16-1

十六


 宮嶋里依奈と接触してから三日後、私は赤猫の指示で「相談がしたい」と弁護士の若本さんを呼び出した。


 待ち合わせは河川敷――私を誘拐したタクシーが乗り捨てられていたという場所だ。そこで会いたい、と、地図アプリのスクリーンショットを送った。明らかに不審な呼び出しだが、若本さんは「なぜ」とも言わず快諾した。


 カレンダーは四月に替わり、桜は満開をすぎて少しずつ散りはじめた。つつみに植えられたソメイヨシノも、風が吹くたびにはらはらと白い花弁を舞わせている。


 私と赤猫は高架下にレンタカーを停めて、川辺で若本さんの到着を待った。例のタクシーは、ちょうどこの高架下に放置されていたのだそうだ。


 今日は薄曇りだが気温は低くなく、生ぬるい風の中に、かすかに初夏のきざしが感じられるようでもある。季節の移ろいを感じながら、私は川面に落ちた花弁が押し流されて行く様子を眺めていた。


 ふと顔をあげたとき、遠目に黒い車が向かってくるのが見えた。

 黒いセダンが私たちの数メートル手前で停まって、スーツ姿の男性が運転席から降りてくる。背筋をピンとのばし、堂々として、落ち着いた足取りだった。


 若本さんだ。


「若本さんですね。はじめまして」


 そう向き直る赤猫の背中にも自信が満ちていた。赤猫の背が高いせいか、若本さんはこのあいだより小柄に見えた。


「赤井と申します」


 赤猫がすっと名刺を差し出すと、若本さんも上着のポケットから自分の名刺を取り出した。


「若本です」


 名刺を交換すると、微笑んでいた若本さんの口角が更にニコッと持ちあがる。相変わらず、はつらつとした笑顔だ。


「子どものころ憧れました。江戸川乱歩が好きだったんです」


 なるほど、本職の名刺を渡したらしい。若本さんは目を伏せて、赤猫の名刺にもう一度視線を落とした。


「東晴樹が起こした事件について、何点かあなたにおうかがいしたいのですが」

「私にわかることでしたら」


 赤猫が東の名前を持ち出しても、若本さんは少しも動揺しなかった。赤猫は頷いて、高架下を振り返った。


「ちょうど今、車が停まっているあの場所で、犬飼美沙緒さんを誘拐したタクシーが発見されました。運転手の男性はいまだに行方不明です。男性の氏名は今井秀典ひでのり、年齢は六十二才。この人におぼえはありませんか」


 若本さんは高架下に視線をやって、考え込んでいるようだった。


「……ありませんね。今井様というお客様なら過去に何人かいたと思うので、調べてみましょうか」

「三年前、泥酔した女性客の身体を触った触らないで訴訟になり、あなたが示談じだんにしました」

「タクシー運転手の……ああ、あったかもしれません。そのかたなんですね」


 若本さんは真剣な表情で頷いた。やはり堂々として落ち着き払っている。

 私はちらりと赤猫の顔を盗み見た。こちらもいつも通り無表情で、なにを考えているのかわからなかった。


「あなたは過去に、東晴樹の弁護も請け負っていましたね」

「ええ、それはおぼえています。残念ですよ。彼とは事件の前に偶然会って、再起を励ましたばかりでした。まさかこんなことになるなんて」


 気の毒そうな顔をして、若本さんは川の流れに視線を移した。そして、小さくため息をつく。


因縁いんねんとでも言うんでしょうか」

「因縁、ですか」

「しかも私は犬飼さんの弁護を引き受けていたんですから。縁は縁でも、なにもそんなところで引き合わなくてもよさそうなものです」

「野中南子さんとの再会も?」


 赤猫が一歩踏み込む。若本さんは川面を見つめていた目を赤猫に戻した。


「ええ。悲しい再会でした。苗字が変わっていたから気づかなかった。まさか亡くなったのが彼女だったなんて……」


 振り返った若本さんの瞳に、悲しみがたたえられる。若本さんは声のトーンを少し落として、しんみりとした口調で続けた。


「知っていたら犬飼さんの弁護は引き受けなかったでしょう。その様子だと、夏美に聞いたんですね」


 私は戸惑いを隠して二人のやりとりを見守った。

 若本さんは赤猫が打つ手を難なく受けて、自分から一手先に進めてくる。赤猫が若本さんを上手くやり込めるものと思っていたのに、一筋縄では行かないようだ。


「夏美さんは、あなたと夏美さんが別れたのは、あなたが本当は南子さんを想っていたからだったと言っていました」

「十代のころの幼い思い出です。でも結局、南子ちゃんには振られました。そりゃあそうですよ、妹の同級生なんて、当時の彼女からしたらひどく子どもに映ったでしょう」


 そう答えて、若本さんは薄曇りの春の川辺を見渡した。


挽回ばんかいの機会もなく、彼女が卒業してそれきりになりました。こんなことになるなら……叶うのなら、二十年前に戻りたい。幼いとはいえ本気だったんです。初恋を引きずってずるずると、こんな年まで独り身です」


