ワタシの後のアナタのために 破

 意識が浮かび上がる。なんともなしに瞼を持ち上げようとして、ふっと力を抜く。昨日は楽しかったと、思い出に耽る。

 海の物は当然として、この時期人が食べていると美味しそうに見えるかき氷も出している店だった。でもね、礼。3杯は食べすぎだと思うなあ。俺以外の二人もビール片手に変な顔してたぞ?

 ああ、そういえばハーモニカ。もちろん楽器ではない。メカジキの背びれの一部の希少部位だ。綺麗な盛り付け? 知ったことかと齧り付いていた兄貴分には何も言うまい。しかしそれが正解とも思える美味さなのだ。

 こんなことを考えたらお腹が空いてきた。昨夜はお店で二人と別れ、いつもの分かれ道で礼と別れ、実家の部屋についてすぐに寝てしまった。とはいえ、今まさに朝食の香りが漂い、この鼻腔に届いているのだ。

 さて、この香りをおかずに、もうひと眠りするとしよう。




 さて、何度寝したかな。そんなことを考えるくらいにはしっかり寝た俺だったが、さすがに起きよう。

 随分と懐かしい、しかしこざっぱりした部屋は所々に埃がたまっていて、これは掃除が先かな、なんて思いつつ、体は正直だ。まだ、わずかに匂う食事時のそれに反応し、食卓へ向かう。卓上に伏せられていた食器類は二人分。一つは自分の。もう一つは父だろうか。まあ、自分より遅く帰ってきたのなら相当飲んでいただろうし、最悪まだ宴会場から帰ってきていない可能性もある。

 時刻は昼前だ。母がいないのもこの時間なら納得だ。普段なら一人であろうこの時間を、港の観光案内所で昼食付のパートをしていたはずだ。パートと言いながら、目的は井戸端会議のようなものなのだが。

 準備ができたら島を散策しよう。特に予定は決めていないし、久々に島巡りとでもしゃれこみますか。


 一通り身だしなみを整えた俺は、まずは家の前の坂を上る。ほんの数分も登れば、島の山の頂上付近に設置された展望台だ。その景色は島を一望できる素敵スポットである。ちなみに境内までは展望台手前にあるそこそこの段数の階段を上らなければならない。なぜ頂点にあるんだ、社殿秘密基地よ。

 さて、そんな展望台を間近に、俺は少し、いや大きな違和感を抱いていた。辺りが深い霧で包まれ、薄暗くなっているのは、まあしょうがない。この展望台から本土が見えないというのも、無いことでは無い。だが、明らかに

 今この世界には、のではないかと思えるくらいだ。

 東の浜辺、昨日入った店がわずかに見え、その奥に変わらず広がる美しい海を見てほっとしたのも束の間、ふと西の港を見れば、何かが動いているような影が見えた。それがどことなく知っている人影に見えたので、まずは行ってみるかと俺は山を下りることにした。


 山中をはしる道路をてくてく。山麓にまばらに生える住宅の間をするする。人っ子一人、車一台も通らぬ、人の息遣いを感じないゴーストタウンを抜ければ、俺の心はいよいよもって焦燥に駆られることとなった。

 車はあった。信号機もついている。自動販売機も動いていた。それなのに人がいない。それどころか島から生き物が忽然と消えてしまったかのような状態だった。礼の店は開店していたが、声を掛けても反応はなく。これなら家のほうに声を掛ければよかったかと思いながら、俺の耳にはどっどっどっ、といったエンジンの音が聞こえてきた。

 港まで来たが観光案内所も人の気配はなく、その奥の波止場まで来て、それがようやく何の音か理解した。ついでに、その音を出す者についても理解した。

 湾の中央、本土との内海に向かって船を走らせていたのは永嗣だった。湾の北側にある漁港から船を出したのだろう。既にその背は小さくなっている。霧に消える前になんとか声を掛けようと俺は大声をあげた。


「おぉーーーい!」


 くるりと永嗣が振り向いた。どんな表情だっただろうか。しかしそれを見ることなく、彼は船ごと吸い込まれるように消えたのだった。


 え、と。言うつもりもなく、それ以前に声ですらない。自分の喉から掠れた呼気が漏れ出た。いや、まて。いやいやいや。は。何が、え。

 混乱しつつ俺は湾に沿って、北側へ足を向ける。足早に、いやもう走っている。

 何だ今のは。転覆でも座礁でもなく、急に水中に潜るような。予兆などなく、前兆もなく。いや、今はとにかく。

 がむしゃらに走っていたと思う。沈んだと思われる地点を見ながら、俺は漁港近くに設置されたプレハブ小屋へ吶喊し、通信装置らしきものを見ながら、携帯電話を持っていなかったことに歯噛みし、再び漁港で動かせそうな船を探す。自分に操船はできないとわかってはいても、動かずにはいられなかった。そしてそれは叫びとなった。


