17-1
十七
「せまいが、通れないことはない」
次の土曜日、私たちは住宅街にある児玉さんの自宅を訪れた。今日は岩亀さんも一緒だ。家屋内には入れないから、赤猫を先頭に住宅のまわりを塀に沿って検分している。赤猫は児玉さんを殺害した当日の東と若本さんの逃走経路を確認したいようだった。
児玉さんの自宅は南向きの二階建てで、四方をレンガふうのブロック塀で囲んでいる。西側と北側は塀をはさんでとなりの家、東側と南側は車が一台通れるくらいの公道に面していた。
赤猫がのぞき込んでいるのは児玉さんの家と裏の家、つまり北側の家とのあいだに空いたせまいスペースだった。児玉さん宅の塀と裏の家を囲むフェンスのあいだに人一人が通り抜けられる程度の隙間がある。裏の家の庭木の枝がはみ出していて、見通しはあまりよくなかった。
「裏の家から丸見えじゃないですか?」
私は、それなりに築年数を重ねていそうな和風の住宅を見上げて言った。
勝手口から裏庭へ出て塀を乗り越えたとして、住人に目撃される可能性は十分ある。
「事件の日、裏の家は旅行中で留守だったそうだ。奥さんが南子さんに日程を話しているから、児玉さんが知っていてもおかしくないね」
「なるほど」
岩亀さんがメモ帳片手に私の疑問に答えてくれる。
赤猫は裏の家からはみ出した庭木を見上げていた。
「
宮嶋里依奈のマンションで彼女の首を絞め、殺人未遂の現行犯で逮捕された若本哲也は、忍野
若本哲也は、児玉南子さんの殺害を認めた。二人の再会のきっかけは、やはり小山田さんと児玉さんの使い込みだった。児玉さんの自宅を訪れて南子さんと再会した若本さんは、彼女と二人で会う約束を取りつけた。そして南子さんに対して募らせ続けた想いを打ち明けたが、南子さんは取り合わなかった。今の彼女には夫も子どももいるのだから、当然といえば当然だ。南子さんは若本さんをなんとか諦めさせようと、時間を
あなたが好きだったわけじゃない。あのときは断れなかっただけ――。
その言葉を聞いた瞬間、若本さんは強い失望と憎しみに支配された。
そして東晴樹をはじめとする関係者を使って、自分の手をよごさずに南子さんを殺害しようと考えた。しかし「彼女が許しを
動かぬ夫を前に、南子さんは我が子を守ろうと許しを求めた。けれど若本さんはその眼差しに
「通報を受けてから、警察が到着するまで約三分」
「駆けつけたのは交番勤務の巡査部長二名ですね。ちょうど現場付近をパトロール中でした」
「事件現場を目撃した小山田豊が通報する、これは若本の計画通りだ。では誰がどうやって脅迫文を回収したか……巧司さんが現場を離れるとは限らないし、彼が目覚めるのを待っていれば逃げ遅れる可能性もある」
目覚めた父はリビングのテーブルに置かれた脅迫文を目にしている。しかしそれは警察が到着する前に失われていた。赤猫はそれが引っかかっているらしい。
テーブルに紙が置かれていたことは、現場検証で証明されている。なぜなら、指示通りに児玉さんの背中から凶器を引き抜いた父が、血にまみれた手でその書類に触れたからだ。テーブルの上には父が左の薬指と小指をついた跡が血痕として残っていた。この血はもちろん児玉さんのものだが、手形は不自然に途切れていた。つまり、そこに紙のようなものが置いてあって、テーブルへの手形の付着を
「交番、行ってみます?」
面倒がらずに赤猫につきあう岩亀さんは、本当によくできた後輩だと思う。この事件は他県警の管轄で、本来岩亀さんとは無関係だ。
私たちは路肩に停めた車に戻って、今度は駅前の交番へと向かった。
ちなみに若本さんが逮捕されたあと、芋づる式に数名の暴力団関係者と、東の自宅に入りびたっていた男二人が検挙された。若本さんは、東やその友人に薬物を提供していた。つまり、彼は殺人以前に薬物売買のほか、宮嶋里依奈のパパ活ビジネス、もとい未成年を含む売春の
