第50話 軽挙妄動

張り出されたテスト結果を前にざわめきが起こった。

レイチェルの付き添いで掲示板の前に着いた途端、サーシャの周囲から人が消えて落ち着かない空気が流れる。


「レイチェルさん――え…?」


首位にレイチェルの名前を見つけてお祝いの言葉を掛けようとしたが、その隣に自分の名が表示されているのを見て驚く。


「不正じゃない?」


小さな囁き声はサーシャの耳にも届いたが、泣きそうなレイチェルの顔に大丈夫だと頷いてみせた。

番について調べてくれているお礼にと休憩の合間にエリアスが勉強を見てくれていた。その成果なのだから恥じることはない。これまで20位前後の成績を維持していたが、掲示される成績は上位10位までだ。


元々の成績を他の生徒は知らないし、上位入りした理由も穿った考え方をしようとすればできる状況だったので、言い訳を口にせず無言を貫く。


「やっぱりあの噂は…」

ひそやかに非難や疑いの声が混じり始めた時、凛とした声が耳に届いた。


「サーシャ、よく頑張ったな。教えた甲斐があるというものだ」

「エリアス殿下のご指導のお陰でございます。ありがとうございます」


不穏な空気が和らぎ、納得する声があちこちで呟かれている。エリアスのおかげで自然な形で誤解を解くことができた。無意識に息を詰めていたせいで、呼吸が楽になったことに気づく。


「サーシャさん、おめでとうございます!」

場の雰囲気に呑まれていたレイチェルも安心したようにお祝いの言葉を掛けてくれた。


お礼を言いながらサーシャは自分の認識の甘さを悔やんでいた。魔女の噂を耳にしていたが現実味のないものと軽くとらえていた。未だに収まらず、それどころか広がっていく一方なのだから、もしかしたら意外と面倒なことになりつつあるのかもしれない。


「サーシャ、大丈夫か?」


最初に出会った頃よりもずっと穏やかになったエリアスだが、これが本来の彼の姿なのだろう。体質改善の効果が少しずつ表れている結果のようで嬉しい。


「大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


自分に向けられる悪意なら耐えられる。番でなくなれば婚約の話も消えるのだから、エリアスを頼るのは間違っている。

そう思ってサーシャは答えたのだが、少し寂しそうな横顔が目に入った。シモンの見せる表情と似ているような気がして、思わず見つめるとエリアスの顔に柔らかい笑みが浮かぶ。


(気のせいだったかしら?)


安心したサーシャが視線を逸らしたため、エリアスの表情には気が付かなかった。




「少し匂いが変わったな」

その言葉にシモンとサーシャは身を乗り出した。


「それはどの程度の変化ですか?番と認識ができるのか、もしくは特定の匂いが薄れたということでしょうか?」


ペンを片手に追求するシモンにエリアスは苦笑しながら言った。


「番と判断したサーシャの匂いは変わらないが、抑えられているようだ。以前はかなり強く香っていたのだが、隣に立たなければ気づかない程度だろう」


「複数のハーブの調合が良かったのかもしれませんね。シュバルツ王太子殿下、週末は王宮でお過ごしになりませんか?サーシャと離れても異常がなければ、番の効果が薄れていることを証明できそうです」


番に反応しなくなれば、エリアスがここに留まる必要もなくサーシャとの婚約も白紙に戻してシュバルツ国に帰ることができる。


「……そうだな。試してみよう」


淡々と答えるエリアスに番の効果が薄れているのだとサーシャは実感した。少し残念だと思うのは一緒に過ごす時間が長かったからだと結論づけて、サーシャはお茶の準備に取り掛かる。最初は複雑そうな表情を浮かべていたエリアスだったが、今ではサーシャが淹れる紅茶を美味しそうに飲んでくれるようになった。


「サーシャの紅茶が飲めないのは寂しい」


その言葉にエリアス自身もサーシャが番でなくなることを前提に考えているのだと分かり、胸の奥がざわざわと落ち着かない気分になった。


「サーシャ?」


「……何でもありませんわ。こちらの茶葉はソフィー様の領地で採れたものです。開封したもので良ければお持ちになりますか?」


「……いや、大丈夫だ」


やんわりと断るエリアスに、社交辞令を真に受けてしまったと恥ずかしくなる。


(エリアス殿下が望めば茶葉なんていくらでも手に入るのに……)


「また戻ったらサーシャに淹れて欲しいから」


「畏まりました」


多分その機会は来ないだろう、そう思いつつも今度は冷静に受け止めることが出来た自分に安堵した。




その日の放課後、図書館の前にたどり着いたサーシャは重いため息を吐いた。人の気配が少なくなった棟内は寂寥感があり、憂鬱な気分が増す。


(明らかに嫌がらせをされるための呼び出しよね)


挙動不審な下級生から渡された手紙を突き返せなかったのは、彼女がひどく怯えていたからだ。サーシャに対してなのか、命じられた上級生に対してなのか判別がつかなかったが、そのせいで無下に扱うことが躊躇われた。

その結果受け取る形になり、封を開ければ場所と日付だけが書かれた手紙。


普段だったら応じない手紙の指示に従ったのは、一向にやまない魔女の噂のせいだ。それなりに親しくしていた同級生たちに声を掛けてもぎこちない表情で返されるのも、遠巻きに囁かれることにも不快感が募っていく。


サーシャに対する嫌がらせであっても、やり方が遠回し過ぎるし、最終的な目的が見えない。わざわざ呼び出すぐらいなのだから直接会えば解決の糸口がつかめるのではないか。不穏な空気と周囲の視線は自分では気づかないほどに、サーシャの精神を削っていた。嫌がらせの程度を甘く見たこと、そして少々自棄になっていたことにその時は気づけなかった。


図書館の扉を開ければカーテンが閉じられているせいで薄暗い。電気を付けようと手を伸ばしたところ、頭に何かをかぶせられて視界が真っ暗になった。


「――っ!」

扉の閉まる音と背中を強く押されたことで、サーシャは今更ながらに自分の迂闊さを悔やんだ。


膝を打った痛みよりも何をされるか分からない恐怖感のほうが強い。これまで嫌味や嘲笑、閉じ込められるぐらいの嫌がらせだったため、そこまで警戒していなかった。だがそれは貴族令嬢の嫉妬によるものだったからだ。ぼそぼそと囁く声に男性の声が混じっていることで、今までの嫌がらせとは程度が違うのだと気づいてももう遅かった。


「目隠ししたから安全なんだよな」

「あとは魔女の印を傷付ければ力を失うらしい」


明らかに暴力行為を振るわれようとしていることが会話の一端から分かり、恐怖が一気に加速する。何も見えない状態が怖くて顔に被せられた袋に手を掛けると、両手を押さえつけられ悲鳴が漏れた。


恐怖が限界を超えようとしたとき、何かを叩きつけるような荒々しい音が響いてサーシャは身を竦めた。


「貴様ら、何をしている」


冷たい怒りを含んだ声に涙がこぼれた。強く抱きしめられて一瞬身体が強張るが、知っている匂いと優しい声に力が抜ける。視界が明るくなって紫の瞳が飛び込んできた。


「サーシャ、もう大丈夫だ」


安心感から涙が止まらずエリアスにしがみついたまま、サーシャはただ子供のように泣きじゃくった。

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