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十五


「赤井さん。本当にありがとうございました」


 庭まで見送りに出てきた父が赤猫を呼びとめる。

 犬飼家は今週末都内へ引っ越す。岩亀さんのお父さんの伝手で、父は新しい仕事を見つけることができた。その勤務地が東京なのだ。


 真犯人発覚のニュースはまたたく間に茶の間を駆けめぐった。しかし父の釈放はまったく話題にならなかった。もちろん以前の報道に関する訂正もない。

 まだ無言電話はかかってくるし、父が巻き込まれただけだと知らない人も大勢いる。それならいっそ自宅を手放して東京で再スタートしよう、と、家族全員納得のうえで転居を決めたのだった。


「これで全部?」

「はい」


 私は岩亀さんに手伝ってもらって、運び出した自分の荷物を車のトランクに積み込んだ。岩亀さんがバタンとトランクを閉める。

 庭先へ戻りかけると、父の真剣な声がした。


「娘をよろしくお願いします」

「責任重大ですね」


 父と握手をかわしながら、さすがの赤猫も苦笑を浮かべたようだった。

 父が戻ってから、私と赤猫は、赤猫が御曹司ではなく探偵であること、事件の真相を明らかにするために協力してくれたこと、そしてもちろん私とは恋愛関係でもなんでもないことなど、一連の種を明かした。


 母は「探偵なんて、すてき」と、御曹司でなくてもよいそうで、隙あらば狙い撃つ気でいるようだった。ただし今は大好きな巧司さんに夢中なので、しばらくは浮気性も落ち着くだろう。


 すべてを打ち明けたうえで、私は東京へ行かず赤猫探偵事務所に残る選択をした。もちろん住み込みの助手アルバイトとしてだから、就職と言えば就職だ。


「沙奈絵ちゃん、夏休みになったら遊びにおいで」


 父のうしろでじっとうつむいている沙奈絵に、赤猫が優しく声をかける。

 沙奈絵は「お姉ちゃんと赤井さんが結婚しない」という事実がずいぶんショックだったらしい。それからちょっとすねている。

 沙奈絵はじっと赤猫を見上げて、こくんと頷いた。


「わあ、いいわね沙奈絵ちゃん。楽しそう。ママも行きたい」

「ぜひみなさんで。温泉地もありますから、旅行にちょうどいいですよ」


 母がおっとりとした調子で割り込む。ずいぶん元気が出てきたらしい。

 赤猫のトーンは御曹司を演じていたときよりは落ち着いていて、それでも営業用だった。


「あの、岩亀さんも、本当にありがとうございます。精一杯務めさせていただきます」


 父が私のとなりに立った岩亀さんに視線を移し、深々と頭を下げる。

 無罪放免となったとはいえ、父の名前は大々的に報道された。もともと働いていた慧花情報大学は大学自体がマスコミや保護者への対応に追われて手一杯だし、なにより学生のケアを考えると父の復職はむずかしい。

 父の就職活動は間違いなく難航するはずだったが、岩亀さんの紹介のおかげで、あっという間に決めることができた。渡りに船とはこのことだ。


「いえ。先方も口のかたい人を探していらっしゃったそうですから。適材適所です」


 頭を下げる父に、岩亀さんがにこやかに言う。

 そんなつもりはないのだろうが、父の沈黙は捜査の現場を大いに困らせたわけで、警察官の岩亀さんが言うとちょっとした皮肉にもとれた。


「すみません……」

「あっ、いや、犬飼さんのお気持ちは、個人としてはよくわかります。あの状況でずっと口を閉ざしていられるのは、逆にすごいですよ」


 父が真剣に謝ると岩亀さんがあわててフォローした。

 もっと早い段階で父が真相を語っていたら、真犯人の捜査も進んだかもしれない。そうしたら小山田さんも東も死なずに、法の裁きを受けたかもしれない。いや、脅迫通り私たち家族が悲惨な目に遭っていた可能性もあるから、いまさらあれこれと「もし」を論じてもあとの祭りだ。


 ちなみに、岩亀さんがお父さんを経由して紹介してくれたのは運転手の仕事だった。政治関係の要人の送迎が主な業務なのだという。確かに口が堅ければ堅いほどよい職業かもしれない。


「そのうち連絡があると思いますが、一応これを。裏に私用の電話番号が書いてあるので、もしなにかあればそこに連絡してください」


 岩亀さんがポケットからケースを取り出して、名刺を一枚父に渡す。その瞬間、父がぎょっとして名刺と岩亀さんの顔とを見比べた。


「あの……」

「岩亀は母方の姓なんです」


 そうだ、そういえば。土田さんが別の名前で呼んでいた。なんだっけ?


