第93話 大人の世界
以前二人で来た事務所の部屋に通された。
そこには明星マネージャーが座っている。
アイが用意した車の中で、何度目変わらない打ち合わせをした。
今日こそ明星マネージャーに、事務所に所属しないことを認めて貰わないといけない。
そうしないと、俺達の意志なんて関係なく事が進んでしまう。
だから俺達はこの前以上に覚悟してここまで来た。
「今日はいい返事を聞かせてくれる。――そう思っていいんですか?」
「そんな訳ないじゃない。勝手にグラビアの件進めといて」
アイが棘のある言葉で牽制を入れるが、明星マネージャーはどこ吹く風だ。
「……どの服がいいですか? 最初はそこまで際どい服は着なくていいですよ。年齢を重ねる事に脱がないといけないですけどね」
「だから、アイはするつもりがないんですよ!」
明星マネージャーは掛けてあった衣装服から手を離すと、真顔のままこちらを睨み付けてくる。
「だから? 個人の意思なんて関係ないんですよ。今降りたら大勢の大人に迷惑がかかることになります。費用だっていくらになるか」
「私が、全額払ってもいいですけど」
「は?」
明星マネージャーは予想外の返しだったのか、アイに対して目を丸くする。
「私の家、お金持ちだから、いくらでも払ってあげられますけど?」
惜しげもなく親の威を借るのは、アイにしかできない。
明星マネージャーは一瞬たじろぐが、
「お金の問題だけじゃありません。事務所の信用がガタ落ちします」
「それはあなた達の問題であって、私には関係ないから。そこはマネージャーであるあなたが責任を取るべきなんじゃないの?」
アイの言う通りだ。
勝手に話を進めといて、上手くいかなかったらこちらのせいにする。
そんなの道理が通らない。
「……どうして分かってくれないんですか? あなたには才能がある。そしてその才能は年齢と共に枯れる。今しかないんですよ? もっと自分の価値を高めたいって思わないんですか? 自己実現で成長していきましょうよ」
明星マネージャーは疲れ果てたように溜息を吐く。
「……最初は仕事自体を敬遠していたけど、今嫌なのは、あなたよ。――マネージャー」
アイが、ビシッと明星マネージャーを指差す。
「強引なやり方で私を引き入れようとしなければ、私だってもっと話の一つや二つ聴いてたかもしれないのに……」
「強引なやり方なんて、この業界いくらでもあるんですよ!! 急に決まる納期!! 無知なスポンサーの理不尽な意向!! 大御所気取りな中堅演者のご機嫌取り!! それらを全部乗り越えないと社会じゃやっていけないんですよ!!」
「……だから乗り越えるつもりはないんですけどね」
話が進まない。
こうなることは分かっていた。
三人とも沈黙が続く。
こうなったらまた次回、という話になって撮影の期日が来てしまう。
そうなったらなし崩し的に、アイは撮影に入って、雑誌に載ってデビューしてしまうだろう。
そうならないように、俺は対策を考えて来た。
「明星マネージャーといくら話しても無駄ですね。それじゃあ――――上の方と話をさせてもらえませんか?」
「…………!」
明らかに動揺している。
バイト経験をしているから分かる。
クレーマーという存在は糞であるということを。
どれだけクレーマーが嘘をついたり、誇張表現を使っていたりしても、上の人間はクレーマーの味方につく。
そして部下を厳しく指導する。
それは、どんな企業であっても決して曲げられることのない不文律。
――ウチの子はレッスン中に暴言を吐かれたんですっ!!
そんな親からのクレームがあった時があった。
それは子どもに水泳を教えている時。
プールサイドで走ったり、水中で溺れたフリをする子どもがいたので注意した時だった。
本人はいつも愚痴を溢していて、親が無理やりスクールに通わせているような子だった。
辞めたいのに親を説得できないから、
――その人が、もっとちゃんと泳げよ、ボケッがッ!! って、子どもが言っていたんですううう!!
と、親に嘘を吐いたのだ。
勿論、滅茶苦茶怒られて、親にも頭を下げた。
実際にその現場にはインストラクターの人が近くにいたので、俺がそんなこと言っていない証人はいた。
だが、親はそれじゃ納得できない。
悪態をつきながら子どもを連れてスクールを辞めて行った。
その時は苦い思いをしたが、その過去を生かす時がきた。
あることない事、クレームをつけてやる。
「それぐらいはできますよね?」
「みんな今日は忙しいんです。……そうですね、どうしてもというのなら明日でどうですか?」
明星マネージャーの目が泳いでいる。
俺はここが勝負所だと確信して畳み込む。
「いいえ、今日がいいです。今日上司を呼んでください」
この場にいる三人の予定が合う日が、近日中にあるとは限らない。
そもそも明星マネージャーが、予定が合わずに上司に合わせられないと嘘を言う可能性がある。
だから、今ここで追い詰め切るしかないのだ。
「ここに上司を呼ぶのがどうしても無理なら、俺が直接話に行きますよ」
俺の最後通告に、明星マネージャーは項垂れる。
これで決まり、と思ったら、
「――ハッ」
明星マネージャーの口の端が歪む。
「アハハハハッ!!」
顔を上げると、大きな笑い声を上げた。
さっきまでの追い詰められていたような顔ではまるでない。
「……何がおかしいの?」
「子どもだな、って思っただけです」
「どういう意味?」
不穏な空気に変わったのを、アイは感じ取っているのかいつもよりも声が小さかった。
「上の人間に言ってどうにかなると思っていることがです。無駄ですよ。上の人間に言っても何も変わりません。握り潰されるだけです」
「そんな訳――」
「あるんですよ、それが。私がいくら強引なやり方をしたことを暴露しても、上は黙認するだけです。そうでもしないと、仕事を取って来ることなんてできないんですから。それぐらいここの仕事は大変なんです!!」
どうやら俺の考えが甘かったらしい。
腐っていたのはこの人だけじゃない。
この事務所ごとだったらしい。
「責任感の欠片もない若い新人が、撮影の土壇場になって飛ぼうとするなんてよくある話です。まともに取り合うはずがない。むしろ、あなたが仕事を放棄しないように、家に事務所の人間が来るかも知れないですね」
「…………」
青ざめているアイの代わりに、俺が横から口を出す。
「脅しのつもりですか?」
「ただの事実ですよ」
アイは契約書にサインをしていないとはいえ、連絡先の交換をしている。
そしてこの反応的に住所も晒しているのだろう。
家の前で出待ちすることだって可能だ。
「むしろ光栄に思った方がいいですよ。私に眼を付けられたことを」
明星マネージャーは勝利を確信してドヤ顔をする。
「心配しなくても大丈夫です。今は嫌でも、いずれ私に感謝することになるはずですから」
俺は目を閉じる。
事前に考えていた正攻法でのやり方は、全て不発に終わった。
こうならないように平和的な対話がしたかったが、明星マネージャーは徹底抗戦を選んだ。
だから、こうなってしまったのは仕方ない。
俺は手を挙げて高らかに声を上げる。
「カット」
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