16-2
若本さんと別れてすぐ、赤猫は忍野さんに連絡を入れた。宮嶋里依奈から目を離さないようにという内容だった。
河川敷を離れると、私たちはホテル・ラヴァンドへ向かった。呼び出されたときすぐに駆けつけられるよう、赤猫と私はラヴァンドのいつもの部屋で待機することになったのだ。
すっかり行きつけになってしまったが、千鶴子さんの部屋だから自由に使わせてもらえるのであって、普通に予約していたら今ごろ利用総額はとんでもない金額になっているだろう。
午後三時、町はまだ明るい。私と赤猫は紅茶をお供に、スイートルームのリビングでテーブルをはさんで向き合った。待機ということはつまり、呼び出されるまで暇なのだった。
「発端は、小山田豊と宮嶋里依奈の交際だろう。小山田さんが貯蓄用の通帳から金を下ろしはじめたのは昨年の春、それから半年もしないうちに数百万あった貯金をほとんど使い尽くしてしまった。宮嶋里依奈と関係を続けるには金が要る。悩んでいたところに、児玉修から金銭に関する相談を受けた」
「あのカフェですね」
私はあたたかいカップを両手でつつんで、相づちを打った。
忍野さんの行きつけのカフェで、店主が児玉さんと小山田さんらしき男性の姿を目撃している。それが去年の夏ごろ。大学のお金の使い込みがはじまったのはその年の九月からだ。
「小山田さんも児玉さんもどちらかといえば小心だが、人間は徒党を組むと気が大きくなる。一人なら踏みとどまっただろうに、二人で組んで大学の金に手をつけた。だが、どちらも根っからの悪党じゃない。そのうちじわじわと臆病風に吹かれはじめた。とはいえまさか家族に話すわけにはいかないから、児玉さんは共犯の小山田さんに相談し、小山田さんは交際関係にあった宮嶋里依奈に
「人殺しができるなら、お金の使い込みくらい大したことないですね」
「その通りだ」
赤猫がちょっと肩をすくめる。大学の構内で赤猫と一緒に小山田さんと会ったときも、小山田さんは動揺をあらわに震えていた。大それたことを平然とやってのけるタイプではない。
「小山田さんを案じた宮嶋里依奈は、恋人の若本に相談した。若本は彼女の頼みを聞いて、小山田さんから直接相談を受ける。小山田さんは頼りになる人が見つかったと、児玉さんに若本を紹介する。そしてなにかの拍子に……もしかしたら若本が児玉さんの自宅でも訪れたのかもしれないな。そこで彼は、人妻になった野中南子と再会した」
赤猫はティーカップをかたむけて、紅茶をのぞき込みながら続けた。
「中学二年から高校一年まで、若本は野中南子の妹、野中夏美と交際していた。夏美さんの話によれば、初々しく健全なおつきあいだったそうだ。二人が別れた理由はさっき、君も聞いていたな」
「若本さんは、本当は姉の南子さんが好きだったから、ですね」
「そう。ある日、若本は夏美さんの留守中に南子さんの部屋を訪れた。予定より早く帰宅した夏美さんがそれに気づいたとき、事もあろうに二人は情事の真っ最中だった。夏美さんはひどいショックを受けて、若本に別れを切り出したそうだ」
「それは……ひどい、ですね」
高校一年といえば、私が担任の星野先生に恋とも呼べないほどの淡い憧れを抱いた時期だ。私も先生を母に奪われたし、まさか二人の関係がプラトニックだったとは思っていない。けれど、その場面に居合わせたわけではないし、夏美さんがどれだけ衝撃を受けたかは計り知れない。
そもそもそんな行為を目撃するだけでもショックだろう。しかもそれが自分の姉と恋人だなんて、聞いただけでも落ち込みたくなる。
「自分と別れたあと、夏美さんは、若本は南子さんと交際するものと思っていた。ところがそれらしい様子もないまま南子さんが卒業して、短大へ進学すると、南子さんは若本とは別の年上の男性とつきあいはじめた」
「南子さんに振られたと、若本さんが言ってましたね」
「どういうドラマがあるかは知らないが、若本と野中南子はそれきりだったようだな。そういう二人が二十年近い歳月を経て再会した。そして最終的に、若本は南子さんに強い殺意を抱くに至った」
赤猫が言葉をとめて紅茶に口をつける。
私は自分のカップに手をかけながら、南子さんへの思いを語る若本さんを思い浮かべた。
「若本さんは、南子さんに未練があるように見えました」
「聞いてもいないのに
なるほど、そう言われるとそんな気もする。感傷的というか、どこか自分に酔っているような口ぶりだった。
「本人も言った通り、若本少年は本気だった。しかし肉体関係まで持ったのに、南子さんはあっさりと彼を捨てた。若本はその初恋を引きずり続けた。そして南子さんの面影を求めて、彼女に似た、当時の彼女と同じ年ごろの少女と交際する」
「でも、若本さんと宮嶋里依奈の関係は歪んでいるように思います」
「野中南子は若本哲也のプライドを傷つけ、もてあそんで捨てた女だ。可愛さ余って憎さ百倍なんて言葉もある」
赤猫が差し出した手のひらをくるりと返してみせる。