「それでは、私たちはそろそろ」

「どうぞ、お気をつけて」


 赤猫が切り出すと、父は戸惑いを飲み込んで頷いた。

 私は十八年住んだ我が家を見上げた。家族とはまた会える。でもこの家とはお別れだ。


 三月最後の日曜日。今日も陽射しはあたたかく、嵐のような日々が嘘に思えるほど穏やかだった。


「美沙緒」


 父に呼ばれて、視線を戻す。痩せたことには変わりないが、拘置所にいたときより顔色もよく、瞳にも生気がある。


「いってらっしゃい」


 父はどことなく寂しそうに、でも不愛想なりに微笑んだ。

 進学はできなかったけれど、私は家族のもとを離れて自分の足で歩き出す。大人への第一歩だ。


 長い冬が明けて、私たちは日常を取り戻そうとしている。物寂しさと未来への期待が入り混じって、ああ、春だな、と噛みしめた。


「いってきます」


 庭先の家族に見送られながら、私は車の後部座席に乗り込んで、生まれ育った家をあとにした。


 そうは言っても戻るのは赤猫探偵事務所――漆原邸だから、私の新生活はここ数週間の延長上にあって、劇的になにかが変わるわけではない。

 そして私の仕事は探偵の助手アルバイトだから、規模の大小はあれど、これからも色々な事件に関わるのだろう。


「さっきの電話は忍野さんか?」


 車が走り出してすぐ、助手席の赤猫が聞く。

 景色を眺めていた私は視線を前方に向けて、探偵と刑事の会話に耳を立てた。


「はい。小山田ゆたかが横領した金の使い道で、一件足がついたそうです。ブランドバッグを購入したみたいですね」

「ふむ」

「自宅からそれらしきものは見つかっていないし、夫人も娘も心当たりはないそうです。ブランド店には若い女性を伴っていたそうですが、不倫の痕跡もなければキャバクラに通い詰めていた様子もありません」


 自死した小山田さんの葬儀は、ひっそりと家族だけで執り行われた。

 父が自宅に戻ってから、小山田さんの奥さんが謝罪の電話をくれた。私はたまたまその場に居合わせて、受話器からもれる嗚咽おえつを聞いた。奥さんの必死の謝罪に胸が痛くなった。


 小山田さんの遺書が事実なら、父が逮捕されたのは、もとをたどれば小山田さんのせいだ。事件を計画したのが小山田さんなのか、それとも東なのかはわからない。しかし、仮に東から提案されたのだとしても、小山田さんは賛同して嘘の証言をしたのだ。


 そもそも小山田さんが横領なんてしなければ、児玉さんを誘わなければ、児玉さん一家は死なずに済んだし、こんな事件は起こらなかった。


 そう思ってはいても受話器の向こうで泣きむせぶ小山田さんの奥さんには、同情しか湧かなかった。奥さんだけではない、春から社会人になるはずの娘にもだ。


 父が逮捕されて、私たちの日常はめちゃくちゃになった。まさか自分の夫が、父親が、突然の出来事に小山田さんの家族がどれだけ動揺しているか、容易に想像がつく。そのうえ小山田さんは命を絶ってしまった。真偽を問いかけることも、事情を聞くこともできない。


「それから絞殺こうさつに用いたと思われる衣類ですが、東の家からは見つかっていないそうです。ほかの証拠品と一緒に処分した可能性もありますが、忍野さんは納得いかないと言ってました」

「東と被害者の妻の関係は?」

「接点は見つからないみたいですね。ただ、押収した東の私物から……その……そういう性癖を持っていた可能性が十分考えられるので、興奮状態で奥さんの首を絞めたとしてもおかしくはないのかと」


 岩亀さんがちらりとバックミラーで私を気にして、言葉をにごした。


「なるほど、それで監禁に麻紐を使ったと。最近流行りの結束バンドではなく」

「納得するのそこじゃないですよね」


 至って真面目に言う赤猫に、岩亀さんが呆れた声を返す。


 児玉さんと息子の大翔くんの死因となったのは、刃物での刺し傷だった。しかし、妻の南子さんは窒息。犯人が南子さんを絞め殺し、その直後に刺したと考えられるらしい。

 私がそれを知ったのは父が釈放されてからだった。もちろん赤猫と岩亀さんは、はじめから知っていた。


 父は現行犯逮捕で、凶器を処分している時間はなかった。当初は父が身につけていた衣類、あるいは児玉さんの自宅にある布状のもので南子さんの首を絞めたと想定されていたが、真犯人の浮上を受けて調査が見直されると、想定された凶器のどれもが当てはまらないという結果になった。


