして?」

「昨夜、わたし遂にヤハウェの素顔を見てしまったわ……」

 律子は、赤ワイン風呂に沈み込んで、しばらく顔を湯船ゆぶねの中から出さずに、十秒後くらいに、息が持たなかったのか?飛び上がるように顔を湯船の中から出しては、沈み、出しては、沈みを繰り返していた。

「酔っぱらっちゃうぜ、律子!」

「いいの、もう。どうせ死ぬんだから……」

「ヤハウェの素顔って、どんなだった?」

 私は、好奇心から禁断きんだんの質問を律子に投げかけた。

「うん、怖かった……とにかく、怖かった……」

「どんな風に、怖かったの?」

 私は、きれいなワインレッドの色をした湯船に浸かりながら、そっと律子の陰部いんぶを触ってみた。

「どんな風って……そんな事……」

 律子の陰部に触れた私は、次に柔らかそうな乳房ちぶさを湯の中で優しく愛撫あいぶした。

「あんっ!」

 律子は、敏感びんかんに反応して、その顔は、恍惚こうこつとしていて、私には、とても気持ちが良さそうに見えたのだ。

「喜一ちゃん……」

「律子ちゃん……」

 律子と私は、湯船の中で、そう、このヤハウェの邸宅の豪華な赤ワイン風呂の中で、お互いが、十六歳の初秋、身体で結ばれた。赤ワイン風呂の酩酊めいていかんと感覚を取り戻した性的快楽は、二人を激しくたかぶらせ、ディープなキスを何度も何度も繰り返した。




「お前たち、朝の入浴で何をした!」

 ヤハウェは、私がここに来てから初めて、激昂げきこうしていた。

「さっき、風呂を掃除してくれたメイドが、赤ワイン風呂の中に何かが浮いていると言ってきた。私が、確認した限りあれは、キイチ、お前の精液せいえきだろう?」

 律子と私は、本当にこのまま殺されて焼却炉で燃やされてしまうと思っていた。

「汚らわしい!リツコ!お前は……」

 ヤハウェは、怒りで身体が小刻みに震えているのが、見ていてよくわかるほどだった。

「ヤハウェ!律子は、悪くないです。全て僕が……」

「ふん、知った事か!罰として……」

 律子も私も、覚悟を決めた。つもりだった。

「二人とも、今日は、セックスの感想文を書いて私に提出する事!」

 そう言い放ったヤハウェは、スタスタと部屋を出ていった。

「あれ?」

 律子と私は、きつねつままれたように口をあんぐりと開けてその場に固まってしまった。

 その後、二人でセックス感想文を、それぞれ書いて、ヤハウェに提出した私と律子は、部屋に戻ってから、お腹を抱えて笑い出してしまった。

「何なの?セックス感想文って!」

「知らないよ!ククッ!」

 ヤハウェは、時折ときおり、私たちの想像をはるかに超えたパフォーマンスを披露してくれたのだった。それは、理解出来たり、出来なかったりしたけど、誰かが、殺されるなんて本当は、うわさだけで、ヤハウェが、そんな非情ひじょうな事は、しないと二人ともこの時は、思っていた。

 


 律子が、毎晩ではないにしろ、ヤハウェと性交渉を行っているだろうという事は、二人の様子を見ていて、何となく分かっていた。ヤハウェは、あのアノニマスの仮面をつけながら律子とみだらな行為を行っていたのだろうか?私は、律子が月日を重ねるごとに美しくなっていく様子を、身近に見ていた。私自身は、もっぱら、ヤハウェに教えてもらったフリーキックの練習を運動の時間に、好きなだけ没頭していた。時に、本当のプロのサッカー選手の様な芸術的なフリーキックが決まると、私は、まるで自分に「神」の様なものが、降臨したような錯覚に陥って、恍惚としていた。


「キイチ、お前は、努力一つで何でも器用にこなせるようになるようだな?何か、新しく始めて見たいことは、有るか?」

 ヤハウェは、勉強や、サッカーの技量が飛躍的に向上していた私に、そんな質問を投げかけてきた。

「う~ん、そうですねぇ、何か小動物の解剖とか……」

 この時、無意識にそんな事を私は、口に出してしまった。

「ほう、解剖か!面白い!やってみるか?」

「でも、どんな動物が良いか?分かりません……」

「まぁ、いきなり動物の解剖など、恐ろしい事だが……」

「じゃあ、あの……」

「ん?何だ?キイチ」

「マグロの解体をしてみたいです……」

「ハッハッハッ!キイチ、お前は本当に面白い子だ!マグロの解体?」

 私は、若干恥ずかしくなってしまったが、ヤハウェがまた、笑ってくれたのは、内心とても嬉しかった。

「よし!では、マグロは無理として、ハマチでも、さばいてみるか?」

 私は、マグロの代用としてハマチが選択されたことが、少し可笑しくて今度は、私が声を出して笑ってしまった。

「ハマチを三枚におろして、刺身にするが良い!」

 こんなやり取りをし終わってから律子にこの話を、してみると、律子も大きな声で笑い出してしまった。

「マグロからハマチ?何でだろうね!フフッ!」

 こうして、後日私は、何の料理の技術もないまま、いきなりハマチを捌いて刺身を作る事になってしまった。




 ヤハウェの料理教室は、邸宅の中の大きなシステムキッチンで行われた。市場から、仕入れてきたという新鮮なハマチや、サンマ、伊勢海老、カレイなどが、並んでいて、私と律子は、興味津々にその魚介類を見つめていた。

「よし、では、始めるぞ!」

 アノニマスの仮面を被ったまま、可愛らしいキティちゃんの刺繍が施されたエプロン姿になったヤハウェの姿を見て、私と律子は、大笑いしてしまった。

「ん?何がおかしい?さぁ、お前たちもエプロンを着けなさい!」

 私と律子は、それぞれブルーとピンクのエプロン姿となり、まずは、ヤハウェの包丁さばきを、とくと拝見した。


 ヤハウェは、まず、サンマを鮮やかな包丁さばきで、あっという間に三枚におろして皮を引いた。小骨を抜いた後、丁寧に刺身包丁で、まな板の上のサンマを刺身に引いた。

時間にして、約十分くらいだった。

「よし、これで、完成だ!食べよう!」

 ヤハウェの引いた刺身は、モノが新鮮なのもあっただろうが、今まで食べた事の無いような脂の乗った見事な美味だった。

「よし、二人とも、やってみたまえ!」

 ヤハウェの指示で、私と律子は、一匹ずつ渡された新鮮なサンマを恐る恐る包丁を使って、見様みよう真似まねで、捌いてみた。律子は、魚を触るのにそんなに抵抗を感じていない様子だった。



