16-3

 午後五時をすぎたころ、私と赤猫は宮嶋里依奈が一人で暮らしている高級マンションに到着した。エントランスの前にパトカーが数台停まって、駐車場にちらほらと野次馬が集まっている。これからなにか起こるというより、すでに起こったあとのようだった。


「期待を裏切らないな」


 そうつぶやいて車から降りた赤猫は、まっすぐエントランスに向かった。私もその足取りに従う。

 入口ドアの前に制服の警察官が立っていて、ちらりと視線が合った。制止されそうだと思ったら、横から忍野さんの声がした。


「赤井さん」

「想定よりも迅速でしたね」

「約束は七時だったんですがね。気が急いていたんでしょう。女性は無事です。念のため病院に運ぶが、意識もはっきりしてる」


 女性、はたぶん宮嶋里依奈のことだろう。私は目の前にそびえ建つマンションを見上げた。

 期待を裏切らない、つまり赤猫の推察通りであれば、若本哲也が彼女になにかしようとした。それを張り込んでいた忍野さんたちが阻止そししたのだろう。


「本人はどうですか」

「大人しくしてますよ。ふてぶてしいと言えばふてぶてしいですね。反省している様子はまったくない」


 赤猫が聞くと、忍野さんは眉根を寄せて答えた。

 河川敷で相対したときも若本さんは自信に満ちていて、ともすれば挑戦的な態度だった。警察に対しても同じなのかもしれない。


 マンションの自動ドアが開き、警察官に囲まれたスーツ姿の男性が現れる。若本さんだ。両手をうしろにまわしているが、あまりに堂々としているので警護される要人のように見えた。


 若本さんは赤猫に気づくと、足をとめて向き直った。


「残念ですよ。最後にあなたと答え合わせをするつもりだったのに」


 興奮も落胆らくたんもなく、若本さんの声色は落ち着いていた。ただ口もとに浮かべた微笑みは、どことなく皮肉っぽかった。


――あなたは恋人に頼まれて、小山田豊さんの相談に乗りましたね?


 河川敷で、赤猫はわざと宮嶋里依奈の裏切りを示唆しさした。口封じはもはや手遅れだから、彼女を手にかけようとするなら、それはただ若本さんの感情の問題だろう。

 若本さんのような人が監視の可能性を想定しないはずがない。それでも彼は、裏切り者を始末せずにいられなかった。


 赤猫が仕掛けたのは王手チェックだ。しかし、若本さんは次の一手を逃げに使わなかった。詰みになるチェックメイトだとわかっていて、宮嶋里依奈のもとを訪れたのだろう。


 若本さんは彼女を殺して――手駒をすべて始末してから、赤猫と答え合わせをするつもりだったのかもしれない。きっと、挑戦的な態度で。


「答え合わせなら、彼とどうぞ」


 赤猫は眉一つ動かさずに、忍野さんの肩に手を置いた。


「俺よりずっと手強い」


 ほんの少し口の端を持ちあげて、赤猫が軽く首をかしげる。若本さんはなにかを言おうと口を開きかけたが、同伴する警察官に促されて歩き出した。

 若本さんがパトカーに乗り込むのを見届けて、忍野さんが赤猫を振り返る。


「土田が上にいます」


 赤猫が頷いて、忍野さんも頷き返す。

 忍野さんは軽く敬礼をひとつ、踵を返して若本さんが乗ったのとは別の車両に乗り込んだ。警察署に戻るのだろう。


 赤猫はエントランスへ歩み寄って、私もそのあとをついて行った。制服の警察官は私たちをじっと見て、でもなにも言わなかった。


 エレベーターを使って十二階までのぼる。赤猫に続いてフロアに降りると、角部屋のドアが開け放たれていた。


「宮嶋さん! 宮嶋さん!」

「救急車呼んで!」


 突如緊迫した声が響いて、赤猫が早足でドアの開いた部屋に近づく。一緒に中をのぞき込むと、宮嶋里依奈らしき女性がリビングにうずくまるように倒れていた。そのかたわらに土田さんが膝をついている。


「どうした、土田くん」


 赤猫が無遠慮に部屋へ乗り込んで行く。私もあとに続いた。


「赤井さん」


 しゃがんだ土田さんが赤猫を仰ぎ見る。表情がかたい。緊張しているようだった。

 土田さんは倒れた女性の肩に手を置いていた。女性の顔をのぞき込むと、やはり宮嶋里依奈で、彼女は背中を丸めてぐったりしていた。肌からはすっかり血の気が引いて、こめかみのあたりに脂汗が浮かんでいる。気を失っているようだ。


「中村、下で誘導して」


 スーツ姿の中年女性がラフな格好の若い女性に指示する。中村と呼ばれた女性は「はい」と返事をして部屋を駆け出て行った。二人とも警察官のようだ。


「さっきまで元気だったんです。急に具合が悪いと言い出して……」

「中毒症状ではなさそうだけど」


 脈を取る赤猫に土田さんが弱々しく説明すると、スーツの女性がはっきりとした口調で補足した。


 テーブルにも対面キッチンのカウンターにも、飲みものや食べものはない。背のびしてカウンター越しに流しをのぞき込んだが、洗いものはなにもなかった。飲食物に毒を盛られたわけではなさそうだ。


「もしかして彼女、妊娠しているのかも」


 土田さんが低い声で言って、自信なさげに顔をあげた。

 私は反射的に、倒れた宮嶋里依奈の腹部に目をやった。彼女は全体的に華奢で痩せ型だ。腹まわりにもふっくらした様子はなかった。


「うちの妻が今、妊娠五か月で、この子の話を聞いたり様子を見たりしてるとそうじゃないのかなって……」


 開け放たれたドアから救急車のサイレンが流れ込んでくる。

 最後の殺人は阻止された。けれど宮嶋里依奈は力なく倒れたまま、動かなかった。

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