2・香奈→楡井⑮
楡井は、笙子があの塾に通っていないことを知っているのだ。
最初から、笙子がもう塾生ではないといった前提で話していたのだ。
楡井と笙子は、単に同じ校舎だけの間柄、なんだろうか?
和可奈さえ知らないことを、楡井が知っているのは、塾が同じ校舎だから?
それに、小論文。
小論文に力を入れている塾を、小論文に特化したい笙子がやめるのって、おかしい。
つまり、母に言ったあの理由は、嘘?
「香奈」
父に名を呼ばれる。
はっとした。
わたしが「香奈」だと告白した後、母はすぐに「香奈」とか「香奈」と呼びだしたけれど、父はそうではなかった。
父は、わたしの名でも笙子の名でも「わたしに」は、呼びかけてこなかったからだ。
その父が「香奈」と呼んだ。
名前を呼ばれて嬉しい、というよりは、怖い、と思った。
「香奈は、無理して塾に、通わなくてもいいんだ」
ゆっくりとした声で、父が言う。
母の顔を見ると、母もわたしを見て頷いている。
「香奈は、香奈として生きなさい」
「――え? なに言い出すの」
「香奈」
今度は母に呼ばれる。
「香奈が、笙子として生きようとしてくれたの、感謝しているの。慣れないところで、慣れない場所で、勉強まで。でもね」
そう言うと母は、なんとも言えない優しい顔でわたしを見た。
「今、ここにいるのは、香奈なんだから。香奈として生きて欲しいのよ。無理しなくていいの。香奈でいいの。そのこと、わたしとお父さんとで話したのよ。そうしたら、同じ思いだったのよ」
両親からの優しい視線を体に感じた。
でも、だめだ。
この先はもう、聞いちゃいけない。
わたしじゃなくて、この体の中にいる笙子に聞かせちゃいけない。
「香奈――」
「いやっ!」
わたしの大声に、母が怯んだ顔をした。
「そんなの、ダメ。言わないで」
――ダメだ、そんなこと言われたら。
――そんな、優しいことを言われたら。
「笙子は戻って来るから。絶対に。わたしは、それを信じているから」
わたしは、まるで自分自身に言い聞かせるかのようにきっぱりとそう言うと、その場から逃げだした。
香奈として生きる。
その甘い言葉が、笙子を戻そうとする気持ちを麻痺させる。
――そうだ、このままでいいじゃない。
そんなこと、このわたしが、考えないはずない。
笙子を戻そうと強く思う気持ちの裏側には、こんな汚いずるいものがある。
でも今までは、それは自分の心の中での葛藤だけだった
それが、両親までがそんな思いを抱き始めたのだとしたら。
――時間が無い。
早く、笙子、戻って来て!
わたしが嫌な、すっごく嫌な姉にならないうちに……。
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