 律子は、かなり初めてにしては、上手にサンマを三枚におろして、何とか刺身らしく仕上げてみせた。私は、予想通り、サンマが可哀そうになるくらいズタボロで、ヤハウェの失笑を買ってしまった。


「リツコ、大したものだ!それに引き換え……」

「キイチ、サンマ様に謝りなさい!」

 私は、サンマを「様」付けにしたヤハウェのウイットな表現に感服しながら、

「サンマ様、ズタボロにして申し訳ございません……」

 私がそう言った瞬間、律子が大声で笑い出した。

「サンマが捌けないようなら、ハマチは、無理だな。よし、それでは特別に私が、ハマチと伊勢海老、カレイ、全てを刺身にしてやる!」

 そう言い終わると、ヤハウェは、華麗な包丁さばきと一つも無駄のない身のこなしで、素早く全ての魚介たちを、刺身にしてみせた。

「あ~、疲れた……」

 ヤハウェが、そう言ったので私と律子は、またケラケラと笑い出してしまった。

「さあ、では、食べようか!」

 ヤハウェは、そう言って冷蔵庫の中から何かの液体が入ったびんを、取り出して、調味料と一緒にテーブルまで自ら運んで宴の準備を始めた。

「お前たちは、まだ未成年だが……」

「今日は、特別だ!シャンパンを用意しておいたぞ!」

 エプロンを脱いだ私たちは、ほぼ、ヤハウェが捌いた刺身を、談笑を交えて美味しいシャンパンを飲みながら楽しい時間を共有した。


 この日の様な、楽しい生活が、私も律子もずっと続けばいい。そう思っていた。ヤハウェは、私たちにとって、とても素晴らしい大人に感じられたし、とても面白い人だと思って疑わなかった。後に、この三人の関係が、時間軸と共に少しずつズレていく事など、考えもしなかった。




 私と律子は、十八歳になった。十五歳で初めてこの邸宅にやって来てから三年。律子に関しては、六年。最初こそ、わけのわからない場所で、何をさせられるのか?不安でいっぱいだった私も、今となっては、このヤハウェの邸宅での日々が日常となり、すっかり、まだ、宿舎に住んでいるはずの両親の事など、忘れかけていた。私と律子は、共に勉学や、運動、調理、音楽、道徳など大凡おおよそ学校で習う事全てを、ここで学び、そして今度は私たちが、このミッション内の子供たちに同じ事を教えるという貴重な経験を、積み重ねてきた。ヤハウェは、とても優しく、アノニマスの仮面を被った外見からは、想像もつかない人間味にあふれた創造性豊かな人物だ。と思っていた。



「そろそろ、お前たち二人に今度は、社会というものを経験させたいと思っている」

 十八歳になった年の秋頃、私と律子は、ヤハウェから一ヶ月限定のアルバイトを提案された。私と律子は、顔を見合わせて、お互いの不安を確認し合った。

「アルバイト、ですか?」

「うん、簡単な仕事だよ。これは、立派な社会勉強だ。是非、やって欲しい」

 ヤハウェは、そう言って、私と律子に一枚ずつ何かのチラシの様なものを、手渡してくれた。

「郵便局……」

 確かに、年齢的には、アルバイトを出来る年齢になっていたが、何故、郵便局なのか?私と律子は、更に不安が強まってまた、顔を見合わせた。

「キイチは、自転車に乗って普通郵便の配達。リツコは、局内で郵便物の仕分け作業をやってもらうよ。履歴書等は、不要だ。すでに私から話を通してある」

 ヤハウェから、この話を振られて、私は、本当に純粋に律子と共に社会人への第一歩として郵便局でのアルバイトをヤハウェが、手配してくれたと信じていた。多分、律子も。

「十二月から、一ヶ月。ちょうど年賀状の季節だ。忙しいだろうが、自らの労働から得られる報酬は、社会人として何物にも代え難い立派な勲章の様なものだ。頑張れよ!」

 その後、一ヶ月くらいの間は、ヤハウェから模擬社会訓練の様なものが、施されて、いよいよ郵便局での社会人経験第一歩となる私と律子のアルバイトが、始まった。




 最初の一週間は、先輩スタッフが、つきっきりで業務を教えてくれた。自転車の運転は、ヤハウェから徹底的に教え込まれていたので、問題なかった。問題は、その日一日分の普通郵便を間違いなく、時間内にこの地域一帯に、配り終える事だった。


 いよいよ、私一人で郵便の配達を任される日がやってきた。律子は、器用な頭の良い子だったので、局内での仕分け作業は、ソツなくこなしているようだった。

「え~と、まずは、こっちのルートで……」

 私は、特にコミュニケーション能力も愛想よく振る舞う必要も無い、この自転車での郵便配達業務が、意外と性に合っていたようで、とても楽しく八王子市の一帯を、決められたルートでテキパキと配達業務に集中することが出来た。

 一つだけ、気がかりだったのは、そのルートの中に、私や律子が育った、あの宿舎も含まれていた点だ。私は、そこだけは、どうか両親への郵便物が無い事を願った。ヤハウェに、心酔しんすいしていた私は、もう、両親の事は、忘れてしまいたい古い過去だった。


 お正月は、さすがに死んでしまうのでは?と思う郵便量だったが、高校生の臨時バイトも加わっていたので、むしろ、配達エリアが狭まって楽に業務をこなすことが出来た。



 怒涛どとうの様な、一ヶ月のアルバイトが終わった。二人とも、振り込み用の口座を持っていなかったけど、ヤハウェから言われていたのか?私と律子の二人は、アルバイト最終日に、業務終了後、局長室に呼ばれた。