検挙された暴力団関係者の一部は、私の誘拐にも関わっていた。東の協力者であり、また東を事故死に見せかけて始末したのが彼らだった。もちろんすべて若本さんの指示だ。
そして不運なタクシー運転手は、その後、川の下流で水死体となって発見された。今井というその男性は、若本さんによる弁護をきっかけに彼の裏ビジネスの顧客になっていた。若本さんは彼を脅して協力させ、やはり他人を使って口を封じたのだった。
「あれっ、
駅前のコインパーキングに停めた車から降りると、聞きおぼえのある声がした。岩亀さんが振り返って「土田くん」と軽く手をあげる。
土田さんのとなりに忍野さんが並んでいた。
「気が合いますね」
赤猫に向かって言いながら、忍野さんが駅前の交番に視線をやる。赤猫が「ええ」と相づちを打った。
「一人は辞職してました。事件のあとからひどく落ち込んでいたらしい。子ども好きの若い巡査部長だったらしくてね。あの現場がショックだったんだろうと」
忍野さんはそう言って頭を掻き、視線を私たちに戻した。岩亀さんがメモ帳を開いて確認する。
「
「いや。辞めたのは男のほう。みんな残念がってたよ、正義感の強い真面目な青年だったそうだ」
現場に駆けつけた警察官は男女の二人組だった。男性が
忍野さんは端的に答えて、赤猫と岩亀さんの顔を順番にじっと見つめた。
「今日はそのために?」
「ついでに宮嶋里依奈を見舞おうかと」
「なんだ、そんなところまで気が合うとは」
赤猫の言葉に忍野さんが笑顔を浮かべる。ということは、土田さんと忍野さんもこれから宮嶋里依奈の病室を訪ねるつもりだったのだろうか。
「刑事より探偵のほうが彼女も気楽ですかね。こういうときは女性同士のほうがいいかもしれないし」
そう言って忍野さんが私に視線を向ける。
あの日、若本さんは南子さんにそうしたように、ネクタイを使って宮嶋里依奈の首を絞めた。張り込んでいた捜査員がすぐに取り押さえて事なきを得たが、その後宮嶋里依奈は体調不良を訴えて意識を失った。
土田さんが言ったように、彼女は妊娠初期だった。もしかしたらと思ってはいたものの、本人にもはっきりとした自覚はなかったらしい。
宮嶋里依奈は救急搬送されて、すぐに入院した。ショックやストレスの影響もあったのだろう、彼女自身は持ち直したが、お腹の子どもは流れてしまった。それほど落ち込んでいる様子はないそうだが、本心でどう感じているかはわからない。
忍野さんたちもこのまま宮嶋里依奈を見舞うというので、別々に駅前を発って、結局病院の駐車場で合流した。しかし大人数で押しかけては迷惑だろうと、病室には私と赤猫で顔を出すことになった。
病院近くの花屋でお見舞い用の花を買って、駐車場に刑事三人を残すと、私は赤猫と一緒に宮嶋里依奈の病室へ向かった。
ドアを閉めきった個室の前で、赤猫が軽く顎をしゃくる。私に先行しろと言いたいのだろう。
私は控えめにノックして、引き戸を少し開けた。
「あの……」
遠慮がちにのぞき込むと、宮嶋里依奈は個室のベッドの上で半身を起こしていた。ベッドサイドのテーブルに立派なブーケが飾られている。
ゆっくりと振り向いた彼女は、私を認めて「ああ」と微笑んだ。
顔色はすっかりよくなって、調子も悪くなさそうだ。私はちょっとほっとして、軽く会釈した。
「こんにちは」
「わざわざきてくれたんですね」
「具合はどうですか」
「うん。もう大丈夫」
月並みの言葉をかけると、宮嶋里依奈は明るく答えた。確かに落ち込んだ様子はない。それとも、そう振舞っているだけかもしれないけれど。
「あの、これ……」
私が
「……私、反省したんです」
淡い桃色の花弁に触れながら、宮嶋里依奈がつぶやく。
「こうなったのは全部、今までのつけなんだなって」
聞いたところによると、彼女の援助交際は中学生のときからはじまったのだという。きっかけは両親の不仲と放任主義だった。
