第49話 魅了の魔女
「エリアス殿下、いかがですか?」
「特に変わらない。サーシャの匂いだ」
髪に顔を埋めそうなほど近い距離で匂いを嗅いでいる様子は、失礼な表現だがまさに犬そのものだ。
「シュバルツ王太子殿下、もう充分です。サーシャから離れてください」
冷ややかに制止するシモンだが、エリアスは一向に介さない。
「まだ他の部分を試していない」
首筋辺りに顔が移動して、エリアスの髪がサーシャの頬に触れてくすぐったい。反応に気づいたエリアスが顔を上げたため、至近距離でエリアスと目が合うことになった。
紫水晶のような瞳が柔らかく輝き、唇が弧を描いていて喜悦の表情に変わる。見惚れるほど美しい光景と同時に言い知れない不安を感じて、サーシャは目を逸らした。
「エリアス殿下、それ以上はお控えください」
レンの諫言により解放されたサーシャは、シモンの冷たい視線を遮るために席に着いた。
(あの顔は反則だわ)
エリアスの真っ直ぐな気持ちが伝わってきて、サーシャの心臓はうるさいほど早鐘を打っている。エリアスの好意は番に向けられたもので決してサーシャ自身に向けられたものではないのだと自分に言い聞かせながら、シモンの言葉に耳を傾けた。
「効果が出るまで多少時間が掛かるものだが、ミント系はあまり期待できないな。次はカモミールを試してみよう」
「お風呂にも入れてみますわ。食事もお肉や乳製品を使わないものに切り替えてみます」
動物性食品が体臭を悪化させると聞いたことがある。
「確かにそうなんだが、偏った食事は体調を崩してしまうことにもなりかねない。少し控えるぐらいで大丈夫だ」
自分から言及しなければシモンは食事内容まで変えるつもりはなかったのだろう。長期間であれば体調不良の原因になるかもしれないが、短期間であれば影響はないはずだ。
そう伝えると過保護な義兄は、労わるようにサーシャの頭を撫でてくれた。
「サーシャの髪が乱れる」
ぺちりと軽く叩く音がして、髪にブラシを当てられる感触にサーシャは恐る恐る尋ねた。
「エリアス殿下、まさかとは思いますが、私の髪を梳いてくださっているのですか?」
「大丈夫だ。優しくする」
王族に侍女の真似事をさせるなど恐ろしい。シモンに目で助けを求めるが、苦々しい表情ながらも首を横に振られる。
優しく丁寧に髪を梳かれたのはそんなに長い時間ではなかったが、緊張と申し訳なさで精神的にすっかり疲弊してしまった。
教室に戻る途中、サーシャの姿を目にして口を閉ざす生徒たちもいるが気にしないと自分に言い聞かせる。気にしたところで噂が消えるわけでもないし切りがない。
男子生徒からの不快な視線は減ったのはアーサーとエリアスのおかげだ。王族と関わりの深い令嬢を不埒な目で見れば咎められる可能性がある。エリアスとの婚約は未発表ではあるものの、アーサーが容認しているということは王族の意向ではないかと勝手に解釈してくれた。
(未だに噂が絶えない理由はエリアス殿下にもあるのだけど)
通常であれば一部の王宮関係者やパーティー以外で目にする機会のない、隣国の王子が短期間といえ学園に在籍している。興味関心を引くのは当然だが、加えて眉目秀麗、聡明で気品あふれる存在は注目されないはずがないのだ。
先日エリアスと親しくなろうと声を掛けたオリヴィアを冷たくあしらったという話は、その日のうちに学園内に知れ渡りその余波を受けたばかりだ。
オリヴィアは駄目なのにどうして子爵令嬢であるサーシャなのか。そんな好奇な視線を向けられることはもちろん、一部の高位貴族から尋ねられることもあったが、サーシャは沈黙を貫いている。番はシュバルツ王族に関わる話であるし、エリアスが説明しない以上、サーシャが吹聴して良いことではなかった。
教室の扉を開けるとエマと目が合ったが、向こうから逸らされた。ほっとしつつ席に戻って授業の準備を整える。
あれからエマがサーシャに関わってくることはなかった。
サーシャに関することで内密に話があると言われて自室に招き入れてしまったというシモンに、転生に関することは告げないままエマが何を企んでいたかはしっかりと伝えておいた。
少し分別がつかない困った子供、という認識だったシモンは少なからずショックを受けたようだが、知らなければまた同じような罠に引っかかってしまう恐れがある。
自分よりもサーシャが心配だと言うシモンを安心させるために、大丈夫だと伝えているが何もしてこないことが逆に不安を煽っている。
油断しては駄目だと思いながらも、相手が王族でありその庇護下にいるサーシャには手を出せないのではないか、そんな風に考えてしまった。エマが転生者であり、ゲームの知識を持っていることを見落としていることにサーシャは気付かなかった。
学園内で囁かれる噂は、他愛無いものから家同士の争いに発展しかねない過激なものまで大小さまざまだ。ここしばらくはエリアスやサーシャが中心であったが、とある魔女の噂がひそやかに語られている。
そのことに気づいたのはミレーヌだった。
「魔女といえば魅了の魔女か。誰を示しているか明白だな」
苦々しそうな口調は厄介な事態になったと察したからだろう。心配したミレーヌから相談を受けたシモンも同じ見解を抱いたからこそアーサーに相談することにしたのだ。
「不快ですが不敬に問えるほどでもありません。ただそれを真に受ける愚か者が現れることを懸念しています」
昔から多くの家庭で読まれているただのおとぎ話だ。王子様に魅了の呪いを掛けた魔女が結婚式直前にそれを見破った聖女に呪いを解かれ、聖女が王子と結ばれる勧善懲悪の物語。
王族を頂点とした貴族社会で身分の差は歴然と存在する。学園内では身分の差を問わないという前提ではあるが、子爵令嬢であるサーシャがアーサーやエリアスといった王族と関わりがあるのは何かあるのではないかと勘繰る者も多い。
「噂なので言い出した者の特定は難しいでしょう。おまけに噂を下手に咎めれば収まるどころか余計に燃え広がります」
番はシュバルツ国の王族に現れる性質なのでサーシャは関係ない。当事者にとっては不運だが、傍からみれば奇跡のような幸運と妬まれる。
「魅了などそんな呪いがないと証明することができない。もっともそれは番に関しても同様だが、目に見えないものだからこそ厄介だな。――ヒュー、サーシャ嬢の護衛に回れ」
魔女扱いされて危害を加えられる可能性を考慮して、傍に控える侍従に命じるが露骨に嫌な顔をされた。
「シュバルツ王太子殿下に殺されますよ。そもそもあちらの手の者が護りに付いているので不要でしょう」
結局、噂の動向とサーシャの周辺に気を配ること、その二点だけ確定してこの場はお開きとなった。ただの噂と切り捨てられない不穏な気配にアーサーは胸騒ぎを覚えた。
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