「二人とも、お疲れ様でした。お給料をお渡しします。よく頑張りましたね!」

 私と律子は、それぞれの名前が書いてある茶色の封筒を受け取って、ボールペンでサインをして、何故か?局長と握手をしてから、二人揃って局を出た。


「ねえ、ねえ、喜一、いくら入ってた?」

 私は、封筒の中に入っていたお金を、大体で勘定かんじょうした。

「やったぜ!十二万三千百円!」

「え~!私より多いじゃ~ん!まっ、時給が違ったからね!」

 結局、律子は、いくら貰ったのか?人に聞いといて、言おうとしなかった。




「おかえり。&お疲れ様!」

 ヤハウェは、私たち二人を愛おしく抱きしめてくれた。

「よく、頑張ったね!その封筒は、大事に取っておきなさい。勿論、好きな物は、買えばよい。自分たちのお金だからね!」

「ヤハウェ、喜一の方が時給が高かったわ!不公平よ!」

 律子が、笑いながら冗談半分にヤハウェに、そう言った。

「ハハッ!リツコ、そのうちお前もキイチ以上に稼げるさ!」

 そのやり取りを聞いていた私も、少し笑いながら、

「いえ、ヤハウェ、律子に稼ぎで負ける事は、あり得ません!」

 と堂々と胸を張って、宣言した。

「そうか!キイチ……」

 そう言った後、ヤハウェは、何故か?急に黙りこくってしまい、そして私は、見てしまった。アノニマスの仮面の隙間から、流れる綺麗な透明色の滴を。ヤハウェは、そのまましばらくの間、初めて私たち二人の前で、身体を震わせながら、泣いていた。

「ヤハウェ……」

 私も律子も、そう小さく呟いて、ヤハウェの様子を見つめていた。



 その日は、北京ダックを用意してくれていたヤハウェの手作り豪華中華料理が、テーブルの上に所狭しと並んでいた。

「全て、私の手作りだ。美味いぞ!二人とも好きなだけ食べなさい!」

 今思うと、何故郵便局だったのか?私も律子も、よく分からなかった。履歴書も何も書いていない。面接すらしていない。ヤハウェの「コネ」だったのだろうが、何か、奇妙な違和感を感じずにはいられなかった。




 ヤハウェに教わったサッカーのフリーキックの精度は、かなり上がっていた。ボールが、美しい軌道を描いて、ゴール隅に吸い込まれるたびに私は、恍惚となり、無我夢中で、ボールを蹴り続けた。律子は、私とは別に、邸宅の敷地内のバスケットコートで、フリースローの練習に夢中になっていた。

 

 宿舎暮らしに戻っていた両親から、また手紙が届いた。私より先に、ヤハウェが、その内容を、じっくりと時間をかけて確認していた。

「キイチ、両親に会いたいか?」

 私は、迷わず首を横に振った。

「キイチの両親は、我々のミッション内でも、その扱いに困っている二人だ。キイチ、お前をここに引き取ったのは、あのまま両親にお前を任せていたら、危険だと思ったからだ。二人とも、正常な精神状態ではない。分かるな?キイチ」

 今度は、私は、先程とは逆に素直に首を縦に振って頷いた。

「もう、出来ればあそこには、帰りたくありません」

 ヤハウェは、私の言葉を聞いた後、少し溜息をついて、手紙を渡してくれた。その内容は、この邸宅を離れて実家である宿舎に戻ってきなさいというものだった。

「実はな、キイチ。お前の両親は、もう私のミッションからは、破門にしているのだよ。とても、手に負えない。特に、お前の母親。完全に精神が崩壊している。お前も見ただろう?父親の性器を食い千切った。恐ろしい話だよ……」

 ヤハウェは、光の差し込む窓辺に身を置いて、暫くの間、黙って何かを考え込んでいるように見えた。

「一度、私と一緒に宿舎に行くか?」

 ヤハウェが、意を決したかのように私に、そう提案してきた。

「ヤハウェ、あの二人は、もはや僕にとって何の特別な感情も動かせる存在では、ありません。出来れば、行きたくないです」

「ふむ、そうか……ところでキイチ、サッカーの方は、だいぶ上達したのか?」

 ヤハウェは、うまい具合に話題を明るい方へ持っていった。

「フリーキックは、だいぶ上手くなりました。リフティングも数十回出来るように……」

「料理は、まだまだだけどな!フッフッフッ!」

 律子は、私たちの会話を、聞いていたようで、ショパンの旋律を奏でていたピアノを弾く手を止めて、笑い出した。

「ヤハウェ、もうそろそろ……」

 律子が、恐る恐る口を開いてヤハウェに何かを促していた。

「ん?そろそろと言うと?」

「いえ、すみません。何でも有りません……」

 律子は、すぐにピアノを弾き始めて、その場の曇った空気を澄みきった空気に浄化するような旋律を奏で始めて、私は、このヤハウェと律子の、意味深な会話を、この当時は、特に気に留めなかった。



 時が流れて、私と律子は、二十歳になった。相変わらず両親から不定期に、手紙が届いたが、私は、全く手紙に目を通さず邸宅の裏の焼却炉で、両親からの手紙を燃やしていた。律子は、ピアノコンクールに出場するために、日々、ピアノの練習をしていた。私は、苦手だった料理の腕前をかなり上げていて、それらは、全てヤハウェの丁寧な指導による立派な成果だった。

「喜一、わたしのピアノで眠くなる?」

 ショパンの「別れの曲」を弾いていた律子が、おもむろに私にそう尋ねてきた。

「いや、ならないよ。とても引き込まれる。いい線行っていると思うよ!」

「フフッ、喜一の評論は、あてにならないわ!」

 律子は、非の打ちどころの無い美女に成長していて、幼い頃から一緒に過ごしてきた私から見ても、思わず見とれてしまうほどだった。

 ヤハウェのミッションの活動や存在自体、この邸宅の中では、何も感じる事無く、あの赤い服を着た連中の姿も、施設内で見かけなくなり、教育係だった私と律子も、赤い服を身に纏う事は、無くなった。

 ヤハウェは、最近体調を悪くしていて、あまり私たちの前に姿を現すことも無くなっていた。律子も私も、ヤハウェの体調を心配していたが、相変わらず謎のベールに包まれていたヤハウェのプライベートまでは、踏み込んではいけない領域だと自制心を働かせて気にしないふりをしていた。

「律子、コンクールは、やっぱりショパンを弾くの?」

 何も、クラシックに造詣ぞうけいの無い私が、さりげなく律子に聞いたことで律子は、笑った。

「喜一、ショパンを食パンみたいって言ったよね?何年か前。ヤハウェの演奏を聴いて」

「そんな事言ったっけ?忘れたよ」

「わたし、きっと成功するわ。ピアニストとして……」

「喜一は?将来何になりたいの?」

「俺は……う~ん、そうだなぁ。一流の料理人……」

「そうなの?楽しみ!喜一の作る料理が、食べてみたいわ!」

「だいぶ、上手くなったんだよ!魚をおろすのも、味付けも。野菜の千切りだって大根のかつらきだって、出来るようになった。全部ヤハウェのおかげだよ!」


 いつだって、律子と私の会話の中には、「ヤハウェ」が登場した。それくらい、ヤハウェの存在は、私たちの中で、大きなものだった。この先、とても恐ろしい出来事が、起こることなど、まだ知らずに楽しく過ごしていた。両親から届く手紙のペースが、かなり頻繁になっていた頃だった。