「誰か! 誰かいないか!」


 こだまする俺の声に応えたのは、またしてもエンジン音で。町の中央部から軽自動車を走らせてきたのは、頼りになる姉の姿だった。

 俺はすぐに車道に駆け寄り、姉を待った。


「洋子姉! 永嗣君が!」

「ヒロ!? アンタこんな時に、いえ、悪いけどこっちも急ぎよ」

「急ぎって、永嗣君が船で沖に出ようとして、でも急に沈んで! 浮き上がっても来ないんだぞ!」

「あいつも海の男よ。自分で何とかできるわ。それより乗るなら乗って。橋で本土に行くわ」


 僅かに迷う。この島には漁師が何人もいる。若い人こそ少ないが、それこそ熟練の船乗りたちがいたなのだ。とはいえ。姉の顔を伺う。その表情は見覚えのある、もう何を言っても聞かない顔だった。

 返事の代わりに助手席に乗り込んだ俺は、ふと後部座席にもう一人いるのに気付いた。


「とばすわ。しっかり掴まって」

「わかった。でも、洋子姉」


 改めて後ろを振り返る。礼が二つの座席を占めるように横になっていた。髪が乱れて表情はうかがえないが、どうやら意識がないのか、反応がない。


「礼は?」

「……わからない」


 苦い表情でこぼした洋子姉。これ以上は聞くのをやめる。責任感が強い彼女のことだ。理由があるのだろう。

 島の北西部沿岸に敷かれた車道を、タイヤの悲鳴と共に駆ける俺たち。ほとんど目にしたことのない場所だったが、海岸線から内陸にそれる斜面を登り、まだ白さの残るトンネルを抜けた先、純白のアーチが招くように俺たちを出迎えた。


「渡ったら漁連のそばで下すわ」

「了解。洋子姉は病院?」

「ええ」


 綺麗な直線で洋子姉はアクセルを踏み込んだ。霧は橋の半ばまで覆い、本土はいまだ見えない。エンジンが高負荷に叫んでいる。走る音以外は聞こえない。


「礼が死んだのは多分、あたしのせい」


 聞き返すこともできなかった。

 驚愕に目を見開く俺に、洋子姉はどこか疲れ切った笑みを浮かべていた。

 次の瞬間、体が浮いた。いったい何が。事態に気づいたのは目の前に黒い水面が迫ってきた時だった。

 車内が激しく揺れる。揺れが収まる。早く脱出しないと。そんなことを思っている間に、車内は水で満たされていた。いや、俺がつかんでいたのは何だ。握り拳を開いて、水を搔き分けようとする。光が離れてゆく。洋子姉は。礼は。どこだ。

 必死な俺に、囁く声が。


『おかえり』





 飛び起きた。嫌な夢を見た。その実感だけが体に残っている。寝汗すら、本当は海水ではないかと思う。一つ深呼吸。二つ深呼吸。着替えてから食卓へ向かったところで、永嗣のことを思い出した俺は、すぐに家を飛び出した。


「永嗣くん!」

「……ヒロか?」


 全力で駆けながらたどり着いた港には岸から海を眺めていた永嗣が立っていた。荒い息を落ち着かせながら、俺は彼のもとに歩み寄る。


「海に出るの?」

「……ああ」


 何と表現すればいいのか。彼の言葉とは裏腹に、表情は何も映していなかった。しかし、俺はそんなことは気にも留めず彼に言い寄る。


「止めたほうがいい。なんかおかしいよ、今日の海。海だけじゃない。この島が、人もいなくなってるし、とにかく」


 彼を留めたい一心で俺は出てくるままに彼に言い放つ。


「そうだな」


 あれ? と。予想していた態度と違い、ずいぶんあっさりと返事をした永嗣に、俺はつい動きを止めてしまった。くるりとこちらに振り向いた彼がおもむろにこちらへ手を伸ばす。


「永嗣君?」

「お前、いつ帰ってきたんだ?」


 俺は返事も返せぬまま、彼に胸ぐらをつかまれ、そのまま海に放り出された。とっさに伸ばした手は空を切り、しかしお互いの振られた腕越しに視線が交錯した。彼が浮かべていたどこか苦々しい顔は、姉と慕う女性と似て非なるものだった。