 若本さんがかすかに自嘲する。そして気づいたように振り返った。


「すみません、こんな話を。お恥ずかしい」

「もし時間が戻るなら、どうしますか。若本さん」


 そう真顔で訊ねた赤猫は、まるで奇術師のようだった。

 突拍子もない質問にさすがの若本さんも面食らったらしい。一瞬表情を失って、思案しながら微笑みを取り戻した。


 若本さんは「そうですね」と回答を引き延ばしつつ、片手で軽く襟もとを直した。


「そんなことができるなら……」


 つぶやいたと思うと、若本さんは歯を見せておかしそうに笑った。


「はは。時間を戻しても、結局変わらないかもしれませんね。やり直すもなにも、僕と彼女ははじまらないんだから」


 面白い話には思えなかったが、そう言って笑う若本さんに、赤猫は釣られたように微笑んでみせた。

 若本さんの表情から次第に笑顔が消える。彼は視線を落としたあと、皮肉っぽく口の端を引きつらせた。赤猫が質問を続けた。


「あともう一つだけお聞きしたいのですが」

「ええ、どうぞ」

「あなたは恋人に頼まれて、小山田豊さんの相談に乗りましたね?」


 若本さんは無言で微笑んだ。


「その場には児玉修さんも同席していた」


 相談会は小山田さんの自宅で行われていた。その日、小山田さんの奥さんは友人とバスツアーに、一人娘も卒業論文を書くために大学の図書館へ出かけていた。

 お昼前、財布を忘れた娘が自宅へ取りに戻ると、玄関に見慣れない靴が並んでいた。娘が遠目にリビングをのぞくと、客の一人は児玉さんで、もう一人はスーツ姿の男性だった。何千万、という金額が耳に入ったので、娘は仕事の話だと思い、邪魔をしないように家を出た。

 小山田さんの娘への聴取で明らかになった事実だ。


 スーツの男が若本さんという確証はないが、赤猫は淡々とした口調で言いきった。

 若本さんが、ふふ、と小さく笑う。


「赤井さん、それはあまりにも役者が揃いすぎですよ」

「役者が欠けては、舞台は成り立ちませんよ」

「つまり、あなたは私も出演者だと言いたいのかな」


 苦笑した若本さんが赤猫に向き直る。赤猫は臆面もなく「ええ」と頷いた。


「困ったな。でも、面白そうですね。あなたの推理では私はどんな役回りなんでしょうか」


 肝の座りっぷりでは、若本さんも負けてはいなかった。彼は人好きのする微笑みで赤猫を見つめ返した。


「そうですね。例えば、あなたはそれぞれの耳もとに甘くささやいた。児玉修には横領を犬飼巧司の罪にしよう、東晴樹には犬飼巧司に復讐しよう、小山田豊には不安を取り除いてあげよう。そうして思い通りになる傀儡かいらいを手に入れた。それからもう一人。児玉南子さんにも、甲斐性のない夫と別れて自分のものにならないか、と――」

「……」


 赤猫の例え話を若本さんはずっと笑顔で聞いていた。身におぼえがないとしても、不気味だし異様だった。侮辱だ、といきどおるほうがまだ自然のような気がする。


「なるほど、面白い。ひと通りお聞きしたいところですが、あいにく次の予定が入っているんです。また別の機会におうかがいできませんか」


 若本さんは腕時計に視線を落として言った。私は赤猫の表情をうかがった。


「いつごろお訪ねしましょうか」


 私としてはこのままここで突き詰めてしまったほうがよいように思うのだが、赤猫は若本さんの提案を受け入れるらしい。


「私からご連絡しますよ」


 微笑みながら、若本さんは手に持った赤猫の名刺を掲げた。そしてそれを胸ポケットにしまうと、軽く会釈した。


「それでは、失礼します」


 赤猫は若本さんを引きとめなかった。若本さんはきびすを返して、焦るでもなく、やってきたときと同じように悠々と車に戻って行った。


「若本さん」


 赤猫が呼びかけると、若本さんがゆっくりと振り返る。


「いいネクタイですね」

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