「喜一!」

 芝のグラウンドの上で、サッカーの練習をしていた私を、誰かが呼んだ気がした。

「喜一!こっちだ!」

 声のする方に視線を向けると、そこに居たのは、父と母だった。

「喜一!早くここから逃げ出すんだ!」

 父が、険しい表情で、何度もそう叫んだ。私は、その様子が、とても緊急性を秘めているような感じがしたが、相手が相手だ。直ぐには、二人の元へ歩みが向かなかった。

「どうしたの?」

 邸宅のフェンス越しに、私と両親は、数年ぶりに再会した。

寿一じゅいち……アイツから離れろ!離れるんだ、喜一!」

「じゅいち?そんな人は、俺は、知らないよ!」

 私は、リフティングをしながら、両親の顔もロクに見ずに会話を仕方なく続けていた。

「ヤハウェだ!アイツは、お前の……」

 父が、そこまで喋って急に黙り込んだ。

「ん?」

「お前には、九歳離れた兄がいる!それが、ヤハウェだ!」

「寿一。あなたのお兄さんよ……」

 母が、初めて口を開いた。

「ウソだ……」

「あれは、悪魔だ。鬼だ!」

 私は、次第に頭が混乱してきていた。

「ヤハウェ!」

 父がそう叫んだので、後ろを振り返ると、邸宅の一室で、療養していたはずのヤハウェが、少しやつれた表情で姿を現した。

「キイチ、どうした?」

 ヤハウェは、私からサッカーボールを奪うと、そのボールをフェンスの向こう際に居た両親に向けて、強く投げつけた。

「寿一、もうやめよう!」

 父が、確かにそう言った。

 私は、初めて宿舎でヤハウェに逢った時と同じように、軽い目眩めまいの後、何かの麻酔を打たれた様な感覚に陥って、意識を失った。




「寿一……キイチ、おれは、喜一。ジュイチ?」

 夢の中で、私は、全てが夢の中の出来事であることを祈った、もし、出来る事なら、このまま夢から覚めたくないとも思った。

「ヤハウェが、俺の兄さん……」

「それで、あんなに優しかったのか?」

「父と母、そして兄さんの間に何が起こったんだろう?」

 次の瞬間、私は、強烈な衝動の様なものに駆られて、目を覚ました。

「思い出した……」


 それは、本当に私がまだまだ幼かった頃の微かな記憶だった。

 何かで口論している両親と、多分、実の兄のヤハウェ……

 途中の会話などは、全く覚えていない。

 ただ、最後に、最後に、確かに見た……

 母親が、高温に熱したフライパンの中の油を、兄の顔面にぶちまけた。

 兄は、物凄い声で叫んだまま、倒れ込んだ。

 幼い私は、確かに見た。

 髪の毛や、顔がドロドロになってしまった兄の顔を……



「じゅ、じゅいち兄さん……」

「顔面、ケロイド、脱毛、奇声……」

「喜一、いつかお前もこいつらにやられる!その前に俺が、助けるから!」

「ヤハウェ……父、母、律子……」

「赤い服、割礼、ミッション……」


 現実に目を覚ました時、私は、何故かホッとしていた。そこは、いつもの窓際に籠に入れられたセキセイインコが、二羽、毛繕いをしていた。

「夢?けど……」

 私は、自らの男性器を確認した。幼い頃にされた「割礼」の痕はまだ、しっかりと残っていた。

「律子は?」

「ヤハウェ……」

 私は、律子がいつか見てしまったというヤハウェの素顔を、考えていた。律子は、ヤハウェの素顔が、とても恐ろしいと言っていた。

「あの時の、火傷、ケロイドが……」

 私は、ヤハウェと律子を探して邸宅内を走り回った。邸宅の外も。

「ヤハウェ!律子!」

 いつもサッカーをする、芝のグラウンドの上で律子の様な髪の長い女を見つけた。

「律子!」

 私が、何度呼びかけても、その女は、振り返ろうともしなかった。私は、走ってその女に近づいた。

「喜一、殺したよ……」

「かあ……さん……」

 その女は、いつも律子が来ていた真っ白なワンピースを確かに着ていた。だけど、そのワンピースを着ていた女は、歯がボロボロで、髪の毛も長いだけで異臭を感じる汚らしい女だった。それは、私が良く知っている私の実の母親だ。

「喜一、喜一……ほら、お父さんが、あっちで待ってるよ……」

 私は、母の指さす方向に視線を向き変えた。

 私は、今まで生きてきた中で一番狂おしい、断末魔よりも恐ろしい叫び声を上げた。

 私が、練習していたサッカーのゴールマウスに、何か人のようなものが、ぶら下げられていた。首を吊った状態で……


「ヤハウェ……」

 私は、ゴールバーにぶら下げられているヤハウェらしき人物の変わり果てた姿を見た。ぶら下がっている足の下には、アノニマスの仮面と、カツラのようなものが落ちていた。

「久し振りだよ……喜一、こんな芸術的な殺人は……」

 ゴールポストにもたれ掛かるように、座っていたのは、父親だった。

「何で!律子は?」

「ああ、あの子なら、母さんが、美しい殺人を執行してくれたよ……」

 私は、背中に戦慄のようなものを感じながら、いつも律子が、フリースローの練習をしていたバスケットコートに走って向かった。

「り、律子……」

 私の予想通りだった。律子は、バスケットのゴールにロープで吊るされた状態で息絶えていた。蒼白く生気を感じない顔の中で、耳にいつも着けていたピアスだけが、キラキラと輝きを失わずに自己主張をしていた。

 私には、合点がいかない部分が多々あった。

 日々、体を鍛えていたヤハウェや、それなりに体力も付いてきていた律子を貧相な食生活を送っていた非力な両親が、どうやって殺害できたのか?更に、二人とも最後には、ロープで首を吊られている。とてもじゃないが、今の両親に出来る芸当ではない。では、誰が、何の目的でヤハウェまたは、実兄の寿一を。そして、律子までも、殺害したのか?