若本さんが引きずり続けたのは淡い恋心ではなくて、それと似て非なる執着だったということだろうか。
「宮嶋里依奈は若本の支配欲求を満たす存在だ。だからこそ、若本は彼女が自分に歯向かうとは考えない。しかし、宮嶋里依奈は小山田さんの自死について若本を問い詰めた。そして若本は反抗的になった彼女の首を絞める……彼女が死ななかったのは偶然ではなく、若本が殺そうとしなかったからだろう。逆らうとこうするぞ、という脅しだったわけだな。しかし彼女はその忠告を破った」
宮嶋里依奈は、彼女が知り得る限りの情報をこの部屋で私たちに打ち明けた。若本さんからすれば裏切りにほかならない。恋人の裏切りを知った今、若本さんは自分を裏切った南子さんを殺めたように、今度こそ宮嶋里依奈を手にかけようとするのかもしれない。
「話を少し戻そう」
そう言って、赤猫がティーカップをソーサーに戻した。
「再会した南子さんに殺意を抱くに至った若本は、自分の手中にある駒でゲームを組み立てた。東晴樹に犬飼巧司への復讐を持ちかけ、実行犯とする。小山田豊の不安をあおり、嘘の証言をするよう言いくるめる。小山田さんを自死に追い詰めたのは若本だろうな。遺書の筋書きを作ったのも」
「父がなかなか自白しないから、宮嶋里依奈が言ったように方針を変えたってことですか」
「なんとも言えんな。巧司さんの件は、共犯者の存在が疑われていた。もともと若本は巧司さんを単独犯として仕上げるつもりだったはずだが、自ら南子さんを手にかけて計画を
赤猫が手刀でトカゲの尾でも切り落とすようなしぐさをしてみせる。
「さて、事件当日だ。若本は『横領の罪を犬飼巧司に着せよう』とでも提案して、児玉修本人に犬飼巧司を自宅へ呼び出させた。児玉さんは指示された通り飲みものに睡眠薬を混ぜ、巧司さんが眠ると自分の手でカップを片付けた。そこへ自宅内の別室に待機していた東と若本がやってくる。そこでまず東が児玉さんを一突き。どこをどう刺すかまで若本の指示だったはずだ。そして二人は、茶菓子を買いに行った南子さんと大翔くんの帰宅を待った。
赤猫が片手でシャツの襟もとに触れる。どこかで見たしぐさだ、と思って、若本さんを思い出した。さっき、同じようなしぐさで襟を直していた。
「意識は行動を伴う」
今日の赤猫はノーネクタイだが、襟に人差し指をかけて、ほかの指はネクタイの結び目を握るように曲げられていた。
「南子さんを殺した、凶器」
私は思わずささやいて、ネクタイなんてしていないのに、自分の襟もとに触れた。
そういえば和食店で待ち合わせたときも、若本さんは今日と同じ濃紺のネクタイだった。そうだ、あのときも同じしぐさで襟を直していた。
「彼はプライドが高く、自信家で、好戦的で、しかし用心深くもある。今日、あんな場所に呼び出された以上、質問を想定して、回答はあらかじめ用意してあっただろう。そして必要なら相手の口を封じるつもりだった。君のような女の子ひとり、
赤猫が両手でひもを結ぶような動作をする。ぞっとして、私は自分の首に手をあてた。
「児玉南子を絞め殺したとき、彼は強い興奮をおぼえた。ゆえに口論になった宮嶋里依奈の首を絞めた。殴るでも蹴るでもなくだ。それまで彼女に暴力を振るうことはなかったのに、そうしたくて仕方なかったんだろう」
濃紺のネクタイ、もしかしたらあれが南子さんの首を絞めた凶器そのものという可能性はないだろうか。私が誘拐されたあの日も、若本さんの意識はネクタイ、つまり凶器に向いていた。もし私が選ぶ言葉を間違っていたら……
戦慄していると、赤猫の指がトンとテーブルを叩いた。はっ、と現実に引き戻される。
「もし時間が戻っても、彼にやり直すつもりはない」
――叶うのなら、二十年前に戻りたい。幼いとはいえ本気だったんです。初恋を引きずってずるずると、こんな年まで独り身です。
――もし時間が戻るなら、どうしますか。若本さん。
――時間を戻しても、結局変わらないかもしれませんね。やり直すもなにも、僕と彼女ははじまらないんだから。
今日の若本さんとのやりとりだ。
このとき、若本さんはおかしそうに笑った。それまで感傷的だったのに突然表情を変えて、やけに明るかった。
「若本さんが戻りたいと言ったのは、二十年前ですよね」
「そうだ。去年の冬じゃない。彼は二十年前に戻れたらどうするか考えながら、凶器に触れた。高校生の野中南子を殺す想像でもしたのかもしれないな」
赤猫がじっと私を見つめる。
不意に着信音が響いた。赤猫が胸ポケットから端末を取り出し、耳にあてがいながら椅子を立つ。手招きされて私も立ちあがった。
「わかりました。これから向かいます」
赤猫の口調はいつもと変わらず落ち着いている。言葉遣いが丁寧だから、相手は忍野さんだろうか。
「行こう」
電話を切って赤猫が言った。
私は助手らしく「はい」と短く頷いて、探偵の背中を追いかけた。
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