「とりあえず、さっき受けた連絡は以上です」

「あとで小山田豊に同伴していた若い女の詳細を聞いてくれないか」

「わかりました」


 乗用車がETCレーンをくぐり、合流まで車内は静かになった。

 父の事件について、今までは土田さんに頼んで教えてもらっていたそうだが、最近は新しい動きがあると忍野さんが連絡をくれるようになった。


 ちなみに土田さんはその後の経過も問題なく、すぐに職場復帰したそうだ。打ち所によっては命に関わるわけだから、これもラッキー土田の幸運力だろうか。

 忍野さんによれば、復帰後も相変わらずへらへらしているらしい。土田さんは意外と大物になるかもしれない。


「心当たりあります?」


 本線に乗ってから岩亀さんが情報交換を再開して、赤猫がスマホを取り出すのが見えた。


「柴田くんから興味深い連絡があった」

「柴田……」

「ミケ子を襲おうとした学生の一人だ」


 ああ、と岩亀さんが低い声で相づちを打つ。眉をしかめる様子が想像できた。


「友だちと出かけた居酒屋で、仕事を持ちかけてきた女によく似た女性を見つけたらしい。聞き耳を立てたところ、慧花大の学生だったらしくてな。柴田くんはその場から逃げてしまったが、友人づてに名前が割れた」


 ポン、と通知音がする。自分のスマホを見ると赤猫からメッセージが届いたところだった。

 黒髪の女の子の自撮り写真だ。加工されていると思うが、整った顔だちの可愛いらしい子だった。どこかで見たことがあるような気がする。


鹿沢かざわ奈々美に似てますね」


 人気アイドルの名前を引き合いに出すと、赤猫は続けてSNSのアドレスを送ってよこした。


「柴田くんが同じことを言ってた。それで記憶に残ったらしい」


 送られてきたアドレスにアクセスする。先ほどの写真はSNSのプロフィール画像だったようだ。名前は宮嶋みやじま里依奈りいな、年齢は十九才。慧花情報大学の観光経済学科に在籍、趣味は旅行とカフェめぐり。


 ざっと投稿に目を通すと、写真のほとんどが食べものか自撮りで、普通の女子大学生という印象だった。地味ではないがあからさまに派手でもない。可愛いという自覚があるのだろう、あざとい服装やポーズの写真も多かった。ただ過度の露出などはなく、全体的には清楚せいそな印象だ。


「柴田くんたちをけしかけたのが宮嶋里依奈なら、彼女自身が小山田さんと東の橋渡しをしたか、あるいは彼女の人脈が関係している可能性も十分ある。でずいぶん稼いでいるという噂があるらしい」


 確かにこれだけ可愛ければ需要もあるだろう。利発で大人しそうな雰囲気で、年上の男性からも気に入られそうだ。

 SNSをスクロールして眺めていると、白いシフォンのカットソーに真っ赤なスカートを合わせた自撮りが目にとまった。このスカート。赤猫と慧花大へ行ったときに見た気がする。こんな原色を着こなす人は早々いないし、あの学生が宮嶋里依奈だったのだろうか。


「よく見るとバッグとかコスメとか、ブランド品ばかりですね。学生にしてはずいぶん羽振はぶりがいいような。海外旅行も結構行ってますね」


 よくても時給千円そこそこのアルバイトでこの生活を維持できるとは思えない。事実かどうかはともかく、このSNSを見ればパパ活の噂が立ってもおかしくない。

 私が宮嶋里依奈の投稿を見つめて言うと、岩亀さんが独り言のようにつぶやいた。


「小山田豊がその子にみついでいた可能性もありえなくはないか」


 十九才なら小山田さんの娘より年下だ。さすがにそれは、と思いつつ、いや、そもそもパパ活という言葉自体が対象男性をパパと称しているのだから、父親くらい年齢の離れた男性のほうがフツウなのかもしれない。


 記憶の中の小山田さんは穏やかで優しそうなおじさんだ。あの日、自分の娘を引き合いに出したとき、小山田さんは間違いなく家族を愛する父親だった。そんな人が自分の子どもより若い女性に夢中になるものだろうか。


「ちょっと想像つかないですけど……」

「男なんて、そんなものだ」


 私が正直に気持ちを口にすると、赤猫がさらりと言った。


「岩亀くんにおねだりしてみればわかる」

「おっ、俺はしないっすよ、第一まだパパってトシじゃ」

「岩亀さん、私、新作のフラペチーノが飲みたいです。おごってくれないと非行に走ります」

「それは脅しだよ」

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