 そう言えば、礼の赤服の連中を含めたここでのミッションの信者たちは、どうなったのか?私は、半ば強制的に、数年ぶりに両親の暮らす、あの八王子市の宿舎に戻った。暫くの間は、私は、様子を見ながら真意を探っていた。ヤハウェと律子は、証拠隠滅の為、邸宅の裏の焼却炉で私の両親によって焼かれてしまったようだった。


 現実離れした日常から、更に不可解な事件が複雑に絡まり合って私の頭の中は、混乱を極めていた。久しぶりに帰った実家である宿舎の部屋は、意外にもキレイに整理整頓されていて、食生活も三食キチンと提供された。父は、朝早くから、どこかに仕事に出かけている様子だった。母も、近所のスーパーマーケットの清掃のパートを一日二、三時間続けていて、余った総菜などを貰ってきては、我が家の食卓に毎日のように並べた。


 私は、これが日常というか、あの私の実兄かも知れないヤハウェと律子の殺害事件以来、何か悪い夢を見続けているような感覚に襲われて、現実に今、置かれている環境や、起こっている出来事を受け止めきれず、まさか、あの私の両親が、社会に出て、働いている事ですら、全く信じることができなかった。


「喜一、専門学校へ行く気は、ないか?」

 父にそう言われたのは、私が、二十一歳の真夏だっただろうか?

「いや、俺は、一生フリーターでいいよ」

 と、出来る限り冷たい対応をしたことを覚えている。

「あなた自身の為じゃないわ。将来、あなたは、私達の介護を含めた面倒を見る義務があるのよ!」

「突然そんな事言われたって……俺は、自分の好きなように生きたいよ!」

「子供が、親のお面倒を見るのは、当然だぞ、喜一!」

 私には、両親の言っていることが何一つ理解不能で、ひょっとして、この二人は、笑えない冗談を言っているのか?とも思ってしまうほどだった。親の面倒を見るのは、子供の面倒をしっかりと見た親の言う事だ。いや、それすら、強制的に「介護しろ!」とまで言う親は、居ないのではないか?私は、そんな事が起こる度に、ヤハウェと律子の事を思い出して、あの頃に戻りたいと強く願った。


 ヤハウェと律子が、まだ生きていると両親から聞いたのは、その年の秋頃だったか?

「だって、この目ではっきり見たよ!あんたたちに殺されて焼却炉で焼かれるのを!」

 父と母は、にんまりと笑いながら顔を見合わせて、

「ハハッ!そうか!すっかりと、騙されたな、喜一!大丈夫だ。誰も死んでは、いないよ!あれは、お前のためのサプライズだ!皆で計画したのだよ!」

 ついに、父も気がふれたと思った。ただ、それが本当なら、良いのに、とも正直思った。

「寿一も律子ちゃんも、ちゃんと生きているよ!」

 母にそう言われて、私は、一応形だけは、その言葉を信じようと思った。でも、まさか……



 介護士の専門学校へ通い出した私は、授業の終わった後に、ヤハウェの邸宅へ足を運んでみた。ひっそりと静まり返ったその豪邸を、フェンスの外から感慨深げに眺めていると、

「喜一、キイチ……」

 私は、背後から突然聞こえてきたその声に一瞬、ビックリしながら振り向いた。

「あなたは、確か……」

「ヤハウェの邸宅で、執事しつじをやっておりました。折笠おりかさです」

 痩せた身体の、初老の男性。そう、彼もこの邸宅で私や律子と過ごしていた。

「懐かしいですね……」

 私は、遠くを見つめるような目で、邸宅の敷地内を、様々な記憶を思い出すようにフェンスの外から感慨に浸っていた。

「喜一さま、実は……」

「はい、どうしましたか?」

「ヤハウェも、律子さまも無事こことは別の場所に生活をしております」

「えっ!どこに?」

 折笠さんは、何も言わずに静かに私に、一枚の紙を手渡してくれた。

「ここに、全ての情報が書いてあります。決してご両親には、見せぬ様に……」

 折笠さんは、そう言ってにこやかに笑いながら、邸宅から離れて歩いてどこかに行ってしまった。



 折笠さんから、貰った紙の情報を頼りに私は、早く事の真相を知りたくて、その紙に書いてある場所に向かった。

「ここか?」

 私は、ようやく辿り着いた場所で立ち止まり、目の前にそびえ立つ大きなビルディングに視線を落ち着かせた。ビルの名前は、「ガラタサライ」奇妙な名前のビルだと不思議に思いながら、私は、中に入っていった。


 受付嬢もいないし、何となく人気ひとけを感じないその空間は、少しだけ私の背筋を寒くさせたが、目的の9階までエレベーターを使って私は、また、ヤハウェや律子に会えるかもしれないと、期待と不安の入り混じった複雑な感情を抑えきれずにいた。


 9階に着いた私は、ようやく、このビルディングの名前である「ガラタサライ」の語源が、サッカーのトルコリーグの名門クラブから来ているのかも知れないと気が付いた。ヤハウェは、サッカーが好きだったし、私にフリーキックを始めとしたサッカーの楽しさを教えてくれた人物ではあった。


 9階の奥の部屋に、折笠さんから貰った紙に書いてある「ラボーナ」という事務所を見つけることが出来た。

「ラボーナ?あの、サッカーのトリックプレーの……」

 何から何まで、サッカー何だなと思いながら、私は、ドアを数回ノックした。

「カチッ!」

 鍵の開いた音がした。私は、臆することなくドアを開けた。

「ヤハウェ!」

 その空間は、私が、数年間過ごしたヤハウェの邸宅のメインルームと何ら変わらない景色に見えた。籠に入れられた二羽のセキセイインコ。清潔感漂う匂い。ヤハウェと律子が奏でていたピアノ。足りないのは、そこに居るはずのヤハウェと律子だけだった。


「キイチ、喜一……」

 空間の奥の方から、微かに声が聞こえた。

「ヤハウェ!律子!」

 私は、興奮する自分の感情を抑え込みながら、声のする方へ歩み寄った。

「お待ちしておりました。喜一さま……」

「折笠さんっ!」

 そこには、さっき別れたばかりのヤハウェの邸宅の執事だった折笠が、気味の悪い笑みを浮かべて何かを手に持って、私に向かって差し出してきた。

「じ、腎臓?」

 私は、直感的にそれが生き物の臓物で、恐らく幼い頃に自分や律子がえぐり取られたのと同じ、腎臓だろうと察しがついた。

「ヤハウェは、末期の腎不全でして。生体腎移植が必要なのです。しかしながら、ヤハウェの体質に合った腎臓は、なかなか見つからない。移植しても、長く持たないケースが殆どでした。そんな中で、喜一さま、あなたの腎臓は、ヤハウェの身体に速やかに馴染みました。おそらくは、あなた方二人が、実の……」