両親の気を引くために朝帰りをしたが、父親も母親も無関心だった。家にいても一人なら、自分を必要としてくれる人と一緒にいるほうがいい――そう感じて、彼女は夜の繁華街に繰り出すようになり、高校生になってから若本さんと知り合った。知り合った当時の若本さんは「そんな人ではなかった」のだそうだ。
若本さんはそのとき、宮嶋里依奈の
「このお花、パパが持ってきてくれたんです」
宮嶋里依奈が顔を横向けて、ベッドサイドのブーケを見つめる。
「仕事を休んできてくれた。里依奈のこと、ちゃんと見てあげなくてごめんって謝ってくれた。ママはきてくれなかったけど……」
伏し目がちにつぶやいて、宮嶋里依奈は黙ってしまった。
細く開いた窓からそよ風が吹き込んで、カーテンがふわふわと揺れた。病室の花か、それとも春風が運んできたのか、やわらかな花の香りがただよっている。
「犬飼さん。ごめんなさい」
宮嶋里依奈は、私に向き直って頭を下げた。
柴田たちをけしかけた件だろう。東を首謀者に見せかけようとして若本さんが指示し、彼女が実行した。
私はなにも言わずに頷いた。
「私も、普通の女の子になりたい」
手もとのスイートピーに視線を落として、宮嶋里依奈がぽつりとつぶやく。彼女の言う普通とは、大人に守られて育った子どもを指すのだろうか。
私の母も大概だが、私には家族思いの父がいた。それに今回だって、赤猫や岩亀さんがいてくれたから、私は彼女の言う普通の女の子でいられたのだ。そうでなかったら、私は彼女だったかもしれない。
手放しで共感はできない。けれどまったく同情せずにもいられなかった。
「なれるんじゃないか。君が望むなら」
私のとなりに控えていた赤猫が口を開く。宮嶋里依奈がすがるような目で、赤猫を見上げた。
「困ったらいつでも相談してくれと言っていた」
赤猫は名刺を一枚、宮嶋里依奈の前に差し出した。忍野さんの名前が見えた。
私はふと思いついて、仕事用に新調したサコッシュから、手帳とペンを取り出した。メモスペースに走り書きしてページを破り、宮嶋里依奈に差し出す。
「あの……私の番号です。年も近いし、男性に話しづらければ」
「ありがとう」
宮嶋里依奈はメモの切れ端を受け取って微笑んだ。
感情に流されただけの偽善かもしれない。でも、彼女が救われたら私も救われるような気がする。赤猫が私に手を差しのべたとき、こんな気持ちだったのだろうか。
ベッドサイドのテーブルの上で、宮嶋里依奈のスマホが震え出した。電話の着信だ。「お父さん」と表示されていた。
「電話です」
私はミントグリーンのケースに入った端末を取って、宮嶋里依奈に手渡した。
赤猫に視線を送ると、彼は小さく頷いた。お見舞いにきただけで、あれこれ尋問する必要があるわけではない。撤退の許可を得て、私はいとまを切り出した。
「それじゃあ私たちは、これで。お父さんの電話、出てください」
「あの、犬飼さんも赤井さんも、本当にありがとうございます」
「お大事に」
軽く頷いて、私と赤猫は病室から撤退した。
「もしもし、パパ……」
電話を取った宮嶋里依奈が、病室を去る私たちにぺこりと頭を下げる。
彼女が元気そうだったからか、家族との関係改善が感じられたからか、私の胸には安堵がただよっていた。
父の無実が認められ、本当の犯人が逮捕された。この事件でこれ以上犠牲者は増えない。そして、宮嶋里依奈の微笑みを思い浮かべて、やっと私の中で事件に区切りがついた気がした。
私は赤猫の背中を追って病棟の廊下を進みながら、彼女の再起を願って、病室をほんの少し振り返った。
「うん。もう大丈夫。あっ、あのねパパ。お願いがあるの。……うん。そう。奥さんと娘、助けてあげてね。あのおじさん、優しくていい人だったの。ふふ、まさか。私が一番好きなのはパパだよ。うん。本当に大丈夫。でも――早く片付けないとね。うん。ありがとう、パパ」
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