 沈む体。必死に藻掻こうとも吸い込まれてゆく。こんなに深かったか、なんて今更なことを考えながら、再びその声が聞こえた。


『おかえり』







 パリン。手に持っていたお皿を落とした。昔から使っている、私の皿だ。

 今見たものが信じられない。何で、どうして。ぐるぐると思考が、視界が回る。今は洋子姉にもらった煮つけを温めなおし、それを朝食にしようと配膳していたところだった。立っていられない。足元の割れた皿も、無残にぶちまけられた魚も気にならない。ふらふらとよろめきながら、いつのまにか自室の隅にうずくまっていた。

 間違いなく永嗣くんだった。多分弘久ひろぽんだった。仲が良かったじゃないか。永嗣くんの無茶にひろぽんが巻き込まれて、洋子姉が窘める。私にとっては同い年の男の子だったけど、永嗣くんにとっては弟みたいな存在だったはずなのに。大体のことをそつなくこなすひろぽんは勉強もできた。だから高校は本土の、さらに都会のほうに進んで。それで。それから。

 きっと、これは、夢で。だから。お願いだから。あの頃に戻って。

 どのくらいそうしていたのか。ふと声が聞こえた気がして。ああ、洋子姉だ。ゆらりと立ち上がり、玄関へ向かう最中に、怒号が響いた。


「洋子姉!」


 玄関を開けた先、見たことのある大柄な人影に組み伏せられる洋子姉がいて。


「礼!」


 とっさに玄関脇の鉢植えを両手でつかんで振り上げる。外した。あ、でも。流れる体を片足で押さえつけ、両腕を振り下ろす。間違いなく頭に当たった。がしゃんと割れた鉢植えとこぼれた土にまみれる姉を助け起こし、ふと倒れている相手悪人を見て。


「永嗣、くん」


 私の意識はどこかへ浮き上がった。







 私はずっと、二人を守ってあげたかった。姉と慕ってくれるあの子たちが、私にとってかけがえのないものであることに変わりはなかった。永嗣がことある毎に結婚話をしていた理由も、私が邪推するほどのものではないのかもしれない。まあ、普通にお断りなんだけどね。

 弘久が都市部への進学を決めた時、不覚にもときめいたのを覚えている。海の男は気風がいい。が、飲食店で顔を合わせることが多い都合上、嫌な場面も多く見られる。そんな男たちとは少しだけ違う、線の細い男の子。

 昔から空気を察するのが得意で、偏見を持たない垢抜けた弟分。相手を立てるのが上手で、誰かに嫌われたりすることはないだろうと自信を持って言える自慢の舎弟。ああ、都会で立派になって帰ってくる。そんな思いで彼を見送ったのだ。

 そんな思いを知っていたのか。港でニアミスした永嗣に追い回された。

 そもそも、礼のもとへ急いでいたのは、彼女が食事中に倒れていたからだ。昨日私が渡したお土産だが、変なものは渡していない。事実、私が食べても変なことは起こらなかったし、味もいつも通り。ならいっそ、のだと思った。だから急いだ。

 ここで繰り返される日々は何度目だろう。最初は橋から落ちた。次は永嗣の誘いを蹴って揉み合いの末、港から落ちた。その次は永嗣と海へ出て沈んだ。永嗣との邂逅を避け、礼を探した。彼女は家で倒れていた。島の中を探し回ったが誰も見つからなかった。車で寝落ちしたと思ったら、私は橋の袂スタート地点に戻っていた。そして弘久を見つけた。

 悪いとは思った。それでも、何かが変わるんじゃないかと思って、橋に飛びこんだ。結果は御覧の有様で。

 ふらふらと家を出た礼を追おうとして、足に鋭い痛みが走る。今の礼は。根拠はないが、追いかけないといけない。どらっしゃあっ、と活を入れ礼を追う。ふらふら歩く礼との差が縮まらない。そうして港に着いて。


「……礼? ねえ、そこまでに」


 するつもりなどなかったのだろう。岸壁で爪先を揃え、そこから一拍の猶予もなく彼女が下へずるりと落ちる。痛む足を引きずり海をのぞき込むが、礼は一瞬で飲み込まれたのか、影も形もなかった。唯一その波の揺れが、彼女の存在をにおわせるのみとなった。

 地べたに座り、岸壁から膝下を伸ばした。また失敗かぁ。どうすればいいのかわからない。

 まあ、でも。


「ヒロは、何時来たんだろ」


 次はヒロと話をしよう。

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