「兄弟、だから?」

「はい、おっしゃる通りでございます。今、この手に持っているのは、喜一さま、長年ヤハウェの身体を助けてくれた、あなたの腎臓です。しかしながら、もう、この尊い腎臓も役目を果たしました。今は、ヤハウェは、透析を受けながら治療に専念しています」

「ヤハウェは、今どこに?」

「喜一さま、お父様とお母様は、元気でいらっしゃいますか?」

「はい、二人とも働いています」

「日本では、生体腎移植は、血縁の濃い家族などの関係性が有る腎臓が最適です。喜一さま、あなたの腎臓は、ヤハウェにしっかりマッチしました。勿論、免疫抑制剤を使って」

 私は、折笠の話を聞きながら、背後に何かの気配を感じて後ろを振り返った。

「り、律子?」

 そこには、眩いくらい美しい女性の姿があった。

「喜一、お久し振りです。律子よ……」

 折笠が、手にしていた生臭いにおいのする腎臓と相反するように、律子の身体からは。甘美でほのかな、いい匂いがしてきた。

「わたしの、腎臓は、ヤハウェには、合わなかった……」

 律子は、そう言って着ていた純白のシャツをめくって、片方の腎臓を取り除いたであろう手術の痕を見せてくれた。

「喜一、お父さんとお母さん。どちらかの腎臓は、貰えないの?」

 律子は、単刀直入に私に、そう尋ねてきた。

「父さんか、母さんの腎臓……」

「ヤハウェ、つまりあなたのお兄さんである寿一様は、新しい腎臓をお待ちしております。出来れば、喜一さん、あなたのご両親どちらかから……」

「それは……」

「このままですと、寿一様の命は、長くありません。喜一さま、よろしくお願いいたします。ヤハウェの為と思って……」

「喜一、お願い!」

 折笠と律子に、そう懇願されて私は、両親にそんな善意のかけらもない事を伝えたかったが、その場では、何となく承諾したような雰囲気になってしまった。


 結局は、ヤハウェも律子も殺されてはいなかったのか?それでは、あの日夢の中で見たようなヤハウェと律子の殺人ショーは、何だったのか?それは、後に知る事が出来たが、この頃は、納得いかない謎のまま私の頭の中を混乱させるだけだった。



 実家に帰った私は、両親と一緒に晩御飯を食べていた。さすがに、あの自分の臓物を見てしまった上に、生臭い臭いまでもが、私の脳裏に焼き付けられていて、その日は、食が進まなかった。

「ごちそうさま……」

「あら、喜一。どうしたの?全然食べてないじゃない」

 母にそう言われても、私は、少し気分が悪くなっていたので何も答えずに自分の部屋に逃げ込んでしまった。

「女でも出来たか?ブハハッ!」

「まさかぁ!グフフッ」

 私の部屋の中まで聞こえてくる両親の汚らしい人間とは思えない、気持ちの悪い笑い声が、余計に私の感情を逆撫でさせた。父も、自らの性器を食い千切られて、よくも仲良くあの気の狂った母親に普通に接していられるものだ。と呆れ果ててしまった。


 ヤハウェと律子が、まだ生きていた。

 それは、私にとっての生きる希望に繋がっていた。

「あの、化け物二人を殺してしまえば、ヤハウェに腎臓を移植できる……」

 いつしか、私は、父と母を殺害する計画を立て始める。

「早くしないと、ヤハウェ、寿一兄さんが、死んでしまう……」

 それは、明確な目的を持った殺害計画だった。

「だけど、あの時の死体は、誰だったんだろう?」

 私には、自分の両親が、何者なのか?それすら、分からなくなってきていた。


 

 八王子市の私の実家である宿舎の近辺に、点在していたヤハウェのミッションの施設は、いつの間にかその姿を消していた。あの、赤い服を身に纏った連中の姿も、見る事は無くなっていた。


 両親の殺害計画は、私の頭の中で、密やかに確実に進められた。もはや、ただのケダモノだと思っていた両親への慈愛じあいの感情など、微塵みじんにも感じていなかった。私は、両親のうち、どちらかと言えば、母親の方に強い嫌悪感を抱いていたので、殺害方法は、ともかくも殺意の強さからすると、母親をターゲットにした方が、躊躇うことなく殺害を実行できるような気がした。


 父は、相変わらず毎朝、どこに通っているのか?分からないけど、仕事に出かけているようだった。母親も、スーパーマーケットの清掃のパートを週に三、四日こなしていて、私は、両親に無理矢理勧められた介護士の専門学校を通っている振りをして、殆どサボっていた。時折、あのガラタサライという変な名前のビルディングの傍を通りかかったりしたが、ヤハウェや、律子が、今現在どうしているのか?頭の中で、一旦、立ち止まるような思考は、母親の殺害計画を進めていた私の中から、一人歩きするかのように遠ざかって行った。

「アイツは、親父のペニスを食い千切った。四つ足の動物のような格好で……きっと、完全に精神が崩壊している。殺すに値する存在だ」

 私は、日々、母親の様子を観察し始めた。気持ち悪い。最近になって、給料が入ってくるからか?化粧などをし始めた。短いスカートを履いて、派手なストッキングに便所の芳香剤の様な臭いの香水までつけ始めたから、その容姿や、便所臭い匂いが、好都合なことにアイツを殺害する意思を決定づけるスパイス、調味料となった。

「喜一、新しいバッグを買ったのよ!どう?」

 化け物が、更に醜く化粧などをしていたので、完全に妖怪の館の様なこの宿舎の空間で、私は、耐え続けた。夜になると、自分の性器を食い千切られた父親が、アイツと淫らな性行為を行っていることだって俺は、知ってしまっている。その行為中の声と言ったら、聞くに堪えないもので、まだ、発情期真っ盛りの野良猫たちのうめき声の方が、清楚で純粋無垢なものだったろう。



「折笠さん!」

 季節が、真夏に差し掛かっていた頃、私は、あのガラタサライというビルに足を運んだ。9階のラボーナという、ふざけた名前の一室に折笠さんは、常勤しているはずだ。

「折笠さん!すみません!喜一です!」

 ラボーナの空間は、白けきっていて誰もいないのではないか?そう思った。

「喜一、今すぐ行くわ!」

 部屋のどこかから、律子のような声がした。

「律子!律子か?」

 この日は、外は異様なほど蒸し暑くて、私は、大汗をかいて喉がカラカラだった。

「喜一、いらっしゃい!」

 律子は、この暑さのせいか?あの綺麗な長髪をバッサリと切ってショートヘアにして、小麦色の肌の色と相まってボーイッシュな今までの律子とは、違う魅力的な女性に変貌していた。

