第86話 元カノを今の格好のまま一人にさせる訳にはいかない

 あれから数十分間。

 明星マネージャーから、アイがどれだけ逸材であるかを説明された。

 こちらがどれだけ事務所に所属しないことを告げても、のらりくらりと躱された。


 力押しで否定するのではなく、赤い布で牛を操る闘牛士のように流されたようだった。

 こちらの主張が全否定されている訳ではないので、思わず相手の意見に耳を傾けてしまっていた。

 そのせいで微妙にこちらの意見からズレた回答をしても、俺達は時間差でそのことに気が付いただけ。

 そして滔々と事務所所属のメリットを永遠に語られ、脳が疲労しきって考えることが面倒になっていった。


 ただ話をするだけだったのに相当疲弊してしまったせいで、解放されてから俺とアイはほとんど会話らしい会話をしなかった。


 数分ぶりにアイが口を開いた。


「もうすぐ迎えくるって」

「そうか……」


 スマホで迎えの車を呼んだらしい。


 いいな。

 俺はこれからまた、徒歩と交通機関を駆使して帰路につかなくてはならない。

 家が遠い。


 だが、これから本当にしんどいのは俺ではなく、アイだろう。


「……何かあったらすぐに連絡して欲しい」


 真剣な口調で言ったはずだったのだが、アイはニンマリと悪戯っぽく笑う。


「何? もしかして私のことが心配? 惚れ直した? いいわよ! この私に愛の言葉を囁いても! さあ! 照れなくてもいいのよ!」

「……近寄るな」


 ただでさえ美形なのにグイグイ顔近づけてくるの止めて欲しい。

 美人は三日で飽きるというけど、別れてたまに会うようになってからは飽きるどころかより照れるようになったな。


「ただ、なんとなく気を付けた方がいいって思っただけだ……」


 明星マネージャーが有能なのは分かった。


 でも、それだけだ。


 何かうさん臭さを感じてしまう。


 アイのことを金の卵を産む鶏ぐらいにしか思っていないように感じるのだ。


 まあ、あっちは飯を食っていくために必死になっているのだから仕方のないことなのかも知れない。

 だけど、


 ――彼氏さんだけ残ってくれる?


 どうしても思い出すのは、事務所内で呼び止められた時の出来事。

 不思議に思いながらも、俺は事務所の一室でマネージャーと二人きりになった。


 ――これ、私の連絡先です。


 渡されたのはまた名刺だった。

 ただ今回は連絡先が書かれたものだった。


 電話番号とメールアドレスと、それからSNSのアカウントまで乗っている。


 別に拒否する理由はないが、わざわざアイを追い出してまで渡すような代物でもない気がする。

 アイにも渡せばいいのに。


 ――は、はあ。なんでこんなものをアイがいない所で?

 ――できれば星野さんに内緒で相談したいんです。あの人はあまり言うことを聴いてくれないでしょう?

 ――まあ、他人の話は聞く耳持たないですけど。

 ――それに比べてあなたは、少しは話ができるみたいだから渡しておくわね。今日の夜までには連絡します。なかった場合はそちらから連絡を取ってくれますか?


 褒められているというより、侮られている気もする。


 昔から俺はアイが橋渡し役と思われている節がある。


 アイの容姿に引き寄せられた人達はお近づきになりたいけど、この性格故に近寄り難い。

 将を射んとする者はまず馬を射よ、というけど、まず俺から攻略しようとする奴が多い。


 下に見られていると思うと、ちょっとショックなんだよな。


「……まあ、ソラがそう言うんだったら気を付けるわね」

「え?」

「ソラがそういう言い方をする時は、本当に気を付けなきゃいけないってことでしょ? 大丈夫。私もこれから真剣にどうすればいいのか考えるから」

「そっか……」


 流石に付き合っていただけあって、俺のことを理解してくれているみたいだな。


 こういうの、地味に助かるよな。


「じゃあ、帰ったらまた連絡するわね」

「ああ。……じゃあな」


 どうやら迎えの車が到着したみたいだ。


 少し距離を置いて目立つ車が停まった。

 すぐに向かうのかと思ったが、アイは立ち止まったままだ。


「どうした? 何か言い忘れたことでもあるのか?」

「言い忘れたことはないわよ。ただ――」


 俺の服の裾を握って、


「もう帰るの?」


 膨れっ面をしてくる。


 困ったな。

 どう対応していいのか分からない。


「あのなあ……」

「…………」


 振りほどこうとしたが、不安そうな顔をしたアイを見てその気は失せてしまった。


 どうやら彼氏彼女の演技をしたせいで、アイが昔の感情を思い出したみたいだ。

 ただ、それに絆されている俺も似たようなものか。


「まあ、今の格好のままのお前を一人で残したら可哀想か」

「どういう意味!?」

「そのままの意味だっ――」


 近くで物凄い音が反響したせいで、言葉が途中で止まってしまった。

 何かが転がるような音をしたと思って振り向くと、ポリバケツが横たわっていた。

 中のゴミを必死になって戻している奴と眼が合う。


「ひぇぇぇ。す、すいません、邪魔をして。私の事は忘れて、ど、ど、ど、どどうぞ。陽キャ同士のつまらないイチャイチャを続けてください」


 三つ編み眼鏡の文芸同好会の部員。

 一つ下の後輩であるナナクサさんは、逃げそびれたみたに気まずい顔をしていた。

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