「ヤハウェは?」

 いつも、自宅内で化け物ばかり見せられていた私にとって、律子のような美人は。目と心の保養になった。

「うん……元気ないわ……」

 律子も、しょぼくれた様子だった。

「折笠さんは?」

「うん、実はね、喜一……」

「どうしたの?」

「折笠さんが、自分の腎臓を一つ、ヤハウェに提供したの……」

「医者は?腎臓移植って、いろいろ法の定めが有るだろう?」

 私は、てっきり律子が、何かしら冷たい飲み物を持ってきてくれるだろうと期待していただけに、手ぶらで律子に迎え入れられて少しだけ、テンションが落ちていた。

「ヤハウェのミッションには、専門のお医者様がいるわ。移植手術、大変だったのよ」

 律子は、ようやく何かに気付いて、足早に部屋の奥に走って行った。私は、今度こそ、冷たい飲み物が運ばれてくるのだと、少しだけ大人げなくワクワクしていた。

「真夏だし、麦茶とか、サッパリしたのが、いいなぁ……」

 数十秒後、律子は、ザクロスムージーを持ってきた。

「……ありがとう……」

 また、コイツか!私は、心の中で何故このタイミングでザクロスムージーなのか?呆れかえったが、律子が飛び切り可愛かったので、何でも許せた。もし、妖怪母だったら、首を絞めてやるところだった。

「プハ~!懐かしい味っ!」

 喉がカラカラに渇いていると、ザクロスムージーでも、こんなに美味しく感じるのだという感覚が私の体中を駆け巡っていた。

「けど、どこで手術したの?」

 律子は、ニッコリとキュートな笑顔で私に近づいてきて、

「今はもう、ヤハウェのミッションの施設は、ここ、ガラタサライだけよ。別の階のクリニック内で、オペは行われたわ」

 律子は、いつも身に付けていたピアスをキラキラさせながら、黙って私の手を握り、

「お願い、喜一。あなたのお父さんかお母さんの腎臓を、ヤハウェに……」

 律子の目から、きれいな透明の滴が、静かにゆっくりと流れ落ちていった。

「大丈夫、もう少しだけ待ってくれないかい?」

「喜一、あと三週間。リミットは、そこまでよ……」

 私は、律子の目を見つめながら、黙ったまま大きく頷いた。



 父と母のどちらかから、腎臓を一つヤハウェに提供させる。ターゲットは、あの狂った母親だ。ヤハウェ、つまり寿一兄さんの実の母親なのだから、手術さえ成功すれば、また、元気な寿一兄さんに逢える。私は、母の腎臓を兄さんに提供するつもりは、無いか?無駄に殺害して、警察に捕まるなら、クレバーな選択をするべきだとひとまずは、思った。

「腎臓?アタシの腎臓を、あのケロイドだらけの寿一に?バハッ!嫌だよ!」

 化け物の母は、予想通り、即答で腎臓提供を断ってきた。

「お前の腎臓だって、アイツに提供したんだ。二百万しか報酬は、なかったよ!」

「兄さん、ヤハウェが、あんな姿になったのは、母さんのせいだろ!同じ家族じゃないか!助けてあげようよ!」

 私が、そう懇願しても、母は、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべて、

「アイツは、親であるアタシ達を罵倒ばとうした。アツアツに熱した油を、ぶっかけてやったのさ!アイツは、ヒイヒイ泣いて、苦しんでいたよ!その後だ。アイツが、何者かの力を借りて、この地域一帯にミッションを創って、あんな立派な邸宅に住み着くようになった」

 私は、ヤハウェが、力を借りたという「何者」という存在に興味を抱いたが、今、この場では、目の前の怪物をどうにかして、説得するか?殺害するか?いや、多分説得などは、無理だろうと思っていた。殺す?どうやって?私は、しばらく考え込んでしまった。

「ねえ~、喜一ちゃん。アタシ最近欲求不満気味なの~!あの役立たずの性行為不能の加齢臭オヤジとじゃ、気持ちいいどころか、エライ気持ち悪いのおよ~!」

 母は、そう言った後、私に近づいてきた。

「な、何だよ!」

 母は、着ていた洋服を少しずつ脱ぎながら、私という獲物を逃すまいと、また例によって四つん這いになって、奇妙な呻き声を上げ始めた。

「チ、チンポ……欲しい……喜一、お願いだからアタシの中に入って来て!」

 私は、このままだと、大変な事になると感じて、傍に置いてあった花瓶で四つ足の化け物の頭に向けて、振りかざした。

「グハッ!喜一、お前っ!」

 いっそ、このまま一思いに殺してしまえば……そう思った。四つ足の化け物は、恐ろしい程、鋭い目つきで、私の事を睨みつけていた。

「お前、寿一と同じ目にあいたいか?」

 私は、いつか戦ったあの、巨大ネズミよりも気味の悪いこの生き物を何とかして処分してしまいたかった。

「悪い事は、言わない……アタシの言う事を聞きなさい……」

 次の瞬間、私は、また、遠い世界から眩しすぎる光のようなものを浴びる感覚に包まれて、意識を失ってしまった。



 目を覚ました時、私は、自分の部屋のベッドの上に横たわっていた。

「気持ち悪い夢だった……」

 家の中は、どうやら私1人しかいないようだった。

「あれっ?」

 私は、ふと自分の身体が、宙に浮いている様な不思議な感覚に襲われた。

「キイチ、喜一……」

 幻聴のような声が、私の頭の中で繰り返し聞こえてきた。私は、ベッドから起き上がろうとして、体勢を変えようとした。

「身体が、動かない……」

 私は、瞬間的に何か、とても嫌な予感がした。

「さっきのは、夢じゃなかったんじゃないか?」

 次の瞬間、アイツが、あの化け物が、二足歩行でジュースを持って私の部屋に入ってきた。

「グエッ、フフフフフッ!」

 アイツは、相変わらず気持ち悪かった。

「俺に、何をした!ババア!」

 意に反して動こうとしない、自らの身体をもどかしく思いながら、私は、母に向かって唾を吐いた。唾は、力なく私の洋服の上に貼りついた。

「喜一~、久し振りの生のペニス。最高だったわ~!お母さん。三回もイッちゃったのよ!気持ち良かったわ……」

 私は、母の言葉に愕然がくぜんとしながら、かろうじて動く首を傾けて、自分の下半身を確認した。

「何か、何かしたろう?身体が、全く動かない……」

「ギヘヘ、麻酔薬を注射してあげたのよ。あなた、私のされるがままだったわ」

 母は、そう言った後、持ってきたオレンジジュースのようなものを自らの口に含んで、いきなり、私に口移しで、それを流し込んできた。

「ガッ!うえっ!」

 半分近く、その液体を吐き出した私は、動かない身体で、母としばらくの間対峙した。

「それじゃあ、二回戦と行きましょうねぇ~!」

 母は、そう言って私のズボンを一気に脱がせた後、パンツも脱がせて、露わになった私のペニスを気味の悪い笑みを浮かべながら、じっくりと長い時間をかけてフェラチオを、し続けた。

「ん~、美味しいわ。喜一、麻酔が効いているのに元気に立ってきたじゃない!」

 私は、最大の屈辱感と敗北感にさいなまれて、目をギュッと閉じて早くこの悪夢が、終わる事だけを祈っていた。



 自分の母親に、レイプされた私は、麻酔が覚めてようやく身体が自由に動くようになっても、そのショックを引きずったままでいた。

「汚らわしい……あの、化け物が……」

 もう、この家には居られない、居たくない、素直にそう思った。季節は、九月に入って、まだ、蒸し暑い日が、身体に纏わりつくように続いていた。

 ガラタサライに逃げ込むように、押しかけていったのは、そんな時期だった。

「ここに住まわせてください!」

 折笠さんに、何度かそうお願いしていた。

 律子が、心配そうに私の事を見つめていた。

「喜一、もう、ミッション、つまりこのガラタサライでは、共同生活は、送ってはいけない事になってしまったのよ……」

 折笠さんも、律子の言葉に二、三度頷きながら、申し訳なさそうに私の表情を伺っていた。

「寿一様、ヤハウェの腎臓移植の期限は、もう限界です。ご両親を説得できませんでしたか?」

「申し訳ございません。あの二人は、とても僕の手に負えません……」

「さようでございますか。ヤハウェ、寿一様は、喜一さまに逢いたがっております」

 折笠さんは、律子と何かアイコンタクトをとったあと、

「ヤハウェに、逢いに行きますか?」

「はい、逢いたいです!」

 ガラタサライのラボーナの一室を出た私たちは、4階にあるというセルティックというビル内のクリニックを訪れた。

「ここに、ヤハウェ、寿一兄さんが?」

「そうよ、もしかしたら、今日で最後に……」

 律子は、そこまで喋って悲しげな表情で、うつむいてしまった。


 病室に入ると、ケロイドのせいか?頭部から顔面まで酷くただれた生気のない一人の男性が、ベッドの上で眠っていた。

「ヤハウェ……」

 私は、痩せ細ってしまったヤハウェの姿を見て、直感的に、彼の人生の終着点が、間近に迫っていることを、何となくだけど、感じ取ることが出来た。

「キ、キイチ……」

 ヤハウェは、急に腕を上げて私の名前を呼び始めた。

「さあ、キイチ、おいで……」

 ヤハウェは、優しい微笑を浮かべながら、私を呼び続けた。

「ヤハウェ、寿一兄さん……」

「お、大人に……大人になったな、キイチ……」

「もう、二十二歳になりました。ここまで生きてこれたのは、ヤハウェのお陰です!」

 痩せ細ったヤハウェの腕を、手を、しっかりと私は握っていた。いつだって、ヤハウェは、優しくて、ユーモアがあって、そして私と律子にとって欠かせない存在だった。

「キイチ、サッカーは、続けているか?」

「たまに、近所の公園でリフティングや、フリーキックの練習をしています!」

「そうか……元気そうで何よりだ……」

 ヤハウェは、静かにベッドから、起き上がろうとしていた。

「寿一様、ご無理をなさらぬ様に!」

 折笠さんが、慌ててヤハウェ、寿一兄さんの身体を支えに入ってきた。

「リツコ、お前もそろそろ、実家に戻りなさい。私のミッションは、もう……」

 ヤハウェは、律子に穏やかな笑顔で、そう告げた後、折笠さんが用意した車椅子に座った。あらためて、近くで見ると酷いケロイドだった。これを、あの化け物母が、高温の油をかけたせいだと思うと、私は、強い殺意さえ覚えたが、今は。ヤハウェが、目の前にいる。それだけで、私は、幸せだった。




 その年の秋頃に、ヤハウェは、腎臓病で、亡くなった。


 私は、介護士の資格を取得して、介護職に就くことが出来た。両親は、どこからなのか?あんなに貧困だったのに、いつの間にか、お金をたくさん持っていたようで、専門学校の費用や、その他の生活費も何不自由なく捻出ねんしゅつしていた。


 律子は、ピアニストになる夢を、あと少しの所で断念して、一般男性と結婚した。結婚式に出席した私は、幸せそうな律子のウエディングドレス姿を見て、感涙に浸っていた。


 私は、その後、数十年間におよんで介護の仕事に精を出して働いた。


 両親は、年齢を重ねて、だいぶん弱ってきていた。


 私が、両親の介護を始めて、一旦仕事を休職して長い期間、両親の介護に専念した。

 かつて、化け物扱いしていた母親や、気味の悪い父親だったが、私は、そんな事すら忘れて、両親の介護に生きがいを感じるようになっていった。



 何故、あれほど憎んでいた両親を、これほどまでに愛おしく介護する事が出来たのだろう?私は、一人になって眠る時刻になると、度々その事を考えずには、いられなかった。



 そして、私は、両親の最後を看取ってから、警察に電話をかけた。

「父と、母を殺しました……」

 何故、そんな嘘をついたのか?私は、電話を切ったあと、思春期の頃のヤハウェの邸宅での楽しい日々を思い返していた。ヤハウェ、律子、折笠さん。私が、真人間の心を取り戻したのは、あのヤハウェの邸宅での奇妙な日々があったからだと信じている。


 ヤハウェ、いや、寿一兄さんを救ってあげられなかったことは、度々私の心を締め付けたが、私は、両親、特に母親を殺害する事は、無かった。


 いつか、ヤハウェの邸宅での、道徳?の授業の時、ヤハウェから「鬼と仏」について、教わった記憶が脳裏をかすめた。


 今、私は、健やかなる「仏」の心を身に纏い、両親から受け続けた虐待の日々を、浄化して、旅に出る事にした。


 警察がやって来て、私は、警察署へ向かう車の中で、窓の外を眺めていた。


 子供たちが、公園で楽しそうに遊んでいる光景が目に入ってきた。


 私は、静かに警察の人達に気付かれない様に、小さな声で呟いた。


「これで、自由になれる……」                        

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鬼仏~KIBUTSU 双葉 黄泉 @tankin6345

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る